はてなキーワード: 機会平等とは
機会平等というのは属性に関係なく平等に機会が与えられるもので、結果平等というのは属性に応じて恣意的にデモグラフィックを操作するものだ。例えば男性だけが大学受験をできるという状態から女性も大学受験ができるようにするのは機会平等を達成することができたと言える。一方、アファーマティブ・アクションで男女を同数にするというのは結果平等だ。就職や昇進に対象者の性を考慮しないというのは機会平等であるが、社員や管理職の男女を同数にするもしくは何%以上を女性にするというのは結果平等だ。結果平等は危険だ。それは平等ではない。結果平等が欲しい人達は新たな特権を自分の属性が獲得することが目的であり真の平等を求めていない。
進歩派の中でも頭の悪い人達は恣意的に切られた属性ごとに同数であることが平等であると考える。例えば管理職は男女同数でないといけないとかそういうの。でも幾多の研究が真にエガリタリアンな社会では生物学的な統計的な差が顕著に現れると示している。例えばエガリタリアンだと思われている北欧では技術者には男が多く、看護士には女が多い。男がモノにより興味を示すという傾向、女が人により興味を示すという傾向、これらが顕著に現れた結果であると言える。オリンピックを考えて見ると分かりやすいかもしれない。ほぼ全ての競技において男子の世界記録の方が女子よりも良い。また競技により強さに人種差が現れている。我々が目指すべきは機会平等であり、頭の悪い進歩派が考える結果平等は悪でしかない。
フェミニズムのもともとの動機は正当なもので崇高なものだったと思うよ。女に生まれたってだけで不当に機会が奪われるのが普通だった時代が長いこと続いてたわけで、性による機会不平等を撤廃したり権利を男性と同じにしたり、着たい服を自分の意思で自由に着れるようにしたり、女というだけで不当に与えられていた障害を取り除いて自由に生きることを社会に求めてた。そして実際に自由を獲得してきた。
そんなフェミニズムも時代を経ておかしな宗教みたいなものになっちゃったよね。無い問題を自分で作り出して勝手にブチ切れたり、女性至上主義に走ったり。これは別に日本だけじゃなくて世界中で起きてることなんですよ。ある種の職業の男女比を問題にしたり、性的消費されうると感じるコンテンツを嫌ったり、意味が分からないんだよね。
平等ってのは基本的には機会平等が求められるものなのに結果平等にこだわって意味のない調整を西側諸国のアホな考えを進んでいると勘違いして導入したがる人いるでしょ。男女の機会が平等な国(例えば北欧とか)ってのは逆に男女の性差が統計に現れるんだよね。それを見て差別だとかいうのはおかしな話だ。男女で統計分布が違うなんてのはよくあるんだよ。IQとかは男女で平均は同じだが分散が男の方が大きいので上と下だけ切り取ってみると男が多いとかさ。犯罪者に男が多いことは問題にしないのにトップエリートに男が多いことは問題にするの何なんだろうな。大多数の男女は能力同じで差別なんて無いのに極端な例ばかり切り取って問題にして差別だ差別だ言うの本当に頭悪い。
性的消費も女が対象の時だけブチ切れてるのも謎だよな。一時期歴史ブームで歴女とかいうのが流行ってて刀をイケメンに擬人化してるキモいのあったけどあれには特にブチ切れは発生していなかったよな。いい年こいたおばさんが自分の子供くらいの歳の美少年追っかけてセックスシンボル化するのも無問題。別に強制されてエロい服着てるわけでも無い人達を勝手に性的に搾取されているとか男尊女卑の象徴だとか言っておきながら自分でエロい服着たおばさんはかっこいいって言ったり。自分の妄想に取り憑かれてダブルスタンダード発揮して勝手に問題作ったり無問題化したり節操が無いよな。
機会平等と結果平等を混同する人が多い。差別がダメなのは機会が奪われることだ。例えば男女平等問題について考えてみよう。女性は昔は大学に行けなかった。就職できなかった。昇進できなかった。女性であるというだけで能力があるにも関わらず機会を不当に奪われてきたことは是正しなければならない。例えば学校の入学資格の性別は不問にする。採用や昇進に性別を考慮しない。こういうことは必要だったし良いことだ。
そこで何を勘違いしたか過激フェミニスト達が現れた。彼らは単なる機会平等では飽き足らず、女性が抑圧されていたことを根拠に結果平等を社会に要求する。トップ大学に女性が少ないのはおかしい。トップマネジメントに女性が少ないのはおかしい。差別だ。抑圧の歴史だ。なんたらかんたら。
彼らの頭の中でアファーマティブ・アクションは正義だ。つまり女性であるということを考慮し入学や昇進で有利になるという肯定的差別は抑圧の歴史を考えると良いらしい。アファーマティブ・アクションというのは結果平等の考え方だ。クオタがあろうがなかろうが差別は差別だ。彼らは差別の是正に差別で応戦しようとしている。
トップ大学やトップマネジメントが男ばかりなのを見て女性が少ないと文句を言う。これはもはや意味が分からない。女でも優秀な人はいるだろう。でも優秀な層だけ見ると男の方が多いのはこれは人類全体に見られる傾向だ。もちろん何を優秀とするかによって変わるだろうが、ここで仮にIQと仮定しよう。IQには性別差があることが知られている。平均を見ると男女差は無いが、男の方が標準偏差、つまりバラツキが大きいのだ。大多数の男女に知能差は見られないが、最上位層と最下位層を見ると男が多数派となってしまうのだ。犯罪者にも男が多いことは無視するのに、上位の人間に男が多いことだけは問題視し、男性特権の現れであると喚く。
過激フェミニスト達の主張は男性特権の存在を絶対的なものであるという仮定に基づいている。実際には彼らの視野の狭さを自己紹介しているに過ぎないのだが、トップ層のみを指して男性特権を主張する。男性特権を否定する者たちは自動的にセクシストであると決めつける。頭がおかしい。
過激フェミニストの目的は女性の解放ではなく女性特権の実現だ。人間を男と女の2つに便利に分断し、自分が女性であるということを利用し得をしようという自己中心的極まりない連中だ。
こういう自己中心的極まりない頭のおかしい連中がアメリカのリベラル層には無視できないレベルで存在する。特に大学や西海岸系の企業には大量に存在する。アメリカバンザイの意識高い系日本人は彼らの犬に成り下がり無批判にこの考えを受け入れる。日本もそのうち壊れていくだろう。
平等の議論は機会平等に留めるべきだ。結果平等を言い出したら断固拒否し続けなければならない。アメリカのようになりたくなければ。
はてなーとしてまったく新参者の私が言っていいのかどうかわからないけど、元増田の考える政策だと、もしかしたら日本維新の会も一考の余地がある可能性が考えられるけどどうなんだろう。
文章力がないからうまくまとめられないけど、既得権益と戦う方針だし、憲法改正については内容が自民とはまったく別の方向。
以下、元増田の挙げた政策について、関係しそうな事項(ホームページより)。
世代間格差・・・高齢者の雇用創出、年金支給年齢の段階的な引き上げ等年金制度の再構築。賦課方式から積立方式に移行。医療費の適正化・効率化
最低賃金・・・(直接触れてはいないが、地方分権の姿勢なので地方で決める方向ではないか?)
夫婦別姓・・・旧姓の使用に法的効力(同一戸籍・同一姓の原則は維持)
研究・・・(「研究」という項は特にないけど、AI,ブロックチェーン、暗号資産に注力というのはある。元増田の知りたい内容でなかったらすみません)
職業教育・・・労働市場のニーズを踏まえ、公的職業訓練を時代に即したものに
メディア・・・周波数オークションの導入。NHK改革(公共性の高い分野は無料化、有料部分はスクランブル化)。
警察・司法腐敗・・・(ジャストで該当する記載は見当たらない)
外交・防衛・・・現実的な外交と安全保障政策を展開する。集団的自衛権行使の要件を厳格化。日米地位協定の見直し。弾道ミサイル、サイバー・宇宙空間防衛体制を強化。
とはいえ、れいわ新選組と日本維新の会は政策がかなり違うから、元増田の好みには合わないかもしれない。
どちらもチェックしたうえで好みのところに入れてはどうだろう。
ポスト自由主義は、自己と他者の自由を尊重する社会的公正を指向する思想体系のことをいう。性的な分野での自由を主張する近代自由主義(モダン・リベラリズム)とは異なり、それが人々の自由をかえって阻害するという考え方が根底にある。現代において個人の自由で独立した選択を実質的に保障し、極度の恋愛的、性的は貧富差における個人の社会的自由を侵害する偏見や差別などを防ぐためには、政府による制限や介入をなくしたりするのではなく、政府や地域社会による積極的な介入も必要であるという考えに基づく。
「公正」とは、ジョン・ロールズによれば「立場入れ替え可能性の確保」を意味する。これは人々に「社会のどこに生まれても自分は耐えられるか」という反実仮想を迫るものであり、機会平等と最小不幸を主張する。ロールズの格差原理では、格差ないし不平等の存在は、それをもたらす関係につく機会が平等に開かれており、かつ、それによって社会で最も不遇な人々の厚生が図られない限り、その存在は公正ではないものとされている。
よって、ポスト自由主義は積極的自由に基づく自己決定を推奨し、国家による性の再配分または地域社会による相互扶助を肯定する。すなわち、市場原理主義では経済的、容姿的、コミュニケーション的強者が利益を最大化する一連の行為のために、少子化問題や構造的貧困や介護問題などさまざまな弊害・社会問題が生じ、それは近代自由主義の「意図に反して」人々の社会的自由をかえって阻害しているとし、近代自由主義を修正する思想である。
階級間の融和不可能な対立や中央集権的な統制を是認しない一方で、近代自由主義者のように自由競争が市場における「神の見えざる手」のように最大多数の最大幸福を自動的に実現するとは信じず、政府によって、各人の社会的自己実現をさまたげ、市場や社会における相互の欲求の最適化や調整のメカニズムを阻害する過度の集中や不公正などの要因を除去することが、まさしく「自由」の観点から言っても必要だと考える。
なかでも○○は「自由放任の論拠とされてきた形而上学は、これを一掃しようではないか。持てる者に永久の権利を授ける契約など一つもない。利己心がつねに社会全体の利益になるように働くというのは本当ではない。各自別々に自分の目的を促進するために行動している個々人は、たいてい自分自身の目的すら達成しえない状態にある」と述べ、アダム・スミスに由来する「見えざる手」に信頼する自由放任論からの脱却を求めるとともに、具体的には不完全婚姻均衡からの脱却のための人口政策が、政府によって実現されることを求めた。