はてなキーワード: 微積とは
国語辞典やブリタニカのような写真ではなく字が主体の百科事典の動植物あるいは衣服等の説明は分かりづらいものです。
あれはそもそも現物を見たことがあることを前提にしているような解説になっているようにみえます。
辞書の主な使い方の一つとして、文章に出てくる具象名詞がどういうものか分からないから引いてみることがありますが、この場合現物を見たことがないことも多いはずです。
ですから解説に写真を用いないならば実物と相違ない像がありありと浮かんでくるような文章で説明されていなければある意味本末転倒なのです。
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試みにあなたが知らない植物を何か一つ引いて、その説明を読んで図に描いてみてください。そしてネットの画像検索で比較してみてください。
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今はAIがありますからより科学的に辞書事典の記述の妥当性を検証できると思います。
写実的な絵を描くことに定評がある人達から同じ植物の絵を集めて、模範的な絵として学習させたら、同じような人たちからその植物をまだ知らない人たちを選出し、辞書の説明だけを頼りにその植物の絵を描かせます。
次のパターンとして、絵は全くの素人という人たちに実物を見せてその絵を描いてもらったら、既に学習させた模範的な絵との比較で、両パターンの近似度の平均をそれぞれ算出します。おそらく全くの素人が実物を見て描いたものの方がまだ高い近似度を持っていることでしょう。
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広く捉えればこれは国語教育の問題かもしれません。つまり国民全体において辞書等から正しいイメージが得られないというのが平均的な水準として示されるならば、それは個人によつ勉学の怠慢という自己責任ではなく、教育制度側の過失といえることになります。
PISAではごく単純な論理パズルのような説明文を読ませて正答を導かせるようなことを行ってきていますが、一度、文章からそれが示す物体やその配置に関する図を選択させる問題も出してみるべきだと思います。
数学には取って付きのマグカップとドーナッツを「同型」とみなすようなトポロジーという学問がありますが、そのような緩い制約の下ですら構造的に異なるような一群を選択肢としても、なお正解を選べない人がごまんと出てくる結果となるかもしれません。
そうだとすれば小説の情景描写もまたまともに機能していないかもしれません。自覚のないあきめくらが読者かもしれませんから。
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本をたくさん読めば読解力が身に付くという考えが横行しています。この根性論のような考えも問題です。
PISA等で国民の文章からイメージを自分の頭に形成する力の低下が判明したら、文章とそれが一般的に指し示す図の対応ということに焦点を当てた学習法をぜひ初等教育に取り入れるべきでしょう。
やみくもに本を読んでれば読解力が上がるというのは、読書に慣れるとか、知らない単語を発見することで知識を埋め合わせる機会が得られるということが考えられるのである意味で正しいですが、しかし言葉をイメージに還元する力の育むに際しては根本的に、原理的に無力だと思います。
我々の脳よりもはるかに高い処理能力を持つAIでさえも、一部の学習に際してはフィードバックという一定の手順を必要するのです。
我々が文章から正しいイメージを得るようになる過程についても同じことが言えると思います。
「そのイメージで合ってるよ」「そのイメージは間違ってるよ」と教えられることによるフィードバックがなければ、自分の読みが修正される機会がなく、何かを読んでもトポロジー的にすら間違ったイメージを展開していくようになるでしょう。
あるいはそれは教育されなかった「ヒト」としての自然な姿なのでしょうけども、それはそれとして。
話を戻せば、するべきことは、文と図との基礎的な対応表を作って、九九のように叩き込ませることです。
これは一見根性論めいているかもしれませんが、無計画な多読よりも遥かに効率的でしょう。
基礎的な表がクリアできたら、もう少し複雑な文や文章でも作成しておいた対応表へと移行していけばよく、方式としても構造化されていて明快です。
結局これは数学において基礎をおろそかにすれば応用問題で容易につまづくようなこと、たとえば掛け算ができなければ割り算はできないとか、微積分の原理が分かってないのでは微分方程式は解けないということと同じです。数学に取り組むのとある意味で同じ態度で国語の学習にも臨まれるべきだと思います。
算数のテストで2.8+4.2の筆算の答として7.0を書くと不正解になることがあるらしい.7でないと×だとか.
当然「なぜ?」という疑問が生じるわけだが,SNSでついた色んなリプライを読んでいると色々な考えがあって面白かったので,まとめておく.
2.8+4.2の筆算の答として7.0と書いた場合の対応である.
この議論によれば,「2.8」は2.75以上2.85未満の数で,「4.2」は4.15以上4.25未満の数だから,「2.8」+「4.2」は6.9以上7.1未満の数を指す.
つまり有効数字を考慮した「7.0」より少しだけ広い範囲になるっぽい.たとえば「2.8」の真の値が2.84で「4.2」の真の値が4.24だとすると,その和は2.84+4.24=7.08で,「7.0」の指す範囲から外れてしまう.
「でも理科ではそうなっているから!」と言われると「これは算数(数学)だから」としか反論できない.
長岡亮介さんの『東大の入試問題を楽しむ』によれば,1958年の東大入試の一般数学でこの辺りを考慮しないと正答が出ない問題が出題されているらしい.これも面白い問題だ.
見かけの美しさを追求するとこの考えに行きつく.確かに問題に小数点があれば答に小数点をつけたくなる気持ちも分かる.プログラミングで,変数の型を変更しているように見えるのかもしれない.
4.2+3は4.2+3.0であるべきであり,問題が美しくないから答えないという選択もできるわけだ.これはとても面白い考え方だけど,間違いなく×にされると思う.
ある人が作った数学のルールに発展性があれば万人がそれを認める.例えば,交換法則ab=baや結合法則a(b+c)=ab+acをルールとするのは納得できる.
1+1=2はよくあるルール(本当は定理らしい)だが,1+1=0をルールの一つとしてもそれはそれで面白い世界が広がる.
しかし「小数点以下の末尾の0を消す」というのは発展性のなさそうなルールだから,数学が好きな人は嫌いそうだ.
全く同じものだから○という議論は単純だが面白い.たとえば2.8+4.2の答を2.8+4.2と書いたら,全く同じものだからと言って○にしてくれるだろうか?
6.999…も7と同じだが,○になるだろうか?
答はできるだけ簡単にするものだというなら,7.0も簡単にして7にすべきのような気もする.その境界はどこに設定するのがよいだろうか.
1/10の位までの小数の計算は小学3年生で,それより下の位までの計算は4年生で学ぶ.
文部科学省の指導要領に0を消すことについての文言は見当たらなかった(探し方が悪いだけか?)が,教科書会社の学習指導案には「0を消す」と書いてあった.「0.1が10個で1.0とは言わないから」らしい.
そうかもしれないけど,積は他にも意味づけることができるので,それだけを根拠にするのは弱い気がする.あと,「俺は1.0って言う」って人がいたらどうなんだろう.
それよりも問題なのは,これが罷り通ると生徒が先生と議論する機会が失われてしまうことだ.言われたことに粛々と従うだけの人格が形成されるのは,良くないことだと思う.
これは○にせざるを得ない!俺は権威に媚び諂う卑しい人間なんだ.定額給付金くれよ.げへへ.
…というのは冗談で,これも議論の機会が失われるので良くないことだと思う.
その世界的数学者が間違っていると主張しているわけではないのでお間違えなきよう.
受験は良くも悪くも世間に大きな影響を与えているのだと分かる.小学生みなが受験をするわけではないと思うので,小学校の先生がこのように考えることはないと思うが.
しかしこれも権威に諂う考え方だなあと思う.疑問から逃げているようにも思える.
なるほどこの考えは盲点だった.計算技術の話をしているので,言われた通りにしないと×にする.同じかどうかとは無関係だ.
微積分の計算や開平計算など,技術の習得が理解に先立つこともある.まずは計算に習熟してからあとでその計算の意味を理解するという考えがあってもおかしくない.
末尾の0を消すのは意味を考えているということだろうから,技術の習得が優先とする考え方だと消さない方が良いような気がしてくる.
他にもあるかもしれないけど,こんなところだろうか.
私は,ちゃんと計算の仕方が分かっていることが読み取れれば○にすべきだと思っていた.だから7.0でも7でも6.999…でも○にすべきだし,2.8+4.2は×にすべきだと思う.3+4とだけ書いてあったら,迷った末に,揶揄っているだけで計算の仕方は分かっていると思って,○にするだろうな.筆算の技術の習得の観点から見たら×になるのかな.小学校の先生は大変だ.
> 数学の研究者になるような人はみんなフィールズ賞とか取れるチャンスはある。
そう言われると、そりゃ可能性って言えばゼロじゃないけど・・・くらいの受け止め方になってしまうな。
理Iに入れる人は頑張れば数学者になれる、っていうのは、まあ頑張れば数学の修士取るくらいは出来るよね、
というのと、ポスドク重ねつつもどこかでどこかで大学の教員になって研究職として生活していけるよね、
というのでは意味合いがかなり変わってくるというか、後者も確かに頑張れば可能かもしれないけど、
本当にそれ頑張っちゃう? 自分の適性はよく考えた方がいいよ? という感じ。
努力も才能のうちみたいな面もあるけど、数学に限らず研究職を続けていくには「情熱」が欠かせないというのと、
個人的な経験として東大理Iは受験数学としての一通りのことをミスの無いレベルで身に付ければいいだけで(二次試験で全問完答できる必要もない)、
そこから先の数学的な概念操作についていけるかは、かなり相性に左右されるところだと思う。
特に受験数学では置換群のさわり位しか出てこない代数学(群・環論)は、受験の微積や行列計算とはかなり異なる世界なので、
大学で解析と代数の両方を抵抗感無く楽しめるなら、その「楽しい」を伸ばしていって数学専攻するのも適性あるかもね。
苦手意識ありつつも努力してちゃんと克服できるなら、それはそれでタフネスとガッツがあって素晴らしいんだけど、
その強みは数学に限らず広く役に立つ武器なので研究職に思い入れが無ければ就職したら? と思ってしまう。
自分は理I入った時は数学好きだったけど、その後に東大数理(修士)まで行ったうえで、これ以上数学を専攻していくのはムリだな、
元スレの増田さんは数学物理が得意だったということで、優秀な方なんだろうと思います。
私もエンジニアなので元増田さんに読んでもらいたくて参戦します。
分野は秘密。
学生時代は文系でした。勉強ができる方でしたが、物理は全くダメで、数学はセンター試験があったし、真面目に勉強してたし、文系の中ではまだできる方だったけど理系脳の人たちには全く歯が立たないレベル。英語国語が得意で完全な文系脳でした。
そんな私がなぜエンジニアに、しかもITならまだしも普通のエンジニアになったのか。
地方で若くして結婚して子供産んで(一人だけど)30歳もとうに過ぎていて、条件の良い就職先が今の職場しかなかったからです。
入社後は死ぬほど苦手だった物理を1から勉強して、なんとかかんとか頑張ってます。
職場はほとんど男性だけど皆優しいので特に女性であることで苦労したことはありません。唯一の女性の同僚は15歳年上で学生時代からバリバリ理系の元増田さんみたいなすっごく頭の良い雲の上の存在。馬鹿な私にもとても優しくサポートしてくれる。いつも分からないところないか気遣ってくれる。神かよ。
「数学物理が得意で自然とエンジニアになりました」という女性がもちろん当たり前になるべきだと思う一方で、
「なんとなく接客業に就きました」「なんとなく事務職やってます」っていう女性みたいに「なんとなくエンジニアになりました」っていう私みたいなへっぽこエンジニアも増えて欲しい。それが裾野を広げることになると思う。
もちろん最低限の数学への適性はいるけど、そもそもハロワの名ばかり正社員(昇給ボーナスなし手取り13万ぐらいサビ残有り)みたいな求人ばっかりの中で、うちの求人は過酷な肉体労働もなく好条件のはずなのに事務職じゃないからか、女性の応募者はほぼゼロ。皆もっと応募すればいいのに。
周りからはよく「本当にうちの会社にいるタイプじゃないよね(笑)」と冗談を言われ、珍獣のような目で見られてます。
※追記
想定外にバズっててビビりました。特定避けるために仕事の詳細は明かせませんが、パソコン使ったり作業服で現場でボルト締めたり溶接したり大型トラック運転したり(入社後免許取った)地上10メートルで安全帯付けて高所作業したり新規顧客獲得のために営業で東京に出張したり色々です。
採用の理由は皆さんお察しの通り高学歴(東大ではないです)が大きかったと思います。会社としては、もちろん工学部の人材が喉から手が出るほど欲しいのですが、工学部を出たマトモな人は大手企業に掻っ攫われてしまうので、それ以外でも見込みのある人は採用してるみたいです。ニッチな分野なので元々その分野に特化してる人があまりいないため、入社してから育てるって感じです。
物理は確かに大学で習うものが多いと思いますが、私は簡単なことしかやってませんし、中学高校レベルの四則計算と微積や指数対数や三角関数の基本ぐらいのごく簡単なことしか理解していません。難しい計算はエクセルやパソコンソフトがやってくれるので、工学部の現役大学生がやっているようなレベルは要求されません。求められても無理ですし。