はてなキーワード: スピリッツとは
今日はスピリッツの発売日で例の検証記事がネットにも公開されたというのに、はてブではその話題が出てこない。
小学館 コミック -ビッグコミックスピリッツ~SPINET- 『美味しんぼ』福島の真実編に寄せられたご批判とご意見
http://b.hatena.ne.jp/entry/spi-net.jp/spi20140519/index.html
以前のスピリッツ公式サイトのお詫び文(のような何か)は400usersくらい稼いでいたけど、今回はまだ50usersもいってない。
遠隔操作ウイルスの件がにぎやかだからかなあと思ってたけど、人気ブックマーク一覧(http://b.hatena.ne.jp/hotentry)はおろか
http://b.hatena.ne.jp/entrylist?sort=hot
で新着エントリーを延々と辿っても上の記事は出てこない。
つけられているタグ「原発」「漫画」等で検索してもやっぱり出てこない。
URL指定(http://b.hatena.ne.jp/entrylist?url=http%3A%2F%2Fspi-net.jp%2F)までやると出てくる。
どうも小学館がはてなに一覧非表示を要請して、はてながそれに応じたみたいね。
そりゃブクマ数も増えないわけだ。
美味しんぼがすごく叩かれてる。
何故みんなこうもヒステリックに騒ぎ立てるのだろう。
まさにヒステリーだ。
いったいどれだけの人が毎週スピリッツを読んでいたのか。
もう読まない、とかいってる人のどれだけが、美味しんぼを読んでたのか。
美味しんぼといえば、ビッグタイトルだから、読んでなくても皆タイトルくらいは知ってるだろう。
一度くらいは読んだことはあるだろう。
けど、叩いてる人で今も毎週読み続けてた人、いる?
ニュースになって、なにそれけしからん!って騒ぎだした人がほとんどじゃないの?
韓国で船が沈んでたくさんの人が亡くなった。
船長は一番に逃げた。乗客には「そこでじっとしているように」という船内放送を流して。
何故もっと早く適切な非難と誘導ができなかったのか。
いろいろ言われてるが、これ311のとき日本政府がしたことと同じじゃないか。
原発事故では直接的に人は死んでないけれど、もしかしたらまだ船は傾いたままで今も刻々と沈みつつあるのかもしれない。
沈むと損する人たちは「大丈夫です」と言う。
沈むか沈まないかわからない船ならば、とりあえず逃げたい人は逃げればいいじゃないか。
安全だと思う人だけそこでじっとしてればいい。
逃げないまでも、ヤバイかも、って思った人は、船内に留まりつつ、少しでも非常口に近い場所に移動していつでも脱出できるよう待機してればいい。
事故が起きたのは事実なのだから、とりあえず身を守る行動をとるのは当たり前のことだ。
それで結果的に沈まなかったとしても、よかった、ですむ。
みんなが逃げ出したことによって誰かが被る被害は、事故を起こした会社がとればいい。
船が沈んでたくさんの死人が出てからでは遅い。
労組活動をさんざんやって、団交しようとしたら誰もついてこず、クビになったらしい。
そんな話はどうでもいいんだが、スピリッツ編集部はたぶん『美味しんぼ』の打ち合わせも原稿チェックもやっていない。
「できない」と言ったほうがいいかもしれない。人から聞いた話だけど、俺は「さもありなん」と思ってる。
さすがに福一取材には編集が同行してると思うが、花咲アキラ先生は間違いなく行ってないよな。
まあ全く打ち合わせ抜きで仕事をするのは無理なんだが、今後は編集部との綿密な打ち合わせのうえで中途半端な落とし方で終わるという予測はおそらく外れる。
よく言えば作家本位。悪く言えばプロデュース能力もマネジメント能力もない。
小学館の編集者には、たまに凄腕の人がいるけど、ノウハウが共有されていないし、横の連絡も悪く、結局個人の力量以上のことはできない。
労組活動をさんざんやって、団交しようとしたら誰もついてこず、クビになったらしい。
そんな話はどうでもいいんだが、スピリッツ編集部はたぶん『美味しんぼ』の打ち合わせも原稿チェックもやっていない。
「できない」と言ったほうがいいかもしれない。人から聞いた話だけど、俺は「さもありなん」と思ってる。
さすがに福一取材には編集が同行してると思うが、花咲アキラ先生は間違いなく行ってないよな。
まあ全く打ち合わせ抜きで仕事をするのは無理なんだが、今後は編集部との綿密な打ち合わせのうえで中途半端な落とし方で終わるという予測はおそらく外れる。
よく言えば作家本位。悪く言えばプロデュース能力もマネジメント能力もない。
小学館の編集者には、たまに凄腕の人がいるけど、ノウハウが共有されていないし、横の連絡も悪く、結局個人の力量以上のことはできない。
美味しんぼが売れすぎるものだから、雁屋哲は小学館の編集部の誰も何も言えないアンタッチャブルな存在になっているというのは、十年以上前に聞いた話。
一度連載を辞めたあと、部数が落ちたのと、単行本があまりにもドル箱過ぎたから経営判断もあって三顧の礼で復活。
俺はこんなの業界人ならだれでも知ってる常識みたいな話だと思ってきたので、どこからもこの話が出てこないのが不思議でしょうがない。
たしかに小学館の上のほうにも、熱心に反原発デモなどに顔を出したりしている左の人はいる。でもそれたぶん関係ない。
はっきり言うけど、スピリッツ編集部も「被害者」と言っていいと思う。
いまどうやって雁屋の首に鈴をつけるか協議してるんだろうけど、雁屋はもう一生遊んで暮らせる金を持ってるから怖いものなし。
どうすんだこれ。
私の性的嗜好「あしフェチ」について書きます。なお、足も脚も好きなので「あし」と表記いたします。
性別:男
年齢:30
小学5年生のころ、友達のお姉さん(中1だったと思います)が浴衣を着ていて歩いているのを後ろから目撃しました。
これが私の今に至るあしを廻る旅路(グレートジャーニー)の始まりとは思いもよりませんでした。
すごくドキドキしてしまい、しかもその感情が何であるかわからない小学生の私は、この一件以降しばらく友達の家に遊びに行けませんでした。
お姉さんに会って足を見てしまったら私はどうなってしまうのか。
この時期にあっては、興奮よりも不安のほうが、まだはるかに高かったのです。
急に家に遊びに行かなくなり、友達からは怪訝な顔をされましたが、理由も言えるはずなく。
小学校高学年になるとオナニーを識る年になります。小学生から中学生にかけて「本当は何か悪いことをしているのでは?」というわずかな疑念を持ちながらも、私もオナニーに耽溺していました。
ネタは紙媒体においてありきたりなコンテンツだったと思います。インターネットは黎明期でした。
オナニーをする際に、現実にいる人や事象を想像して事をいたす場合があります。私の場合はバレー部の格好にドキドキしてしまいました。
ふとももですね。ふともも。
ふともも、それぞれ個性があるわけです。色や太さ、肌の感じはもちろんですが、同じ太さでも筋肉の付き方や骨太かどうかでも変わってきますし、なにより身長の度合いで全体から見た印象も大きく変わってきます。
ここであまりお胸に目がいかなかったことが、私の嗜好進路を大きく変えたと思っています。
ふとももに行ってしまったわけですね。胸なんて、初めて彼女の胸を揉んでからその有難さに気付いたくらいです。
オナニーは自分で致すわけですから、その精神性(スピリッツ)や理念が重要になってきます。そこでは今に至るまであしが趨勢を占めています。
バレー部の女子たちのふとももは、鍛えているだけあって基本的に締まっておりいいものでした。
建設会社社長の娘がバレー部におりまして、彼女もふとももを晒しているわけです。
普段は上品な格好・立ち居振る舞いをしていてふとももなんて部分は露出しないのに、部活においてはそれが正しい恰好となるわけです。
その錯綜感に興奮し、気が狂いそうになりました。
全体の理念と関わる話ですが、女性のあしってのは本来はあまり見える部分ではないものであると思っています。
勿論これは前時代的な考えで、現代の女性はあしに限らずいろいろな部分の肌を露出しているのでこの限りではないことは解っています。
でも小学校の時女性の足の裏を初めて見て興奮したのを何故だろうかと考えた時、やはりこの本来見えない部分が見えてしまったという要因が性的衝動に繋がったと思っています。
そういう本来隠される部分が顕になるとき、人は性的興奮を覚えるのではないでしょうか?
バレー部の社長の娘さんは普段おしとやかで成績もよく…といった感じを地で行くそれなりの美少女だったのです。
そんな彼女の太ももは本来隠される部分であるにもかかわらず、今ここに顕になり、スパイクを打つ際には筋肉の躍動をはっきり目視できるほどに眼前にある。
私のあしフェチの根底に流れる理念にはこういうものがあるのだと今でも感じています。
端的にいえば、ギャップですかね。倒錯というか。
特に脇フェチはあしふぇちの親戚であると勝手ながら思っています。
これは難しい問題です。この文章を書きながら嗜好を整理する中で解るかもしれません。
バレー部に興奮した私は、もちろんその隣で練習するバスケ部にも目を光らせていたのでした。
でもそんなに興奮しませんでした。
今その理由を顧みると、多分ですがバスケ部がゆったりといたユニフォームを着ており、全体の(あし全体のという意味と、身体全体から見たあしという意味の2重の意味において)バランスを捉えにくい恰好であったためと想像されます。
その点バレー部はふくらはぎもソックスをはいていて全体像をイメージしやすい恰好だったわけですね。バスケ部は太もも部分においてこれができない。ここに違いがあります。
あとバスケ部にそんなかわいい子がいなかった、という現世利益的理由もありましたが、ちょっとこれはこの文章の本旨とは離れますね。
ともあれ、私のフェティシズムは、パーツだけで完結しないことを言いたいのです。ですから私の性的嗜好をフェティシズムというのは、もしかしたら間違いなのも知れません。
とにかく、あしが全体からみてどう構成要素となっているのか。私にとってこれが重要なのです。
先ほどバレー部のところで書いたように、それぞれのあしの個性がそのひとの全体から見てどうなのか。
そして、建設会社のお嬢さんのところで触れたように、その人の身分や役割、立場を踏まえたうえであしを見る。
こういうその人の持つ背景的意味でもその人自身とあしが関係性を持ちます。
あしがその人全体からみてどうなのか、とはこういうことです。
なんだか抽象的なことばかり書いてしまいましたが、私の理念を先に書いておいた方が解りやすいと思ったためです。
疲れたので、これ以降は次回に書きますが、次回以降はもっと具体的にあしのどこが好きか、どんな感じのあしが好きか、どんどん話していこうと思っています。
経済学部生でもないのに、学部教養でかじった程度の経済学の知識で書いてしまいました。
間違っていることも多いと思います。ごめんなさい。
さらっと書いてるけど、好きで調べたりしている人以外には、こういうのがとてもわかりにくいと思う。
自分自身がそうだったからだ。だから簡単に説明してみようと思う。
この証明書を裏付けるのは金の価値。みんなが、「金は高価だ」と思っていて、食べ物や服や家具や機械とか、あるいはおねーさんと酒のんでおしゃべりする権利とかと交換してもいいと考えている。でも、金そのものを持ち歩くのはいろいろと面倒だしあぶない(財布の中に入れておくとすり減ったりする)から、金庫屋が金を預かり、かわりに「金と交換できる券」発行している。それをみんなが金の代わりに使っている。
これはむずかしい。
なんでかというと、この場合の紙の券は、なにか具体的なモノと交換できる証明書ではないから。
とすると、それは一体なんなのか?簡単化した単純な例で考えてみる。
まず登場するのは、超できる男として有名な出来山さん。この出来山さんがお店を出すことになった。お店を出すには仕入れが必要になる。しかし、裸一貫の出来山さん、仕入品の代わりに提供できるものがまだない。そこで、出来山さんは業者の人にこう言う。「この店がうまくいったら、色をつけてお礼するから、まずは仕入品を納入して欲しい」。仕入れ業者の人は「出来山さんは超できる奴。多分、出来山さんのお店は繁盛するに違いない。まだなにもない出来山さんだけど、そこに納入すれば、後々いい商売になるだろう」と考える。そこで、仕入れ業者は、まず出来山さんのお店に品を納入する。出来山さんは、お店の将来の売上から、仕入れ業者に色をつけて返す約束をする。
出来山さんは、その仕入品を使って自分の商品を魅力的なものにするために色々な努力をする。そして、商品の売上から、仕入れ業者に、前借りしたものよりも多くを返す。そうすると、仕入れ業者は「出来山さんと商売しているとこっちも儲かるな」ということになって、もっと大きな商売をさせるために、仕入れ品をもっと納入するようになったりする。
さて、ここで、出来山さんを日本政府(あるいは中央政府)、仕入れ業者を日本銀行(あるいは中央銀行)と考えてみる。
出来山さん(日本政府)の商品というのは日本経済そのもので、出来山さんの手にする売上は日本経済からくるアガリ(税金)だ。仕入れ業者は、出来山さんの商品(日本経済)が魅力的(活発で生産的)だと見込んで、紙幣を「発行」して出来山さんに貸しつける。つまり、相手がリターン(利子)を返してくれるだろうという「信用」によって紙幣=マネーが生まれる(creating money)。だから、不換紙幣のマネーというのは、兌換紙幣のマネーと違って、モノとは交換できないけれども、より大きなリターンを返してくれるだろうという信用を形にした「信用紙幣」ということになる。
普通、通貨は国単位、経済体単位で流通している。例えば、日本なら1万円券や1千円券の日本銀行券、あるいは、造幣局が発行する100円硬貨なんかが流通しているし、アメリカならドル紙幣が流通している。だから、この信用紙幣の「信用」は何に対する信用なのかというと、その通貨が流通している経済体そのものが活発で成長する、あるいは(すくなくとも規模を維持して)その他の経済体に対して影響力を持つことへの信用だ。例えば、「(日本円を使ってモノを交換している)日本経済がドボンしないだろう」とか「日本円で買える日本の商品が欲しい」とみんなが思っている(日本経済を信用している)限り、日本円はその価値を保つ。
日本円が日本経済の信用を元手にしているということは、逆に言うと、「日本経済はもうダメや!」とか「日本に欲しい物なんかあらへん!」みたいにみんなが思い始める(信用を失う)と、日本円の価値が暴落して流通できなくなってしまう(ハイパーインフレで紙幣が紙くず)。そうすると、日本なのに、みんな日本円を使わなくなってしまい、米ドルなどの外国通貨が流通するようになったりする。そうなったケースが、アルゼンチンなど。
至極単純化したけれども、不換紙幣=信用紙幣、の仕組みは大雑把に言ってこういう感じのものだ。
日本銀行は、自分で紙幣を発行していろんな人に貸し付けている。日本政府はその中のひとりだ。
だから、なにも、日本政府だけが日本銀行が発行するマネーを市中(日本経済)に流しこむパイプ役なわけではない。そこには色々複雑な仕組みがある(らしい)。例えば、日本銀行は、自分が発行したマネーで不動産なんかにも投資したりする。つまり、直接、市中にマネーをぶっこむこともできる。でも、それはあまり勧められることではないとされている。なぜなら、自由にマネーを発行できる日本銀行は、理屈の上では、市中の商品をいくらでも買いあげることが出来る。すると、どんなジャンクな品物や詐欺まがいの商品でも、日本銀行に売りつければ商売になってしまうことになる。ジャンクな品物や詐欺まがいの商品が売れる経済というのは、まったく健康的じゃない。言い方は悪いけれど、そんなのは闇経済と同じことだ。
「日本銀行がなんでも買ってくれるから、適当な商品使ってぼろ儲けしてやれ」「日本銀行がなんとかしてくれるから、いくらでも借金してやれ」なんていうのが、いわゆる「モラルハザード」というやつだ。
少し話がずれたけれど、ここで、わかりやすくするために、日本政府の借金は全部日本銀行が引き受けているとしてしまおう。その額およそ1000兆円。そして、日本政府は借金を返したら、再借金はしないと仮定してみる。すると、どうなるか?
日本経済には、すでに発行済の日本銀行券=マネーが出回っている。そこから日本政府はアガリ(税金)をとり、そこから日本銀行に借金を返して、借用書(国債証書)を取り戻す。つまり、日本政府が日本銀行に借金返済しきってしまうということは、日本経済から1000兆円のマネーを吸い上げて、日本銀行に収めてしまうということになる。マネーはみんなの交換を活発にするものだから(物々交換は、自分の欲しい物と相手の欲しい物がうまく噛み合わないと成立しなかったり、いろいろと面倒くさいのだ)、マネーが減った分だけ、みんなの交換は不活発になる。交換が不活発になるということは、在庫が余ってしまったり、あるいは欲しい物が手に入らなかったりするということだ。
マネーがないと交換が不活発になるということを、また簡単化した例で考えてみよう。あなたはお腹が減っていて、定食屋に入りたい。マネーがないのだから、あなたは、例えば皿洗いなんかの仕事と定食を交換して欲しいけれど、皿洗いの仕事をする人はたくさんいて、定食屋の洗い場ではすでに定食目当ての人が働いていたりする。あなたは機械を直すのが得意だから機械を直しましょうと定食屋のオヤジに言うのだが、定食屋には壊れた機械がない。だから、やっぱり定食を食べられない。
ここにマネーがあったとするとどうなるか。あなたは機械を直して欲しい人を探して、その人の機械を直してあげるかわりにマネーをもらう。そのマネーをもって、定食屋に行き、定食とマネーを交換してもらう。機械を直して欲しい人、お腹の減ったあなた、マネーが欲しい定食屋のオヤジ、と3人ともハッピーになれる。つまり、在庫が余る(あなたの機械を直す能力が活かされない)ことや、欲しい物が手に入らない(あなたが定食を食べられない)ということがなくなる。さらには、それぞれが得意なことをすることで、とても効率よく仕事ができるし、みんなが効率よく欲しい物を手に入れることができる。つまり、それぞれの能力が最大限生かす機会が生まれるということにもなるのだ。マネーすごいぜ!
そういうわけで、必ずしも、国の借金を減らせばそれでいいというわけではない。それは、日本経済の中に流通するマネーを減らしてしまう=交換が不活発になってしまう→日本経済の信用がなくなってしまう、ということにもつながりかねないからだ。
もちろん、「日本政府は、もう借金の利子を払うこともできない」といった具合に日本国債の信用が失くなってしまうと、これはこれでまた大変なことになる。なぜかというと、そうなれば日本国債を買う人がいなくなってしまうからだ。日本国債を買う人がいなくなってしまうと、日本政府の予算が減ってしまう。つまり、公的サービスが減ってしまう。警官や検察や裁判官が減ると、治安が悪くなって、インチキ詐欺師が蔓延り、経済の健全性が失われてしまうかもしれない。そうすれば、日本経済がダメ経済になってしまって大混乱、交換が不活発になってみんなが貧しくなってしまうかもしれない。あるいは、小中高の学校や大学の運営ができなくなって、将来のビル・ゲイツやスティーブ・ジョブスやマーク・ザッカーバーグになりかねない若い人達が、ただの非正規雇用ワープアになってしまうかもしれない。これも、日本経済にとって大きな痛手になる。
つまり、まず第一には日本経済が元気なことが大事だし、第二には「日本経済は元気だな!」とみんなに思ってもらうことが大事だし、第三には「日本経済は元気ないな」と思われないことが大事だ。国の借金は、こういうことのバランスを考慮しながら、考えることが必要なのだと思う。
じゃあ、そのバランスはどうやれば取れるの?ということになるのだが、それが簡単に分かることなら、経済学者の議論なんかは存在しないんだろう。
おわり。
わたしが、経済学の講義で学んだことは、「アニマルスピリッツ」を持った方が未来は明るい(らしい)ということです。
簡単に言うと、みんなが「やってみりゃいーじゃーん」(楽観的)で「やってやろーじゃーん」(能動的)で「なんか、よくなるかんじじゃねー」(希望的)な方が、雰囲気=景気は明るい。そして、楽観的で能動的であるためには「(ダメだったとしても)そのうちなんとかなるだろう!」というやつも必要なのだと。
お金が出回っていることはとても有用なことだから、お金を稼ぐことはむしろいいことです。自分にとってだけじゃなく、みんなにとってもいいこと。でも、稼いだお金を貯めこんで使わない守銭奴のような人はお金を回さない人だから悪い人です。自分ばっかり稼ぎすぎて、他の人に稼がせなさ過ぎるのも悪いこと。それはまるで、ヘビー級のボクサーが、モスキート級に混ざってチャンピオンになっても、全然つまらないのと同じ。そんな気がしました。
みんなが気持ちよくお金を稼げて、気前よくお金を使えるような経済や社会にするにはどうすればいいのかを考えることが、当面のわたしの課題です。
木曜はヤンジャン、チャンピオン、モーニング。オマケでファミ通。
って感じで。
足掛け10年くらい?
やめたらやめたで別にどうってことなかった。
禁煙とかアルコールよりも身体的なきつさがないぶん、すんなりすっぱりやめることができた。
逆に、立ち読みをしなきゃっていう強迫観念的なものから解放されてのびのびしてる。
「来週月曜だから月曜発売の雑誌は土曜に出るから早めに立ち読みしとかないとなくなっちゃう」とか「連休だから」とか「年末年始だから」とかまでバカみたいに気にしてたし。
立ち読みは、したら面白かったり得るものが何かしらあったけど、しなくても現状から何かを失うわけじゃないんだよなー。
コンビニのひと、長い間ごめんね。ありがと☆
旭茉莉(昆蟲白)、Happy New-Yearが言いたくて(南野陽子)、一直到底(Nipples)、赤い戦車(ヤプーズ)、南方蝶道(甜梅號)、
一個人的水道(甜梅號)、Air on the G string(Bach)、春夏秋(チャットモンチー)、激光中(羅文)、Merry Christmas Mr. Lawrence(坂本龍一)、
恋愛スピリッツ(チャットモンチー)、安眠藥(歐陽靖 陳奐仁)、甜蜜蜜(薛凱琪)、MAY(斉藤由貴)、ダンシング・ヒーロー (荻野目洋子)、
雙失情人節(Twins)、青山黛瑪(何韻詩)、汽水樽裡的咖啡(何韻詩)、情歌(側田)、when i listen to the field mice(my little airport)、
習慣失戀(容祖兒)、糖不甩(薛凱琪)、VALON-1(Salyu)、戀人未滿(S.H.E)、美空雲雀(何韻詩)
東風(Yellow Magic Orchestra)、Lucky(スーパーカー)、我有一段情(吳鶯音)、曙(ゲルニカ)、2EM12_KK_A09(ヱヴァ破)、
光榮之家(何韻詩)、北歐是我們的死亡終站(my little airport)、隆重登場(容祖兒)、電力組曲 C:電化の暮らし(ゲルニカ)、妮歌(何韻詩)、
Komm, Susser Tod/甘き死よ、来たれ(Arianne )、ホープ(testpattern)、給十年後的我(薛凱琪)、安靜了(S.H.E)、女朋友(歐陽靖 陳奐仁)、
体操(YMO)、You Only Live Twice(Nancy Sinatra)、小茉莉(楊丞琳)、Oh!(少女時代)、圓謊(容祖兒)、
管他什麼音樂(范曉萱&100%)、Blue Paradise(Martin Denny)、泡泡(魏如萱)、Sunny Road To Salina(Christophe)、Be True(容祖兒)、
優しいたそがれ(南野陽子)、最後的歌(楊千嬅)、Le premier chagrin d'amour(France Gall)、眼球綺譚(戸川純ユニット)、愛しのキッズ(小島麻由美)、
月世界旅行(アポジー&ペリジー)、韻律泳(何韻詩)、飛べない翼(Lily Chou Chou)、手のなるほうへ(チャットモンチー)、ヒステリヤ(ヤプーズ)、
Green Grass Of Tunnel(Mum)、夢伴(梅艷芳)、舊約(何韻詩)、再見...露絲瑪莉(何韻詩)、AXIA~かなしいことり~(斉藤由貴)、
就算世界無童話(衛蘭)、점핑(Kara)、夢のスキマ(鷺巣詩郎)、空しき流れ(鷺巣詩郎)、閉塞の拡大(鷺巣詩郎)
那年夏天寧靜的海(王心凌)、痛愛(容祖兒)、落寞莉(昆蟲白)、憤怒の河(戸川純)、惚たる蛍(チャットモンチー)、
愛一個上一課(容祖兒)、最後一課(容祖兒)、時不與我(容祖兒)、Dear. Mom(少女時代)、男孩像你(薛凱琪)、
沙堡壘(容祖兒)、A Wishful Way(Hopscotch)、ONE(斉藤由貴)、拳銃(チャットモンチー)、脆弱(謝安琪)、
立つ鳥跡を濁さず(トップをねらえ2!!)、時の河を越えて(トップをねらえ!)、親知らず(チャットモンチー)、媽媽我考試考100分(selfkill)、搜神記(容祖兒)、
想想(何欣穗)、リフトの下で逢いましょう(南野陽子)、ギルガメッシュ(ヤプーズ)、Roller Coaster Rock(selfkill)、a love song(EGO-WRAPPIN')、
愛將(梅艷芳)、手のなるほうへ(チャットモンチー)、petsounds(the beach boys)、香格里拉(魏如萱)。
「どんな糞なシステムだろうが使いこなしてみせるぜ!」みたいな感じでとっくみはじめる。フロンティアスピリッツみたいなもんかね。
Facebookのアカウントは持ってるけど、リンク先みたいに「使いにくい」と感じる事は確かにあるし。
アメリカ人って、そういう物に対するとらえ方が日本人と根本的に違う気がするんだよね。
「どんな糞なシステムだろうが使いこなしてみせるぜ!」みたいな感じでとっくみはじめる。フロンティアスピリッツみたいなもんかね。
逆に日本人は、使いにくい商品・サービスは文句一つ言わずに静かに捨てたり立ち去ったりしていく感じ。
Xbox360で思い出したけど、当時MSで関連部署に勤務していた日本人社員がローンチ前に「これじゃあ日本では売れませんよ」と米国人の上司に進言したら「不人気ならば大量の改善要望が来るはずだ。それをフィードバックしてどんどん改良していけばいい」と自信たっぷりに返された事があったそうな。
そして発売日を迎えたものの、マニアが最初期に殺到した程度で後は全く売れず、相談窓口にも改善要望どころか、MS自身が公式に認めた不備や不具合にすらもクレームが殆どこなかった。米国本社のお歴々も「どうして(日本で)売れないのかさっぱり分からん!」と匙を投げて戦略を早々に日本から欧州にシフトしたそうな。
金金金かね で 結局やることといえば 金を配る だもんなぁ。
やる気とか生きがいとかガン無視だよなぁこの政権。いや、自民党もだけど。
リスクとって活躍するといってるけど、リスクを取るということはノタレ死ぬ可能性もあるわけで、
ヌクヌクと生きてもノーペナルティー リスクをとってもノーフォロー 夢や希望があるかといえばそう言うわけでもなく 準じる理想があるかと言われれば理想すらもない。
日本に生まれてよかったと思えることは 結局 裕福というだけで 心は満たされない。だから、自殺者が減らない。
典型的な金持ちのボンボンで3代目が寝所を潰すパターンなんだろうね。日本は。
スピリッツがない、夢がない、希望がない 理想がない。 持たせられるだけの大人が政治家になってない。