はてなキーワード: しまとは
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女さんって無視してたら問題がなくなると思い込んでる節あるけど、むしろヘイト買ってるんだよね。少なくとも俺はそう
俺だったらダメもとワンチャン狙いで凸ってる状態で既読スルーされたらその時点で「ワンチャンあるかもしれないからそれなりに気を付けて対応しないといけない相手→敵」に変換されるね
もともとチャンスなかったんだから、敵扱いすることで女に悪く思われてももともとそうだったって話じゃんw既読スルーという加害をしてきたのは女さん側なのでね。失うものないんで
なので女がはっきりと彼氏いるって伝えるべきだね、これは。
まあその伝え方も、ぴしゃりと切り捨てるように言うのではなく、申し訳なさそうに言うべきだけどね。いきなりシャットダウンするような言い勝たされるとイラっとするんでね。
なんで興味のない男相手にここまで気を使わないといけないのかって思いますか?
恋愛では男側が動かないと話が始まらないので男側が常に傷つくリスクを背負ってるんですよ~なのでその分のコストを負担しましょうね。もしかしてシカトされてもなんとも思わないと思ってる?
男側はこういう経験を経て将来的に女を獲得できるようになるんですよ~男ってもともとは全員童貞なんだよ?知らなかった?うまいこと練習台になりましょうね~
刺激しすぎないように穏当に上手に断って、首尾よく経験値だけ稼がせようね。
引リツ等でも断り方悪くてブチ切れられたケース散見されてるけどさ、レベル1の男にいきなり刺されたりしたらシャレにならないでしょ?ん?
地味に好きだった「ニューヨークですが…何か?」が終わってしまう
野放図街ブラって定期で見てるものが無いけどコレは全話見た
ニューヨークのちょっと硬めな街ブラロケが良かった。物慣れてない感じで。大阪のロケで黒門市場に行く芸人とは全然違う感じ
街ブラって難しいだろうなあ
全然そういうロケしない人が送り出される相席食堂とか見てて「大変だな」って思った
ずん喫茶はずっと見ている。飯尾和樹大ブレイク前から静岡の街ブラ番組とかも見てた
最近は「ゴートゥーヘブン」とか定番ギャグを言ってくれなくなったので寂しい。レディーガガとか由美かおるとかも見ないなあ
封印しちゃったのだろうか
当時はリセットボタンなんて思っていなかったが、今あの時期を説明するとリセットボタンという表現が適切かもしれないなと思った話。
※フェイクあり
当時の自分は高校卒業後フリーターをしていた。高校時代すでに半分不登校みたいな感じで、友達は多かったが、いかんせん勉強がとても苦手だった。
大学には進学しなかったが、バイトで出会うコミュニティは面白くて良い人が多かったし、
高校時代の同級生とも関係は続いていたので、定期的に遊んだりして気がつけばフリーターも2年目を迎えていた。
フリーターのままでいるのも良くないとは思っていたので正社員で働くことにした。大学進学は選ばなかった。
勉強浪人ではなく、あてもなくフリーターをした後に大学に入学するのはダサいイメージがあった。
今思うと心底どうでもいいのだが。
気軽さ重視で短期や3~6ヶ月程度の期間限定のバイトばかりやっていたので、バイトからの正社員登用の選択肢もなかった。
結果、親に連絡をして学費を出してほしいとお願いした。
両親はとても喜んでくれて、応援してくれた。バイトは期間満了でぬるっと辞めた。
繰り返していた短期バイトとフットワークの軽さで、無尽蔵に遊び仲間が居たが、家族以外誰にも言わなかった。ダサいと思ったから。
一人暮らししていた家を解約して荷物は全部実家に送った。携帯も解約した。
これが自分のリセットボタン。親族の連絡はつながっていたのでプチリセットボタン。
高校時代の同級生が自分の消息を心配して高校に連絡を入れたらしい。高校から実家に安否の確認が来たとのこと。
話に聞くと、高校の同級生たちは心配して解約したアパートにも来たらしい(知らない中国人男性が住んでたのこと。申し訳ない。)
びっくりした。連絡がなくなって心配はされるとは思っていたが、皆すぐに忘れると思っていたからだ。
今この歳になると、みんながアッサリ忘れてくれると思っていたのも衝撃であるが、当時は心底そう思っていた。
もちろん心配してもらえた嬉しさもあったが、当時は正直いい年してフリーターで、親に金借りて語学留学してる自分のことなんて忘れてくれよという思いが圧倒的に強かった。
1年経って日本に帰国したときは、改めて同級生たちと集まって酒を飲みながら謝罪をした。
ちなみに同じパターンでバイト仲間たちも心配して家に来ていたとのことを別ルートで知り、同じように謝罪した。
当時の仲間は今でもごくたまに集まるが、最近改めて当時の話になった。
「あの頃は怖かった」と言われた。その後に「でも今なら同じことをしたいと思う」と。
何を言っているんだと笑い飛ばしたが、自分もたまに目の前にリセットボタンがチラつくことはある。
一度ボタンを押してしまうと、選択肢として気軽に出てきてしまうものだと思う。
1年間の語学留学如きで英語力は爆発的には上がらなかったが、今はなんとか正社員を続けている。
同性の友達しか居ない人生だったが、最近は恋人も出来てとても楽しい。
それでももし急に、今すぐ飛行機のチケットをとって海外に飛んだらと妄想にふけることがある。
海外に自分がいるときの、自分がここに属していないという圧倒的な不安感や、必死でコミュニケーションを取ろうとする自分のダサさがたまに無性に恋しくなる。
今は安定していて刺激も無いのかもしれないが、それで十分自分は幸せであると、
ちょっとのマンネリや不満如きですべてをリセットする必要なんて何も無いし、それで得るものよりも失うものの方が多いこともわかっている。
ただ、あの時リセットボタンを一度押してしまったせいで、何をしていても「自分はいつでもリセットできる」という選択肢が選べる状態になってしまっている。
それがとても良くない。
責任をもって仕事をするとか、恋人に誠意を持って接するとか、深く悩んで考えるとか、そういったものがめんどくさくなったときに、
企業に関しては個人情報の取り扱いについて明確なコンプラを設けたりしてるとこは多いと思うが、まだまだフワっとしたままなとこも多いし、また職場以外の場でも曖昧になってる場面は多いと感じる。
写真については許容範囲やリテラシーに個人差があると思っていて、けっこうモヤる事が多い。よくある状況で整理してみる。
基本的に撮った写真を共有するのも比較的クローズドな環境が多そう(グループラインなど)なので、まあありかなと思える。
SNSに思い切り顔出し写真上げちゃう人もいたりするが、そのへんは似たような価値観で集まってる率が高いし、そもそもの拡散性の低さからまあいいかとか、友達関係なら「気になるから上げないで」で終わる話なので特に問題はなさそう。
主役がはっきりしていて他はモブ化しやすいし、晴れの場ということで一般的に許容されるものかなと思う。
さすがに誰かの結婚式で「いや写真撮らないで」とか思う人はあまりいないだろう。
この辺から怪しくなってくる。個人的には今の時代すでに「誰かの顔出しの写真をSNSやオープンなとこに上げるには確認は必要だよね」だと思ってるんだが、
単なる趣味友の集まりとかだとみんなで写真撮るってとこに明確なルールを設けるケースは稀だと思うので、たまたま写真撮りまくる人とかいた時に困るなあって思う人とかは出てきそう。
こういう場面が一番微妙な空気を生みやすいとこだと思ってる。ベンチャーとかIT系とかだと年齢層が若めだったり、ネット上含めて認知をより求める性質とかがあってゆるい感じだったりするが、
世代ギャップも大きかったりする会社なんかだと、飲み会の最中にやたら写真撮りまくる人って1人か2人はいたりして内心(え、やめてほしいなあ)って思ってても言いづらいという人は潜在的にけっこういるのではないかと思ってる。
いろんなTPOはあるのだけど、結局最後の職場での集まりの場が一番問題になりやすそうって感じてる。
いちいちみんな写真大丈夫?とか聞くのもなんだし、そもそもイヤですとは言いづらいと思う。
そもそもなぜこういうことを思ったかと言うと自分の職場でハッキリそうとは言わないけど明らかに写真は撮られたくないなって思っているであろう女性がそれなりにいると肌感で感じるからだ。
うちの会社の場合はコンプラ的に広報写真やメディアなどで例えばフロア内の写真だとか社員の顔が出るようなものに関してはしっかり本人の了承を得るというのは周知されている。
けど社内で展開するとか(例:こないだの~会の写真アップしましたとか)だとさすがにわざわざ各人に了承得るってのはしてなくて、曖昧になっていたりもする。
だけど今って他人に撮られる写真についての意識が昔とは明らかに変わっていて、それは自撮り文化がかなり浸透してる部分も大きいと考えていて。
自撮りであればどんな表情にするか、角度など含めて完全に自分の撮りたいように撮るのが当たり前になってるので、意識してない自然な表情を勝手に他人に撮られてるっていうのに抵抗感がある人が特に若い女性に多くなってると思う。
例えば付き合ってる恋人が撮る写真なら嬉しいかもしれないが、会社の飲み会でわいわい楽しくやってるとこを撮られるのは、なんかちょっとイヤだなあと思う人がかなりの率で増えてるんじゃないだろうか。
難しいのは一方でそんな細かいことどうでもいいだろ誰も見ないよ、社会人としてもっとオープンなマインドであるべきみたいな考え方がポジティブに捉えられやすい空気というのもあって、それがまた撮られたくない層の言いづらさを生んでる気もする。
個人的にはあんまりフォーカスして撮られたくはないけど、場の空気として写真撮ろうよみたいなのはわかるしそういう写真を残しておくのはいいなと思ってる。でも内気な子とかが顔出ししたくないなあという気持ちも理解できるから、基本的に自分から勝手に撮るということはしない。引きで全体を撮った時もエアドロなどでその場でのシェアはするがそれ以上の拡散はしない。
いやいや写真ごときでなにを細かいこと言ってんだ?という意見もあるだろうと思うが、こういう時ってより言い出せない側に気持ちを寄せたほうがいいんじゃないかって思っているのだ。
また職場の話なら会社側でコンプラ明確にしとけばいいんじゃないって話でもあるんだが、対外的(社外、ネットなど)へのコンプラは明確に基準を設けることはできても、社内に関してそこまで徹底するのはやり過ぎ感も出てしまいそうだから、結局雰囲気に合わせて常識の範囲でいきましょうってことになりやすい。
前述の通り肌感で社内の若い女の子なんかがそれをイヤだなと思ってる率高そうに感じるので、社会的にもこの辺の意識アップデートしていけたらいいんだけどなあなんて思う。
警察と、逃げてる奴が動画に映されてるんだけど、明らかに両者ヘロヘロで、おっそい。撮影者が悠々とついてきているのと対比で、ワロてしまった。結局警察官が追いついて、息も切れ切れに取り押さえてる。お疲れ様です。
私は今まで、『マラ』が男性器を指すことから、『マラカス』と『チンカス』は同じ意味だと思っていたので、そのような文脈ではまったく平等に使用してきた。
ただ、稀に他人との意思疎通でズレを感じることがあった。あまり大きな問題だとは感じていなかったので、小さな違和感があった場合でもそのまま通した。
長い間そのままだった。切っ掛けがどういうものだったのかはもう忘れてしまったけれども、あるとき、私は自分自身の無知を完全に自覚した。
しかしながら、己の過ちを認めることは非常に大きな試練だった。余りの羞恥心に顔から『マラカス』が噴き出ている感覚に常に襲われていた。
これはワンアイデアで「〇〇すればいいじゃん!」なんて話では到底済まない大きなテーマだね。俺もけっこうずっと考えてるんだけど
昔は「被害者意識」とか「恨み」「復讐心」は宗教とか掟的なものによって半ば無理やり社会化されていたのが、「各自でうまいこと解消してね」ということになってしまった。
そこから考えると社会化・共有ってことがひとつ方向性としてあるだろう。同病相憐れむじゃないが同じような立場の人と体験を話し合うということ。
でもだだ漏れに喋ってれば傷が癒えるのかというとむしろその行為が自分の主体性を溶かしていってしまい自己憐憫ループにはまっていく可能性もある。
だから「聞いてもらう」だけじゃなくて聞く側・助ける側として他人のために心砕くことが自己救済につながるということもあり得る。
火を発見したことで人類は退化してしまったのではないだろうか?
今から火を禁止し、すべての肉を生で食べるようにすれば、数万年後にはいつでも美味しい鶏刺しが食べれるようになり、牛レバ刺しも解禁される日が来るだろう。
誰しも、なんてことは無いよ。アメリカでそういう統計あったけど一割強くらいだそう。すごく少ないわけではないから珍しいものでもないけどね。(そして増田の言うようにそういう時期があるだけで自然と折り合いをつけていく人がほとんどだけど、これを経過を見ずに手術や投薬で「治療」してしまえという動きがあって問題となっているのは、某イーロンさんの件でも話題になってたね。)
https://www.mhlw.go.jp/content/001299825.pdf
やる事も予算も引継ぎなんだけど、官民協働が強調されてるように
溜まるよね?
自分には持病があって毎日飲まなきゃいけないお薬が何種類もあるんだけど、薬局がそれぞれの薬を輪ゴムで束ねて出してくれる。
うちの薬箱の中は、薬を束ねていた輪ゴムですぐにいっぱいになってしまう。
いただいた輪ゴムだから私的流用するのも申し訳ないと思って最初のうちは使わずにとっておくようにしてたんだけど、すぐに6畳の和室が輪ゴムで一杯になってしまった。これじゃ和室じゃなくて輪室だ。
なので溜まった輪ゴムは処分していくことにしたんだけど、そのままゴミに出すのはちょっとよろしくない。
なぜなら、うちから出るゴミは公安が毎日全部チェックしているのだ。
彼らは私が気づいていることにまだ気づいていないだろうが、私が気づいていることに彼らが気づいていないことを私は気づいているのだ。ともかく、この輪ゴムをそのままゴミに出すと公安に要らぬ疑念を抱かせてしまいかねない。
ちなみに我が家の自治体の分別ルールでは、輪ゴムは「燃やせそうで燃やせない、少し燃やせるゴミ」に分類されている。
ともあれ、公安の目をかいくぐりながら輪ゴムを処分する方法を考えなくてはいけないが、私はリカちゃん人形のアクセサリーの材料として売りさばくことを思いついた。
ネックレスやブレスレット、ベルトなどの軸紐として輪ゴムを使うのだ。ビーズなどの飾りを輪ゴムに通してオシャレなアクセサリーに仕立てる。
輪ゴムとビーズはいずれもトポロジー的にはトーラス(円環)であるので、輪ゴムにビーズを通すのは物理学上は長い間不可能だと思われてきたが、実は輪ゴムに通す時に一度空間を反転させることでこれを可能にできる。ご家庭の台所でも簡単にできるので一度ためしてみてほしい。
こうして作ったアクセサリーは一部で高い人気を呼び、売れに売れた。
予想外の臨時収入に口座を監視していた公安も首をひねっただろうが、おかげで私は8畳の和室をもうひとつ増築することができたのである。
学歴コンプレックスで長らく悩み続け、いよいよ自殺をすることになった。
日本に安楽死制度が整備されているのであれば、今すぐにでも申請し、「一件落着」だが、残念なことに今の日本にそのような制度はないので仕方がない。
もちろん死ぬのは怖い。本当に怖い。
ただ、もはや自分の知能の低さを規定しているこのDNAが、それ故に生まれながらに高学歴を得られないことを決定づけているこの劣ったDNAが、それにより構成されているバカで劣等な自分自身の存在そのものが、生理的に気持ち悪くて仕方がない。
知的社会たる現代日本では高学歴を有さない者は、基本的に「人」そのものとして劣っているとみなされる。
卒業大学の名前がそのまま当人の知的能力の全てを、ともすると人間としての価値やランクをまるごと規定してしまう。
学歴は能力の指標にとどまらず、内面の繊細さや思慮の深遠さ、人としての毛並みや美しさまでもを規定する。
そのような地獄の知能カースト社会において、低学歴が人としての尊厳や誇りを持って生きられるはずもなく、したがって幸福に生きられるはずもない。
もし低学歴者が高学歴の連中の目に「幸福に生きている」ように映ったとすれば、「動物園ではしゃいでいる猿」に対する眼差しと同様のそれを向けられる。
現代日本において低知能に生まれた(私のような)低学歴者は、言わば戦前アメリカに生まれた黒人と同じなのだ。
そこに救いはない。
早く楽になりたい。苦しい、苦しい。
私は極めて難しいペーパーテストにより先天的に知能の高い者以外を(事実上)排除する、この国の上位大学の入試形態によって殺されたようなもの。
社会やメディア、ことにインターネットにおいて無秩序に猛威を振るう、アパルトヘイト級の学歴至上主義・学歴差別に殺されたようなもの。