2016-01-29

運命ならしょうがない

http://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20160125/1453679534

星回り、天運、を言い換えれば運命宿命であり、保守仏教畑では前々から語られていたし、論壇畑でも「運命宿命は違う」とか「最強の運命論決定論)」として語れていたし、スピ・オカルト畑でも1つのテーマになっていると思う。

運命を受け入れないことの何がまずいかといえば、適応拒否とそれによって起こるメンタル面の不利という点だろうと思う。

運命を受け入れたと思えるために便利なのは「たとえその状況でもどうにこうにか生きていけるかも」「どうしても死にたくなれば死んでもいい」という安心と「自分より悲惨な状況はいくらでもある」という優越感と「それでも価値がないわけではないかもしれない」という満足感だと思う。

無理があるといえば無理がかもしれないし、つらいと言えばつらいかもしれないが、いつの時代のどんな人の人生そんなものであり、ニコニコニッコリ大満足をもって運命を受け入れている状態だとするべきではないと思う。「無理している。悪しき防衛機制だ」「現実逃避だ」等の言説はやはり邪魔である

雨宮処凛によればつらい生活を送っている右翼仲間が「特攻隊の人のことを考えれば平気」であると、特攻隊自分境遇を受け入れるためのツールに使っていたらしいが、その特攻隊もやはり枕を濡らしていたのだ。「公平であるべきという観念」は出アフリカ以降の人類の脳の特性であり、運命不公平を受け入れるとはやはりどこかで無理をすることなのではないか。

「毒親」「文化資本」が鬱憤晴らしに使われ適応戦略としてというなら、その背景である「親の適切な愛情必要」「適切な環境教育必要」という現代の(絶対必要であると言ってしまう)教義も叩かねばならないだろう(社会関係資本についても同様である)。これは近代の正常な心理状態を想定する精神医学には無理だし、反人種主義・反優生学左翼やポモにも無理だろうからそれらに期待するべきではない。かと言って劣等種を数値化する科学カルマや汚れた魂を想定するスピ・オカルト自分境遇ニコニコニッコリ全肯定できてしま危険ものである。イエや身分を想定する保守も使えない。自律運命許容を両立させるためには、ここはハードルを下げて、無理はしているかもしれないがそれなりに満足しようとしている状況をもってよしとするべきだと思う。

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