はてなキーワード: 婿養子とは
どちらかと言えば自分は男系支持派で、男系の続く旧宮家を復活させて今の女性宮家と結婚させてでも男系は繋いだ方がいいと思っている。
しかし、こんなことを考えるのはタブーなのかもしれないが、これまで男系が繋がっていたという証拠は本当にあるのだろうかと疑問に思うことがある。現代の遺伝子が父方の方で繋がっているという男系の考え方は、言ってみれば19世紀のダーウィン以後の遺伝子というものが生殖を通して個体に継承されるという発見を踏まえた考え方であって、江戸時代やそれ以前にそんな現代的な意味での男系が本当に尊重されていたとは考えにくい。
例えば、戦国時代の立花宗茂とか、大名大友家家臣の立花道雪に息子がいなくて同僚の髙橋紹運から養子として貰われてきて立花家を継いでいる。もちろん実子の娘と結婚して婿養子として家を継いでいるのだが、血が繋がっていなくても養子にすれば家としては存続できる、というのが当時の普通の考え方だったように見える。血の繋がりよりも形式上の家の方を重んじるというのは現代では理解しづらいが、まだダーウィンの発見を知らなかったと考えれば理解できなくもない。
現代でも、政治家とかを見れば例えば安倍晋三の弟の岸信夫とか、岸家を継ぐために母方の岸家に養子に入ったりしている。庶民から見たらめちゃくちゃだが、伝統的な家柄ほど家というものが大事なのかもしれない。戦国時代やそれ以前からの古くさい考え方が今も残っているということだ。
問題は、血の繋がりよりも家、というのがコンセンサスだった長い長い時代の中で、どうやって天皇家だけ現代的な意味での男系という概念が維持できていたと言えるのか、ということだ。一応神道の宗主の形は取りながら室町以降歴史の裏方にいた天皇家で、本当に無垢に男系が維持できていたと言えるのか。権力欲剥き出しの藤原摂家たちが側近にいる中で(しかも母方で見たら既に藤原氏と血縁で混じり合っている中で)、どこかで養子に置き換えられることなく連綿と純粋な男系を維持できてきた、と言えるのだろうか。(陰謀論に踏み込まずにこの論を考えるのは非常に難しい面もあるのだが。)
好意的に見るならば、そうした科学的な男系の立証は不可能だが、たとえどこかで置き換わっていたとしても同じく歴史上重みがあり天皇家の親戚でもある藤原氏(近衛家、一条家など)の子孫だから問題なし、ということだろうか。たぶん、現代においてどこの馬の骨とも知れない庶民から男系を奪われるのとは較べるべくもない、ということだろうか。
親族と、新郎新婦の親友のみの、小規模でしたが良い式だと思っていたところ、
箇条書きにすると
・親族紹介のときに、娘のことを(言う必要もない学歴を)院卒と紹介した。
・式、披露宴中に私語が多すぎる。
・孫(娘の子)に関わりすぎる。
・人のスピーチ中に、いちいちツっこみを入れる。
他にも私だけでなく、新郎側親族(娘にとっても親族ですが)の発言はどれも
無神経極まりない、恥を知れと。
一方的にまくしたてられ頭に来たので、こちらも言い返し怒鳴りあいに。
そんなことを言う娘ではないので、おそらく婿(娘の夫)の差し金だと思いますが
そこまで言うなら絶縁だと返すと、「あっそう、もう会わないから」と娘からも
絶縁宣言がありました。
理不尽な言いがかりをつけられ、一方的に悪者にされた挙句、もう会わない
どうにかして婿に頭を下げさせ、また娘と孫に会えるようにできないでしょうか?
一部の週刊誌などでは、高学歴だったことで逆に周辺住民の一部から馬鹿にされたりやっかみを受けていたとか
婿養子みたいな形でトンカツ屋を継いだから、義父との間で店の経営方針や調理方法などで確執があったらしいし
トンカツ屋を継いだことで学歴が無駄に高く見えてやっかまれたのでしょう
そう考えてみると、石原慎太郎は東日本大震災の被災者を天罰呼ばわりしたわけだけど、
無実の罪で島流しにされた?菅原道真公が雷神様になったとでもいいましょうか、
寧ろ、今回のオリンピックは、オリンピックを誘致した人たちへの天罰ではないか、
というわけで、
1870年の平民名字許可令によって、誰でも名字を使って良くなった。これまでは平民は名字を使ってはだめだった。
1871年の戸籍法によって名字の登録が推進された。姓尸不称令によって名前は名字と名前になった
1875年の苗字必称義務令によって、名字を持つことが義務になった
1876年の戸籍法では夫婦別姓だった。そもそも慣習としては夫婦別姓だった。
夫婦別姓、と言うと少しニュアンスが違うけど、日本に於いては「親の姓を男女問わずに継いでいく」が基本だった。ただ、庶民には姓なんかないので、この辺は宙ぶらりん感がある
「戸主及ビ家族ハ其家ノ氏ヲ称スル、妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」
というように書かれているので、結婚したら妻(女性)は夫の家に入るので、名字は夫の名字になるというようになった。
夫婦同性、と言うよりは、嫁自動的に夫姓になる制度と言っても良い。
そういえば婿養子ってなんだよと思ってこっちも調べた所、男性が親と養子縁組を結んで、その家の娘と結婚する、と言うクソめんどくさい手順によっているようだ。
ここまで見てみれば(と言ってもほうぼうで見かけた情報ではあるが)、夫婦同性というのは明治時代に導入された制度だが、「平民も名字を名乗っていい、いや、名乗れ」からの流れの中で「結婚したらどうすんの?」という感じで「夫婦別姓でいいんじゃね?このほうが自然だし」からの「いややっぱ旦那の姓をなのれ」に変わってきたという結構不自然な家庭を経ている。これを伝統と言って良いのであれば、国家が国民に強制してきたことが伝統になってしまう。
テクニカルに夫婦別姓を考えると、データ管理の点でのコストがあるというのはある。
DBなんかで詳しい人は「姓」にその戸籍の参加者を紐付ける形で管理していたが、この「姓」が家庭の単位を表さなくなったときにどうやって国民の戸籍情報を管理するのかという問題がある。いつ生まれて、どういうふうに転居し、誰と結婚して、子供が生まれて、離婚して、死別して、みたいなすべての履歴データを新形式にコンバートせよという難題だ。明治時代とかの手書きの戸籍謄本は電子化したうえで、ID割り振りという苦行が待っているだろう。待っていないかもしれないがこの辺は考え方次第かもしれない。
戸籍謄本は直系尊属はいくらでもさかのぼって取得して良いというものがある。これは、自分の親、親の親、親の親の・・・というようにさかのぼって戸籍が取得できる制度になるのだが、仮に「姓」で戸籍情報を管理する場合、別の情報で戸籍管理をする必要が出てくる。過去の人にもさかのぼって。
もしこういうプロジェクトを立ち上げた場合にやりたい人っているだろうか、いやいるまい。
夫婦別姓をシステムとして導入するには以下のステップがいるだろう。
何よりもきつそうなのは、戸籍データが各自体で各々管理されている(総務省が何かしらの方法で一括管理しているかもだけど)ので、この辺のすべてのデータを統合する必要がある。しかもやっている間も粛々と人々は結婚し、生まれ、離婚し、死に、転出し、転入する。
そういうわけなので、なにかウルトラCを考えないと、システム側からの夫婦別姓はかなりの困難を伴うだろう。
もしこの辺がきちんとシステム化された場合、例えば遺産相続で非相続者が登場するすべての戸籍謄本を集めなくてはならない(法的に他に相続権者がいないかを証明する必要があるので)というクッソだるいイベントがあるんだが、これを非相続者のIDで申請したら一気に全部取得できるとかそういうのはできるかもしれない。
夫婦別姓なんか「もともと何の問題もないので好きにしてください」位自由にできる。
氏名変更だってそんなに難しくない(しょっちゅう変えるとシステム的に良くてもみんな混乱するので何かしら規制は入るだろうが。)
日本人同士で結婚した夫婦のうち、妻の姓を名乗る割合はたったの4%だそうだ。やはり珍しいのか、入籍を報告した先々で「何か理由があるの?」「婿養子なの?」と聞かれている。これがめちゃくちゃめんどくさいし、正直うざい。ふたりで選んで妻の姓を名乗るってだけのことに理由いる?って毎度毎度思っている。まあでも、4%しかいないんだから何かあるんだろうと思うのが「普通」なんだろうな。
正直たいそうな理由があるわけではない。つけようと思えばそれらしい理由をつけることはできるが。私の父はひとりっ子でその上子ども(私たち姉妹)は女ばかり。父方の祖父母は姉妹の誰かが名字を継ぐことを熱望していたため長女である私がその意向をくんだ、みたいな感じ。
でも、私のほうが自分の名字への愛着がより強く、彼は人と違うことをするのが割と好きというのがかみ合っただけというのが本当のところだ。彼も私も友人からは元の名字をベースにしたニックネームで呼ばれている。だから、お互いそれなりに自分の名字には愛着があったはずだ。それでも彼は好奇心のほうが勝ったようで、割とすんなり名字を変えることにしてくれた。
ただ、こんな理由を正直に言うのもなんだから、人には先に書いた理由を簡単に伝えている。
人に理由を聞かれ事情を説明し「理解ある人でよかったね(意訳)」と言われるたびに、「彼に名字を変えてもらった私はものすごくわがままな人間なのか、彼に我慢を強いているのか」という錯覚に陥る。名字を変えなかった96%の男性はきっとこんな思いはしないだろうに、同じように名字を変えなかっただけの私がこんな思いをしなければいけないのはなぜなんだ???受け答えのめんどくささより正直これがいちばんきつい。きっと考えすぎなんだろうけど。
夫の姓を選ぶのも妻の姓を選ぶのもどっちも普通のことだよねって皆が当たり前に考える社会に早くなってほしい。
最後に、私はこんなだが彼は本当に素敵な考え方をする人だということを伝えさせてほしい。「僕自身は名字を変えることに抵抗はないし、僕が名字を変えることで喜んでくれる人がいるってだけで名字を変える十分な理由になるよ」と言ってくれた人なのだ。そして、そういう彼を育て、彼が名字を変えることに反対しなかったご両親も本当に素敵な人だ。私は幸せ者だ。
とりとめもない話を読んでくれてありがとう。
見合い結婚は家同士が釣り合うかの問題なので容姿が悪いから農家の奴隷嫁みたいなトレードにはならない。
容姿は、良ければ売春婦になって上客と結婚できるという逆転も無いわけではない程度の要素。
元増田がソコソコの家の娘なら、ソコソコの家の男と結婚できたことになる。
仮に男が美形の有能だったとしても、婿養子にならなければ一生実家で飼い殺しの次男以降だったらブスは嫌だと断る権利も無い。
ブサイクな嫁を宛てがわれる旦那は不幸だが、元増田にとっては自由恋愛結婚市場よりも有利なトレードができる。
元増田がブサイクなせいで父や兄弟と同レベルの男と結婚できない(見合いなら結婚できた可能性が高い)ことから、剥奪感は大きいだろうと同情する。
しずかちゃんだけ野比しずかになってて、のび太はのび太のままで色々吹き上がってるが
なんで野比しずかなのか?→選択的夫婦別姓なのでそちらのせいになることを選んだだけでしょう
なんで野比しずかになったことに疑問を持たないの?→どっちでもいいことに対してなんで疑問を持たないといけないの?
としか思えないんだよね。ただ、興味深いのは
この話ってどんな感じになるんだろうか。もともとの原作が昭和のものだから、当時なら婿養子はあまりいなかった。もっと遡ると普通にいた。
マスオさんなんかいい例だし、昔の戸籍を見ると割と婿養子はいたけど、それも家の姓を守るためなので、どこか男尊女卑の匂いはする。
実現しても利用率1%みたいな制度の為に法律改正、役所の手続き変更、なんなら戸籍にまで影響とかコスパ悪すぎだろ
俺は全然嫁の苗字になっても良かったしなんなら婿養子でも問題ない
こんなこと言っても、親に失礼だとか、不妊治療している人に失礼だという意見が多いだろうことは重々承知だけど、なんか最近自分の中で不妊治療で生まれたってことが肥大してしまっていてしんどい。
医療の発達で不妊治療で生まれる子もこれからもっとずっとどんどん当たり前になっていくと思うけど、そういう子たちも将来思い悩むんでは、とか勝手に想像してしまってそれも勝手に苦しくなる。
近ごろ、なぜ両親は不妊治療してまで子どもを産んだのかとぼんやりずっと考えてしまう。両親は仲が良くない。仲が良い悪い以前に、「ちゃんと話し合って」物事を進める、みたいなのがない。
なぜそんな家庭環境にしたのか、そんな家庭環境でよく子ども生もうとか思ったな。
それに、平成10年生まれなんだけど、その頃ってそんなに日本はいい国だったの?産み落とすには十分な国だって思ったの?とかも思ってしまう。
「国」は置いといて、この子たちをできる限り慈しみ育て上げる家庭環境を作り上げよう、ママパパ同士お互いコミットしあおうね、ってちゃんと考えあって不妊治療しましたか?ってのも聞きたい。
あなたたちはなぜ子どもが欲しいんですか?それも自然妊娠でなく、なぜお金と労力をかけて不妊治療するんですか?どういう風に育てていこうか、そういうところちゃんと突き詰めて2人で考えましたか?話し合いましたか?
いろんなことを聞きたい。
責める、っていうつもりなんじゃなくて、ただただ確認したい。私みたいにどこか虚無を感じる子どももいるかもよってことをわかってほしい。
私が物事がわかるようになってきたころか(小学校高学年だったか)、不妊治療で生まれたってことをなんとなく知った。
母は、父の方に原因があったのよと憎々しげ言っていた。父の母に、子どもができないのを責められたこと、原因を視てもらえとそういう系の人を紹介されたこと、逆にその人に父の家の水子供養の不備を指摘され、それが原因といわれて父の母が慌てたこと。
一人娘で婿養子を迎えて子どもを産まなければならなかったこと。
私は大変だったのよ、と言っていた。実際大変だったんだと思う。
その時は全然言語化できなかったけど、言語化できなかった思いはイシューの種となり埋められていたようで、自分が成長するにつれてどんどん芽が出て伸びてそして絡まった。
今思えばいろいろ絡み合っていた。
という思いと、
私はそこまでして母を苦しめて産まれてきたのか?という思い。自らに加害性をも感じている。
それに自然妊娠じゃないんでしょ。なんか人工的だし、人間ってなに様?とすら思う。
不妊治療は心身ともに女性の負担がとても大きい。ああ残酷だ。そこまでして産まれてくる命。
不妊治療って今、保険適用とか言い出してるしもっとポピュラーなものになると思う。で、ポピュラーなものになって、誰がなにが救われるんだろうとか考える。
産まれてくること、出生自体苦しみなのに不妊治療で「がんばって」「むりくり」産まれてきた私の存在ってなんなんだろう。ナチュラルじゃないとか思ってしまう。
今も多くの夫婦が不妊治療していると思うけど、なぜ未だに多くの家族がお金と労力をかけて子どもを持とうとするのかよくわからない。家族の最小単位って夫婦のはず。愛の結晶とかいう幻想に惑わされないで欲しい。そもそも愛は見えませんしそういう人はやっぱり子をかすがい化するんですよなぁ。
令和になっても多分いつの時代になってもママじゃないと、パパじゃないと肩身が狭いんだろうな。わかる、わかるけどそんな理由で不妊治療するのだとしたら、なんだか本当に残酷です。
「子どもを持ちたい」って簡単に言えるし、簡単に実現できる世の中だけど、その「子ども」って赤ちゃんとか5歳とか小学校のわんぱく盛りだけじゃないんだよわかってるのかな?って思う。19だってあなたの子どもだし、成人したって25だってあなたの子どもだし、40だってあなたの子どもだよって感じ。
不妊治療して産んだとしたならせめてその子には必ずこう言って欲しいです。ずっと言い続けて欲しいです。
「あなたに会いたくて会いたくて産んだんだよ」って。