はてなキーワード: 書評とは
急進的な著者の本が主流紙で書評されることは、ましてや好意的に評価されることは滅多にない。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングローによる『万物の黎明』は例外である。わずか2ヶ月前に出版されたこの本は、すでに世界で最も影響力のある英字新聞や雑誌の多くから賞賛を受けている。
著者のアナーキズムの主張に疑問を呈する書評家でさえ、「3万年にわたる変化に関する岩盤の前提を覆す見事な新説」(アトランティック誌)、「多くの大陸と数千年にわたる文明に関するめくるめく物語の数々、そのすべてが自由であることの意味に取り組んでいる」(ワシントン・ポスト紙)と称賛している。また、ソーシャルメディア上の左翼的な投稿者たちからも、好意的なコメント-場合によっては絶賛!-が寄せられている。
しかし、以下に掲載する2つの書評は、いずれも唯物論的人類学者によるもので、この本の人類史に関する記述は、大量の反対証拠を無視しており、その政治的主張は観念論的で自発主義的であると論じている。どちらの書評も特に、女性抑圧の原因を考察していないことに批判的である。
クリス・ナイトはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの人類学上級研究員で、アフリカにおける人類の起源を研究するチームの一員である。著書に『Blood Relations(血のつながり)』など:Menstruation and the Origins of Culture』、『Decoding Chomsky: Science and Revolutionary Politics』などがある。The Dawn of Everything』の書評はTimes Higher Educationに掲載された。
ナンシー・リンディスファーンとジョナサン・ニールはともに人類学者として訓練を受け、人類の進化、階級社会、性的暴力についての本を執筆中。ナンシーの近著は、リチャード・タッパーとの共著で『Afghan Village Voices』(アフガニスタンの村の声):Stories from a Tribal Community, 2020』である。ジョナサンの近著は『Fight the Fire: Green New Deals and Global Climate Jobs』。The Dawn of Everything』の書評はエコロジスト誌とブログ『Anne Bonny Pirate』に掲載された。
本書は楽しく、有益で、時には爽快である。また、根本的なところで支離滅裂で間違っている。ヨーロッパに洞窟壁画が現れ始めた頃からの、比較的最近の先史時代について学びたいのであれば、必読の書である。しかし、人類が最初に笑い、歌い、話し、芸術、儀式、政治を創造し始めたのはなぜなのか、どうしてなのかを知りたければ、きっと失望するだろう。
この本のタイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『お茶の時間』の方が正確だろう。ホモ・サピエンスがヨーロッパに到着する何万年も前にアフリカで始まった文化の開花を体系的に横取りし、この物語はあまりにも遅く始まる。
欠点はあるが、この本は広報の勝利である。フリードリヒ・エンゲルスが『家族、私有財産、国家の起源』を出版して以来、左翼知識人や活動家が人類の社会的起源や先史時代の過去について学ぶことにこれほど興奮したことはない。
短い書評では、本書の幅の広さと博識を伝えることはできない。その核となる政治的メッセージは露骨だ。平等主義の狩猟採集民が生活の中で共産主義を実践したというエンゲルスの話は神話である。『万物の黎明』はエンゲルスを見事にひっくり返している。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの考え方と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。デヴィッド・グレーバーは、マーシャル・サーリンズとの共著『王について』の中で、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたことから、国家権力の原理は人間の条件の不動の特徴であると主張している。
よりによってアナーキストが国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、本書はそのメッセージに重みを与えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。もうひとつの世界は可能である」という革命的スローガンはもうたくさんだ。その代わりに、グレイバーとデイヴィッド・ウェングローは、「階層と平等は、互いに補完し合うものとして、共に出現する傾向がある」と主張している。ある場所で自由を手に入れるには、別の場所での抑圧を受け入れるしかない、と彼らは言っているようだ。
著者たちはダーウィンの自然淘汰理論に違和感を抱いており、現代の進化論を「社会進化論」と混同している。現代の進化論は科学的であると主張するが、実際は純粋な神話である。グレイバーとウェングローは、進化論をまったく認めない人類の起源についての視点を、読者が真剣に検討することを期待しているのだ。
彼らが認める唯一の科学は応用科学であり、この場合は「考古学的科学」である。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と時折出てくる火打石のかけら」からは何も読み取れないと主張することで、「万物の黎明」の年代をわずか4万年前とすることを正当化している。この言い訳は、人類の最もユニークな特徴である芸術や象徴文化が、これまで考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという、説得力のある最近の証拠に照らすと、弱々しく見える。その証拠とは、骨や石だけでなく、ビーズ、幾何学的な彫刻、埋葬品、砥石や絵の具壺などの工芸品である。
彼らが "フェミニスト "と呼ぶ人物(実際には進化人類学の第一人者サラ・ハーディ)が、現代人の本能と心理を形成する上で集団的育児が重要な役割を果たしたことについて興味深いことを言っていることは、グレーバーとウェングローも認めている。しかし彼らは、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、そのような洞察は部分的なものにしかなりえない」とコメントしている。この種のトリック--この場合は、ハーディの研究が "アフリカのイブ "の年代測定より200万年前にホモ属が出現したことに焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
グレーバーとウェングローは、初期の平等主義を "有害な神話 "として否定する一方で、狩猟採集民の多くが "自称自慢屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために、嘲笑、羞恥心、敬遠など、他の霊長類には見られない戦術を総動員している "ことには同意している。ではなぜ彼らは、私たちの人間性を規定する本能や能力が平等主義的な生き方によって形成されたという考えに敵対するのだろうか?
私たちは皆、社会的・政治的に対等な人々と笑い、歌い、遊び、交わることができるとき、最も幸福を感じる。しかし、グレイバーとウェングローは、この事実を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先も同様に、攻撃的な男性による嫌がらせや虐待、支配を選んだかもしれないと言っているようだ。進化人類学者クリストファー・ボームが描く、反権威主義的抵抗の中で形成された道徳意識の高い社会に対する反論をまとめると、狩猟採集民の祖先は一貫して平等主義を好んでいたという彼の考えを、彼らは「初期の人類をさりげなくエデンの園に投げ返している」と表現している。
グレーバーとウェングローの基本的な論点は、政治的選択の自由に関するものである。彼らの考えを説明するために、人類学の古典であるエスキモーの伝統的な生活の説明を思い起こさせる。アザラシを狩る彼らは、夏の間は家父長制的な家族構成を確立し、冬の間は共同生活(夫と妻を含むすべてを共有する)に戻るだけである。私たち人類は、その本性上、大胆な社会実験に駆り立てられるのだと著者は結論づける。その結果、奴隷制度や人身御供、大量殺戮といった極端なヒエラルキーが形成され、破滅的な結果を招くこともある。しかし、遠い過去の良い点は、少なくとも現代のようにひとつのシステムに縛られることはなかったということだ。
この歴史は対立と交替に満ちているが、その周期性はエスキモーの周期性に倣ったもので、一方的な季節性である。グレイバーとウェングローは、ほとんどの狩猟採集民が季節だけでなく月の周期にも従っていることを知らないのだろうか。月経の満ち欠けと結びついた女性の儀式は、基本的に月によって予定されている。
著者たちが問いかける重要な問いは、"なぜ不平等になったのか?"ではなく、"なぜ行き詰まったのか?"である。彼らは自らの問いに答えられるところまで来ているだけに、そこにたどり着けないことに深い苛立ちを覚える。自らに課したハンディキャップのひとつは、女性人類学者による狩猟採集民の研究を見落としがちなことだ。例えば、適切な参照もなしに、彼らはモーナ・フィネガンの共産主義の概念に触れている。彼女は、コンゴの熱帯雨林に住む女性たちが、男性たちが筋肉質な勇気と優位性を発揮する可能性を示すよう意図的に促していることを記録している--男女間の「力の振り子」で優雅に降伏する前に、「ンゴク」と呼ばれる女性だけの儀式で男性たちをあざ笑い、反抗するのだ。しかし、グレイバーとウェングローは、この政治的知性の表現を認める代わりに、ここでの成果やパターンを見出すことなく、それに言及している。
なぜ私たちは行き詰まったのか?正しい答えは、人類が農耕に依存するようになり、太陽暦が月暦の儀式よりも執拗に優先されるようになったからだ。私が最もよく知る先住民、タンザニアのハザ族の弓矢猟師たちは、今でも彼らの最も重要な宗教儀式であるエペメを、新月前後の最も暗い夜に毎月行っている。
太陽と月の中間的な存在であり、世界中でたどり着いた無数の妥協案のひとつが、中世ヨーロッパで毎年行われていたカーニバルの伝統である。庶民が今でも大切にしている伝統は、家父長制の秩序を逆転させるこのライセンスだった。
残念なことに、この「新しい人類史」は、その始まりがあまりにも遅く、アフリカが物語から切り離されているため、女性の抑圧とマンネリ化した現在の苦境との因果関係を説明することができない。
グレーバーとウェングローの新著は、エネルギッシュで、献身的で、万華鏡のようだが、欠点もある。これは私たちに問題を提起している。
デヴィッド・グレーバーはわずか1年前に若くして亡くなった。彼の代表作である『Debt』は、部分的には思わせぶりかもしれないが、その野心は当時としては刺激的だった。活動家として、またオキュパイ運動や社会正義運動のリーダーとしてのデイヴィッド・グレーバーの活動は異例であり、模範的であった。LSEの人類学部門の同僚たちからの彼への尊敬と愛情は、そのことを物語っている。そして、彼の心は常に虐げられた人々とともにあった。
しかし、グレバーが善人であり、つい最近この世を去ったばかりであったからこそ、多くの人々にとって『万物の黎明』が、今後長い間、不平等の起源に関する理解の枠組みとなってしまう危険性がある。
本書の裏表紙には、レベッカ・ソルニット、パンカジ・ミシュラ、ノーム・チョムスキー、ロビン・D・G・ケリーといった、著名で立派な思想家たちからの賞賛の言葉が掲載されている。ケリーはその代表的な例として、「グレーバーとウェングローは、私がこれまで世界の歴史について考えてきたことを、事実上すべて覆した。この30年間で読んだ本の中で最も深遠でエキサイティングな本だ」。
この本は最近、マスコミでかなり注目されているが、このような賞賛が一般的な見方になったら残念である。
人類の進化と歴史における不平等の起源という問題は、私たちがどのように世界を変えようとするかという点で、非常に重要である。しかし、グレイバーとウェングローは平等や階級に目を向けることなく変化を求め、環境や生態系の説明を敵視している。これらの欠点は保守的な意味合いを持つ。
では、ここから。これは膨大な本の、乱暴で部分的な書評である。私たちは、グレバーが知的な議論の切り口を愛し、得意としていたという知識で自分自身を慰める。
この本の最後の段落、525-526ページで、グレーバーとウェングローは自分たちの立場を明確に示している。彼らはこう書いている、
例えば、他のあらゆる点で厳密な研究が、人間社会には何らかの「原型」があり、その性質は基本的に善か悪かであり、不平等や政治的意識が存在する以前の時代があり、このすべてを変えるために何かが起こり、「文明」と「複雑さ」は常に人間の自由と引き換えにもたらされ、参加型民主主義は小集団では自然であるが、都市や国家のようなものまでスケールアップする可能性はない、という未検証の仮定から始まる場合。
つまり、神話を打ち砕く者たちは、人間社会の原型は存在しないこと、不平等や政治的意識が生まれる前の時代は存在しないこと、事態を変えるようなことは何も起こらなかったこと、文明や複雑さが人間の自由を制限することはないこと、参加型民主主義は都市や国家の一部として実践可能であることなど、正反対のことを言っているのだ。
このような断定的な声明は、非常に大胆に述べられ、新しい人類史を書いたという彼らの主張を魅力的なものにしている。しかし、2つのつまずきがある。
第一に、彼らの主張そのものが、彼ら自身の政治的プロジェクトと対立している。第二に、証拠が彼らが言おうとしていることにそぐわない。
「お金がなくても作家を喜ばせる方法は図書館にリクエストすることだ」なるツイート(ポスト?)が伸びてたので https://twitter.com/jiro6663/status/1694628008366428193?t=3FxjKDajQYbjtPMwsgkrdw&s=19
現役図書館司書の視点からこの件について図書館的にどうなのか、本当に作家の為になっているのかを考えてみた
念を押しておくと田舎の小さい図書館司書視点なので一般化できるかは怪しい
①リクエストした人が必ず借りてくれるのであれば図書館は嬉しい
の2点になる
まず①から
図書館の予算は大体どこもカツカツで満足に本買えてる図書館の方が少ない
限られた予算の中で利用者が喜ぶ本を選書し、満足度の高い図書館をいかにして作るかというのは司書の腕の見せ所である
大体は児童向けや小説のシリーズ物、健康や生活の知恵に役立つ400〜500番代の本を数冊買い、余ったお金で1〜2冊ほど「これは利用されそうだな」という本をジャンル問わず選定するが、この「利用されそう」というふわっとしたものが難しい
よく動く本の傾向を見たり新聞書評や今ならYouTubeやTikTokでバズったものを選定してみたりするが、それでも買ったのに全然貸出されない本は出てくる
こういう時、誰かがリクエストをかけた本であれば確実に一回の利用は見込めるので選書会議も通りやすいし助かったりする
しかし、リクエストかけた人に借りる意思がない場合はとても困る
実際、みんなに読んでほしいと言う理由でリクエストがかかり購入したが誰も読まず書架の肥やしになっている本はある
(これはその本が悪いのではなく利用者のニーズに合致しなかった、例えば世田谷や目黒といった一等地に農業指南の本を置いて借りる人がいるのか?という話)
実際そういうことが起きたのでうちの図書館ではリクエストした本を必ず借りてもらうルールが作られた
予算もスペースも限られているので、本人が借りる意思の無い布教の為の、最低一回の利用も見込めない本はリクエストされても正直困るな…というのが本音である
作家としても、折角書いた本が誰にも読まれず本棚から動かない状況は売れたとしてもあまり嬉しくはないんじゃないかと思う
②について
図書館の本は必ずしも購入した物ばかりではない
リクエストがかかった本で、どうしても予算が足りず購入が後回しになる本はどうしても出てくる
そういう時、どこからか現れた善意の市民がちょうどリクエストかかった本を寄贈してくれることがある
それを確かめる方法は図書館には無いのて、作者の利益に貢献しているかは不明だ
また、リクエストされたからといって必ず本を購入する訳では無い
相互貸借というサービスが存在し、その図書館に所蔵が無い本にリクエストがかかった時に所蔵のある別の図書館から取り寄せて貸出することもできる
リクエストがかかった本は原則自分の図書館で購入することが勧められている
それはそれとしてどこも予算は無いので出版から時間の経っている本は相互貸借で補い合うケースは多い
よって、図書館にリクエストをかけたからと言って、必ずしも作者への貢献に繋がるとは言えない
最後に
色々書いたが予算だのスペースだの利用率だのそういう小難しい事は司書が考える仕事なのであまり深く考えず読みたい本があれば気軽にリクエストしてみて欲しい
図書館はその街に住む市民の学習や読書環境を整えるのが第一の仕事だと考えているので要望があればやれる限りは応えたい
もちろん本を書いた作家や出版社があってこその図書館なのでそちらへの感謝や還元も適切に行っていく
ただ、やっぱり市民の為にあるのが図書館なので特定の個人が推し作家の応援する為に手当たり次第リクエストかけてまわるのはなんか違うのではと思う
夏休みも終わりに近づいてきたし、感想文で苦戦している本人、ご家族に贈ります。
本全体の説明を書く。
その本を選んだ理由を書く。
印象的なシーンを3つ、同じテーマか、承・転・結で結ばれている内容で抜き出す。
それぞれのシーンごとに、「どう思ったか」、「自分だったらどうするか」を書く。
本全体を読んでみてどう感じたのか、今後自分はどのようにしていこうと考えているのかを書く。できれば具体的な行動で。
高学年であれば、思春期的な内容(悩み、葛藤、死生観)をほんの少しどこかに織り交ぜる。
完成!
小学生向けと書いたけど、高校生でもこういう感想文を書く人がほとんど。万能レシピです。
それでも苦労して書けないよ!という人に、裏技を2つ紹介。
・裏技1
本から感じたことから飛躍して、自分の書きたいテーマについて書く。
例えば、戦争を扱った本だったら今のウクライナのこととか書いてしまう。
本文からの引用は最低限、なんならなくてもいい。最悪読まなくてもいい。
ただし、最後の結末については、本から影響を受けた内容で締めくくる。
本の内容に関係なく、自分の言いたいことに誘導できるところが手抜きポイント。
・裏技2
本の内容について、つっこみをいれつつ現在のテクノロジーに置き換えて自分ならどうするかを書く。
例えば歴史の本だとして、過去には正しいとされていたものが今も正しいとは限らない。
そういう部分にツッコミを入れて、今のテクノロジーならこうするといった内容を自分視点で書く。
下手すると悪ふざけになるので、最後には真面目なテーマに戻ってくる。
本文に対する深い解釈は不要で、相手の関心を現在の方法論に対してミスディレクションできるのが手抜きポイント。
感想文で絶対にやってはいけないことは、その本の書評を書いてしまうこと。
書評というものは有識者がこぞって行っているもので、それをしようとすると正誤判定を受けてしまうことになる。
そこから逃れるためには、正誤判定の外に話題を持っていくことが必要。
自らの考え方や行動については、その瞬間において正解かどうかなんてものはない。
そのため、感想文の一番の攻略は、「何事も自らの視点に置き換えて考える」ということに他ならないと言える。
以上。
皆さんがんばってください。
弱者男性が救われる日は…多分来ない
https://note.com/shota_hatakeyama/n/n0ce13f6c297b
そのブコメ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/shota_hatakeyama/n/n0ce13f6c297b
まずもって、当該記事は【アメリカの】落ちこぼれ層を取り扱っている
多分、「Of Boys and Men:書評」とかだったらホッテントリ入りしてない
自分から、ホッテントリ入りするのにキャッチーな「弱者男性」というラベルをあえて使っておきながら
いわゆる弱者男性と言われると定義が曖昧な感じになりますが、本を読むと低学歴・低収入・未婚という層が弱者男性になるのかなと思います。
その上で
機械(ICT)や途上国の労働力を活用できる高スキル層と、ウーバーの配達員のような低スキル層への労働需要は高まるものの、一般的なホワイトカラーやブルーカラーへの労働需要は弱まり賃金も低下していく、というものです。
(gendai)
男女間の賃金格差は、子供が生まれてから小学校に入る迄ぐらいの間の出産・育児格差に由来している感じ。
(wezzy)
あと、黒人×男性のintersectionalityが特にマズい。
(gendai)
あ、いい解決策を思いついた!沢山ベンチプレスをやって、食事に気を付けて、朝倉未来さんの「強者の流儀」でも読めば、弱者男性も強者男性に変身するんじゃないかな。以前書いたベンチプレスの記事(ドラミングというイノベーション)と、食事の記事(元気に国際教育協力を頑張るためのラクに痩せられる食事術)のリンク置いときますね。
…違う、そうじゃない…。。。
で〆てるから、これもう確信犯的に、捕捉されやすいキャッチーなタイトルで日本と全然関係ない書評書いて
リベラル勢が
みたいに言うの面白いよね
「女性の苦境を火に油を注ぐ形で政治的主張のために搾取している」とは言わんのにさ
炎上上等の活動だって、議論が深まっ太郎ってばかりに正当な闘争とするのに
男の場合は「そう言ってしまう」のはなんでかを自分の胸に問うた方が良いよね
どうしてそうラベリングしたいのか
こんなん(あなたの活動は苦境の搾取)を、フェミニズム活動や障碍者の活動、LGBTの活動辺りにぶつけたら差別だとトンデモ炎上しそうだけど
男相手だと許されるのよ
文末の問いに関しては、くだんの「論争」もネタにした続編小説を読めばおそらく正解がわかると思うけれど読んでいない
「いったん世に出た小説だからと言って読み手の自由な/間違った解釈は許されない」と桜庭一樹が主張したのはなぜなのか?
最大の理由は「田舎の人は朝日新聞に掲載されたその書評により虐待が事実だと信じ込んでしまう」「そう信じ込まれると他人への関心の強い故郷の共同体で(私と)「母」への風評被害で困ったことになる」である。
ちょっとだけ話題になった『少女を埋める』という桜庭一樹の”自伝的小説”があった。
自分をモデルにした、東京で暮らしている直木賞受賞作家(私)が主人公で、父が危篤になったと母親から連絡を受け、帰省し、生活し、また東京に帰ってくる話だ。単純化すれば”田舎の社会と母をスケッチしたお話”ということになる。
母が父を介護中に虐待していた(はず)と述べた書評に対し、そんなことは書いていないし事実でもないと桜庭一樹が抗議したことから、小説と読み手の解釈のあり方をめぐって論争が起きたため話題になったのだ。もう覚えている人も多くないだろう。
短期間とは言え用事をすますために付き合わざるを得ない故郷の社会を構成するのは「田舎者」という言葉にふさわしい人たちで、母を含めた老人たちは自分勝手だったり無神経だったり、「私」の価値観からは低い評価が与えられているように描かれている。
とはいえ、帰省するくらいだから彼女らとの関係を切断するほど全人的に否定してもいないし憎んでもいない。そのあたりの多面的な描写は興味深いので読んでみてほしい。
「現在のー故郷を離れたー東京での」自分の人間関係の描写がところどころ出てきてこれが好対照に「私」の価値観からは高い評価が与えられているように描かれている。
友人からの洒落たプレゼント、センスのいい会話が楽しめるかかりつけの美容師、「私」の苦しみによりそって適切な助けをくれる友人。
今の「私」生活はなんてすばらしいのだろう!今、「私」はなんて人間関係に恵まれているのだろう!という言外の叫びと(それに引き換え・・・)という独白が聞こえてきそうだ。
だが、美容師をはじめとする知人たちが「私」をちやほやしてくれているのは金回りの良い有名人だからではないのか。
それに気づくとこの小説をどう読めばいいのかわからなくなってくる。
桜庭一樹は、「彼女たちが功利主義に基づいて私に接しているのかもしれない」と想像したことはないのだろうか?
気づいていてなお、「私の友人面をしている人たちを周りに集めることができたのは自分の才覚だ」と思っているのだろうか?
あるいは…
村上春樹レベルなら新刊が常に入るし、流行小説で読みたいものがあればリクエストしてすぐに買ってもらえる。
読み聞かせ教室では、絵本はいつだって人気だし、自分で文字が読めるようになれば江戸川乱歩やルパンのシリーズものが面白い。ハリーポッターは本好きでなくてもみんな通る。
あとは児童向け文庫も侮れない。レミゼラブルとか海底二万里とか、好きな小説をたどれば、そのまま古典文学にアクセスできるだろう。
謎解きカラマーゾフみたいな本は小説じゃないけど、新聞の書評欄に載ってれば図書室は買う。新聞の書評欄は大事だ。
田舎だとちょっと気の利いた住民が、個人文庫という名目で蔵書を開放してたりもする。昭和のベストセラーから少し外れた作品なんかはここで読める。
図書室レベルじゃなくてそこそこの規模の市になれば、図書館本館と分館で相互貸出もしてるので便利だし、あとどうしても近場で在庫のない本は、国会図書館の郵送貸出で取り寄せできる。
まあ、車の免許を持たない子供でできる範囲だとこんなものだろう。
とはいえ一生のうちに触れられる情報には限りがあるのだから、身近なところで花崗岩を拾ってグスコーブドリを思い、ツツジの雄蕊雌蕊を観察するとき富太郎になりきればいい。
書評や梗概を読むだけでも、個人の快楽や幸福を追求することを最上の価値とされる現代に対して、強烈な違和感を抱いてしまうが、人はどう生きるべきかという問いに対する答えのヒントがそこにありそうな気がする。
しかし、読むのは気が重い。
今の世の中もこの小説のような世の中にならなければならないのだろうか?
『アンチマン』というミソジニストを描いた漫画が話題だけども、あの漫画の妙は、内心のミソジニーと客観的評価が乖離している部分にある。
優良企業の正社員で個室に入院できる勝ち組溝口は、内心のミソジニーによって女性の繊細さを否定したことが結果として性役割分担の押し付けを否定するフェミニズムに適った行動となり、そればかりか寝呆けてレイプしようとしたことが結果として命懸けで暴漢から女性を守る行動となった。
彼は同僚田山に感謝されたが田山は似非フェミおちんぽ騎士団の同僚と不倫し、暴漢から護られた女はせいぜいお見舞いで心からの感謝を述べたきり、彼は孤独な入院生活を送る。
彼は、行動に見合う程度の賞賛しか得られず、全人格的な肯定は得られなかった。
ところで、最近、『ケアの倫理と共感』という感情主義的徳倫理学からケアの倫理を説いた本を批判する書評がホットエントリー入りしていた。批判内容は要するに、「「思いやり」のあるなしや共感の有無に基づいて行為の正/不正を論じること」は「誤り」である、という点に尽きる。
ちらっとぐぐってみたが
https://book.asahi.com/jinbun/article/14833752
翻訳書はたいてい原書のタイトルのまま出版されるが、たまにまったく違うものに変更されることがある。「翻訳家が題名をこんなふうに訳した理由が理解できない」という書評を見かけることもあるけれど、タイトルは100%出版社によって決められるのです。
正直言って、私も内心「どうしてこんなタイトルにしたんだろう」とぼやきたくなるときがある。でも、タイトルの決定に翻訳家の意見が反映されることはほとんどない。翻訳家が「イマイチだと思います」なんて言っても、1グラムの重みもない。
出版社ではマーケティング部の意見が最も強いという。ボランティアではなく、売るために本を作っているのだから当然だ。タイトルを見て腰を抜かすこともあるけれど、著者と日本の出版社の許諾を受けて変更しているのだから、翻訳家が気に入っていなくても何の問題もない。
だそうで。
「#最強の鬱マンガ」ランキングが凶悪な作品揃い…「ブラッドハーレーの馬車」「宝石の国」「おやすみプンプン」などこれはなかなかのもんだ
まあtwitterで募集してランキング~なんてしたらこんなもんだよな。
関わってる人間が全員無能なんだからそりゃこれぐらいつまんない出来にもなる。
俺達が読みたいのは
有象無象やブロガーからのゴミみてーな情報のキュレーションじゃねーんだってのが改めて分かった。
ほんのちょっとだけツッコむけど
鬱漫画とは言えない。
それすらわかんないような感性なら投票とか書評とかやらんでよろしい。
というか作者も「鬱漫画」なんてつもりで描いてないだろう。
突き詰めて考えてることがないのに迫力で押し通す、みたいな怠け癖が増した。
ていうか、お前ら本当にこの漫画で憂鬱な気持ちになったことあるの?
描けもしないキチガイを描こうとしてやっぱり描けないからアップ顔芸で誤魔化してる漫画、
以上の評価が出来ない。
ガールフレンドになりかけた子は可愛かったし
素直にエロあり青春漫画描くのがこの人の本道であり素直な欲望であるのは見え見え。
フェイクじゃん。
表現したいものが無いのに(無いので)キチガイのふりしてるだけの痛々しい漫画。
実感の籠ったものがほぼ絶無。
アビスの方は、
その気持ちのあたりは実感籠ってた。
あれはきっと作者の実体験だと思う。
でもその先の過剰な展開はもう作者の中になんにもないよね。
なんにもないから「異常な行動」とか見開きでブツブツ言ってるコマとか
そういう表層的なオドカシを多用するわけ。
お前ら本当にこんなもん読んで憂鬱になれるのか?なれるわけねーよ。
どんどん強い薬打つみたいにエクストリーム展開やってるだけの空回り漫画じゃねーか。
どっちの作者も才能はあったし当人の本道もあった。
なのにこういう横着なダークサイドに行ったのが運の尽きだ。
リアリティも実感もなんもないのは見過ごすとして
それしか売りが無いのにぶっ殺し方が面白くないのはいかんでしょ。
酷い漫画を描くと決めてこれっぽっちっていうのは単純に能力が足りない。
この作者はタコピーやアビスの作者と違って純粋に体力が少ないって感じ。
で、お前等ほんとにこんなクオリティの漫画で憂鬱になれたのか?
こういうものの見方をする人間がちゃんと漫画読んでちゃんと何か感じ取ってることなんてあるのかな。
ダーク池ちゃんみたいにカテゴリ付けして飛ばし飛ばしで読んで満足してる手合いと一緒じゃね?
ちゃんと時間かけて読んでるとしても、受け取ってるものが池ちゃんレベルなんじゃね?
そういうレベルの能力の人達がことさらに漫画を語る必要ってあるの?
https://pbs.twimg.com/media/FuJlC_KaQAAKMH9.jpg:medium
もう惹句のことごとくがキツいわ…。
こういうこというと「漫画読み様」とか言われるんだけどさ、
漫画読み様が過剰に高い水準にいるんじゃなくて
どう見ても漫画をまともに読めてないって連中がいるだけなんだよな。
俺、本当に「ああ!あああああああ!」ってなった漫画いくつかあるよ。
https://twitter.com/kanose/status/126516042754301952
ハックルさんが日垣案件化していると@soylent_green さんがブクマでコメントしていて、最初それは言い過ぎではと思ったけど、最新記事見たら、言い過ぎじゃない気がしてきたよ…
https://twitter.com/raf00/status/126540252662870016
はあちゅうといいべにぢょといいハックルといい、今日は発狂した人たちが大量に湧いている一日だなぁ
ハックルさんの様子見てきた。あいかわらずのアノ押しの強さ、すさまじいなあ。冷静に操り糸引ける参謀なりソロバン弾ける番頭なりとタッグを組めば(組めれば)、広告代理業でも押売営業でも新興宗教開祖でもナンでもやれるだろうなあ。「もしドラ」もそうだし。すごいなあ。そのタッグ相手を、とある会社の経営者K氏へ一方的に因縁つけて白羽の矢刺しまくってる節操の無さも含めて、押しの強さハンパなくてすごい。「もしドラ」チームから放たれて野に返されたとか組む相手いなくなったとかなにかか。いやまあ、まじめに、ああいう、議論とか感性とか倫理とかぜんぶすっ飛ばして、コチラの主張をアチラへ丸飲みさせようとする力押しと心意気、人格としてじゃなくてヤクザな手法として学ぶところあると思いました。
広告代理業でも押売営業でも新興宗教開祖でもナンでもやれる、って書いたけど、そういう押しの強さで商売するのって手品のタネを明かさないことが大事で、インターネット普及しちゃってからは(書評が流布したりして)手品のタネすぐバラされるから、一発屋になりがちだしすぐ野に返されるなのでハックルさんもう文筆ではダマクラかせないんだから、文筆にこだわってるうちは組んでくれる相手あらわれないし、方針転換して筆は折って違う戦場でまた押しまくれば稼げるかもしれないな。あの押しの強さはひとつの才能だもの。ただ本人がベストセラー作家だけどとかやってるうちはアレだわ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%9E%A3%E9%9A%86
マーケティング手法には「電子書籍を日本一売った」「世界初&日本初の有料メルマガ」「5年で所得3倍」「数ヶ月でTOEIC900点超え」など煽るような広告宣伝が多かった。
2006年11月に刊行された「すぐに稼げる文章術」(幻冬舎新書)で盗作騒動が起きた。新潟大学教授(のちに慶応義塾大学教授)の山内志朗による「ぎりぎり合格への論文マニュアル」(平凡社新書、2001年刊)の一節と酷似した内容が掲載されていることが刊行の翌年にインターネット上で指摘され、平凡社が幻冬舎に抗議する事態に発展。問題とされた部分は増刷の際に書き改められた。
盗作騒動の影響か、2007年いっぱいで当時抱えていた連載[5](「新書一点賭け」(文藝春秋)、「MEDIA WATCH 売文生活日記 どっからでもかかって来い!」(WiLL)、「通といえば販!」(週刊現代)、「敢闘言」(エコノミスト)、「日垣隆のどこへ行くのかニッポン!」(日刊ゲンダイ))がすべて終了となった。以降、いわゆるマスメディアへはほとんど登場せず、ツイッターやフェイスブックなどのSNSによる情報発信、有料メルマガ、電子書籍による自費出版を盛んに行っている。