はてなキーワード: 募金とは
私はしない
正直、黙祷は助かる
電車ならスマホを見て、終わるタイミングでさも今スマホを見始めましたみたいな顔をすればいい
これがもし歌祷だったら「あなた声出てなくない!?」と詰められたり踊祷だったら息切らして踊らなきゃいけないのかもしれないけど黙祷は静かにしていれば咎められることはない
私が目を閉じずに画面を見てることに気づくのは同じように黙祷してない人だから問題にならない
誤解しないでほしい
私は黙祷を嫌だと思ってるわけじゃない
自分が14時46分に目を瞑って祈ったり被災地被災者の方に想いを馳せる意味はないなと思ってるだけ
意義もわかる
風化させないこと
忘れてないよとメッセージを発すること
某メンタリストが、まるで「力のある人」しか善を為せないかのようなことを言っていました。
例えば結婚した夫婦は家事を手伝い合うことで負担を分担します。これは一つの善です。
あるいは落とし物をした人がいれば、警察などに届けることができます。これも善です。
確かに、金をたくさん持った人がプロの慈善団体にたくさん寄付すればそれは立派な善をなせるかもしれません。
しかしそのこと自体を、庶民が行う身近な善を無価値にする理由にはなりません。
某メンタリストも、箴言の言うところの「舌の罪」を犯していると言えますし、ホームレスを侮辱するようなことを言っていたのが印象的です。
私はいっときのプライドのために吐く愚者の言葉というのは、本当に邪悪だと思っています。
なぜ「力のある人しか善を成し得ない」などと言うのでしょうか。
それは自身を「力ある者」と見做し、「弱者男性」などを見下すといった傲慢が存在しているかもしれません。
確かに、募金先を決めるといったシナリオでは、誰に募金すべきかを決める審美眼が必要になるでしょう。
そのことを指して「力ある人を見極めよ」と言っているのであれば、それは立派なことかもしれません。
しかし「力ある人のみが善を成し得る」というのは全く間違っています。
私も舌の罪を犯してしまいがちですが、「ソーシャルメディアでの発言を慎む」というのも、一つの善ではないでしょうか。
その場のプライドで他者を見下し、いい気分になるのは賢さではありません。傲慢です。
足の指に付いたピーナッツバターをなめる募金イベントに批判殺到 /米オクラホマ州
▲イラスト=UTOIMAGE
▲イラスト=UTOIMAGE
米オクラホマ州のある高校で、募金イベントの一環として足の指に付いたピーナッツバターをなめる、いわゆる「足の指なめチャレンジ」が行われたことから、教育当局が調査に乗り出した。このイベントの動画がインターネット上で広まり、「児童虐待だ」と批判の声が殺到したためだ。「ザ・オクラホマン」などの外信が4日(現地時間)に報道した。
報道によると、米オクラホマ州のディア・クリーク(Deer Creek)高校で先月、障害のある人たちを雇用する地元のコーヒーショップのため、募金イベントの一環として生徒たちがお互いの足の指をなめる「足の指なめチャレンジ」が行われたとのことだ。
公開された動画を見ると、学校の講堂で一部の参加者たちがはだしで椅子に座り、生徒たちが床に伏せて相手の足の指に付いたピーナッツバターをなめている。ただし、このイベントに教師や教職員は参加していないとのことだ。学校側はこうした募金イベントにより15万2830ドル(約2300万円)を集めたと発表した。
クソワロタ
縁もゆかりもないのにパレスチナで起きている虐殺に心を痛めるくらいには生活にゆとりを持っている。だが募金をすることもなければデモに足を運ぶこともない。
作家をしている友人が停戦を求めるデモに足を運ぶのをインスタグラムに淡々とアップしているのを見て、罪の意識というほどでもないが、何もしていない自分がどこか責められているように感じる。
そして同時に「そりゃ戦争はみんな嫌だし止めたいけど、デモをやったくらいで戦争が止まったら苦労しないよ」とも思う。
そもそもそこまで貿易のないイスラエルに日本ができる有効な経済制裁ってあるの?とか主張を疑ってみたり
日本は米国と利害関係があり、米国はかのユダヤ人国家と利害関係があって、これを無視して人間として直感的に正しい主張を貫いてしまうと後で困るのは安全保障的にも経済的にも独立していない日本なので、まずは自衛軍擁立賛成デモからやらないんですか?とかニヒルに構えてみたり
デモに参加している人のアカウントの多くが反原発・#metoo・BLM・現行憲法・政権批判・性被害撲滅などの運動にも参加していて、なんか「被害を受ける弱い私たち vs クソ体制」って二項対立スタンスが強すぎてちょっとね、とかよく知りもしない参加者の属性を嫌がってみたり
仮にそうだとしても、私が世の中の醜悪な出来事に対してどんな形であれ意思表明をしない理由にはならない。
わかっているよ。それでも、やっぱりデモが苦手なんだ。
結局左翼って被災者盾にして政権批判できればそれでいいから嫌われるんだよな
そして被災者を「いい被災者」と「悪い被災者」に分けるのも左翼
旅行支援するとは何事か!と観光業で打撃受けてる被災者の気持ちは無視
これが左翼かとここ数日でよくわかったわ
能登の人間の中にも2月には無事なところに移転や間借りをしてして仕事再開する店も多く
観光客向けにどんどん商品卸したい製造業は無事なところには一刻も早く観光に来てくれと思ってるよ
かわいそうじゃない加賀には金落としたくない!かわいそうな能登にだけ金落としたい!じゃねえよ
元々能登の人間も加賀で働いてんの!マジでこのまま消費落ち込んで俺のボーナスでなかったらどうすんのすでにその瀬戸際だよ俺の実家能登だし金いるのにさ
コタツに入っていつ手元に来るかわからない募金をポチった後は被災者は被災者らしく施しの金で復興するまで黙ってろと言う人間に比べりゃ
名興文庫(まだ非法人だが出版社として法人化を目指している)さんが、下記の他社IP作品を題材にしたチャリティー批判本を出されたようです。
著:理不尽な孫の手
コミカライズ:フジカワユカ、石見翔子、野際かえで、米田和佐、日崖タケ
販売URL:https://www.naocoshibunko.com/00017-2/
価格は\15,000と少しお高めですが、原作者や関係者には無料で提供するとのこと。下記諸注意です。【名興文庫(まだ非法人だが出版社として法人化を目指している)さんの特設サイトからの転用】
・本批評で得た一定期間の収益は、日本赤十字社の令和6年能登半島地震災害義援金に手数料を差し引いた額の全額を寄付します。
・本批評の値段に対しての苦情は受け付けておりません。お問い合わせより連絡があったとしても返信はないものとご理解ください。
・本批評に関する個人的感情の範疇に留まる意見表明に関し、お問い合わせよりご連絡をいただいても個別に対応は致しかねます。お問い合わせの返信はないものとご理解ください。
この機会に、日本赤十字社/義援金等に直接募金しては如何でしょうか。
何度もあちこちで書いてるけど大箱埋めるアイドルのライブ行って思ったことと似てる
増田と似た(似てはないかも)思考で、人気アイドル推すより、同程度に好きな人気微妙アイドル推すほうを選んでた
選択権があるという驕りやら、コスパ(席の近さ、覚えてもらいやすさ)が良い、単純に小さな現場の雰囲気のほうが好き
など理由は他にもさまざま
で、たまに大人気アイドルの数万人埋めたり埋まらなかったりするライブにも誘われたり暇だったりしていったのだけど、
凄い区切りのライブの時に、いろんな理由つけていかないオタクの割合が増えればこの景色が見れなかったんだと思って
それ以来、区切りにライブには行くようにしてる。単純に久しぶりだと楽しいのと、昔のオタクに偶然会えたりするのと、後々マウント取るためと
という話はあんまり繋がってなく、それでも寄付とかもそうで、と続けるんだけど、
Aがβだけ支援するのはαに悪い(とか何とか理由つけて)と支援せず
2対2ではなくABCD……Z と αβγ……ω で考えると、どこかで取りこぼしや重複が起き、救われないものも出てくるだろうが
それでもなにもしないよりはいい
今目につくことに支援するという流れが出来ていないと、自分が目についても支援されないという風潮になる
なので、自然災害のピンポイントでもいいし、難病で海外で手術の子供でも犬猫でもなんでもよいので個々が目について救いたいところに寄付したらよいなどと
そのために節約とかまでする必要はないが、節約したとしてその帳尻は内部留保溜めてる企業とかぜいたく品扱ってるまあ経営に問題の無い企業やお店に行くだけだろう
電気代とか節約したり、酒や馬鹿カロリー飯を控えると節約行為自体がプラスにもなるし
もちろん、寄付とか嫌いなおっさんが、地元の飲み屋で飲み歩き、スナックやらラウンジのねーちゃんに金払うのもそれはそれでよい
で、どうしても救えないところが出てくるので、そこは(ある程度)お国でなんとかしましょうと
残酷なことだけど、国の制度では救いきれず(そこを拾いだすと莫大なコストがかかってしまう)、さらに募金も集まらない、みたいなケースも残って当然
寄付募って生きながらえるなんてあさましいと考える人間、そういう親元に生まれてある意味であがいてもらえずに見捨てられた形になる難病の子供も居ても仕方ない
元増田の例は金銭が絡むからどちらも選ぶという選択ができない状況が大いにある。
寄付をすべきと常日頃から強く思うわけではないが、助けてあげたいと思わせる材料があるならそれに従う人がいるのは誤りではないとも思う。
募金とは言うけれど、実際金を払うのだから買い物と通ずるものがあるからだ。
ポメを買って黒い犬が売れ残ったとしても、それを気にしていたら仕方ないと思う。
まあ実際は募金だから売れ残りとかじゃあないんだけど、全てを選べるわけではないのに選ばなかったものに対しての差を意識するのは傲慢としか……。
それに募金であれば金額の不平等もあるわけで、Aさんは100万やったけどBさんが100円しかやらなかったらBさんの力なんてほぼなかったとも言えると思うし、誰もが公平に助ける力をもっていないからこそ「助けるフリをする」ことくらいは良いんじゃないと思う。
独善的な人がいても許してほしいというか。