はてなキーワード: 一言とは
彼氏いない歴、年齢
ただ、それまで何の気遣いもなく友達づきあいしていて、何ならかっこいいとさえ思っていても、好意を寄せられたと知ってしまうと、だんだんと生理的に無理になっていく
その人の何かに冷めるんじゃない
私を好きになってしまうようなその人の器に冷める、のでもない
ただ、ただ、その人が私を特別なものとして考える、それだけでどうしてもどうしても無理なのだ
そしてやがてパニックになって、その人の中から私の痕跡が全て消えて欲しいと願いながら、必死で、逃げるように関係を切る
説明もこれ以上はできないし分析しても確かめようがないし、原因がわからないから直しようもない
一生まともな恋愛はできないんだ、という事実だけが、ずっと私の中に絶望となって沈んでいる
この不可解で身勝手で絶望的な現象を一言で呼び表す言葉が昔はあったんだよ
蛙化現象って
いつそれが世間様に漏れたのか知らないけど、いつの間にかそれは普通の恋愛ができる奴が、ただただ相手の些細な欠点に冷めるというクソどうでもいい概念を表す言葉として奪われてしまった
そんなん「冷めた」でいいだろ
「蛙化現象」って言葉、概念を誰かがすでに作っていたということは、自分の異様な心の動きを「ある」ものとして認められている、そしてそれを誰かに説明できる(理解してもらえるかは別として)ということで
それは私にとって一縷の救いだったのに
この先私が「蛙化現象」と言っても、「あー些細なことですぐ冷める奴だろw」ぐらいの理解しか得られないし、それはまったく理解されないよりなお質が悪い
もうこれわかんねえな
「これもうわかんねぇな」とは、「真夏の夜の淫夢」において野獣先輩が発した一言。
野獣先輩と遠野が野獣邸の屋上で日焼けしたあと、野獣先輩は自分がどれぐらい日焼けしたかを確認しようとした。
しかし水着で日に当たっていなかった部分とそうでない部分の色の違いは分からなかった。
野獣先輩「これもうわかんねぇな」
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この動画の5:01辺りで発している。
任天堂法務部サイッキョ!みたいな風潮あるけど、任天堂が自分から大きな著作権侵害裁判を仕掛けて勝ったのって海賊版サイトを訴えた事件くらいじゃないか。
懐かしどころでいうとFEの開発ディレクターだった加賀氏が独立して、ほぼFEのクローンゲームであるティアリングサーガを開発、販売した事件では結局「勝手にFEの続編感出した広告は不正競争防止法違反だろ」って主張は認められたけど、著作権侵害は認められなかった。上告も棄却されてる。
ちょっと前に大盛り上がりだったマリオカートっぽいカートとマリオのコスプレ衣装を貸し出していたことが問題になった株式会社マリカーに対して起こした不正競争防止法違反と著作権侵害裁判だって、著作権侵害は認められず不正競争防止法違反のみが認められている。
ポケモン同人事件は警察に通報して警察が逮捕、略式起訴しただけで任天堂法務部は噛んでない。
基本的に「自社の商品を勝手に宣伝に使って自社に不利益をもたらすような行為」に対しての裁判はほぼ勝ってるけど、見た目とか内容がすげー似てるから著作権侵害だろ!に関してはほぼ負けてる。
パルワールドは明らかに後者だから任天堂(とゲームフリークとクリーチャーズ)が著作権侵害であーだこーだ言い出す可能性はすげー低いと思われる。外野が勝手にネクストポケモンだなんだ言ってるだけで、開発者側はそんなこと一言も言ってないからね。
どこが古いか指摘するとね
(1)金がない時、御経を唱えてなんとかしてくださいと願う。しかし、そんな時間あれば働け、そして寄付をやめろと思うのがふつうの考え方だろう。
→祈るだけ叶う、は50年前の学会の感覚。20年の池田先生の言葉に「必死の努力こそ信心だ」とあるぞ。むしろ「努力することが信心なら、信心いらんじゃん」的にもとれる。大石寺と決別してから神秘的な信仰は徐々に否定してきた。
(2)祈れば叶うと教えられたが、自分が動かないことには何一つ叶った試しがないし、祈らなくても動けば叶ったりした。
→親は一言でそう言いがちなのは仕方ない。しかし、高校生にもなって、ちゃんと教義も読まず、祈りと努力の関係性もわからん人が、言う話ではないと思います
三年くらい付き合ってた恋人に振られて半年くらいになる。ほとんど初めての恋愛だった。元恋人はいわゆるメンヘラで、僕はメサコンだった。典型的なズブズブの共依存。振られた理由は、端的にまとめれば冷めたからとのことだった。理由がなんであれ、振れるくらいなんだから、多分彼女はある程度共依存を脱して、自立することができたんだろう。一方の僕は、やっぱりまだ自立できていないんだなと、最近気づいた。
タイトルの通り、今の自分の中には「恋人がいる状態」を欲している感情がある。一言で言えば寂しいということに尽きるのだろう。ただ僕には、この感情がとても気持ち悪い。というのもそれは、恋人を作ることを手段化してしまっているからだ。そもそも俺は「恋人が欲しい」ということも、その対象となりうる人を手段化していて気持ち悪いなと思っている。もともとは、人を好きになるのがあくまで最初にあって、その人と付き合いたいと思って行動することから始まるものだという信条があった。「恋人がいる状態」が欲しいというのは、僕にとっては二重の問題を孕んでいる。
元恋人への気持ちから吹っ切れるのには3ヶ月くらいかかった。吹っ切れることができた理由は主に二つある。一つはお金のトラブルが発覚したこと。交際していた頃に共有していたpaidyのアカウントの引き落とし先が僕の銀行口座になっていたのだけど、そのアカウントからの引き落としが別れた途端に増えていたことにしばらくしてから気づいた。返してくれと連絡したけど、いまだにほとんど返ってきていない。流石に愛想を尽かした。もう一つは、一度コンカフェに行ったこと。秋葉原での面接帰りになんとなく行ってみたのだけれど、そこで話した嬢にガチ恋しそうになった。もともと道で客引きをしていたところに声をかけたので見た目はすごく好きだし、多趣味な上に知識が豊富だったりして、かなり心が揺さぶられた。お金もないし、リアコ勢が報われる望みもないので、友人の制止もあってそれ以来そのコンカフェには行っていない。しかしこの経験から、他の人のことも好きになれるかもしれないな、と思えるようにはなった。
それからマッチングアプリを入れてみたり、気になった知り合いの女性に少しアプローチしてみたりすることがあった。ここで補足しておきたいのが、振られる前後の頃から僕が過食気味になって、加速度的に激太りしているということだ。いまのBMIは30を超えている。身長と体格があるので多少マシらしいが、見た目はある程度醜い。とにかく現状、恋愛市場において大きなディスアドを抱えている。マッチングアプリは結局課金をしてないので何かが進展することは全くなかった。痩せてた頃の写真を使って詐欺っていたので会うのにビビっていたのもある。知り合いの女性へのアプローチはどれもいまいち上手くいかなかった。相手にとって、普通に自分が魅力的に映らなかったという可能性は高い。加えて、そもそも僕自身が、電撃が走るような、確定的に明らかな好意を抱いていなかったというのもある。もしそうなら、僕の性格上、かなりの熱量をもってもっと努力をすると思う。ダイエットとかも含めて。
とにかく現状は、漫然と、恋愛をしようとしている。しかし、いままでの自分の性格からすると、これは不思議なことだ。というのも、特定の人のことを好きになっているわけではないからだ。それならばなぜ、僕はそんなに恋愛がしたいと思っているのだろうか?そう考えて気づいたのが、「恋人がいる状態」を欲しているということだった。初めての恋人との三年間を経て、その状態が当たり前になってしまった。当時と今の落差から、寂しいと思ってしまうのかもしれない。その恋人ができるまではほとんど恋愛と無縁の生活を送っていたし、友達も数えるほどしかいなかった。いちど恋人ができたことで、人と関わっている状態に慣れてしまった。ほとんど同じ時期に大学に進学して、大学デビューにある程度成功したことも無関係ではない気がする。たくさんのコミュニティに所属した。友人が増えて、社交的になった。恋人と別れてから、人と関わっていないと不安に感じるようになった。慣れ親しんでいたはずの孤独が恐ろしくなった。最近は夜中に寂しくなって、友人に連絡して電話することもある。きっと、恋人ができたときから、社交的になりだした頃から、この孤独に対する不安は潜在していたのだろう。実際に孤独がやってきたいまになって、不安が目の前に立ち現れるようになった。好きだった音楽や映画にもあまり集中できなくなった。ライブハウスや映画館に行かない限り、あるいはそうであっても、音楽や映画に触れるのは、本質的には孤独な営みだ。作品に対して、それと自分との間になにものも挟まずに対峙するとき、初めてそこに没入できる。
「恋人がいる状態」を欲しているのは、僕にとって不健全だと思う。孤独と改めて向き合って、自立するべきなんだろう。そうでなければ、健全な恋愛もありえない。このまま恋人ができたとしても、また共依存的な関係になることが避けられる気がしない。結局のところ、自分のやりたいことやできることを増やして、少しずつやっていくしかないんだろうなと思う。
「自立することとは、依存先を増やすことである」とはよく聞く言葉だ。しかし、いくら依存先を増やして分散したところで、孤独と向き合うことがなければ、不安を根本的に解消することはできないのではないだろうか。僕はたくさんの依存先を得たことで、自立から離れてしまったような気がするのだ。
患者からクレーム「診察中、医師からいやらしい目で見られた」と。若手医師が糾弾されかけたが厳正なるジャッジの結果お咎めなしになった話
外来患者から匿名の投書クレーム。「診察中、医師からいやらしい目で見られた」と。若手医師が糾弾されかけたが、カンファレンスで“いやらしい目”について議論や再現が繰り広げられ、部長がぶっちぎりで看護師満票をもぎ取ったので若手にお咎めはなかった。
完全にジェンダーの虜だった
破壊を批判してる側の主張が 「連絡は無かった。許可は出してない」 が大部分を占めてるので、
そもそも連絡取れなかったじゃん。
あの自販機に連絡ボタンが付いていて、そのボタンを押すと、たとえ電話もネットも普通になっていても
衛星回線から本社にホットラインが繋がる装置があって、そのボタンを押さなかったからだ。
みたいな状況なら、みんな擁護しなかったと思うよ。
俺も健常者から見たらその彼女とおんなじなのかもしれないけどそもそも謝罪という行為や言葉があまりにも気持ちが悪い。
ごめんの一言って言うけど言葉の意味はまったくの虚無で唱えることで失敗が軽減、場合によっては帳消しになるような呪文の存在がもう気持ち悪い。
今フリーレンで特定の人語を使って人間を騙す捕食者という概念が話題だけど俺は自分が生まれて言葉を覚えてから30年以上ずっと同じことを健常者に対して思ってた。
相手はこれまで生きてきてきっと数え切れない程のやらかしがあったと思う。「仕方ない、こういう障害」と開き直るのは先天的な特性のせいかもしれないし、後天的に身についた、自分を守る術かもしれない。
他にも書いている人がいるけど、ASDの特性もあると思うので、「障害は理解しているけど、自分は傷ついた。そういう時はまず、ごめんと一言謝って欲しい」とそのまんま伝えてみてほしい。相手がパニックモードじゃない時に。理解できても1回じゃ覚えられずに同じことを繰り返すかもしれないけど、何回も根気強く言ってたらちゃんと覚えられると思う。
自分も発達障害だけど、何か言われたとき、反射的に言い返したり取り繕ったり、理屈を並べ立てたりする癖がある。この前初めて「こういう時はまず謝ってほしい」と言葉で言われて、「そう…そうなの?!」と雷に撃たれたような衝撃があった。30年生きてきて、そういうものなんだと初めて気付いた。相手のことが大好きで、思いやっているつもりだったけど、そういうコミュニケーションを知らなかった。
あなたの嫌だなと思う気持ちや違和感を、「発達障害だから仕方ない」と我慢することが「理解のある彼くん」ではないと思うよ。(自分は「理解のある彼くん」て概念大嫌いだけど)
ADHD持ちの男だけど、他人からもらったものを失くすのって割と申し訳なく思うし、自分だったら謝るので、「ごめん」の一言が出てこない彼女さんはどうかと思う……けど。
1について。根本的な問題として、謝罪は自己肯定感を削る。俺はADHD持ちのくせに院を出てからうっかりお役所に就職してしまったせいで毎日のように上司から何がしかの怒られが発生してるんだけど、それに対して毎日のように「すみません」と言わなきゃならないっていうのは割と心理的にキツいものがある。今んとこは耐えてるけど、「っていうか専門知識のある人募集とか言っといてちっとも専門知識要らねえ書類仕事ばっかじゃねえか!」みたいな不満はあるし、正直一刻も早く転職したいし、「なんでこの程度のくだらないことで怒られなくちゃいけないんだ」という気持ちがムクムクと芽生えることもある。俺はまだ耐えてる。けど、耐えられなくなって「絶対に謝りたくないでござる!」ってなっちゃう人も一定数いると思う。ここでは仕事の例を出したけど、仕事に限らず、ADHDの人は日常生活でポンコツ動作ゆえに怒られが発生することが他人より多いので、学校とか家庭とかでの積み重ねによってそういう心理状態になっているのかもしれない。この場合は、彼女さんが日常的に「ごめんね」と言えるくらいになるまで自己肯定感を高めるしかないし、元増田はそれに根気強く付き合う or 別れるしかないと思う。どうすれば自己肯定感が高まるか? それは知らない……
(ネットでたまに叩かれる「傲慢な身体障害者」もこれでしょ。健常者がお礼も言わずに駆け上がってる階段を上がる度にいちいち「すみません,ありがとう」って言う生活を送ってたら、ある日プツッと来て「介助を受ける当然の権利があるんだからいちいちお礼は言わない。健常者だって階段使う度にお礼なんて言ってないだろ」っていう心理状態になっちゃう人がいるのは理解できる)
2について。本気で「これは病気のせいで私は悪くないもーん」と思ってる人間の可能性がある。その考えに一定の理はあるけど、個人的には別れた方がいいと思う。
(病気由来の挙動について、当人に対して過剰な責任を求めるのは規範論的に間違っているとは思う。たとえば伝染病を他人に移してしまった場合でも、炭疽菌テロのような故意犯でないなら、それは基本的にはその人の責任ではない。その人に責任を負わせようとするのは倫理的に間違ってる。……けど、そうだとしても普通は「申し訳ない」という気持ちが浮かんでくるもんじゃない? いやもちろん規範論としては申し訳ないと思ってなくてもいいんだけどさぁ……)
3について。元増田も承知のように、ASDを併発していると、独自の論理でものごとの善し悪しを判断していることがある。「あなたからもらったとしても、もらった時点でそれは私のものになるのであり、私がそれをどう処分するかは自由であって口を出される筋合いはない」とか(これはあくまで例で、実際に彼女さんがどういう論理を持ってるのかは知らない)。いや、自由主義とか法律とかの関係ではそうで、もらったプレゼントを即座に売り払ってそのカネでスマホゲーのガチャを回しても完全に合法なわけだけど、そういう法律の論理を対人関係に適用するのはどうなのよ? ……という判断が苦手なのがASDの特性であって、それはもう増田が健常者エミュレーション(https://healthy-person-emulator.org/)に付き合ってあげるか(以前こういう増田→anond:20230927002433があったけど、こんな感じで)、対ASD用の付き合いを身につけるか(たとえば、プレゼントを贈らない。失くしたことを悪いと思ってない本物のASDなら、プレゼントを一切贈らなくても気にしないんじゃないかな)、別れるかを選ぶほかないと思う。
彼女にしてみればどうせ無くすから高価なものはもらっても困る、ほしがってないものを押し付けて無くしたら謝れとはどういう了見だ、善意の押し付けだ、というような感覚なのかね?
これが職場でしょうもないお土産配ってお礼の一言もないなんて…みたいな話だったら配った側が非難されるだろうしこういうルールってケースバイケースだな
診断済みADHDのパートナーとの関係にどうしたもんかなと悩んでいる。
付き合ってしばらくして、ひょんな会話の流れでADHDであることを聞いた。
あ~あれは多動、衝動、不注意、過集中だったんだなと、今までの出来事を思い返して合点がいった。
むしろ、それらの行動が「増田に対する好意や信頼が足りないから」ではなかったことで安心できる部分も大きかった。
例えば増田がプレゼントしたアクセサリーをパートナーがなくしてしまったとする。
それが「アクセサリー(あるいは増田)に対する思い入れのなさによる」不注意なのではなく、
「どれだけ気を付けていてもなくすもんはなくす」特性なのだから仕方ないとは思うし、さして怒ることもない。
しかし現実としてプレゼントしたものをなくしたのは向こうなのだから、せめて「ごめん」の一言くらいは欲しい。
確かに仕方のないことではあるが、あるのだが、
「仕方ないじゃん」と向こうが言うのは筋が違うだろうと思ってしまう。
これについてADHDの特性というか、ASDが混じっているのでは? とも思うのだが
恋人はおろか友人にも言わないだろうというような、いわゆる配慮の足りない発言も気になるようになってきた。
今の言い方は傷ついたのでやめてほしい、思っていてもせめてもう少し柔らかい言い方を選んでほしいと頼むと
やはり「ごめん」の言葉はなく、代わりに「これが自分の性格なので気にしないで」と返された。
瞬間、コミュニケーションに当事者意識のない、とても相手任せな発言だなと思ってしまった。
注意をしていてもものをなくしてしまう、言葉を選んでほしいと言われても選べない、
だからこその発達障害だし、パートナーであればなおさらできる限りのフォローはしてあげたいと思う。
でもどうしても「仕方ない」も「気にしないで」も、言うのは増田であってあなたではないと思ってしまう。
一対一の関係なのだからよりよいコミュニケーションを図れるようお互いに協力していこう、という意識が見えないのがたまに腑に落ちない。
もういい年齢をしているし、遠くない将来には結婚もしたい。
だからなのか、上記の態度さえ改善されればと思わざるを得ないことが多く、どこか気持ちに熱が入り切らないのが正直なところだ。
今までも周りに発達障害者は複数人いたし、扱いが難しいと言われる人とも人並みよりはうまく付き合えていると思っていた。
でもパートナーとなるとこうも話が変わってくるんだなと日々感じている。
もちろん増田自身の発達障害への知識・理解が不十分なのはあるだろう。
世の「理解のある彼くん/彼女ちゃん」はどうやってこの感情と折り合いをつけているのだろうか。
不満にも勝る愛の力で乗り越えているのか?
だとすれば、そこまでの力は増田にはないのかもしれない。
ファッションとか恋愛ハウツー系で「男性はオシャレでなくてもよいから清潔感が大事」とかって書かれているが、あれは何を意味しており、我々は具体的にどうしたらよいかについてまとめてみる。
私はこれを昔、文字通りに、毎日風呂に入れとか、ちゃんと洗濯した服を着ろということだと理解していたが、どうやら違うらしい。同じように勘違いしてる方も少なからず多いと思うが、認識を改めて欲しい。
清潔感があるとは、受け手の女性が清潔感を感じられるようにしろ、ということである。佐藤健とか高橋一生っぽい感じだと言い換えてもいいと思う。これはなかなかたいへんなことなのである。
まず、眉毛はきちんと整えなければいけない。肌も綺麗にする必要がある。服は何年か着古して型が崩れてたり色が落ちてたらダメだ。サイズ感があってて、シンプルでセンスのいいコーディネートが必要だ。髪型もちゃんとしろ。つまり、一言で言えばオシャレに気を配れということだ。
なんか間違いも多くツッコミどころ満載
まず感覚だけで批判してきた典型的な例で、文章を読んでないし、自分の脳で学会を理解できてないし、情報がちょっと古い。20年前というより、それより前の30年前くらいかな。この10年は結構大きな差がある。大石寺と決別したのが、35年前だから。
金がない時、御経を唱えてなんとかしてくださいと願う。しかし、そんな時間あれば働け、そして寄付をやめろと思うのがふつうの考え方だろう。
→祈るだけ叶う、は50年前の学会の感覚。20年の池田先生の言葉に「必死の努力こそ信心だ」とあるぞ。むしろ「努力することが信心なら、信心いらんじゃん」的にもとれる。大石寺と決別してから神秘的な信仰は徐々に否定してきた。
祈れば叶うと教えられたが、自分が動かないことには何一つ叶った試しがないし、祈らなくても動けば叶ったりした。
→親は一言でそう言いがちなのは仕方ない。しかし、高校生にもなって、ちゃんと教義も読まず、祈りと努力の関係性もわからん人が、言う話ではないと思います