はてなキーワード: 査読とは
>ところでreiさんにはいるんですか?優秀で知性溢れる優しい友人。
東京大学卒業後東京大学大学院医学系研究科を出て獨協医科大学で助教を務め、英語の翻訳が趣味、非モテやらの話題に執心なYS_GPCRさんと相互フォローだから、reiさんが頼めばnoteの査読位はやって貰えるかも。
無理に売上としての成果じゃなくて、大学と組ませて査読論文と特許としての成果を出させるべきだと思う。
市場は水物なんだから、真剣にやっててもやはり売れないことはある。だけど、何らかの着想があり、科学検証ができれば論文は出せるはず。ただの報告書では査読が入っていないし。
中小企業は中小企業で短い期間で売上まで結び付けないとならないから大変だしな。
なかなか売上が出ない→時間を短くする、審査の枠を狭めて大きな成果を求める→更に売上としての成果が出なくなるの悪循環になってる。まあこれは大学相手の選択と集中にも言えるんだけど。
情報系の博士取得者だけど、自分の場合、内定式に出た後に内定を辞退して博士後期課程に進学した。
その身に起きたことを参考までに書く。
とある飲み会で博士に興味があるけれどでもしかで就職するような話を博士の先輩に話していたら、博士に進学することを強く勧められた。
親にそのことを電話で相談したら、応援する旨のことを言われた。
先生に話したら、「博士が100人いる村」のような話をされたが、同期で博士進学者が誰もいなかったからか比較的好意的だった。
学部の就職担当の先生に相談に行ったら、内定辞退をお願いするメールを一字一句指示された。(と言うべきだろうな、意見などを言える雰囲気ではない中、言われたことをそのまま書いて送れ的な感じだったので)
送ったところ、企業の採用担当者から呼び出しを受け、内定辞退したら3時間土下座させられた例もあるらしいと級友から脅されながら戦々恐々として赴く。
老婆心を装った嫌味を言われ、軽く説教されたが、内定式の時に渡された書類をお返しし、割と短い時間で話が終わった。
研究室の先生にも老婆心を装った厭味ったらしいメールが送られてきたらしく、先生はその会社の製品を買わないと憤慨されていた。
博士進学予定者だったからか、海外から来る客員研究員の出迎えなどを任される。
博士進学者は修士論文を英文で書くという不文律があるらしく、慣れない英文を頑張って書く。
修士で卒業する学友たちが卒業旅行に出かける中、ワークショップに論文を提出し、初の海外発表...自分の英会話力のなさを自覚する。
先生の助けもあり、一つ目の論文を査読ありのカンファレンスに出し、採択。
今思えば二つ目はある程度自分で研究を進めてほしいということだったのだろうけれど、自分でいろいろとテーマを考えるも研究が迷走して卒業の見込みが全く立たず、精神的に追い詰められていく。
博士進学を考えている修士の学生から「なんで進学したんですか?」と聞かれたときに「魔が差したから」と答えるほど病んでいた。
そんな夢のない話を聞いて進学する奴なんかいないので、その世代の博士進学者は0だった。
助手の先生ともいろいろと相談して一応別のテーマを設定し、査読付き論文通って最低限の要件を満たせたが、すでに10月を過ぎていて、採用活動はどこも終わっていた。
先生のコネで話をしてみて、とある会社に話を通してもらえることになった。
部長と係長の前で博士の研究でやったことを20分発表し、質疑応答して、その会社に採用された。
国内ワークショップでの発表などの場数を踏んだからか、PhDディフェンスを卒なくこなし、博士号を取得。4月から就職。
就職後は博士を持っている人が珍しく、博士をみんな取りたいと思っている場所だったからかとにかく博士というだけで風当たりが強かった。
職場の先輩にも博士なんだからそれぐらい自分で分かるでしょ?とろくな説明もなく業務をすることになる。
その割には係長からも先輩からも毎日ダメ出しをされるだけの日々でなかなか精神的に追い込まれる。
それを見ていた別の部署に行った主任から主任の部下として来ないかとさそわれて今に至る。
博士は精神を病まないと取れないみたいなことが言われていたけれど、それは割と本当だと思う。
博士を持っているとそれだけで少し下駄をはいた状態からスタートできるのも本当だと思う。
ただ、博士というだけで挑戦してくる人や無駄に突っかかってくる人などがいて、有名税みたいなのがあると思う。
進学するときは自分が楽ではなく快楽を求められるか(オメガトライブの読みすぎか...)、
先生に博士の指導経験があるか、家族のサポートがどうかなどを加味して決めたほうがいいと思う。
その辺がokなら、まあ、いけるでしょ。
【ロンドン時事】雄のネズミを妊娠・出産させることに成功したとする中国の科学者の実験が世界的に物議を醸している。
実験を主導した研究者は「生殖生物学に大きな影響を与える可能性がある」と意義を強調しているが、怪物を生み出した科学者を主人公にした英怪奇小説「フランケンシュタイン」になぞらえて批判する声も出ている。
論議を呼んでいるのは中国の海軍軍医大学のジャン・ロンジア氏らの実験。6月に論文が査読前の科学論文を扱うウェブサイト「バイオアーカイブ」に掲載された。
実験では去勢した雄ネズミに雌の体を縫い合わせるなどした上、受精卵を移植。成功率は4%に満たなかったが、帝王切開で10匹の赤ちゃんの出産に成功したという。雄の妊娠は自然界では極めて珍しく、一部の魚類で見られるのみとされる。
なにこれ。めっちゃ興奮する
レベル1だと、公的機関のサイトのみアクセスが可能、メール送信は出来る。SNSやブログなどでの情報発信の権限がない。
のような形で制限かけても良かったのではないだろうか。
これから書くのはかなり昔にある先輩医師と久しぶりにあった際、喫茶店かどこかで話したことだ。
一言一句覚えているわけでないのであやふやな部分はあるが、大筋はあっていると思う。
特定を避けるために口調などは変えてある。
こんなことを書いて誰かの役に立つかは分からない。
それでも読みたいという酔狂な人だけ付き合ってもらえればそれでいい。
「お前、せっかく医者になったんだからもっと稼げばいいのに。」
「はあ、一応普通のサラリーマンよりはかなり収入はあると思うんですが…」
「いやいや、保険診療でちまちま稼いでんだろ?
そんなもん仕事の忙しさからしたら割に合わんだろ。自由診療やれよ。」
「自由診療ですか…」
「自由診療は楽だし儲かるぞー。」
「でも、患者集めるの大変じゃないですか?」
「そんなもん簡単だよ。SNSとかで見込み客の喜びそうな話をばらまいてやるだけ。」
「見込み客…ですか?」
「世の中にはな、親とか学校の先生とかいじめっ子とかへの恨みつらみやら怒りやらを
いい年になっても抱えてる奴らが一定数いるんだわ。」
「で、そういう奴らをさ、簡単に囲い込める情報の出し方があるのさ。」
「情報の出し方…」
「そう。大きく3つあってな、①常識や定説とかの反対のことを言う。
②断定口調。③感情を煽る。これにしたがって出してりゃだいたいいける。」
「…それは具体的にどんな感じなんですか?」
「まず、1こ目な。これが特に大事。見込み客の奴らはさ、権威とか権力とかが根本的に嫌いなの。
多分恨みや怒りのある親やらと重ね合わせるんだろうな。
だから、政府とか大企業とか医者とか権威のありそうなものには自動的に反感を抱くわけ。
そこで、普通の医者がすすめる薬とかワクチンとかは本当は毒だとか、
大体の人間が食べてる○○は危ないからやめろとか言ってやると簡単に信じる。」
「本当にですか?」
「理系に明るい奴は引っかからないのも多いけど、物事を科学的に考えられない
中高年の女なんかはほぼいけるな。だいたいが、常識的な科学理論にも権威を感じて反感持つし(笑)」
「なるほど…。」
「科学に弱いだけあってそのへんからテキトーに理屈にあいそうな論文でも拾ってきて、
『ここに書いてある』とかやっとけば『シェアさせていただきます!』とか言って拡散までしてくれるぞ(笑)」
「バレないもんなんですかね?」
「まずだいじょうぶだな。査読とかメタアナリシスの意味も知らんような奴らだし、
「信じたくて信じる。」
「そう、奴らは大嫌いな親やらと同一視する政府とか医者とかをを見返したくてしょうがない。
しかも、その気持ちが心の底にあることにすら気づいてないし、見る度胸もない。
そもそもその親やらに自己肯定感を砕かれて劣等感の強い奴らにとって、
普通の人たちは知らないことを私たちは知っているという優越感は麻薬みたいなもんさ。
一度味わわせりゃこっちのもんだな。」
「ちょっと怖いですね。」
「いいんだよ、どうせ一生治らねえから。いい気分にさせてやるのもサービスのうち。」
「治らないものでしょうか?」
「ああ、よっぽど腕利きのカウンセラーのとこに気長に通い続けりゃ可能性はあるが、
臨床心理士は権威を感じて敬遠するし、行ったとしても占い師か怪しいスピリチュアルってのが関の山。」
「そんなものですか。」
「そうだよ。実際うちに来る奴らはチャクラがどうたらとかレイキがどうたらとかに金使ってるバカも多いぞ。」
「…」
「で、2つめな。断定口調にする。そもそも自分に自信がない奴らだから言い切られるとより確信を深めるんだな。」
そこが狙い目で、言い切らないのは隠してることがあるからだって解釈にするんだわ。
奴らは基本的に心がふらついてるから答えがハッキリしないことに耐えられない。
だからすぐに答えが出せるように白黒で考えるクセが染み付いてるのな。断定してもらうとホッとするらしいわ。」
「頭が悪いんですかね。」
「いや、意外とそうでもないぞ。話してるとそこそこ賢こそうなのも多い。
結局心になんか抱えてるやつはなんかのポイントをつかれるとまともな思考回路が働かなくなるんだろうな。」
「たしかにそうかもしれません。」
「でもって最後に③感情を煽るってやつな。奴らが根本的に心の底に恨みや怒りがあるってのは話したな。
その感情を代弁するように発信するんだ。」
「それはどんなふうに?」
「医者とか製薬会社とかを敵に見立てて口汚く批判したりするのさ。
『医師や製薬会社は利権にまみれています。ワクチンなんて毒物を金儲けのためにバラまいてるなんて許せません。』
みたいな感じな。基本冷静に批判しつつ、時々『氏ね』とか言うとめっちゃ受けるんだわ(笑)」
「その人たちにしたらスカっとするんでしょうね。」
「そうそう、よく分かってきたじゃん。」
「ええ、でもその人らはよくても家族とか友達とかが横槍を入れてきませんか?」
「『頭のいい人には逆に分からないんだよ。』ってやつな。」
「?」
「意味不明だろ(笑)。奴らはそこそこには頭がいいけど、めちゃくちゃいいわけでもない。
そこにコンプレックスをつのらせてるわけ。だから、暗に君のほうが優れているっていうメッセージをやれば
嬉しくなってすぐこっちに戻ってくるって寸法な。」
「ふーむ…。」
「頭のいい人ほど常識に囚われてしまうとか言ってやれば有頂天だな。
『世の中の人間は洗脳されてる。私は真実を知ってる!目覚めた!』とか言い出したらばっちりだわ。」
「洗脳されてる奴らほど他人のことを『洗脳されてる。』っていうの面白いよな(笑)」
「…」
あとは何療法だろうが、グッズだろうが、機械だろうが飛ぶように売れるわ。」
「それはそうですよね…。」
「事前に本でも出しとくと完璧だな。出版社も常識と反対のことを書いた本に
「はあ?打つに決まってんじゃん。俺も家族もバッチリ打ってるわ。
ディティールはだいたい合ってるはず。
読んでくれた人には一応ありがとうございます、とだけ言わせてもらいます。
そんなものは寡聞にして知らないが見逃されてるだけな気もするんだよな
裾野が広い山ほど高いっていうし、レスバトルには相当な人間が参加してきてるわけだから、本来その議論から生まれるものは計り知れない
何としてもその論争に勝利すべく機転なりウィットを利かせるうちに従来の論理学では見出されていなかった論法が生み出されていることだってあるかもしれない
哲学者という名の大学教授は論文とか書いて金をもらっているように、レスバトラーにもそういった功績に応じて褒賞金が出るべきなんだよな
でも金を与えられるような身分の人間は先入観でネット上のレスバトラーを軽視してるからなのかそもそもそこで画期的な大発見がなされようが光が当てられることもないのだろう。
科学リテラシーを権威主義だと言うのはそんなに間違っていないが、その結論のために「偉い人」とか「信用に値する専門家」とかを槍玉に挙げるのは科学の表面しか見えていない、底が浅く説得力に欠ける論だ。
現代の科学というのは「論文に対して査読が行われて出版される」という科学的方法によって成り立っているのであり、専門家とかはその登場人物に過ぎない。
よって、科学リテラシーとは明らかに、科学的方法そのものに対する理解である。科学の業界において専門家が信頼を得るプロセスや、どのような結果が科学的に正しい結果と見なされるかということ、それ自体に対する理解が科学リテラシーだ。
これは「必要ならば追試できる」ことも当然に含むし、科学的方法というプロセスが正しく機能しているかどうか確かめるには論文を読み漁ればいいのだが、一般市民が実際にこれを行うのは指摘の通り難しいので、その意味で権威主義という言い方は一理ある。個々の専門家の権威ではなく、多くの専門家により実施される科学的方法というプロセスの権威。これが科学の権威だ。
余談だが、このように科学の方法全体を権威と見なすと、STAP細胞のような事例を以て科学を否定したくなるかもしれない。
しかし、それは例外だし、結局は科学の方法論によって正された。
STAP細胞のような事例を使って科学そのものの権威を否定する主張をするのは、「犯罪が1件起きたから警察の権威は失墜した」というのと同じくらい突飛な主張だ。
余談その2だが、確かに科学リテラシーは科学という権威に対する理解と信仰のことだ。
しかし、「どの専門家を信じればいいか分からない」ならともかく、「科学というプロセスそのものを信じていいか分からない」という主張は、裏を返せば「自分が教えられている科学というのは嘘っぱちかもしれない」という主張である。それを主張するのは勝手だが、人はそれを陰謀論と呼ぶだろう。
「権威」という言葉に納得できないのであれば、われわれは、ある話題について、誰を、どの程度まで信じることができるか、という「実践感覚」を持って生活していると言い換えてもよいだろうか。
われわれは義務教育の教科書に書かれていることは概ね正しいと認識している。義務教育で教える内容はいわゆる「定説」として確立されたものであり、すでに複数の専門家による批判・検証を経て正統な保守本流の知識としての共通認識が成立したものであると理解しているためだ。初等教育過程で学ぶ知識の体系はほぼ権威による学びである。もちろん理科であれば実験をおこなうことによって、社会科であればフィールドワークを行うことによって、学んだことを経験によって確認する機会は設けられている。しかし学ぶ知識のすべてについてそのような検証を行うわけではない。教えられる知識が検証可能であることを示し正当性を担保するためと、検証する方法論を学ぶためである。
われわれは新聞やTVというメディアの情報が概ね信頼できることを知っている。しかし100%信頼できないことも知っている。各メディアごとに信頼度は異なり、同じメディアの中でも話題や分野によって信頼度が異なるという感覚も持っている。BBCやCNNのいうことは信頼できるがスプートニクや大紀元はトンデモだとか、岩波書店の出す書籍の内容は信頼できるが幻冬社の本は紙くずだとか、われわれはこのような無数の相場感覚、実践感覚を日々の生活で養いつつ、またそれを以って触れる情報の真偽のグラデーションを判断しているのだ。ここで見落とすべきでないのはそれら相場感覚、実践感覚はあくまでも「感覚」であって客観的基準ではないということである。
元増田への反論に論文査読や再現可能性、反証可能性を持ち出すのは筋違いの議論である。それらは原理的な主張としては正しい。しかしわれわれは全ての情報についてそのような判断をしているわけではない。例えば「SARS-CoV-2は空気感染する」という言説を聞いた時、それを主張する論文に当たり、誰が書いたものか、査読は誰が行ったか、それぞれの研究者の業績等を調べて真偽度を判定するというのは「原理的には」可能である。しかしそのようなことをあらゆる情報について行うことは余程の暇人でなければやっていられない。多くの場合はその分野の権威とみなされる研究者が論文に信頼性があると判断した(あるいは信頼性がないと判断した)という事実をもって自身の判断の参考にするだろう。すなわち権威による判断である。
初等教育で学ぶ知識の体系に照らして真偽を判断するということは可能であろう。しかし初等教育で学ぶ知識の体系というのは権威による学びであったことを忘れるべきではない。その知識の体系全てについて実験などによる経験として検証したと主張できる人は少ないだろう。(あとで、検証することが原理的に可能であるとしても)我々はそのように<権威によって>「定説」として与えられたものをもとに真偽を判断し、その真偽の判断が他の人の言説にどのように現れるかを以ってその人に対する信頼度を評価し、その信頼度においてその人の言説に現れた事象の真偽を評価するのである。そのような信頼と評価の積み重ねから真偽のグラデーションを判断する実践感覚が生まれているのだということ、多くの生活の場においてその感覚に依存しているのだということを忘れるべきではない。