はてなキーワード: 指導教官とは
元の記事を書いた者です。コメントありがとうございます。
これはちょっと違います。理系(少なくとも数物系で超大規模な実験設備を要しない分野)では業績は主に「査読付き国際誌に第一著者として掲載されること(一部分野では査読付き国内誌・査読付き国際学会もそれに準ずる扱い)」で数えます。分野にもよりますが、これが2-3本あることが博士を取る条件で、まともな研究者なら年に1-2本は継続して査読付き論文を国際誌に出しているはずです。この際、単著であるかどうかは重要でなく、第一著者であることだけが重視されます(実際、第一著者以外の人は指導教官とかチームのメンバーとかで、ほとんど謝辞に近いです)。まあいずれにしても学術的な業績は皆無に等しいといえるでしょう。
叮嚀なご指摘をありがとうございます。理系での1st authorやIFについては一応知っていたのですが、単著云々については完全に誤解でした。
論文の査読有無について言及しなかったのは、私がその掲載誌名を見ても査読が付くのか付かないのか、どのくらい権威と定評があるかよく分からないからでした。ただ、改めてCiNii 検索 - 今中哲二 での検索結果を見ると、何だか権威も定評もありそうにない掲載誌ばかりだなとは思います。
以上、ただの言い訳でした。他にも何か不適切な記述がありましたら、どうかご指摘ください。
というか、業績欄に査読付き論文がまったく載っていない研究グループのページなんて前代未聞もいいところで、この研究グループ自体が有り体に言えば「DQN飼い殺し用隔離病棟」であるいい証拠です。こんなのが「原子力村に干された悲劇のヒーロー」として扱われてるんだから噴飯ものもいいところですよ。
ちなみに、「福島原発で再臨界の疑いが濃厚に」と警鐘を鳴らして早野龍五に「そう判断するのは早計」と一蹴された小出裕章(京都大学原子炉実験所・助教、61歳)も、同じく原子力安全研究グループの一員です。やはりそういう人たちばかりが集まった研究グループなのでしょう。
http://anond.hatelabo.jp/20110409164209
よい記事ありがとう。ある程度の知識がある冷静な人ならわかることとはいえ、これだけまとめる労力は大変だったと思います。お疲れ様でした。ぜひ私からも知人・友人に紹介しましょう。
しかし一点だけ補足。
理系業界には疎いので断言は出来ないが、途中どこかの企業で研究していた形跡もなく、60歳の助教で単著なしというのは研究者としての実力をかなり疑わせる。
これはちょっと違います。理系(少なくとも数物系で超大規模な実験設備を要しない分野)では業績は主に「査読付き国際誌に第一著者として掲載されること(一部分野では査読付き国内誌・査読付き国際学会もそれに準ずる扱い)」で数えます。分野にもよりますが、これが2-3本あることが博士を取る条件で、まともな研究者なら年に1-2本は継続して査読付き論文を国際誌に出しているはずです。この際、単著であるかどうかは重要でなく、第一著者であることだけが重視されます(実際、第一著者以外の人は指導教官とかチームのメンバーとかで、ほとんど謝辞に近いです)。
まあいずれにしても学術的な業績は皆無に等しいといえるでしょう。というか、業績欄に査読付き論文がまったく載っていない研究グループのページなんて前代未聞もいいところで、この研究グループ自体が有り体に言えば「DQN飼い殺し用隔離病棟」であるいい証拠です。こんなのが「原子力村に干された悲劇のヒーロー」として扱われてるんだから噴飯ものもいいところですよ。
ひとつ気になったのがあって
そして実はある程度フリーランスの職業で働いた方がリスクを自分でコントロールできる分、将来性があるのではないかと思っているのです。
他の方も言っているけどこの考え方だと
博士まで行ってフリーランスで働いてリスクをコントロールは、日本では出来ないでしょう。
海外へ骨をうずめることをいとわないならば話は別だと思います。僕も海外経験はないのでわかりませんが。
職業として食べながらを考えると、博士後期まで行くのはよっぽどアテがない限り保証はされないかと思います。
働く先が全く無いとは思わないけどね。けれど、それは研究に関係ない分野に行くこと大いにある話。
むしろ話をしていて思ったのは皆就職の苦労<研究せねばならない っていう意識がある人が殆ど。
まともに働いて生涯賃金を得たいと、リスクを減らしたいと思う人は、普通に就職を選ぶようです。
ただし、文系でも修士まで行って就職する人は多いですし研究に触れるならば一度行ってみては。
わかってると思うけど、アカデミックで生きるならば人脈が全てと言ってもいい。
キチンと貴方を客観的に評価して現状の厳しさを偽りなく教えてくれる教官でないと後々困ると思います。
学生の卒論とか読んだことないので、卒論の添削やってる先生がいることに驚く。学生が何やったのかは知ってるし、それをどういう言葉で書こうと彼らの自由。私はそこまで興味はありません。
卒論はしばしば100ページくらい書かれていたりするが、そのほとんどはどうでもいい無駄な記述。数ページで書ける内容が無駄な情報で水増しされている。論文というのは短ければ短いほどいい。5、6ページも書けば十分だろう。
学生は卒論を書くことにより未知の世界に立ち向かっているが、我々には彼らが研究を始めた時点で、それがどれくらい価値のあるものなのか、最終的にどこまでできるのか、何もかもすべてわかっている。答えを教えてしまうのは簡単だが、それでは勉強にならないので黙っているだけ。笑
学生の卒論や修論の発表会で、こんなの3日もあればできるだろう?というのがある。学生に考えさせるためにわざと回り道させたんだろうかというとそうではなく、実はたいてい学生がさぼっていたというケース。
吉村教授は博士論文を3日で書く天才らしいけど、俺は出来の悪い学生でのたうち回って修士論文を書いて、博士には行かずに就職した。卒論、修論の面倒を見てくれた指導教官には感謝している。こんな風に「興味ない」で済まされなくてよかった。論文を書いているときは心細くて、不安で、修了を逃したら内定も取り消しだし、大げさだけどそのときは人生を賭けて泣きながら取り組んだ。もしこんなDQN指導教官にあたったら大学院中退になって、内定も取り消しで職歴なしニートになっていたかも知れない。
この教授とは面識がない。だからこのTogetterのまとめがどういう意図でできているかわからない。博論を3日で書ける天才なのか、単なるビッグマウス野郎なのか、ネット弁慶なのか知らない。それで少しぐぐってみたら
と日常的にTwitterで乱闘している痛い人なのはわかった。
なぜ質問状を送ったか
返事が来たら増田でまた書く。
匿名ダイアリで謙遜しても仕方ないからストレートに書くけど、親も高学歴の部類でした。でもあまりアメリカの大学院はそういうのとは関係ないかも知れません。
横だけど。
俺の指導教官は60だったけど頭のキレ半端なかったなあ。
ノーベル章候補になったことがあるような人。
あの人の30代はさらにぶっ飛んでたのかもしれないけど、30代が一番ってのは見聞狭いと思うわ。
だから、アメリカの大学は無条件で日本の大学より優れているという思いこみはやめろよ。
中国では優秀な人間からの需要(単純に考えて日本の十倍いる)に対して優秀な指導教官の供給が追いつかないし、先進国に生活の基盤を置くことで生活レベルやその他(政治的自由を含む)の上昇が見込まれるから必然的に外に出ようという意欲が促進される。
対して、日本では既に高いレベルの指導教官が有り余るほどいるわけだから、何が何でも外に出ようという必要がない。ある程度自分の専門性が固まってきた段階(普通は修士を出て以降)で、その分野の権威が外国にいるならばその先生の門を叩いてみようかなどとなって、はじめて外に出ようという動機が芽生えるのが普通。
結果として、米国への留学生の数を比べれば中国の方が日本より圧倒的になるのは当たり前の話であって、それがどうしたとしか言いようがない。
私の周りには、ずるい女が多い。
友人たちを「ずるい」と形容するなんて、私の方が性悪女かもしれないけど。
私の所属する学科の私と同学年の女子生徒は、約八分の一が精神の健康に異常をきたし、留年・休学をしている。
別にスパルタ指導教官がいるわけではない。校風も、この街自体も、とてもゆったりした時間が流れていて、どちらかと言えば学生生活を送りやすい街だ。
生徒間の仲も悪くないと思う。
けれど、精神に異常をきたす割合が高い。
理由はそれぞれだ。私にはわからないこともたくさんある。
だから、こんな感情をもってしまう私が全て悪いのだと思うけれど。
友人たちをずるく思う。
調子の良い時も悪い時も、周りを振り回して。
誰かに心配してもらって。誰かに構ってもらって。
自覚があるのかないのかは知らない。
彼女たちの周りには、いつも誰か傍に居る。
そして私も、その一人。
彼女たちを見放すことが出来ず、
こうしてずるずると構い続けてしまう。
多分、ずるく思うのは、私にもちょっとだけそういう性質があるからなのかもしれない。
でも、自分は周りを振り回せるほど理性が崩壊していないし、何より周りが構ってくれるほど魅力的な人間じゃない。
そんなことしたら、すぐに見放されてしまう。
彼女たちを心配する気持ちと、憎み、羨む気持ち。
これからも、この相反する気持ちを抱えて彼女たちと友人関係を続けていくのだと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20100717014653
苦労しているのは本当だろうし、それに「頑張れ」なんて無意味な励ましはしたくないから言わないけど、一つだけ言っておくと「修士課程は辛いのがデフォルト」だということ。逆に言えば、それを乗り越えることに価値があるので、辞めることはお勧めできない。多かれ少なかれ、大抵の人は辛さを感じているものだし、逆に辛いと思わない人は運がよいか何か重要なものをやりすごしてしまっているかのどちらかだよ。いずれにせよここで辛い目に遭っておくと今後の人生の糧になるので、そう思ってなんとか凌いで欲しい。
以下は散発的なアドバイス。これで問題が片付くというよりも、ひょっとしたらなんかのヒントになるかもしれない程度に読んでほしい。
周囲が優秀に見えるのがデフォルトです。見えない人は本当にすごく優秀か、余程の楽天家か、でなきゃアホです。どっちにしても、一つ言えることは普通の修士の学生は、他人の能力を評価できるほどの経験を積んでいないので自分のレベルが下だとか上だとか評価できる域に達してません。他人が自分より上に見えるとしたら、「自分のできないことをできる他人がいる」ということを自覚しているからこそで、そしてそれは当たり前のことです。そうやってお互いを見習いあって一通りの能力を身につけていこうとすることこそが大切なんです。
英語は「訳」してはダメです。というか、訳なんてしてたら読めるわけないよ。だって同じ分量の文章を書く労力がいるわけだし、読むときに一切のごまかしがきかないでしょ。むしろ、重要なところにだけ食らいつき、どうでもいいところは読み飛ばすという斜め読み能力が重要。そういうわけで「訳」は百害あって一利なしと思うべき。
さて、リクナビでも見るか。
就活は騙されたと思ってOBや指導教官を利用すべき。あなたの専門が何かしらないけど、それらの人はあなたの専門が生きる就職先を知っている確率が一番高い人ではあるよ。
http://d.hatena.ne.jp/ktdisk/20100629/1277761901
こんな記事が上がっていた。
また英語に関する記事である。
今回の記事は
私は社会人になってからずっと外資系企業なので、彼らが言わんとしていることがわからんでもないが、英語ができるだけで生き残れるほど残念ながら甘い世界ではない。
(中略)
外人にうまくとりいって採用されても、メッキがはがれたら、あっという間に見切られてしまう。成果がでなければいつ職を失ってもおかしくない世界で、英語だけできれば仕事はできなくても大丈夫などありえないのだ。
そもそも内田先生の日記を引用しておきながらあの先生の言わんとしていることを理解していないのが駄目すぎる。
あの日記
http://blog.tatsuru.com/2010/06/24_1311.php
で引用すべき一番の点は
日本人教師たちのほとんどは最後のグループに属するので、教師が授業で何かを訥々と話しても、ネイティブが滑らかな英語でそれを遮り「あなたは間違っている」というと、クラスは一斉にネイティブに理ありとする雰囲気になってしまうのだそうである。
http://anond.hatelabo.jp/2010062014325
これと一緒である。
ひとつめ。在学中に指導教官(英語ネイティブ)と共著で論文を書くことになった。俺が最初のドラフトを書き、指導教官がそれをチェックするという形で、共著と言っても実質俺の論文みたいなものだ。しかし、ドラフトを書き上げ、指導教官に送って、それが戻って来たのを見て愕然とした。ほぼ全文、誇張じゃなくほぼ全文に渡って英語表現が訂正されているのだ。論文の主張や論の構成はそのまま、しかし英語の表現は徹底的に変えられているのである。そして、元々俺が書いたドラフトと、指導教官による修正版を並べて見れば、その差は歴然としていた。俺のドラフトの英語表現は拙く、いかにもネイティブじゃない人間が書いたのがはっきりと分かるようなものだった。
ふたつめ。TA(ティーチングアシスタント)としての仕事の一貫として、学部生相手の授業を何コマか受け持つようになった。授業自体は問題なく進んでいた。しかし、学期末の学生による授業評価がかなりきつかった。学生は皆「あいつの英語はおかしい」「アクセントが強くて聴いているのが疲れる」「表現が稚拙で繰り返しが多すぎる」といった不満を述べてきた。「頑張ってるのは分かるけど、英語があれでは尊敬できない」とも書かれた。
そう、いくつかの論調でいわれる"英語ができる"というのは英語により意思疎通ができるのでなくSinglishやEngrishでなく英米文化における発音および、慣用的に正しい英語表現のことなのだ。
そして英語ができるができる人が高い格付けを得るというのは
"母語話者に非母語話者が話す論理的に正しく十分に意味のある内容ではあるが慣用的に正しくない表現が用いられている文章に「慣用的に正しくない」文章があるだけで話を止めそれを批判する権利を与える"ということである。
もちろん永遠にできないとかいてはいるがその文化圏で教育を受ければある程度は習得できるだろう。
だが平均的な日本で英語教育を受ける場合その日は永遠に来ないと思われる。
いくつかのブログなどでは触れられているが
「非母語話者間の意思疎通の問題」と「対母語話者に対する最低限の意思疎通のレベルを超えた問題」が存在し
その両者が違うものであると多くの人に認識されることなく話題になっている。
そして残念ながら
そして、「通じる英語」と、「上手に伝える英語」の間には、ものすごく深くて広い河がある。そこそこ英語のできる日本人、TOEIC900+ぐらいでちょっとした留学経験のある人には、往々にしてこの認識が欠けている。
そうかもしれない。おれも経験がないのでわからない。
まあ、「弟子入りする」的なニュアンスでもとの文を読んだのがダメだったのかもしれない。
そういうことであれば、地方大の大学院行くのも、アメリカの大学院行くのも、等価だろうと思う。分野によるが。
「アメリカの大学のほうがよい」という傾向は、化学とか生物とかの分野が強くなっている(というか儲かる)ということに影響されてのことだと思う。たぶんおれもそれに影響されている。
元増田じゃないが
指導教官で選ぶってのは教官単体でなくその大学が拠点になっているかどうかって意味も含まれてると思うぞ。
そうでなくても外部への院進学を考えるなら受ける前にあらかじめアポを取るものだし自分はそういう経験はないが
移動が予定されてるならその旨を伝えてもらえるんじゃないか?
まあ落ち着きたまえ。気に障ったのならすまん。ごめんなさい。
なんか日本の制度のほうが優れてるって読めたから、書いてみただけだよ。茂木の話とは分けるべきだな。
ただ、
大学院ってのは指導教官で選ぶべきものだし、そのために東大の学部から地方大の大学院に行くという選択肢だって普通にあるんだよ。就活で不利になるかもしれないというのだけがちょっと問題だけど。
指導教官で選ぶのはリスクがあるのでは? 移っちゃうかもしれないからね。
だったら、その大学院が目指す研究分野の拠点になってるかどうかのほうが重要だと思う。
だから、
ただし、化学や生物の実験系みたいに金やコネが強力にものを言う世界(有り体に言えば生臭い世界)では米国の方がいいという話も聞くね。そもそもネット内外で「日本の大学はダメ、米国に行け」と言っている人はその分野の人が多い。
というのは、十分理にかなってると思う。
よくわからんが、その進度の違いっていうのは、その後の業績に関係するの?
別に。早熟であることは能力が高いこととは違うからね。高校でゆとり生活を送るか大学でゆとり生活を送るかの違いだけ。
もっとも日本の大学もアメリカの高校も言われるほど楽なわけではないが。
たとえば、日本の大学生のほうが、他国の学生よりも、(より高度なことを勉強してるわけだから)アメリカの一流の大学院に多く進学するとか。
なんでみんながアメリカの大学院を目指さなきゃいけないわけよ。あんたみたいな人って言っちゃ悪いけど、わけもわからずに東大東大と言ってる人と何も変わらないと思うよ。
大学院ってのは指導教官で選ぶべきものだし、そのために東大の学部から地方大の大学院に行くという選択肢だって普通にあるんだよ。就活で不利になるかもしれないというのだけがちょっと問題だけど。
もっとも、修士進学時点ではそこまで業界事情がわかっていることは非常に稀なので、米国の大学院に行くことは、異文化体験や英語力の養成というメリットと、高い学費や語学ハンディによる留年・挫折リスクのトレードオフだと考えればいい。アメリカ文学みたいに、アメリカにいること自体がメリットの分野なら別だけど。どっちにしてもこれは学部の早い段階からTOEFLの準備をしていないと難しいので、実質的にはアメリカ好き・語学好きな奴だけが取る選択。
というか分野にもよるけど旧帝大あたりの教官はだいたい世界レベルだから。米国の大学教育が優れているのは、(優秀な指導教官の)質よりも量ではないかと思う。
ただし、化学や生物の実験系みたいに金やコネが強力にものを言う世界(有り体に言えば生臭い世界)では米国の方がいいという話も聞くね。そもそもネット内外で「日本の大学はダメ、米国に行け」と言っている人はその分野の人が多い。
「死ぬほど英語」第三弾。
第一弾: http://anond.hatelabo.jp/20100620143255
第二弾: http://anond.hatelabo.jp/20100621000447
あ、ちなみに俺増田でこれ以外は書いてないです。
ブコメとトラバを見渡していて、やっぱりもう一度書き足しておくことに意味あるな、と思ったので。コミュニケーションって難しいよねー日本語ですら。
ブコメの伸び方を見て、やっぱり日本人には英語ってオオゴトなんだなあ、と痛感する。しかし俺はそのオオゴトっぷりが正に問題であると思っている。もっとどうでも良くなればいい。「死ぬほどキヴンジョ語を勉強してきたからわかる、キヴンジョ語学習の限界」というエントリぐらいの扱われかたがいい。そうなったら、英語で不幸になる人がずっと減るはずだ。俺は日本人の英語力向上とか心底どうでもいい。だけど日本から英語で不幸になる人がいなくなるといいと思っている。
結局のところ、俺が叫びたいのは、で自分の学生には実際に叫んでるんだけど、まあそれは何かというと、「自分の英語力にプライドを乗せるのはやめなさい」ってことになるんだと思った。「自分は英語ができない」ことを自尊心に対する脅威と受け取って萎縮したり反発したりするのも、「自分は英語ができる」と鼻高々に吹き上がるのも、どっちも誰かを不幸にする(そしてその二つは大抵表裏一体だったりする)。俺のTOEICは600点あいつは900点とかうだうだやってたって、ネイティブに対しては所詮フリーザの前の地球人だ。そしてその意味では、死ぬほど英語を勉強してきた俺だって変わらないんですよ、ということなんだ。
で、自分で書いたときは全然意識して無かったんだけど、俺が例として挙げた、「指導教官に英語表現を直された」「学部生にあいつの英語はだめだと言われた」。沢山の人が、これを「苦杯」もしくは「挫折」の例として受け取ったようだ。「俺はこんなに英語を勉強してきたのにこんなに出来ないことがあった!俺の努力は報われなかった!」という愚痴を引っ張る枕詞としての例。
自分の文章を読み返すと確かにそういう取り方もできるなあ、と思った。でも実際は全然そんなことないのだ。例の出来事が起きたとき、まず頭に浮かんだのは、「うっわーアメリカ来てよかったー」という安堵感だった。日本にいたら多分こういう指摘をされることは無かっただろう。アメリカ来て、自分では見えていなかった自分の英語力の実態が分かって、これからはそれに合わせて対策をとることができる。よかったなーホント来てよかった。そんな感じ。落ち込む要素は全然ない。
考えてみたら俺は、自分の英語力に全く思い入れがない。XBOX360の実績ポイントって知ってる?XBOXのゲームには、「実績」という要素があって、例えばあるゲームであるボスを倒すとXXポイント、という風にポイントが獲得できる。そのポイントは各ゲームとは独立にハードウェアに記録されて、色々ゲームを遊んでいくうちにどんどん増えていく。XBOXを起動して自分のアカウントでサインインすれば、今までの実績ポイントの累積が表示される。現在5480ポイント、とか。
俺にとって英語力は、実績ポイントみたいなものだ。そりゃまあ増えればそれなりにうれしいけれども、別にポイントを増やすためにゲームをやってるのではない。面白いと思うゲームを楽しんでやってたら勝手に溜まっていく。自分の実績ポイントを人に自慢するとか、他人の実績ポイントを見て一喜一憂したりとか、そういうことには何ら興味がわかない。俺のポイントは俺のポイントで、こないだよりは多少増えている。それだけ。
で、そういうわけで俺は、これまでの人生で自分の英語力に誇りを感じたことも、苦い思いを味わったこともないんだよね。うーん、それでも大学合格した時はちょっと誇らしかったかなあ。地元では周りにやたら持ち上げられたし。でも入学してみたら、同級生には帰国子女がわんさかいた。そもそもお前らもう英語なんか勉強しなくていいだろ、って連中ですよ。誇ってる暇なんか全然なくて、むしろ「クラスメイトからも英語を教われる」ことがすごく嬉しかった記憶がある。だっておっさんネイティブ教師より、かわいいバイリンガル女子に聞いた方が楽しいじゃないですか。授業でわかんなかったとこを丁寧に教えてくれた女子に告白して玉砕したのは、まあ苦い思い出と言えなくもない。
真実として、英語は、英語だ。「たかが」でも「されど」でもない。「英語なんか」でも「英語こそ」でもない。英語。自然言語の一つ。英語。「死ぬほど英語を勉強してもネイティブ並にならなかった」という事例には、俺にとっては何のドラマ性もない。ただ「そうだった」だけである。そうだったからにはどうすればいいのか考えればいいだけである。そこに苦いドラマを見いださずにはいられない人がいたら、その人はたぶん英語をオオゴトにしすぎている。
http://anond.hatelabo.jp/20100620143255
ほぼ全文、誇張じゃなくほぼ全文に渡って英語表現が訂正されているのだ。論文の主張や論の構成はそのまま、しかし英語の表現は徹底的に変えられているのである。そして、元々俺が書いたドラフトと、指導教官による修正版を並べて見れば、その差は歴然としていた。俺のドラフトの英語表現は拙く、いかにもネイティブじゃない人間が書いたのがはっきりと分かるようなものだった。
論文書く前に他人の論文を大量に読んでいれば、表現が訂正させれっれることはないんじゃない?
学生は皆「あいつの英語はおかしい」「アクセントが強くて聴いているのが疲れる」「表現が稚拙で繰り返しが多すぎる」といった不満を述べてきた。
移民が英語で暮らせても、現地のビジネスマン向け英語教室に通うのはキャリアアップとしては必然だと聞くし、
結局、本人が書いてあるように全能感からきた怠慢による失敗談であって、日本人が英語ができるはずがないというのは自己正当化じゃない?
「言葉の力」は人間が関わるあらゆる局面で重要な役割を果たす。例えばスティーブ・ジョブズの経営者としてのカリスマを支えているのは、まぎれもなく彼の言葉の力だ。しかし仮にジョブズと同レベルの才能を持つ日本人経営者がいたとして、英語を用いてその才能をジョブズ並に発揮するのはまず不可能だ。
どうかな。カルロスゴーンはブラジル生まれでフランスで教育を受けているが日産で経営手腕を発揮している。
フランス語やポルトガル語を使わず英語を使って従業員とコミュニケーションしているはずだ。
俺は英語学習オタクだ。これまでの人生の中で大量の時間を英語学習に費やしてきた。中学校から始めて、日本にいてできる英語学習法は殆ど試したと思う。高校時代には学習参考書や問題集を二百冊以上終わらせた。ネイティブの個人家庭教師がついていて、さらにマンツーマンの英会話スクールにも通った。大学は迷わず英語学科を選んだ。大学在学中にTOEFLのスコアは640を超えた(厳密には覚えていないが、目標が640でそれを超えたのは間違いない)。
大学を卒業後、アメリカの大学院の博士課程に留学した。ここでも俺の英語は「通用した」。授業に問題なくついて行き、ディスカッションにも十分に参加できる。タームペーパーや授業でのプレゼンの評価はAかA+。学会での口頭発表もすんなりとこなすことができた。
しかし、留学中のいくつかの出来事が、俺の「自分の英語力」に関する認識を変える。
ひとつめ。在学中に指導教官(英語ネイティブ)と共著で論文を書くことになった。俺が最初のドラフトを書き、指導教官がそれをチェックするという形で、共著と言っても実質俺の論文みたいなものだ。しかし、ドラフトを書き上げ、指導教官に送って、それが戻って来たのを見て愕然とした。ほぼ全文、誇張じゃなくほぼ全文に渡って英語表現が訂正されているのだ。論文の主張や論の構成はそのまま、しかし英語の表現は徹底的に変えられているのである。そして、元々俺が書いたドラフトと、指導教官による修正版を並べて見れば、その差は歴然としていた。俺のドラフトの英語表現は拙く、いかにもネイティブじゃない人間が書いたのがはっきりと分かるようなものだった。
ふたつめ。TA(ティーチングアシスタント)としての仕事の一貫として、学部生相手の授業を何コマか受け持つようになった。授業自体は問題なく進んでいた。しかし、学期末の学生による授業評価がかなりきつかった。学生は皆「あいつの英語はおかしい」「アクセントが強くて聴いているのが疲れる」「表現が稚拙で繰り返しが多すぎる」といった不満を述べてきた。「頑張ってるのは分かるけど、英語があれでは尊敬できない」とも書かれた。
ある学問領域における学生の仕事としては、言っていることの内容が通じればそれでよい。評価はその内容の質に基づいて下される。しかし、実は世の中には、「同じ内容をどのように伝えるか」が遥かに重要になる文脈の方が多いのだ。そして、「通じる英語」と、「上手に伝える英語」の間には、ものすごく深くて広い河がある。そこそこ英語のできる日本人、TOEIC900+ぐらいでちょっとした留学経験のある人には、往々にしてこの認識が欠けている。
その後俺はPh.D.を取得し、日本に帰ってきて大学に就職し、今でも仕事の中で日常的に英語を用いている。しかし、自分の英語力は、ネイティブの言語能力には遠く遠く及ばないものだという認識がある。「通じる英語」は問題なく使いこなせる。自分の学問分野においては、俺は英語で実績を上げていて、俺の名前は国際的に認知されている。しかし自分には、英語を用いて「言葉の力」を利用するのは難しい。例えば人を説得したり、納得させたり、なだめすかしたり、楽しませたり。そしてそれは、俺の努力が足りないせいでも、ましてや日本の英語教育が悪いせいでもない。第二言語として英語を学ぶ日本人の限界なのだ。(というか、ネイティブですら、話下手や説明下手は山のようにいるのだから、第二言語学習者については何をかいわんやである)
「言葉の力」は人間が関わるあらゆる局面で重要な役割を果たす。例えばスティーブ・ジョブズの経営者としてのカリスマを支えているのは、まぎれもなく彼の言葉の力だ。しかし仮にジョブズと同レベルの才能を持つ日本人経営者がいたとして、英語を用いてその才能をジョブズ並に発揮するのはまず不可能だ。ジョブズが英語でやってるのと同レベルの仕事を日本語ではできないのと同じように。
「通じる英語」を身に付けたばかりの日本人は、しばしば全能感に浸って事の本質を見誤る。得意げに日本の英語教育にモノ申してみたり、「英語ができない日本人」を問題視する発言をしてみたりする。しかし、英語の世界において、言葉を武器に戦うためには、「通じる英語」では全然足りないのである。その意味では、TOEIC600と900の違いは誤差でしかない。結局勝負を分けるのは「どれだけ優秀なネイティブの参謀を捕まえられるか」なのだ。
...いや、何だろうね、どうも最近の「日本人は英語ができるようにならんとグローバル化を生き残れない!」って風潮にイラっとくるものがあったので書いてみた。俺に言わせれば、「日本人は英語ができないことを前提にして、それを補うシステムを設計しないと生き残れない」ということになるね。英語以外の言語についてはごく自然にそういうスタンスを取るのに、何故か英語についてだけは個人の努力に責任を負わせようとする傾向があるんだよね。俺はそれは間違いだし、無い物ねだりだし、中途半端に英語ができる人間の勘違いを助長して結果として不利益を生むだけだと思っている。
俺はテーマを与えられたけど、
指導教官が「俺は分からんから自分で考えてやって。」というスタンスだったから非常に苦労した。
学内の詳しそうな先生に相談しに行ったらやっぱり政治的な理由で
無下に扱われたしね。
あと中退なんて考えなくていいよ。ちゃんと修了できる。
修了出来なかったら指導員の能力が問われるからちゃんと修了させてくれるよ。
んで結局修了できるなら、ニッチで細かいことよりも
横からだけど、正直、君がダメなんじゃなくて先生がダメな気がするなあ。研究者としてじゃなくて指導教官として、ね。
別の提案をする(Aがありますが、こういう問題がありますので、Bと組み合わせるといい結果が出そうです)→組み合わせただけ?
「組み合わせただけ」で修論としては上出来だよ。「いい結果が出そう」という見通しすらなしに単にやってみただけの修論だってごく普通なんだから。学生がそこまで自分で言えるようになっただけで十分なのに、修士課程の学生に先生なにを求めてるんだろ。「組み合わせただけ」の上に何か積めるならそりゃ博論レベルと言っても過言ではない。
多分、教授は君が持ってきたネタの関連分野一筋に一生捧げてきたから、君の言うことがトリビアルなように錯覚しちゃってるんだろうね(本当は修論なんて、表面上の新規性さえあれば、トリビアルなネタでもいいはずなんだけど)。
そこで提案だけど、助教とかポスドクとかにこっそり相談してみたらどうだい?で、助教やポスドクが詳しくて教授があまり知らなさそうな分野のネタと、現在君が関心を持っている分野を「組み合わせ」てみる。そうすれば「組み合わせただけ」でも教授にはつまらなく見えなくなるよ。
要は、あんまりしがらみがない人に「単に相談に乗ってもらっているだけ」という形で、実質上、半分裏の指導教官みたいになってもらうわけ(ただ、このもくろみ自体はできるだけ伏せておくこと。助教やポスドクは立場が弱いので、教授に逆らうリスクを負わせてはいけない。あくまで、君が個人的に周りの人を質問攻めにした結果、その分野に詳しい人に相談に乗ってもらうことが多くなったという形にする。これ重要)。それで何とか乗り切れるんじゃないかなあ。
修士で完全放置っていうのはちょっとひどいよなあ。数学とかだとそういうのもあるの?いや、最近話題の生物かな?
まあ、私立の院ということで、学生の数が指導教官に比べて多すぎるので眼が届かないんだろう。しかし、とにかく指導教官どのコミュニケーションが不足している気がする。
相手が怒ろうがどうしようがしつこく絡んだ方がいい。どうせ今年限りだ(M2だよね?)
まあ、君だけ無視されてるんだとすると自分ではどうしようもない状況になっている可能性もあるが、その場合(これは最悪の場合だと思うが)は指導教官を変えるという手もある。そろそろ納涼会みたいなイベントがあるだろ?そこで学科主任に泣きつくんだ。教授準教授縦割りシステムになってから、そうやってる移動している学生は結構いると思う。まあ俺が知っているのは国立の場合だけど。
ああああああああああああああもう色々とやばい。
自分はなんでも後回しにしてしまう性分で、
今まで本当にぎりぎりまで行動を起こさないこの性格のおかげで、
さんざん痛い目にあってきた。
しかしギリギリのところで何とかなっていたので、
これまでも「まぁなんだかんだ何とかなるよ」とゆるく構えていたら、
ほんとうにのっぴきならない事態になった。馬鹿すぎる。
友人との連絡を途切れさせ過ぎてそろそろメールしないとやばいし、
実はパンキョーを取り終えてないことを指導教官の先生にそろそろ言い出さないといけないし、
サークルの仕事はきちんとやり終えてないからそろそろどうにかしないとやばいし、
進路のために動かないといけない時期のタイムリミットが直近までせまってきてるし、
借りたものも返さないといけないし、
国民年金の手続きどうにかしないといけないし。
膨らんでいく風船が、いつか割れるとわかっていてじっと何もせず見てて、
脈拍だけはずんずん速くなっていって、このままだったら心臓止まるんじゃないかって。
そんな気分。
それなのにこうやって増田書いて、何をはじめるでもない。
きっと始めてしまえば「なんでこの程度のこともっと早くやらなかったんだ」って思うようなことなのに。