はてなキーワード: 高潔とは
いまバズってる「教師の性犯罪歴をデーターベース化していいのか」とか、性やプライバシーが絡むデリケートな話題になると
「「人権派」ってこういうとき何も言わないよな(反対しないよな)」っていう人がいっぱい出てくるけど
もちろん都合よく主張を変えるひともいるだろうけど、こういうときでも反対する首尾一貫した「人権派」もいっぱい知ってるよ
晒すとか紹介するとかはしないけど
ただ首尾一貫していることが、なにか高潔とか素晴らしい人格とかそういうポジティブなものかといえば当然違うけどね
ロシアによるあきらかな侵略戦争が起きても、ロシアに対してはもちろんウクライナに対しても反戦平和を主張する首尾一貫した反戦主義者はいるし
もっと身近な話題でいうと「不同意性交罪」に関しても、Twitterとかでコアな人権派の人々は「基準があいまいでいくらでも犯罪を権力の都合で作り出せる悪法だ」「青少年のセックスの権利の妨害だ」みたいなことをいってたんだけど
お察しください
首尾一貫していることが「首尾一貫して評価される」かどうかっていうのもむずかしいよね
元日にぼーっと見ていたテレビに映った右肩下がりの棒グラフ。「新聞の発行部数か?」と思ったら、「年賀状配達数14年連続減少」のニュースだった。確か年末には新聞の部数の話もバズっていたと思う。かつて人口に膾炙した紙メディアの先細り話がこうも連続して出てくると、このままの仕事を続けているわけにはいかないとの思いが一層強まってくる。
記者を辞めたい。そう思うようになってもう数年が経ったが、まだ辞めていない。現状の安定を失いたくない器の小ささか、単なる行動力のなさか。辞めたら次に一体何をするのか。自分の中でもはっきりしないまま、「歳食うと一年があっという間だなあ」などとぼやいて徒に時を過ごしてしまった。
なぜ辞めたいのかを簡単に言えば、やりがいを感じないのに激務薄給で、さらに会社の将来性も自分の適性もないと十年弱で分かってきたからだ。
マスコミを志望したのは就活を始めてから。元々政治家になりたいとの夢があったが、大卒でいきなり出馬できるわけではない。政治家という職業自体が不安定で待遇も十分ではなく、カネもコネもない人間が安易に挑戦できるものでもない。将来政治家になれる選択肢も残りつつ、仮に機会に恵まれずにそのまま会社勤めが続くことになっても公共のためになり、納得できる仕事ということで選んだと記憶している。
「斜陽産業だけど大丈夫?」「地方勤務できる?」と問われても、むしろ自分の世界が広がると望むところだった。同級生たちが競って入ったとにかく高給取りであることが取り柄のような仕事には惹かれなかった。今にして思えば若気の至りでいちびっていた。
良いこともたくさんあった。大きなニュースに関わる機会に何度か恵まれ、今までの人生では関わったことのない、あるいは他の仕事をしていたら一生関わることもないような人たち-有名な人も社会の周縁に立たされている人も、町の気のいいおっちゃんも地方から新たな挑戦をする若者も、会って話をしたことはかけがえのない経験に思えた。それだけでなく、小さな街ダネにも出身地とは違う習慣や文化、価値観が潜んでいて面白かった。違う地方に住むのも新たな発見ばかりで飽きなかった。
が、大きなニュースを扱ったからこそ感じた限界もあった。非常に優秀な記者が、リスクを負いつつ長い期間をかけて大スクープや深い調査報道を書き、社会や政治の問題を浮き彫りにしたとする。スクープしたその個別の問題については盛り上がりの中で解決するかもしれない。でも根本的な解決のためには法改正や行政の介入、社会の変革が必要だったりするが、それはちっとも叶わない。こんなにすごい人が一生に一本書けるか書けないかの記事で、影響力ってこんなものかと思った。
自社のスクープを他社が追い、さらにワイドショーが特集した段階で「昨日テレビでやってた話、取材してないの?」とか読者から電話が来る。マスメディアの影響力なんてたかが知れている。記事書いてる暇があったら自分で議員になって法律作った方がよっぽど多くの人が助かって、しかも一生にいくつもの大きな問題を解決できるじゃないか。
日頃の一面や社会面なんてもっと陳腐にしか見えなくなった。よく働く記者ほど困っている市井の人の声なら何載せても良いと思っている節がある。その傾向はコロナ禍でより増していて、「ハワイ行ってコロナなって金がかかって困った」とか「高級ホテルの結婚式のキャンセル料が高くて大変」とかいう話がテレビで長々特集されたり新聞の一面を飾ったりした。現場の声を重視するのはいいがデータを軽視するので正確性や普遍性に乏しく個人の感想の域を出ない「困ってるお気持ちポルノ」がたびたび見受けられた。
就活の時期が近づけば「もう就活生の〇割は内定あり!」と騒いで学生を焦らせ、今度は悩む学生を見つけ出して特集する。アメリカ大統領選で階層の分断が言われるようになれば、国内の細かい話での個々人の意見の違いを取り上げて「分断」とか大げさに言ってみたりする。元々たいした問題などなかったところに「困っている」とする個人をなんとか見つけ出して最初から問題があったことにする。存在しないマナーを作り出しては講習で稼ぐマナー講師が「失礼クリエイター」と呼ばれるなら、メディアは「問題クリエイター」だ。
テレビニュースは毎日同じ時間、新聞は毎日同じスペースで作られるが、世の中の出来事なんて日によって数は大きく異なるわけで、それを毎日同じスペースに載せようということ自体に無理がある。ニュースが多い日には大事な話であっても隅っこに短く追いやられるか、後日掲載になる。ニュースのない日にはただ紙面を「埋める」ためだけのネタが並ぶ。ある日はある、ない日はないで良いのに、同じスペースを埋めなければいけないから取り置きの原稿がどんどん溜まっていく。紙面が数日~数週間前の話ばかりになるなら週刊や月刊で良い。なんで日刊で発行しているのか。埋めるための取材ほど不毛なものはない。
価値判断ができずに他社が書くかどうかだけを気にする部長や支局長、紙面が埋まるかどうかだけを気にして原稿を抱え込む次長、複雑な問題であってもなんでもかんでも単純化した図式でしか捉えようとしないキャップ…部署ごとの属人性が強すぎ、適当なさじ加減でできあがる。社内政治で紙面が決まる。報道が広告に忖度することなどあるはずがないと思っていたが実際はある。そういう読み物なんだと思ったら愛着が薄れていった。
勤務日の夜はまだしも、特に緊急でもない用事で休日に平然と電話をかけてくる上司もいる。それで気づかずにいると「休日でもすぐに電話に出ろ」と怒鳴られる。立派な使命感だとは思うがそういうことを求めるならもう少し給料を出してほしい。こんな給料では家族を養うことはできない。共働きでなければ結婚は難しいが、全国転勤では共働きも制約される。
部数は毎年減っている。広告はコロナ禍で激減した。まだぎりぎり体力のあるうちに勝負に出て成長分野に投資しなければ生き残れないのに、そんな気配はみじんもない。部数が減ることはもはや所与のことのようになっていて、本業でどうやったら稼げるのかという話がちっとも出てこない。いい報道をすれば読者は読んでくれるという、反例が無数に見つかる理論が繰り返される業界で定年まで勤める人生設計で生きていっていいはずがない。
「斜陽産業なのは知ってたはず」「激務や転勤なんてわかって入ったんでしょ」と言われても、経験したことがない学生に何が分かるというのか。やってみた結果想像以上の実情を知り、このままでは無理ということが分かって考えが変わった。それだけのことだ。
自分が意外と人見知りをすることにも気がついた。特定の人と繰り返し会うのはいいのだが、毎日違う知らない人と会うのは気疲れする。文章を書くのは好きだったが、元々目立ちたがりで自分の意見を書いたり言ったりするのが好きなだけだった。人のやっていることを聞いて書くこと繰り返すのにも疲れた。人が何をやってるかじゃない。自分が何をやってるかだろうがと何度問うただろうか。完全にミスマッチだった。
それでも、少しでも世の中が良くなったらいいなと思って神経すり減らして働いていた。なのに友人ですらネットで「マスゴミが~」とか言っているのを見ると気が滅入る。別に金持ちになりたいとかいう願望はないが、公共のために働こうという精神って報われないなあとも思う。
たとえば官僚なんて民間就職すればもっと稼げるだろう人が能力を公共のために使って午前様で働いているのに、私生活でも高潔さを求められてちょっとでもやらかせばあり方を問われることになる。ハードル高すぎないか?能力を自分のためだけに使って大金稼いでる人は素行が多少悪くても特に何か言われることはない。社会にどっちが必要な存在かと言えば前者のはずだが、これから職業を選ぶ(選べるくらいの能力を持っている)学生らの視点に立てば後者を選びたくなる人が多いはずだ。職業に求められる規範と待遇が釣り合ってなくて、それで社会が損している。
自分がやりたいと思える仕事は公共に奉仕する仕事だが、そういう職業としての条件の悪さ、釣り合わなさに耐えられるかわからず、次の選択肢に挑むのに尻込みしている。そんな程度のマインドなら職業での自己実現は諦めて、ホワイトな環境で趣味を楽しみ家庭を重視する生き方を選ぶべきなんだろう。でも、どっちかを選んで他方の道を断ってしまう決心は付かず、ずるずる先延ばしにしている。
これだけ不満たらたらで、それでも辞めていない。次に何になっていいかも何になれるかもわからない。そういう現状に、自分の小ささを感じている。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/usaminoriya/status/1607400874380492800
まず、これをどっちもどっち論にしてる奴ら
馬鹿じゃないのか?
そういう単純明快な話を
汚辱に塗れた愚劣なネトウヨと同列に語るなど
許されざる悪行
次に、問題の大小にしてる奴ら
小さい問題がある事にするのか?
馬鹿か?
お前は誰の味方だ?
大小?
問題がないんだよ
な・い・の
つかさ、自分自身が「モリカケサクラで些事を大騒ぎしながら、この件での様々な事を容認する」という行動をしておいてだ
どの口が、ネトウヨには「じゃぁモリカケサクラを叩け」とか言うのかね?
問題があるのか?
何が突き付けられているか、分かってないんだ
・人間関係が不器用だけど、あるささやかな行為を何年も自発的に行い、いろいろな人の仲を取り持っていた人
・お前のそれは甘え
毎日みんなに自腹でお茶配ってごますってた人がいたとか、そういうこと?
なかとりもつってことはあっちで話、こっちで話、みたいな行動が含まれてるんだよね???マジで何??
そいつが新人だからじゃなくて、そいつは対象外にされたから、じゃない?
眼の前で自分以外にだけ注がれる善意って偽善だって攻撃したくなるし
甘えだ、弱さだ、にそもそも高潔?な正義感(インフルエンサーは見えない敵と戦うのでこっち)があったのか、がそもそも怪しいような…
ただの狭量からくる嫉妬と個人攻撃(そのインフルエンサーを上辺だけ真似た例、見本手本の提供がインフルエンサーの仕事だから自然な流れ)もありえるきがします…
少なからぬオープンレターの発起人・賛同者と、草津町長・町民を誹謗中傷していた界隈がかなりの範囲で重なっているように見受けられる(個人名を挙げるのは規約違反らしいので省略するが、興味ある人は調べて欲しい。)。
何故なんだろう。
少なくとも、オープンレターの精神と草津町長・町民を誹謗中傷することは一致しないはずだ。
以上により、私たちは、研究・教育・言論・メディアにかかわる者として、同じ営みにかかわるすべての人に向け、中傷や差別的言動を生み出す文化から距離を取ることを呼びかけます。
そう、オープンレター界隈は「中傷や差別的言動」を無くそうとする高潔な精神の持ち主のはずだ。
私たちは、中傷や差別的発言とそうでない発言との境界が時に明瞭ではないことも理解しています。しかし、事実として両者のあいだに明確な線が引けない場合があることは、その概念的区別を求めることが無意味であることを意味しません。むしろ明確な線が引けない場合があるからこそ、言動に注意を払うことが重要な意味を持つのだと考えます。
そして、「中傷や差別的発言とそうでない発言との境界が時に明瞭でないことも理解し」、「言動に注意を払うことが重要」と考えているので、この方々が安易に中傷や差別的発言をするわけがないことが分かる。
この界隈の方々は中傷や差別的言動・発言を問題視し、それを踏まえ、自身の言動・発言に細心の注意を払っている方々であると言える。
それにも関わらず、草津町の元町議の発言を受け、何ら証拠がなく、またその発言を否定する根拠が山ほどあったにも関わらず、草津町長・草津町民に対し中傷(性犯罪者・セカンドレイプ呼ばわり等)・差別的発言(田舎のおっさんの文化等)し、また元町議を真実の告発者(民衆の敵)として草津町長・町民を悪魔化し、あるいはその言論に乗っかってしまったわけだ。
直接的にこのような発言をしなかったとしても、これらの発言により起きたハッシュタグ『#草津温泉には行かない 』を用い、これらの中傷・差別的発言に与した人も多い。オープンレターではこういった文化から「距離を取る」ことを呼び掛けていたのではなかったか。
こうなってしまった理由が分からないので、誰か分かる人、推測できる人はぜひ教えて欲しい。
オープンレターの発起人・賛同者の多くは高度な教育を受け、研究・言論界で活躍しているエリート・エスタブリッシュメントだ。そんな人たちが何故このような自己矛盾した言動をしてしまっているのか、不思議で仕方ない。何か説得力のある回答はないだろうか。
まさか「女性差別的な文化を脱する」(オープンレター副題より)ことには関心があるが、それ以外の差別には無関心又は積極的に差別することも厭わないということだろうか。
【地方なんて所詮女性差別が横行しており、こんなことあって当然】というような差別心であったり、【根拠もなく人を性犯罪者・セカンドレイパー扱いすることは中傷に当たらない】などという人権感覚・バランス感覚を欠いた人たちではないと信じたい。
オープンレターでは、こういった文化から距離を取るとこについて次のように書かれている。
「距離を取る」ということで実際に何ができるかは、人によって異なってよいと考えます。中傷や差別的言動を「遊び」としておこなうことに参加しない、というのはそのミニマムです。そうした発言を見かけたら「傍観者にならない」というのは少し積極的な選択になるでしょう。中傷や差別を楽しむ者と同じ場では仕事をしない、というさらに積極的な選択もありうるかもしれません。
そう、積極的な選択として「同じ場で仕事をしない」ことを呼び掛けている。
今回、草津町長・町民に対して中傷・差別的発言をした者に対し、オープンレターの発起人・賛同者がこの積極的な選択(例えば職を辞す、同じ学会・会議には参加しない等)を採っていくかどうか、注目されることになるだろう。
みんなゴッホ好きだよね。私は別に嫌いじゃないけどわりとどうでもいいかな。
それよりは海面上昇とか環境問題が何とかなってくれた方が私にメリットがあるよね。
ゴッホの絵にスープぶっかけるのが間違いなのは分かる。八つ当たりだし。
でもみんなが何でそんな熱意をもって環境活動家の人に怒ってるのかがよく分からない。
すごい熱意と高潔な正義感を持った怒りの意見がいっぱい書き込まれてる。
なんで?
ゴッホの絵が一枚二枚どうにかなっちゃっても私になんのメリットもデメリットも無いけど
彼らの活動が支持されてなんか環境問題が良い感じになったら私にもメリットある。
みんなはそうじゃないの?
マジでみんな何にそんな熱心に怒ってるの?
食べ物を無駄にって言ってる人多いけど、カップ一杯のスープでこれだけの宣伝効果あったらコスパ良いじゃん。
怒ってる皆の近所のファミレスで今日出た廃棄スープの方が多分ずっと多いよ?同じテンションで怒ってるの?
きっと魂のレベルが高いんだね。
私は低レベルの魂だから自分では環境問題になんか具体的なアクションをする気はないけど、だれかが頑張ってくれるのは大賛成だよ。
お前ら笑うな!
社団法人ボラコのスタッフは日々過酷なボランティア業務に耐えているんだ!遊びでやってるわけじゃないんだ!仕事じゃなくて活動なんだ!
お前らは無償で給料の何倍ものはたらきをしたことがあるのか!喜んでサービス残業して沖縄までついていったこともない奴が笑うな!
・すごく高い志を持っていて、自分のことなど顧みないような高潔な人間か
・主義理念が激しすぎて、自分の都合の良い思考しかできない。自分の思い通りにならない場合は「私たちは〇〇された」構文で全部他人のせいにする無敵の人
以外にはつとまるわけがないのは確定的に明らか。
noteを書いてる人は極めて常識的な労働環境を求めていたようだが、なんでそんな「常識的な」人間が応募したんだとその時点からなんかあれ
NN関連技術の発展が著しい。ことさら理論構築から実用に杯が降りたことで民の関心は盛況を極めている。さるに、聡明で高潔な筆者の戯となるは、未来の予測である。
一歩戻ろう、いや二歩か三歩かはるか前か。我々はプログラムという化物に出会った。そいつの血肉であるソースコードには著作権が発生する。勝手にパクって利用したのがバレて権利者が親告すれば罪となる。我々は化物の親としての権利を主張できたのだ。
時は進み、歩は歩み、化物は化物を産んだ。言葉を紡げば、人の子を模した化物が誕生するようになったのである。さて、賢明な諸君、この化物の親は誰だろうか?
言葉に著作権はあるか。無い。商標権が近くの海で泳いでいる程度である。詩歌にはあるか。有る。創造的で文化的な活動の成果である。では、詠唱にはどうか。婚活やら発達障害やらの話題に懸命な諸君はどう思うだろうか。聡明で高潔で法律に疎くJASRACにヘッドハンティングされるも固辞した筆者は、これになんと答えよう。
元素法典は偉大である。詠唱の価値を知らしめる、表現を綴った書物だ。詠唱とは詩である。言葉の羅列が少し違うだけで、創造される表現が別次元に触手を伸ばす。遺伝子の配列のように、崩れても堅固でありながら、少し違うだけで別物なのだ。聡明で高潔で生物学に疎い私は遺伝子のようだと例えたが、神経のようだと喩えた方が実態には則しているのかも知れない。ニューラルなネットワークだし。
閑話休題、詩に著作権は発生する。さて一方。絵柄に著作権はあるか。無い。おや、雲行きが怪しくなってきた。詠唱が発露する回路の先には、似た絵柄の羅列が待つ。詠唱は似た表現を産む一つの言葉のようである。"火"を描くのに著作権は発生しない。詠唱の持つ力はその程度ということだろうか。詠唱とは柄である。ゴッホの絵柄で暴走族を描いても赦されるように、唱えた結果は表現ではなく柄なのだ。まるで比喩のようだ。比喩はどこかの誰かが産んでも、親としては認められないのだ。んあぁ、閑話休題、しかし、ソースコードに著作権は発生する。入力と出力は守られず、近くの海に特許が泳いでいる程度であるが、回路には著作権がある。確か第何条かで小難しい詠唱がなされていた記憶がある。詠唱とはソースコードかもしれない。そう思うと、守りたくなってくる。
さてはて、話題は発展する。聡明で高潔で漫画が大好きな筆者は、今後に起こるちょっとした予測を楽しんでいる。詠唱の著作権については皆様のような専門家による今後の議論を楽しませていただくとして、もう一つ思いを馳せるは、仮に詠唱を公共の財産に見立てた世界線に乗ったとして、その船の先にある、連続詠唱のことだ。
今後、詠唱士と呼ばれるだろうか、あるいはプロンプターだろうか、3Dモデラーがアニメ業界で活躍しているように、AI技術を駆使できる者が表現界隈で一部に幅を利かせることだろう。そこで生まれる予感がするのが魔術書である。詠唱士が参加した作品の詠唱文を参画した他者が公開することに、法に触れる要素はあるだろうか。連続詠唱に、果たして著作権は発生するだろうか。
仮に詠唱に著作権が発生しない世界に分岐したとしても、漫画のコマ一つに著作権が発生しない世界だったとしても、コマの並び、言葉の並び、知的に紡げば、それことが表現である。連続詠唱が産む表現はどうか。出力は安定しない。作画監督による修正もある。詠唱文に魅力はない。しかし詠唱一つ一つがそれでなければ産まれ得なかったものになろう。しかし連続詠唱が産む表現にはばらつきがある。回路に与えるシードまでパクられないと権利として認められないだろうか。父ちゃんがわからなくても、彼は歴としたかの連続詠唱の子なのに。
魔術の申し子に、君は何と声かけよう。平凡でたまにホッテンに上がる著作権がらみの記事も読まずしかし文化の発展を心より願う筆者は、親の幸せを願いつつ、子が伸び伸びと育つ恵まれた社会となることを祈って、今日を眠ろう。