はてなキーワード: 格差社会とは
たとえば医者がいるとする。
いいところといったらいつでも空いていて、
インフル予防注射一つ打つくらいの用事ならなんとかこなしてくれる。だけ。
お金でどっか私立医大につっこまれたボンがそのまま大きくなったようなそんな医者がたくさん増えるのかな。
で、どうなるかというと、口コミ(ネットも)でなんとなくはじき出して、自主廃業してくれるのをまつか、
だれかが子供をうっかり殺されて特攻して相打ちになって資格をはく奪され、その人もSLAPP訴訟で無一文になるか。
で、絶対的に安全な場所っていったら、「いい人」が特攻して消えた跡地にしかないわけ。
こりゃ小規模な戦争だよなっておもった。
村社会ともいうか。
私の職場のひとたちはやたら高学歴で、東大、東大、慶応、京大…みたいな感じ。
みんなすごく能力高くて、決断は早いし、どんどん無駄をなくしていくし、めんどくさい人間関係もない。
部下として働くぶんには、もうサイコー。
私はもともと、かなり低いところから出てきたので
でも唯一、かつ、決定的に困っていることがある。
あ、編集者なんだけど、
格差社会とか機能不全家族についてとかの企画がめっちゃ通しにくいのだ。
前述のとおり私は「下」の世界に生きてきたので
編集者としての才能は正直ないんだけど、
何百万部も売れるなら、彼らはぶっちゃけなんでもいいんだけど
残念ながら格差社会ものや毒親ものって、ごく一部を除き、そこまで売れないから
そういう「よくわからないもの」に投資するのは会社にとって正しくないことくらい、私でもわかる。
第一、私が届けたいのは「本を読まないような家の子ども」とかであり、
ウェブなら、漫画なら読むかなとかいろいろ思うんだけど、まあ儲かる気配はしないわな。
お金持ちのひとがもっとお金持ちになったり、誰からも愛されたり、定時で帰れたり、マインドフルになったりするよりも、
やらなきゃいけないことがいっぱいあるんだよ。それは権力をもっている人にしかできないんだよ。
その人たちはその世界を想像できないんだよ。それは無理もないよ。
だから想像できる奴が想像させるしかないんだよ。なのに私は!!!
うちの死んだ婆さんは、明治生まれで日本女子大学校(いまの日本女子大)でてたくらいなので、相当なお嬢様だったのだけれど、とにかく「税金を払いたくてしかたない」人で、うちの母ちゃん(嫁)が難儀したらしい。
何しろ、「所得税が納められる」ということ自体がステータスで、そのいきついた先には「高額納税者は貴族院議員になれる」「うまくすると爵位がもらえるかもしれない」という特典があったりした時代で、リアルに「女学校時代のお友達には、お父様が高額納税者で貴族院議員」なんて人がいたりしたので、死ぬまでその辺の意識が抜けなかったらしい。
戦前の日本なんて、とてつもない格差社会で、社会福祉もへったくれもなかろうし、当時のばあちゃんにとって下層の人はマジで「別の世界の人」で、その人たちに自分の税金が無駄遣いされているなんて意識もなく、普通に「税金たくさん納めるのは名誉なこと」という価値観でいきてたんかな、と思う。
なお、婆さんの実家は、いわゆる「農地改革」のときに不在地主であらかた土地を取られてしまい、絵に描いたように没落していったらしいので、自分が生まれたときは平凡な地方公務員の家庭でした。
先日「この世界の片隅に」の感想を書いたけど、その際引き合いに出した「平成狸合戦ぽんぽこ」について、
せっかくだから何となぁーく感じてたことをだらだら記してみるよ。
↑自分の書いたもので恐縮だけど、自分は「ぽんぽこ」のテーマは「(それでも)生きていく」だと思っている。
自分たちを取り巻く世界(環境、価値観、社会、文化)の変化の中で、人はどう生きていくのか、
またどう生きてきたのかを、狸に託して描いているのがあの映画だと考えてるよ。
(学生運動とかの風刺ってのはその通りだと思うけど、少なくとも自分はもっと普遍的なものを描いていると思う。)
自分たちを取り巻く世界の変化(この映画では迫りくるニュータウンの開発だけど)に対して、
狸たちはいろんな立場をとるんだけど、この映画の場合はそれぞれ分かりやすく、
化けられない狸=世界の変化についていけない、取り残される弱者。
正吉(主人公)=世界の変化に(望む望まざるを問わず)適応する、適応せざるを得ない者。
てな感じで描かれていると思う。
別にどれが良くてどれが悪いとかじゃなくて、それぞれが世界の変化に対して「(それでも)生きて」
いこうとした形の現れ方の違いなんだろう。(人間もそうじゃないすか?)
で、本題に戻るけど、映画で権太率いる強硬派が機動隊とガチンコでやりあうわけ。
そしてそのやりあう場面の視点が変わり銃声がした後、画面が切り替わって、機動隊が狸の死骸を
山積みにする場面がくる。これ、映画の見せ方としては明らかに「死」を意味するもの。
権太たちは確かにここで死んだはずなんだが・・・
しかし、狸の死骸はその後むくむくと動き出し、権太たちは復活して、最後に大きな首(釣瓶落とし)と
なって工事現場で再び暴れるのである。そして迫ってきたトラックの前に立ちふさがり、キッと睨みつけるのだが、
無惨やなそのまま轢き殺されるのだ。これで本当に死んじゃったわけ。
正直なんでわざわざ復活させてまた殺すのかよく分からなかった。
「狸寝入り」の伏線を回収するためなのか、「特攻」のメタファーなのか…。
ただ、この映画を「自分たちを取り巻く世界の変化に対する云々」という視点で見れば、
きっとこんなじゃないかなぁ~と思うんだけど、つまりあれはもう互いに相容れない世界同士のぶつかり合い、
原理主義同士の争いってなわけ。そういうものはどっちかが滅ぶまで戦い続けます。
それまでの狸vs人間の戦いは、狸が化かして人間が驚くって構図だったんだけど、
狸と人間は対立していても、狸も人間も化け物は「怖いもの、驚くもの」という価値観を共有してたわけ。
対立はしてるけど共有もしている、ある意味矛盾を抱えながらバランスとってた関係。
機動隊との戦いはまだその段階だったってこと。
でも、最後のトラックは、あれは価値観の共有ができない完全に対立した存在。
だから、化け物をみても怖いという反応がない。今までだったらトラック側が「うわぁーー」とか言って
ハンドルを切っちゃうんだけど、こいつはそのまま突っ込んじゃう。
そして権太はこの相容れない存在同士の文字通りの死闘に破れ、本当の死を向かえることになる。
でも、これは映画の話だけど、同じような構図は、グローバル化だとか移民だとか領土争いだとか格差社会だとか、
まさに今の世の中のいろんなものに当てはまるんじゃないかなぁ~。
凄まじい勢いで身の回りの世界が変化していって、いたるところで侵食や衝突が起きている。
そんな中で自分たちはどう生きていくかってことを、実は無意識にみんな不安に思ってるんじゃない?
そして、かつて戦争という、それこそ圧倒的に自分たちを支配し大きな変化を強いてきた存在があった。
そんな時代に「(それでも)生きて」いた人たちがいた。
「この世界の片隅に」を観て、なんかよく分からないけど心にグッと来るものがあるのは、そんな無意識に訴えかける何かがあるからじゃないか?
メルカリの子会社「ソウゾウ」が作った、人と人とが実際に会ってする取引を仲介するアプリだ。
例えば「手渡しで熊のぬいぐるみを500円であげます」みたいな投稿をすると、
近くにいる興味がある人が何人か応募してきて、そのうちの一人とチャットしながら取引をする流れになる。
先日、とあるイベントの限定チケットが欲しくなったのだが、確実に入手するためには火曜日深夜から行列に並ぶ必要があった。
徹夜して並ぶのは辛いけれど、水曜の始発で行くと確実に間に合わない。始発前に行くにはタクシーが必要、という状況で、
ふとメルカリ・アッテを思いついたので、「朝の3時から6時まで3時間自分の代わりに並んでくれる人募集」という投稿をした。
報酬は3000円、時給換算で1000円だ。そのチケットは4人で行くつもりだったので、我々一人あたり750円の負担という計算になる。
当日ドタキャンされる恐れもあったが、絶対に欲しいチケットというわけでも無かったので、その場合は諦めるつもりだった。
自分なら3000円ごときで早朝3時から3時間も並ぶなんて絶対に嫌だと思うのだが、予想外に応募がたくさん来た。
一人は中学生だったのでさすがにこちらからお断りしたのだが(バイトできない中学生にとって、アッテは良い収入源なのだろう)
応募してくださった数名の中から一番まともそうな方を選んでお願いした(やはりメルカリと同程度の民度の人は多いようだ)。
そして当日、朝からメッセージのやり取りをして並んで頂いていることを確認し、6時に実際にお会いして自分が列を交代し、7時に無事にゲットした。
驚いたのが、その時朝から並んで頂いていたのが、普通の社会人の方だったことだ。
会った時に少しお話をした際に聞いたのは、家から自転車で来て並び、これから朝ごはんを食べて会社に出社されるとのことだった。
自分は20代で、年収はいわゆる世間の平均の1.5倍くらいなのだが、決して自分が裕福だと感じたことはなかった。
それでも3000円ごときで他人のために朝3時から行列に並ぶなんて絶対にやらない。でもこの人はそれを喜んでやっているのだ。
自分と同じくらいの年齢で、留学生とか海外の出稼ぎ労働者でもない普通の日本人、それも社会人としてもまともに見える方が
その程度の金額で(深夜割増を考えると東京の最低時給以下ではないだろうか)水曜日の朝から3時間も並び3000円を貰っているのをみて、
(自分で依頼しておいて矛盾した感情だとは思うが)自分は空恐ろしいと感じた。
中学のとき父がリストラされて、今でいう貧困家庭になりました。生活保護まで受けてはいなかったけど。
衣食住は大丈夫だったし、ひもじい思いはしなかったです。親に感謝。
ただ、お金がないことによる制約や、格差社会に対する不満を同年代に比べ募らせたのは確かです。
それと正直、お金の問題よりも生活が困窮したことで追い詰められた父からの精神的暴力がきつかった。
大学は社会学を学べる学部を選びました。はじめは中高年のリストラ問題に興味があったから。父の問題ですねー。
ですがだんだん、現代の貧困、格差社会、児童虐待とかに関心が向いていきました。
今それができる場にいて、楽しいです。しかし、これは思いっきり中学の時の体験が影響してるわけで、それを私に味わわせてしまったと考えている親、特に父の代わりに働いてきてくれた母にとってはあまりこの経緯にいい思いは抱けないのかなあと思ったり。ごめんねー親不孝で。
でも契機が何であれ、今自分のやりたい勉強ができるのは嬉しいです。