はてなキーワード: コップの中の嵐とは
この戦争は、千田有紀氏を総大将とする「フェミニスト軍」と、いつもの「キモヲタ軍」との戦争であった。
何をもって勝利とするのかは大変難しいのだが、
①発端となったNHKの特設サイトが閉鎖されずに残っている(2018/10/9現在)
②フェミニスト軍総大将の千田有紀氏のtwitterアカウントが非公開化された
この2点を以ってキモヲタ軍の勝利とするのが妥当であると考える。
「展開が向いた」「強力な援軍を得た」この2点に尽きる。
まず展開に関して、戦線がtwitter界隈(+はてな界隈)から広がらず、キモヲタ軍が得意とする、数を恃みに敵を
強力な援軍としてはBL作家・水戸泉氏の存在が大きかった。経緯に関してはhttp://togetter.com/li/1274363を参照
していただくとして、精神的な痛手となったのか、これ以降、千田氏の発言がはっきりとわかるぐらいトーンダウン
していき、twitterアカウントの非公開化にも寄与したものと思われる。
まず、戦線をtwitter界隈から広げることができず、既存メディアや著名な知識人と連携して上から叩く戦法が取れないまま、
キモヲタ軍が得意とするフィールドに引きずりこまれたのが一番痛かったものと思われる。のうりん事件や駅乃みちか事件の
ときのように電撃空中戦に持ち込めていれば、キモヲタ軍は手も足も出なかっただろう。
総大将の千田氏に隙が多かったのも敗因の一つとして挙げられる。例えば、シュナムル氏のような冷徹なフェミニストが
フェミニスト軍にやられっ放しだったキモヲタ軍にとっては、独力で敵を撃退した今回の勝利は素直に喜んでいいし、東大を
卒業した大学教授のような「知の巨人」に対抗できるゲリラ戦法を習得したのは大きな成果である。
フェミニスト軍にとっても、展開が向かなかっただけで、既存メディア・知識人と連携して敵を捩じ伏せる必殺戦法が通用しなく
なったわけではないので、展開にさえ気を付ければ、まだまだ優位は揺るがないだろう。
id:nekolunaこんな局地戦などどうでもよい。萌え文化は文化勝利しつつある。
そう、まさに局地戦、コップの中の嵐だったからこそ、キモヲタ軍が勝てたのであって、これが社会学界隈との総力戦になっていれば
下着売り場が目立つ場所にあることの是非論で見たし、それ以前にも似たような話題でしょっちゅう見るんですけど。
「生殖活動だの、生理だの、泌尿器やトイレだの、下着だの、授乳だの、そういうのは性的なものでない、エロいものではない。エロいと感じる方が知識・理解不足だったり妙な歪みがあるだけだ」
みたいな意見あるじゃないですか。
あれを言ったり賛同したりする人って本気なんですかね。
まあ本気なんでしょうが。
じゃああの人らにとって、文句なく性的でエロくて欲情するのが相応しいものってなんなの?
性器?
でもろくでなし子とか、或いはあんな過激なパフォーマンスせずとも「性器もただの体の一部でしかない」とか言う人いるし性器もダメなんじゃないの。
互いの身も心も人間性も理解し、尊重し、愛しあい、合意を取った上で発生するセクシーな雰囲気、その帰結としての欲情やエロティシズムこそが正しく、そこにのみ真の性の喜びがある、みたいな話なんでしょうか? まあこれは冗談ですけど。
なんかもう、お互い顔も見えないローブを着て性器だけ接触させて正常位をし、できるだけ快楽を得ず射精したら即離れるセックス以外は異常、みたいな話になってきそうだなってああいうの見ると思うんですよ。
どっちかと言うと、全てが正しい欲情かな。
アヌスに興奮しようがおっぱいに興奮しようがチンコに興奮しようが唇に興奮しようがホクロに興奮しようが虫さされに興奮しようがウンコに興奮しようが、それでいいんですよ。
人は何を好きになってもいいんですよ。
結局、「~にエロを感じるのは認識や知識に歪みがあるから」みたいな意見は、「受け手が嫌がったらセクハラ」みたいな感覚で「受け手にとって不本意な部分や状況に対する欲情は正しくない」ってのを知的っぽく言おうとしてるんだと感じるんですけど、人が人に向ける好意悪意劣情愛憎にまで、正常異常の判断を下すことはすべきでないと思います。
欲情については、むしろ「する側が欲情したらそれは妥当な欲情」でいい。
意図せぬ部分について欲情されること自体が不快な人は結構いるし、私も知人にオナペットにされてたと知った時はオワーッとなったけど(知人がわざわざ私にそれを教えて楽しんでたわけではないので知人に罪はない)、そりゃあもう仕方ないよ。
嫌われるのが不本意だからって、他人が自分に抱く嫌悪や憎悪に「正しい嫌悪・間違った嫌悪」と裁きをくだすのはおかしいでしょう。
いや個人レベルでは「あいつに嫌われるのはまあわかる、筋が通ってる。逆にあの野郎が嫌ってくるのは不条理だ、誤解だ、おかしい!」とか思って当たり前ですけど、そういうんじゃなく、社会的に、一般論として「こういう嫌い方はよくてこういうのはダメ」なんて主張するのは変だ。
「博士の異常な愛情」なんて言葉は、映画タイトルという一種のポエムだから魅力的なのであって、真面目に人間の行動と心の善し悪しを議論する時に使うもんじゃあねえと思いますし、それが愛情じゃなく欲情でも一緒です。
論点がズレててよくわからないと言われたので補足しておきます。
メインは前半で、「生殖や性器が性的なものでない」という見方に納得できないということです。
じゃあそういう人らにとって文句なく性的なものの定義ってなんなのよ、と疑問を投げています。
後半は、「生殖や性器が性的なものでない」と考える人は「受け手にとって不本意な部分や状況に対する欲情は正しくない」という気持ちを秘めてそうだと推測した上で、正しい欲情も間違った欲情もないのだと反論しています。
なので後半は、「受け手にとって不本意な部分や状況に対する欲情は正しくない」という気持ちが背景にないタイプの「性器≠性的」説には関係ない話ですね。
私は、ある人の性的な興奮を喚起させるものである、ということがその人個人にとっての正しい「性的なもの」の定義だと考えています。
世の中には色々な人がいるので、ほぼ全てのものが誰かにとっては性的なものになりえます。逆に、あらゆるものが性的でない、そそらないものにもなりえます。
で、個人の感覚の集積、つまり多数決によって、社会通念としても性的だとみなされるものが曖昧に決まるのでしょう。
ある人にとって赤く見えることが「赤いもの」の定義であり、人間の多くが赤いと感じることで社会的にもそれは赤いとされる、みたいな感じです。
なので、本文では異常な愛情や欲情などないと言ったけど、マイナーな欲情の仕方は、社会通念や常識からはなんとなく異常として扱われてしまうことは残念ながらありえるとは思います。
社会通念のあやふやさが表れたどうも尻座りの悪い部分ですが、仕方ない。
私が納得できないのは、
「生殖活動だの、生理だの、泌尿器やトイレだの、下着だの、授乳だの、そういうのは性的なものでない、エロいものではない。エロいと感じる方が知識・理解不足だったり妙な歪みがあるだけだ」
という意見の口ぶりが、エロいと感じる個人の感覚・性的好みを愚かで間違ったものだと断じているように見えることです。推測ですが。
後半はそのものズバリですし、前半も「(誰にとっても)性的なものでない(べきだ)」というニュアンスを感じます。
間違った好みなどない、というのが私のスタンスですから、反対します。
それとも、ああいう意見を言う人たちは社会通念に焦点を当てているのでしょうか。そのつもりで解釈してみます。
「生殖活動だの(略)、そういうのは性的なものでない、エロいものではない(と考える人が多いから、社会的には性的なものではないと扱われている)。エロいと感じる方が(少数派の感性を持っていて、世の中に対する)知識・理解不足だったり妙な歪みがあるだけだ」……みたいな。
多数決で負けた感覚がおかしいとされちゃうことを私はあんま歓迎しないんですが、現実社会としてはそうせざるをえないですからね。
でもこれだと、本当に列挙されてる物事が社会から性的と扱われてないかはあやふやなものになってくる気がします。
多数決と繰り返してますが実際に決をとるわけでもないですし、それに少数派と言っても三割票くらい取れてれば一応認められたりしそうですし。
生殖活動や生理や下着に興奮するのがそんなに少ないかどうかは非常に微妙なところですね。それを少しははっきりさせるためにこの手の論争が役立つかもですが、まあ所詮ネットというコップの中の嵐。
……やっぱり社会的な話ではないのかもしれない。
推測ばっかしててあれなんですが、更に推測で話をします。
元々の本文では欲情されることが不快だから性的さを否定してるのではないか、と書きましたが、一方で実用的な理由で性的さを否定する人もいそうです。
生殖や生理や下着が社会通念として性的だと認められると、隅に隠せと言われて、大変息苦しい思いをすることが予想されるので、それをさけるため性的さを否定する、みたいな。
でも私は、個人が何を性的と感じるかを裁くべきではないと思ってますし、ということは自由にされた個人の欲情の集積である社会通念としての性的認定をコントロールするのも難しいだろうと考えます。
とはいえ世の中の息苦しさが増えるのは私も好ましくないですから、「性的に感じる人が多いかもしれんけど、便利だから堂々と下着も売り買いするし産婦人科にも入るし学校でうんこもするしゴムも買うし夢精もするんだよ!」と開き直り、その方向で社会に働きかければいいのではないでしょうか。
性的に感じる人が本当に多かったら、そういう姿に欲情されたり、ましてオカズに使われたりするかもしれませんが、それは犯罪行為に至らないのであれば甘受したほうがいいと思います。
性的なものを隅に隠せという主張は、「私の好みとしてついつい性的に感じてしまうのに、性的に感じることはよくないとされてるから、目につく場所におかれるとこっちも目につく場所でよくない欲情をしてしまって困る、隠せ」という理由があったりもします。(単に周囲の雰囲気に合ってないから隠せ、なんかグロいから隠せ、などもありますがそれは置いておく)
性的に感じることを無理に禁じようとし、欲情を悪徳とするから、性的とされかねないタイプの欲情をそそるものを排除してくれという声が上がるのであり、逆に「堂々とディスプレイするよ、でも性的に見てもそっちも堂々としてていいよ」とすれば許しあいになってくれるんじゃないでしょうか。その思想を広めるのに多少時間がかかるとは思いますけれど。
もし、性的に感じる人が一定数いるある物を、堂々と見せても咎められない社会であってほしい、けれど性的に見られたり欲情されたりするのは嫌……という全てを望むんだとしたら、それはやはり片っ端から精神的去勢をし、欲情能力を物凄く限定するしかないような気がしますし、私はそれには反対です。
私がサードブロガーという言葉を始めて目にしたのはこの記事を読んだときである。
はてな村では「誰が言ったか」より「何を言ったか」とか言うけど嘘だよね。またはサードブロガーアワードでも、γブロガーアワードでも、+αブロガーアワードでも同時並行で勝手にやったらええねん
この記事について私はこのような感想を残している。
順位を気にしてるからこそ「順位なんか気にせず行こう!」って言ってるみたいで、なんか根本的な解決になってない気がする。宇野常寛っぽい。 2013/10/19
http://b.hatena.ne.jp/masudamaster/20131019#bookmark-165863730
「電車に新しい席を作ろう」という話を書いたつもりです
と言っているが、新しい席も何も、インターネットという場には無数に席がある。それこそ無限にだ。
勝手に座ればいいのに、アルファブロガーがうんぬんアワードがうんぬんと言い続けるその姿勢
カースト論そのものがそもそも馬鹿馬鹿しいし、ましてやブログにはそういった類の優劣は無いはずだ。
私のような疑問・違和感を他の人も表明している。
・サードとかフォースとか言ってる人たち
ゴメンやっぱりよくわからない。
この人ら、何が言いたいの?
「僕はアルファーになれない。アルファーになれない僕らは何者にもなれないのと同じ。でも何者にもなれないのはツライから自らが何者かであると自称する。よかったら認めてくれ」って話なの?そうとしか聞こえないわけだが。
それが書き手個々人の自尊心とかやる気にとって意味があるのは何となく分かる。だが、読み手にとってそれ何の意味があるの?個々人が胸の内で持っていればいいことじゃないの?その概念を広めて最終的にどうしたいの?
(略)
そのサードブロガーとやらは、アルファとは何が違うの?アルファと違って何が読み手にとって素晴らしいことなの?別にブロガーにプロアマの違いがあるわけでもないし、「アルファブロガー」の劣化版としか思えないわけで。 サードブロガーとして認められたら何か満たされるの?すでにサードブロガーとして認められた人たちは、何か心が満たされましたか? 何か生活変わりましたか?
自分なりの目標立てて満足したいだけなら、そんな名前いらなくない?
そもそもなんでアルファにこだわる必要があるの?アルファとかにこだわってるの君等だけじゃないの?自分に自信はあるけどアルファは無理、だからセカンド、サード、フォース、フィフス。そんな志半ばで折れてくたびれた人みたいな話に読み手が付き合う必要あるの?
毎日のように「本物のブロガーとは」みたいなこと言ってる人は、本当はアルファになりたいんじゃないの?
「僕らはアルファになれないブロガーです!」と自称する意味がわからないし、それを公表して一体どうしたいのか、とは
誰もが持つ疑問である。ほとんどのブロガーはアルファではない。しかしブロガーはそんなこと気にしないし、ましてや
いちいちそのような自虐めいたことを記事にはしない。
「僕らは競争から降りたんですよ」と言っているわりにはアルファブロガーに対する意識がとても高く、これにも矛盾を感じた。
この時点で、私のサードブロガーに対する印象は最悪である。自分の立ち位置を意識して書かれたブログなどに価値は感じないからである。
このような記事が投稿されたが、私はこれがまったくわからないのである。
何が言いたいのかわからないのである。村上春樹がここで出てくる。
「○○かもしれないし、○○かもしれない」
「完璧な○○など存在しない。完璧な○○が存在しないようにね」
一事が万事この調子で、とても難解な文章になっているし、私や他のはてなユーザーへの回答・反論にはなっていないと言って良い。
なっていないから「サードブロガー」の意味は二転三転したのである。
それはこの池田批判にも繋がる
サードブロガー問題について理解したいと思っている読者に対して何かを説明しようという意図は全く感じられない。説明する前にさらに自分の課題意識を語って問題をさらにややこしくしている。読んでる人完全においてけぼりである。
そうこうしていると、次はトマト祭り(?)なるものが開催され、よくわからないが、この事件には私よりも私以外のユーザーが不満を漏らしていた記憶がある。
たぶん、トマトをお題にブログを書いてブックマークし合う、といったような話であろう。
身内ブクマ問題である。この部分にはあまりコミットしていないので私にはわからない。
そうすると今度は、やけに声の大きいとても目立つブロガーたちが集団で現れた。体調わる子を筆頭としたはてな女子、大彗星ショッカー、まつたけ、etc・・・。
彼らははてなで大騒ぎをした。とんでもないタイトルととんでもない極論をまぶした記事をはてなに大量に投げ込んだ。
はてな移住前のファンを引き連れてやって来た(ホットエントリが確保されていた)。
お金をください、ファンになってください、と叫んだ。自殺宣言をした。馴れ合った。アイコンを女体に変えた。
私は彼らのことをさっぱり理解できず、嫌悪感を持ちながらも考察した。彼らがブログを書く動機や目的は何か。
そして彼らをどうカテゴライズすればいいのか。
そのとき、私やはてなユーザーは、池田氏が提唱した「サードブロガー」という言葉を持っていた。
これを使わない手はなかった。
池田氏の提唱する「サードブロガー」に対する嫌悪感と、新参DQNブロガーに対する嫌悪感が合体した瞬間である。
「まとめて呼んでしまえ」
ここで池田氏は「提唱者が違う」とおっしゃられるかもしれないが、私はこの記事を提示したい。
サードって言葉使うと俺はサードではないとか、まつたけは一緒にするなとか、原義がー事実誤認がーってうるさいんだよ、あいつら。
そんな細かいこと知らないし、ソース当たるために読み返さねーよ…
そこまでしたくなるほど魅力的な人物や文章がない。
かなり口は悪いが、それなりのことは言っていると思う。
つまり我々は、友達でもない人のブログをいちいち過去に溯ってまで読まないということだ。
自分のブログを過去に溯ってまで読まれるということはとても光栄なことであり、それは自分に興味を持ってくれたということでとても嬉しい。
ただ、それはとても稀なことであり、だから私の過去もあなたの過去もほとんど参照されない(それは救いでもある。東浩紀レベルになってようやく参照されまくる)。
池田氏以外の最近のブロガーにも言えることだが、「私はこのときこう言ってるんですけど!」「過去記事見てください!」
というのは文章のコミュニケーションではたぶん有り得ないことだ。文脈の時制を統一するのが文章のやり取りであり、もちろん
日本のインターネットに居るほとんどの人ができているのに、サードブロガーになると途端にこれがダメになる。
「私の過去ぐらい知ってるでしょ?(みなまで言わないわよ)」ときたもんだ。そんなもん知らないのである。
そういう姿勢が、サードブロガーの文章の読みにくさの大きな要因となっている。
話は逸れたが、つまり私や他の多数のユーザーにとって、「サードブロガー」の提唱者・代表者は間違いなく池田氏だということだ。
さて以上が「私がサードブロガーという言葉を使うまで」の私的(主観)歴史である。
サードブロガーという概念・言葉が二転三転した経緯を私はこう捉えている。
他の人はどう考えているのか。最後に私の目に止まったものを紹介して今回の記事を終わる。
kanose 「サードブロガー」が今までのブログとどう違うか明確に説明されず、他人が理解できない時点で、定義がどんどん出てきたのは当然だったんじゃないかな 2013/12/23
そんな絶望した世界にサードブロガーという言葉が定義されました。
だって、そんな名前つけなくてもWebには、小さな世界や日常をを映し出す人達なんていくらでもいた。
トマトブロガーになりませんかって茶化す記事があったときに一緒になって笑っていた。
別の人間も、フォースブロガーでもプラスアルファブロガーでもええやんと言い出した。
いっぽうで、はてなブログの馬鹿騒ぎに苦々しい思いをしている人たちは、
だから、彼らが大して大事にせずにほったらかしにしてた言葉を使うことにした。
この動きがあった時も、大して反論のようなものは見られなかった。
この時点で、もはやサードブロガーは提唱者のものではなくなってしまった。
乗っ取りが完了してしまっている。
(略)
起源などどうでもいいとはいわない。言葉を提唱したこと自体に意味が全くないとは言わない。
だが、サードブロガーという言葉をどのように使うか決められるほど
トマトバイトテロが洗濯機に入って浮かれているときに笑って見ていた。
ところが、「サードブロガー」周辺のやりとりをみるに、このあたりがよくわからない。PVや影響力だけがすべてではない、と主張しているようにみえるけれど、実際、サードブロガーに該当しそうなブロガーがPVや影響力を軽視しているようには見えなかった。既存のはてなダイアリー・はてなグループのブログ群のほうが、よほどPVや影響力を意識せず動いているようにみえたからだ。そして、彼らはお隣さん同士で「拍手」をつけあい、「あしあと」を気にしあうようなプライベート的ブログ文化圏のソレに近いようにもみえた。本人達の思惑はさておき、日本のブロゴスフィア全域を前提として考えた時、第三の極と言えるようなポリシーの鋭利さは見出しえなかった。
http://anond.hatelabo.jp/20131222231100
http://anond.hatelabo.jp/20131209142219
http://anond.hatelabo.jp/20131224125320
http://anond.hatelabo.jp/20131228163827
俺はブログと言う世界で生きている、この世界で偉いのは金持ってる奴でも喧嘩強い奴でもない、土日祝日ブログ書く奴。サードブロガーです!
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2013/12/24/170036
めんどくさいがざっくり説明しとくと、
元々、Tumblr界の魔神otsu●e氏が道路を暴走し、それを「情報戦略は始まっとるんや」とウチで茶化したらクマのお医者さんが鉄製の屑籠を振りかぶって
「悪いことは悪いって言わんかい...オマエネタにして調子乗っとったらぶち○すど、このクソ猿ブログが!!」
と怒鳴られ説教されて「やべー!殺される―!!怖ぇぇぇっ!! (((( ;゚Д゚)))」と冷や汗かいてるところを取り囲んでブコメで騒ぐはてな村お馴染みの盛り上がりの一連をyarukimedesu氏が
ブログ記事を沢山書いて、アルファーブロガーになりたいな、なんて思ったこともあったけど。今でも思うけど、こらあかんわ。人生はあきらめが肝心だ。“
と書いた。
それを見たinujin氏が「アルファなんて目指さないでいいんじゃね?」と言い出したところが最初。
だから元々の発祥も「ボクたちサードブロガーはもっとブログ界を盛り上げて...」なんて意味でも無かったんだが、ちょうどその頃新進気鋭でロジック・思考甘々で釣りまがいの記事を挙げまくって軽く炎上するようなブログが(昨日今日も何やら燃えてたらしいが)幾つも出て来たもんだから「新進気鋭のブログ=サードブロガー」と結びついて、その瞬間本来的な「サードブロガー」と言う言葉と概念は死んだ。
(略)
好意的に考えれば、支援活動に入れ込むあまり、他者に対する想像力がちょっと機能不全に陥ってるんだろうね。
熱意を持って敬遠されがちなボランティア活動に励むんだから、その程度の行き過ぎ、独善的な思い上がりは
むしろ好ましい資質かも知れない。まあ、議論の趨勢には何の影響も与えないし、境遇を理解はしても共感はできないけど。
行き過ぎと言えば、生存権という言葉も鷹揚に使われすぎだと思う。
誰もが命を奪われない権利を持つのは、消極的自由の意味において自明だとしても、
積極的自由としては色々と制限がつくのもやはり自明なんだよね。
現に憲法上で生存権が保障され、法で定められた生活保護や各種福祉を享受する権利を持っているとしても、
「迷惑利用者に図書館を無条件で明け渡すべきだ」などという個別具体的な権利要求は、
少なくとも生存権を根拠にする場合、プログラム規定説によって却下されてしまう事は自明。
もちろん、コップの中の嵐を巻き起こしているとは言え、今の所新聞記事になった図書館はホームレスを追い出しては
いないんだけど、もしその能力の限度を超えた場合には、排除と思われるような行為に出てもまず咎められないはず。
というか、図書館に生存権保障の機能を与えるのが効率的とは普通考えないだろうから、立法措置や行政の裁量が
仮に発動されるとしても、図書館批判派の想像とは全く違ったものになる事もやはり自明だろうしね。
立憲主義の矩を超えて国家が私人の生活に干渉するのは、個人の尊厳を守りその自由を保障する為なんだから、
保障されるべき自由が「迷惑行為を掛けても免罪される自由」か「迷惑行為を掛けずに済む自由」かのどちらだと
問われれば、恐らく後者だと考えるのが普通の感覚・・・という表現に過敏症を発症しちゃうかわいそう人も
いるようだから言い換えると、ともかく個人的な感覚としては妥当に思われるんだよね。
そして言うまでもなく、憲法というのは国家機関を制限するもので、いくら生存権規定があろうと、
思想信条の自由として私人がその拘束を免れうるのは自明。この辺りも雑に議論されているような気がする。
人権を否定するなんてハードな表現じゃなくて、誰それの無限定かつ無条件な生存権の保障よりも、
児童福祉や高齢者福祉、救命救急医療にリソースをわけてくれと考えるのは、現に立法府や行政府が
そうした姿勢であるように、自明な現実でもあるわけだから。むしろここで言われているような
「健全な良識や良心、他者への共感」に目覚めた人は、同時に生存権がまるで自明なんかじゃない世の中にも
気づくはずで、そこからどう他者を説得しようかと葛藤したりするのが自然な流れのはず。
で、もし私人が生存権を保障する義務を負うと本気で主張するなら、啓蒙臭にウンザリした多くの人が反発しているように、
「まずお前が自分の家でかくまってやればどうなんだ」という当然の指摘が来るのは避けられない。
図書館が開いてる時間帯だけ他人に開放する程度なら、家主の生存権にかかわる事態にはまずならないだろうから、
たとえば「不快感で弱者をトリアージするのか」なんていう、理解に苦しむ言い掛かりや魔女狩りを被る可能性も出てきてしまう。
加えてこの場合は、本質的には個人の勝手気ままな善意に依存するボランティア活動も全然不十分なものとなる。
権利に基づいた正当な要求に対する義務として、対応しているわけでは全然ないからね。
本気の本気で世の中を考えるんであれば、もう少しカッチリした議論を見せてほしいなと思う(まあ関連エントリ・レスを
全部見てるわけじゃないんだけどね)。「健全な良識や良心、他者への共感」を大事にするからこそ、もう少し葛藤なり
ん? 俺はずっと意見変えてないと思うけど?
だから「仮の話」なんだよね? 理屈的に反論はこれで終わってると思うけど。
君の想像上でどれだけ民主的に是認されたやり方だとしても関係ないわけで……。
(民主的に正しさが保証されるような問題ではない、という意味で、たとえ君の仮定が実現しても関係ないのだが、それ以前に、現実の話をそもそもしてない)
人手は足りないけど、診断に使う時間が足りないという状況ではないと思われますが。
「極限」が通常の意味でならそうなるはず。「極限」に新たな意味づけをしたいんだろうけど、
合理的な論拠がないから、第三者には恣意的な区切りにしか見えないわけ。
時間についてはwikipediaにすら書いてあるくらいトリアージの基本中の基本だが。
君が増田で繰り広げる言論活動は内輪じゃなくて、顕名はてなは内輪なのか?
名を出して、自分が名指しで批判されるようなところでガチに議論することはリンチだけど、名前も出さずいつでもケツをまくったり全部リセットして最初からゴネ直すことが可能なところでそうでない相手をネチネチやることはリンチに当たらないわけか。
話にならんのはどっちだっつのw
少なくともこっちのレスは多分文体でわかる・・・はず。多数派工作をした覚えはないなあ。
いや、口調なんていくらでもいじれるからなあ。
はてな村に来てから半年くらい経ったが、はてな村で飛び交っているネタとか揉め事とかはどうでもいいことばかりだ。
まさに「大喜利」である。
どこからともなくお題が湧いて出てきて、はてなーどもは我先にと「おれのネタのほうがおもしろい」「いやオレのほうが」「いや僕のほうこそ」...(中略)...といったコップの中の嵐をやっている。
はてな村に飛び交っているよく分からないネタや用語は、いわゆる「ネットスラング」と同根だ。例えば、2ちゃんねるには「香具師」という「奴」を意味するスラングがあるが、「香具師」という用語をわざわざ使わなければ語れないテーマなどない。つまり、使う必要がないのである。
もちろんこれは、「香具師」や「ぬるぽ」といった無意味な言葉を"使ってはいけない"ということを意味しない。まさに使うも自由、使わぬも自由、である。
だが、ここからがネットスラング愛好者の愚かなところである。彼らは「スラングを言う自由」だけでは満足しない。「スラングを知っている」こと自体を一種の「特権」と見なすのである。実際にはどうでもいいようなネットスラングを「知識」という囲いで捉えて、そのインターネットスラングを知らない者を攻撃しだす。彼らは、自分の知識の浅さをネットスラングという空虚な代替物で、「上げ底」しないとやっていけないのである。なんと哀れな人種だろうか。
はてな村も無意味なネタが飛び交っている。ブックマークがたくさん付いた記事の「はてぶページ」を見てみればいい。大喜利のようにコメントをつけているブックマーカー、そしてそれにスターをつけて「大喜利化」を後押ししているはてなユーザーの共犯関係が見て取れるはずだ。
このようにはてな村では「大喜利化」が進行しているために、「はてなスラングを見抜けるか否か」などという心底くだらない基準で議論(と呼べる代物ではないが)が行われている。最悪なことに一部では「ネタでした予防線」が張られ始めている。「大喜利」化のおかげで、自分の無知がバレそうになっても「ネタでした」と逃げることができるのである。ひどい場合には「ネタにマジレスカッコワルイ!」と、なる。
はてな村のこういう傾向が進んでいくと、2ちゃんねるで言われる「半年ロムってろ」の状況に近付くのか。しかし、半年ロムったところで、得られる知識といったらそれこそ便所の落書きレベルの代物だ。
ところで2ちゃんねるや低脳はてなユーザーはネットに過度な期待を寄せている。端的に言えば、
という安易な二項対立思考に陥っている。既存の報道機関の中でもテレビや大新聞の問題は別に日本だけではなく言われているが、メディアはそれだけではない。テレビや大新聞の問題ある報道姿勢を批判してきたのは、ネットが初めてではない。ここを認識しないでネットに過度な期待をするからネット脳になってネット言説に酔い痴れてしまって、やがてはネットスラングを神秘化してしまうのだろう。
ネットが誕生する遙か前から、先人たちは文献上で新聞やテレビなどのマスメディアを批判してきた。その批判の精度・深さを比べれば、大した知性も持たないような「市民」のネット言論などゴミ以外の何物でもない。
はてな村は、「人が集まったら面白いことを言わないといけない」という強迫観念にとりつかれている。テレビの視聴率競争のようだ。
ブログでテレビや新聞などを批判するのなら、「先人たちの蓄積」に範を求めるべきだ。たしかにネットの出現により、既存のテレビ・新聞業界は衰退していくかもしれないが、だからといって出版業界全体まで衰退するのは、それこそ知的なものに対する冒涜である。その道の専門家の思考の結晶の数々が、無視され、人々の視界から消えていく社会こそ、反知性社会だ。
「はてな村ネタ地区」限定のネットスラング郡が重要視され、文献上の知が軽視されるようになれば、はてな村は反知性主義の一大拠点になるはずだ。
ロスジェネの一員として、「戦争を望む」などと思ったことは一度もないし、あれは、論壇向けのアピールに過ぎないと思っていた。あんなのを喜ぶのは左翼的知識人界隈だけで、どうせ著者だけが注目されて終わるだろうと思っていた。
いや、全く。
つーかさ。なんかさ、なんかさあ。おかしいよ、みたいな部分がある。
何も、上だけの話じゃなくて。
例えば、
決断主義トークラジオAlive2 ビューティフル・ドリーマー
http://talkradioalive.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/alive2_ed70.html
を聞け聞けいわれて聞いてみたが、売り出し中の評論家(宇野常寛)をどう戦略を立てて売っていくかみたいな話になってる。お前らが頭が良いのは分かった。でも、お前の人生設計なんてどうでも良いよ、正直。どんどん影響力の低下している論壇という狭い世界の中で、さも重要そうにみみっちい話をしている。
でも、なんつーか、スケールが小さいな、お前ら。みたいな。世の中を良くしようとかじゃなくて、自分の立身出世の方便な訳だね。みたいな。もういいよ。権威は消える運命にあるみたいだな。別に良いけどさ。
エリートは立身出世しか考えていないし、左翼は日本政府を責めることしか考えていないし、ネット右翼は言動は勇ましいけど、頭が悪いから快楽に流されて暴れるだけだし。もう、ワハハハな感じ。
ニコニコ動画(http://www.nicovideo.jp/)を見て思ったこと。
結局、現状のインターネットの場合、ネットの「自由度」から来る「危険性」自体が、ネットの”ウリ”になっており、それをどううまく利用するかがビジネスになるどうかの鍵の一つになっていると思う。すなわち、重要視されるのは、
・そして、グレーゾーンに踏みとどまる「勇気」。
ページビューでは、はてなと2chは多分同じくらいだと思ったが、はてながいまいち存在感がないのは、そんな理由からだと思っている。というか、最近のマスコミの影響力の大きさを実感して、ネットって、所詮、コップの中の嵐じゃないの?という気分もある。
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※ツッコミがあったため、念のため補足。
http://www.alexa.com/data/details/traffic_details?url=2ch.net
http://www.alexa.com/data/details/traffic_details?url=hatena.ne.jp
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・・・しかし、逆の発想をすると、「安心安全簡単」に使えるネットいうものもまた求められている(し、本来の日本の得意分野はそちらである)。よって、素直に家電屋さんはそちらの方を目指した方がよいのではないだろうか?任天堂WiiのOSのようにクローズドな家電業界の共通プラットフォームを作り、そこで買った商品の支払い方法なども共通化すれば良いだけだと思うのだが。端から見ていても、このままでは、ネットビジネスのおいしい部分は、グーグルか、アップルか、任天堂か、MSあたりに独占されると思うのだが。
一日本人としての任天堂びいきもあるが、近い将来、Wiiがお料理チャンネル、アニメチャンネル、教育チャンネルなどを整備してSTBの標準になることもあり得るんじゃないかと思う。