はてなキーワード: 立憲主義とは
「両性の合意のみに基づいて」の「のみ」は、婚姻を異性婚に限るという意味ではなく、婚姻をする2者以外の意志の介入(端的には家制度下による両者親族の意向など)に歯止めをかけるために入れられた文言である、というのが、24条1項の立法者意思についての一般的理解。そもそもこの憲法が誕生した時代に、「同性同士が結婚する」というアイディアは、法曹界だけでなく当時の同性愛を実践する当事者にとっても全く現実的なものではなかった。
このことから、立法者意思説に立った場合も法律意思説に立った場合も、24条1項は、同性婚を積極的に禁止しているわけではなく(人間と法は、その時点での想定の枠外のものを「禁止」しない)、同性婚を「想定していない」(未規定)という解釈が一般的である。2021年の札幌地裁判決に始まる各地での同性婚訴訟の判決も、このような解釈に基づいている。その点で、https://anond.hatelabo.jp/20240316113208 の増田が書いている「憲法は同性婚を想定していない、というのは憲法学会の通説であり」は100%正しい。
ただし、同じ増田が追記で書いている「両性の合意がない以上、それに準ずる制度は作れたとしても憲法上の婚姻には該当しないって理屈付けしなきゃ無理」のほうは間違っている。「憲法で同性の婚姻が保障されていない状態のまま、民法戸籍法において規定された婚姻を同性に拡張すること」自体は法律論的には問題がない。憲法上では未規定だった対象や事項を下位法で包摂するというのは、憲法24条以外の憲法条文でも当然存在する。たとえば肖像権・プライバシー権は憲法上では想定されていなかった未規定の権利だが、第13条の幸福追求権という抽象的な包括的人権から敷衍される具体的権利性のひとつととらえることにより、後に民法で規定され保護されることになった。そこは、増田も引用している高橋和之先生がこのように書いている通りである。
「日本国憲法は、人権をそこで列挙した個別的人権類型に限定したのではなく、時代の変化に応じて生ずる個人の新しい必要・要求が具体的人権として個別化されることを認めている」
なお、ここで元増田に都合の悪いことも書いてしまうと、元増田が引用している高橋和之氏の「立憲主義と日本国憲法」 の
婚姻の自由については憲法24条が保障しているが、近年議論され始めた同性間の結婚まではカバーしていないというのが通説である
という部分は、実は2020年発行の第五版では「通説であった」と改められている。このことは国会質疑でも取り上げられている。https://twitter.com/P_reDemocracy/status/1597644240489701377
それはともかくとして、2021年札幌地裁判決では、少なくとも同性カップルに対して権利保護の仕組みを一切立法しないのは国会の裁量範囲を超える違憲状態であり、このような違憲状態を解消するうえで、実際に現行の民法戸籍法が規定する婚姻を同性に拡張することで解消するか、それとも海外のシビルユニオンやPACSのような、婚姻と似たような形で同性間にもパートナーシップの法的保護を保障する、別建ての法律を新たに創設することで解消するかは、国会の広範な裁量に委ねられる、としていた。以後の各地域での同性婚訴訟の基本的な流れも基本的にはこの立場にあった。「同性間に結婚を許してもいいし、同性向けに(あるいは同性も含めて)結婚みたいな別制度を作ってもいいから、とにかく何かやりなさいよ」ということだ。
一方、今回の札幌高裁判決は、この建て付けから一歩踏み込んで、現行民法戸籍法が同性間の婚姻を認めていないことは、憲法24条1項にも違反するとしており、ここまでの判決とは大きく意味合いが変わった。これは同性婚訴訟の当事者を支援する法曹にとっても予期せぬ判決で、驚き混じりの賞賛の声が出ているほどだ。ただし、その「違憲である現行民法戸籍法のあり方」に対してどのような立法的解決を図るかは、引き続き立法機関たる国会の裁量に任されていると考えられる。よって、憲法24条1項の定める「婚姻」の下位分類として、現行民法戸籍法の定める「婚姻」と、新たに民法で規定される「何か」(たとえばシビルユニオンやPACSのような婚姻類似制度)が併存する、という建て付けも可能であろう。その点では、札幌地裁判決に続く一連の判決での示唆と、求める立法的解決の形が激変しているわけではないと思う。
とはいえ(これまで保守派が「同性婚を禁止している」と認識していた)24条1項自体にもとづいて「現行民法戸籍法は違憲だ」という判決が出るというのは結構すごいことで、おそらくこの判決が出たことで「国会がどのあたりを落としどころにするか」というラインも変わってくると思う。おそらく自民党保守派も「婚姻制度が提供する法的保護のごく一部について最低限保障するようなショボいシビルユニオンを作れば違憲状態は解消され、保守派も何とか納得するだろう」だったものが、「同性パートナーシップを現行民法戸籍法の「婚姻」には絶対入れさせたくないが、そのためには、あるていど充実したシビルユニオン法案を提案せざるを得ない」という感じになるかもしれない。法相から以下のような物言いが出てきたのはその潮目の変化を表していると思う。
小泉龍司法相はこの日の定例会見で「国民生活の基本や国民一人一人の家族観にも関わる問題で、国民的なコンセンサスと理解が求められる」とし「われわれも、議論を進めるという意味では貢献できるところがある」
岸田首相「同性婚規定、なくても憲法に違反しない」 札幌高裁が「違憲」判決出したのになお後ろ向き:東京新聞 TOKYO Web
与党内でも、公明党はもともと同性婚推進派だし、自民党内で同性婚反対の論調をリードしてきた安倍派はいまズタボロの状態にある。外堀は徐々に埋まりつつある気がする。
あまりにも多すぎて取り上げられないので。
自己の意見ではなく憲法学の通説的な見解はこうだって紹介してるものに対して「わたしの考えた最高の見解」が数多く。別にいいけど。
それに対して岸田総理は「憲法は同性婚を想定していない」と発言し、はてブやX他のSNSなどで、主にリベラル左派からの批判が集まっている。
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
この「両性」というのは「男女」という二つの性を指すというのが政府見解、それに限らないというのが今回の札幌高裁の判断だ。
少なくとも同性婚に関して言いますと、これは議論がありますが、日本国憲法の場合には二十四条で法律上の婚姻が尊重されるべきであるという規定があって、そこには婚姻は両性の合意に基づくということになっていますので、通常の解釈は、法律上の結婚は男性と女性と、両性というのはそういう意味だと。
もちろん、ラジカルに、両性というのは二つの性ということなので、男性と男性、女性と女性というのも解釈上あり得るというごくごく少数の説がありますが、一般には日本国憲法の現行規定で同性の法律上の婚姻を認める制度は設けられないことになっているんだと思う
憲法24条は(略)同性のあいだの結合をも『家族』とみとめるほどには革命的ではない
婚姻の自由については憲法24条が保障しているが、近年議論され始めた同性間の結婚まではカバーしていないというのが通説である
近年(2017年)においても憲法学会の通説では同性婚は憲法の保障するところではない、とするのが憲法学会の通説であり、政府見解は正しいと思われる。
どちらかというと札幌高裁の方が憲法解釈を変えようとしている、と理解した方が良いだろう。
ちなみに高橋先生は芦部門下として憲法学のスタンダードだった「芦部憲法」の補訂を行っていた人物で、戦後憲法学の本流と言っていい。
また、樋口先生はよりリベラルな立場で、立憲デモクラシーの会代表として安倍政権の事実上の解釈改憲(厳密に言うと政府は解釈改憲はしていないという立場。ややこしいが。)を批判しており、同会はその後市民連合に発展的解消をしている。
憲法24条1項は文言上両性間の婚姻を定めているが、個人の尊重がより明確に認識されるようになったとの背景のもとで憲法24条を解釈することが相当である。(略)
社会情勢の変化により憲法解釈を変更すべきとのこと。まぁ分からなくもないが裁判所がそれを言うのはどうなんだろう。
例えば有名な尊属殺重罰規定の違憲判断について、最高裁は「社会情勢の変化」などは理由にせず、「目的に対する法定刑が重すぎる」ことを理由にしている。(社会情勢の変化に対応するのは立法府との判断だろうか)
同性婚を可能とする国は多く、国連自由権規約人権委員会は、同性婚を享受できるよう指摘している。国民に対する調査でも同性婚を容認する割合はほぼ半数を超えている。
地方公共団体により実施されているパートナーシップ認定制度は自治体による制度という制約があり、本件規定が異性間の婚姻以外について一切手当をしていないことに鑑みると、 同制度によって同性婚ができないことによる不利益が解消されているということはできない。
法の支配とはかなり異なる考え方で個人的には危険なことを言ってるように思えるが、最高裁はどう判断するのであろうか。
(各国の状況で憲法解釈が変えられるなら9条周りは解釈改憲し放題だし、世論の動向で憲法解釈が変えられるなら刑事司法関係の人権保護上かなり危険だろう)
国会には立法の裁量があるが、同性婚を許さない本件規定について、国会の議論や司法手続において憲法違反であることが明白になっていたとはいえない。同性婚立法の在り方には多種多様な方法が考えられ、設けるべき制度内容が一義的に明確であるとはいい難い。同性婚に対する法的保護に否定的な意見や価値観を有する国民も存在し、議論の過程を経る必要があることも否めない。そうすると、国会が正当な理由なく長期にわたって本件規定の改廃等の立法措置を怠っていたと評価することはできない。
この場合、国側は裁判には勝っているという理屈で最高裁に上訴できない。
今回の場合は賠償が認められなかった点で原告側が上訴してくれたから最高裁の判断が仰げるものの、原告側が「違憲」判断が出たことに満足して上訴しなかったら議論が宙ぶらりん(高裁での違憲という裁判結果は残るが政府はそれに拘束されない)になってしまうところだった。このシステムも妙に思える。
そして、最高裁の判断のないこの時点で政府が憲法解釈を変更するというのはまさに行政府による「解釈改憲」となる。(いわゆる戦争法案のときは、政府は「解釈改憲をしていない」と位置づけていたにも関わらず、樋口先生たちだけでなく立憲民主党や共産党もそれを強く批判していたはずだ。それに比べても今回はド直球の解釈改憲になる。)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_65f17930e4b01707c6d2759b
◯想定していない以上制限もしていないわけだから、憲法解釈でごちゃごちゃいうよりも通常の立法措置でOKなんちゃう
◯想定していないがだからダメというわけではないでしょ。だいたい両性っていうのは本人同士が決めるものって意味だし。
(他にも複数あったけど全部取り上げるのはめんどくさい)
条文読み直してみてね。「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立」するんだよ。
両性の合意がない以上、それに準ずる制度は作れたとしても憲法上の婚姻には該当しないって理屈付けしなきゃ無理。
「まっさらな状態だから自由に可能なものだと立法できるじゃん、みたいな間違った意味に取る人が市井には出てきちゃうでしょ」
ごめん、本当に出てきちゃったね。こんなに読解力に欠ける人が多いとは思わなかったんだ
◯コメントにある両性以外の同意を法制化したら憲法違反になるよ。両性の同意のみなんだから。だから同性婚推進の方々は両性の意味をこねくり回している。
◯ここでの「同性婚を想定していない」は、結婚は異性の間でしか認識しない、同性婚というものはその存在を国は認知しないという意味であることの説明がいるんじゃないの。
そうでないと、同性婚については想定されてない、まっさらな状態だから自由に可能なものだと立法できるじゃん、みたいな間違った意味に取る人が市井には出てきちゃうでしょ。
“両性の合意のみに基いて成立”は“親など本人以外の合意が要らない”という意味で両性が“男と女”を強制しているわけじゃない、というのが憲法学者の見解なのでは。/
両性というのは二つの性ということなので、男性と男性、女性と女性というのも解釈上あり得るというごくごく少数の説
ですね、独自解釈ありがとうございます。
安保関連法案(戦争法案)審議時に有名になったSealdsなどを母体にしてできた市民連合(正式名称は「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」)という団体がある。
彼らはいわゆるリベラル左派系の野党共闘を目指してきた団体だ。
主張を見てみよう。
安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合(略称:市民連合)は、その名の通り、憲法違反の安保法制の廃止と立憲主義の回復を求め、「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」「安全保障関連法に反対する学者の会」「安保関連法に反対するママの会」「立憲デモクラシーの会」「SEALDs」の5つの団体の有志の呼びかけによって2015年12月に発足した市民のプラットフォームです。
今日までに、全国200を超える各地域の市民連合やさまざまな政策課題に取り組む市民運動との強い連携を築き、さらにより広く、暮らしといのちを守る政治の実現を求めて立憲野党との共闘に取り組んでいます。
市民連合は、2023年12月7日、衆議院第二議員会館で、立憲野党の代表・幹事長・書記局長のみなさんに「市民の生活を守り、将来世代に繋げる政治への転換を」を手交し、記載された基本的な共通政策項目を野党連携の土台とするよう、要望しました。立憲民主党からは岡田克也幹事長、日本共産党からは小池晃書記局長、れいわ新選組からは櫛渕万里共同代表、社会民主党からは服部良一幹事長、沖縄の風からは高良鉄美幹事長が参加、また、立憲民主党の大串博志選挙対策委員長、日本共産党の田村智子政策委員長も同席しました。
つまり、彼らの認める立憲野党とは立憲民主党、日本共産党、れいわ新選組、社民党、沖縄の風だといえる。
学者の山口二郎氏をはじめ、錚々たるメンバーが参加者・賛同者に名を連ねており、市民連合の一挙一投足はマスコミに大々的に報じられ、政治家たちの取り上げ方も大きい。(マスコミの報道について
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231207/amp/k10014281051000.htmlなど)
(参加メンバーについてhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BF%9D%E6%B3%95%E5%88%B6%E3%81%AE%E5%BB%83%E6%AD%A2%E3%81%A8%E7%AB%8B%E6%86%B2%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AE%E5%9B%9E%E5%BE%A9%E3%82%92%E6%B1%82%E3%82%81%E3%82%8B%E5%B8%82%E6%B0%91%E9%80%A3%E5%90%88など)
京都市長選挙で共産党vs非共産党の構図になった件について、市民連合の公式SNSが反応した。
https://twitter.com/Schwalbe_Kikka/status/1755076287159574743
国際関係の分析にはRealism(武力が近いとケンカしない),Liberalism(経済関係が密だとケンカしない),Constructivism(価値観が同じだとケンカしない)という3つのツールを用いるのが一般的だけど、今のイスラエルは民族主義国家であってアラブ系国民にユダヤ系国民と同等の地位を認めず自由民主主義国家ではないので、Constructivism的には本来、自由民主主義国家を標榜する西側諸国とは対立するはず。
2023年の司法制度改革で三権分立を放棄したあたりも、普通に考えると西側の価値観とは相容れない。
(ただまぁ、そもそも東側国家だって自国民は平等と考えている(故に同化政策によって少数者を弾圧する)のだから、「西側=自由民主主義国家」というフレーミングが西側による自己正当化に過ぎないのかもしれないが。)
西側諸国がイスラエルを擁護するのは、西側の敵であるイスラム国家の敵だからである(Realism的な説明)とか、ユダヤ資本やイスラエル企業との経済的関わりが深いからである(Liberalism的な説明)とかいう説明はできるのだけど、Constructivism的な説明はいまいち容易でない。
「イスラエルは民族主義的かつ非立憲主義かつ非自由民主主義国家であり西側の価値観とは相容れないが、カネと軍事的都合で支持している」という説明になるのならしっくり来るのだけど、どうも西側の世論を見る限りそうではなく、イスラエルが道義的に善であり正義であり西側と価値観を共有しているから支持してるという感じの反応が多く、その場合の共有されている価値観というのは果たして何なのだろうか。
「憲法には究極の理想を盛り込めばいいのだ」という発想は、むしろ『立憲主義』から遠い、という話〜5月3日に寄せて - INVISIBLE D. ーQUIET & COLORFUL PLACE-
@KokkaiSheep
ツイッターで、数字1字を全角、2字以上は半角で厳密に書き分けてるやつがいたら要注意人物だから気をつけた方がいい。主語の後ろに必ず「、」を打つやつも怪しい
https://twitter.com/KokkaiSheep/status/1653007474201616384
@sabumasa
ちなみに、「数字1字を全角、2字以上は半角で厳密に書き分けてるやつがいたら要注意人物」というのはなぜでしょうか?
@KokkaiSheep
すみません、上記しょうもない系のネタツイートです(内輪ネタ)
@sabumasa
そうでしたか。
昔、雑誌編集部に勤めていた時のその雑誌の表記ルールがまさにこれだったんですよ。私はそんなものをツイートでも踏襲する律儀?な人間ではないですが、そうじゃない人もいるかもしれない・・という、素朴な疑問でした。
@sabumasa
テニス(#GoGo添田、ジョコビッチなど)/映画/立憲主義/日々のこと/目標:不断の努力、まずは行動、小異を捨てずに大同につく/嫌悪:全体主義、権威主義、同調圧力、コンテンツ、こたつ記事、矛盾/ #私たちは微力だけど無力じゃない #インボイス制度反対 #戦争反対 #肉球新党 「#憲法審査会 を全部見る」スペース
話の屑籠
@kuzukago2013
ああ、法律の条文が、まさにそれですね。。
ひさまつ
@h83JHX4RAWXl9x0
有価証券報告書とか財務報告関係でも数字1桁は全角とかありましたけど、フォントも読みやすくなって、今では半角に統一した方が良いですね。
@livefuchu
憲法は政府を縛るものというデマ → anond:20221020172754
増田の説は本質的に『十七条憲法も憲法だ』と変わらん。日本国憲法は『立法権を制限する事で人権を保障』する市民革命思想の流れを汲む近代憲法。共産圏の憲法はその流れと異なるから価値観を共有しないとされる。
『十七条憲法も憲法だ』というのはかなり乱暴な要約だけど、まさしくその通り。しかし、市民革命思想を『立法権を制限する事で人権を保障』と表現するのは意味不明だ。人権のために制限したのは行政権であり、その方法が三権分立ということすら理解していないのだろう。
共産圏国家の憲法との比較は例として出しただけであり、国が違えば国家の統治方法も異なるので憲法が持つ価値観が異なるのも当たり前だ。共産圏国家の例示で的を得ないようなら、コーランを憲法としてるイスラム圏国家でもよい。
直球のアレ来た。この内容について語りたいなら、「外見的立憲主義」という言葉の意味くらいは調べてこよう。今時、中学生でも勉強を真面目にしていたらこのレベルのことは言わないと思う。
先進国の現在の憲法が正しいのであり、そうでない国家の憲法は「外見的立憲主義」だから誤った憲法だと主張したいのはよくわかった。しかし、憲法に絶対的な正しさを求める精神は、盲目的に宗教を信仰する狂信者の思想と同じとしか思えない。「中学生でも勉強を真面目にしていたら…」の文言から、論理的思考力の欠如が垣間見える。
こういう増田って「国民国家」の意味を知らないのだろう。自分は自動的に一丁前の国民だとでも思っているのか。日本は「王政、封建制」を「国民国家」に改造するために憲法を持った。その役目は、政府の権限制限や。
またか。現代の憲法こそが真の憲法であり、その価値観に反するものは憲法ではないという意見だ。大日本帝国憲法のことは、憲法の名がついてるだけで憲法ではないと、頓珍漢な主張をするのだろう。
勉強になるブコメがたくさんついてる、良かったね! 知らないことを知らないと言うときに「デマ」って言葉を使うのはやめようね。
「デマ」という言葉はただの釣り餌。釣れたのは知らないことを訳知り顔で語るブコメばかりで、勉強にはならなかった。
憲法学的に言いたいことはいろいろあるが、国語的な増田式定義によっても、憲法が国の統治方法を定めてるから、国を統治する政府は憲法の定めに従って統治する必要がある、すなわち政府が憲法に縛られてるんじゃない
そこでいう憲法は形式的意味の憲法を指していないのでは/憲法改正の限界を超えた(n月革命を引き起こす)「改憲」はあり得るんじゃないの?
前者のブコメに対しては後者のブコメで完全に反論しているので、私からは特にコメントはなし。『憲法改正の限界』は無限界説のほうが正しいのは歴史的事実として明らかだ。憲法という言葉で権威付けしようとも所詮は人間の作ったルールでしかないことを、後者のブクマカはよく理解できていると思う。
デマだと断じるから何かと思った。すべての憲法の基本書の最初の章に書いてあることなので、それくらいは読んでから主張してほしい。
『すべての憲法』はさすがに主語が大きすぎる。『フランス革命の流れを汲む近代憲法』くらいの主語にとどめるべき。日本や欧米以外の国の憲法を知っているわけではないのに。
意味論的憲法だ。どんな実益があるんだこの説明と感じた思い出があるけど、細かく整理したうえで示しておかないと解像度が低いままトンチキなことを言いだす人が一定数出てきちゃうからなんだろうな。
同意なので反論は無し。論理ではなく世界史や宗教的価値観で憲法を理解している人ばかりでうんざりなのは、この人も感じていることだろう。
笑った。確かにそうだ。
憲法の最高規範のやっかいさを端的に表現していて興味深い。ブクマの反応も含めて。
憲法が憲法自身を自ら最高!と自己規定する、というのは、そもそもマジックなんだよね。
これに答えられなければいくら教科書の言説を取り出しても意味がないよ。
法律というのは、根拠をすべて憲法に求めることができるんだけど
憲法だけは違う。なにせ最高規範なんだから、その上に憲法を基礎づけるものはない。
なんで最高なの?というと問いに、オレ(憲法自身)がサイコ―だっていってんだからサイコーなんだよ!というだけである。
しいていえば、今の憲法の思想が好きだ、重要だと思う、という社会のコンセンサス(通説という言い方をすることが多い)でしかない。
なので、社会のムードにとても左右されやすいのが憲法の脆弱性といえるんだよ。
だから、常に普遍的な原理だ!とかって言い続けてなければならなくて、わかってない奴や反論する奴がいたら、速攻でモグラたたきをしたがるわけ。
憲法の持つ本来的な脆弱性については、例えば、18世紀のアメリカの制憲の始祖たちも随分、起草前は随分悩んだらしく、
有名なフェデラリスト論文は、匿名で書かれ、憲法制定に至る思考実験を垣間見ることができる。
米国では、司法の世界をがっちりと国民参加も含めて重層的に構造化したから、その思考実験の結果が社会全体に引き継がれている。
陪審制をみたフランス人のトクヴィルが感動したのは有名な話だね。
連邦最高裁の重要判決ではほぼ必ず、制憲時の思いにさかのぼって答えを出す。
日本は、戦後、ある意味、そういう産みの苦しみを思想家たちが共有せず、戦禍というキーワードでなんとなく丸め込んでしまった(前文)。
そうすると、必然的に、戦争の記憶が薄れれば、憲法も意味がぼやけてくる。
立憲主義の意味だって、教科書開いて調べるようなもんじゃないんだよ。社会の仕組みとしてそれをいいと思うかどうかの話なんだから。
いいと思わない奴がいても全然構わないし。
踏み絵の禁止は、憲法上、信教の自由(20条)ではなく思想良心の自由(19条)の問題です。ちなみに、内心の自由は絶対的な自由と解されています。
思想・良心の自由が不可侵であることの第二の意味は、国民がいかなる思想を抱いているかについて国家権力が露顕(disclosure)を強制することは許されないこと、すなわち、思想についての沈黙の自由が保証されることである。国家権力は、個人が内心において抱いている思想について、直接または間接に、訊ねることも許されないのである。したがって、たとえば、江戸時代のキリスト教徒の弾圧の際に行われた「踏絵」、あるいは、天皇制の支持・不支持について強制的に行われるアンケート調査など、個人の内心を推知しようとすることは、認められない。
本条(引用者注:憲法19条)が,外界の行動や表現に現れない内心の自由を保障しているにとどまるのであれば,それは,本来,法の及びえない領域であって,サブリミナル(閾下)広告によって人々の行動を操作しようとするような例外的な状況を除くと,本条の保障する自由への侵害が直接に問題となる場面は,それほど多くはないとも考えられる。
本条への違反が独立に問題となりうる場面としては,①思想や信条の告白を強制する場合と,②特定の思想や信条を有することを理由に不利益を課す場合とが考えられる。
ちなみに、芦部142頁によれば思想・良心の自由の保障をあえて明文で規定するのは比較法的に珍しいようです。長谷部194頁によれば歴史的には宗教改革により対立する宗派の共存の必要から信教の自由が近代立憲主義が保障する権利の中核的地位を占めたのだそうですが、わが国では、明治憲法下において、治安維持法の運用に見られるように、特定の思想を反国家的なものとして弾圧するという、内心の自由そのものが侵害される事例が少なくなかった
(芦部143頁)ことから、思想・良心の自由を特に明文で保障する必要が意識されたのでしょう。
ここに宮台真司(1995)『終わりなき日常を生きろ――オウム完全克服マニュアル』がある。社会学的観点からオウムがなぜのさばり、オウム的なものに立ち向かうにはどうすればよいかを記した本で、少なくとも10年ほど前は哲学・批評・(現代)社会学近辺では必読文献だった気がする。
そんなわけで本棚にたまたまぶっ刺さっていたので「終わりなき日常を生きなきゃならないんだよなあ」ぐらいしか覚えてない状態で再読した。以下では、この本の要約ではなく、気になったポイントを断片的に取り上げていく。ちなみに私自身は特に宮台のファンではなく、ほかに宮台の本は『権力の予期理論』『サブカルチャー神話解体』しか読んでないと思う。宮台が今回何を言ってるのかもほとんど把握していない。
まず読み始めて思ったのは、知識人の対応がどうやらオウムと今回ではだいぶ異なるのだなあということだ。冒頭で宮台は、オウム事件がそれまでの歴史における過去から理解する、言ってしまえばそれまでの歴史の延長線上におけるものとして理解することを激しく拒絶することにまるまる一章を割いている。オウム事件を(それまでの文学等々より悪しき・劣った)オタク文化の影響とか、連合赤軍の二の舞であるとか、そのように理解する知識人を批判する。
この辺りは論壇における立ち位置を示すパフォーマンスが結構含まれている気もするが、そもそもオウムについて語りたいわけではないので内容には深入りしない。ここで問題にしたいのは歴史と出来事の間の関係である。
今回の事件について、いまのところ過去の歴史と連続的に語る言説は私の見る限り絶無といってよいのではないかと思う。右派にせよ左派にせよ、「これまでの日本では起きたことがないたぐいの出来事」として捕らえているようにみえる。流れた川の水が戻ることはないので、むろんそれはある程度正しい。しかし完全に歴史から切り離された出来事が可能なものか、という点に関しては議論があるだろうし、宮台自身かれの歴史の中で取り組んできたことだろうから、とにかく歴史との連続性を強調する言説がないこと、それがオウムのときとは逆であるらしいことだけを指摘しておく。
宮台は「普通の若者が普通にオウムに入ってサリンを蒔いた」という見立てを行う。そのため、「マインドコントロール」(宮台は使っていないようだが「洗脳」もここでは同義語としていいと思う)について、何か特殊な技術であったり、明確な必要十分条件を定義できるものではないことを強調する(自分の講義だってある種のマインドコントロールだと言いながら)。これは社会学・社会心理学近辺ではわりと常識的な考え方であると思う。なので被害弁護団が「洗脳」をかぎかっこ抜きで自明な用語として使っているのには、少なくとも私は少し抵抗を覚えないでもない(「洗脳」と言いたくなるような事実があることを否定しているのではなく、あくまで用語法の問題)。
本全体の骨子となる主張として、宮台はオウムに関わった若者が抱える問題は「『終わらない日常』に耐えかねて『輝かしきハルマゲドン』を夢想し、キツさに耐えかねて『夢想を現実化』しようと」した点にあると主張する。その処方箋として「終わらない日常を生きる知恵」が必要とされるが、その知恵を持っているのがブルセラ女子高生なのだそうだ。なぜならブルセラ女子高生は決してオウムに入ってサリンを蒔いたりしないから、とのこと。まあ妥当性については何も言うまい。
すでに見たようにこの本は世代論の本でもある。宮台は江藤淳やその後の加藤典洋、あるいは宮台と同世代の大塚英志も含め、年長世代が新しい世代を「何かが欠けた存在」とみなすことを強く批判する。「あんたがただって年長世代におんなじこと言われてただろう」というわけであるばかりか、そうした言説は不要なきらきらしさを持った「幻想」を下の世代に押しつける有害なものである、というのが宮台の主張だ。そして大塚に対して「われわれ新人類世代はまだ何かを諦めたが、ブルセラ=ポスト団塊ジュニア世代はようやく諦めるべきものを最初から持たず、そのため何も諦めていない。なのにまた旧世代の幻想に彼女たちを縛り付ける気か」的な批判を行っている。どうでもいいが大塚英志が軽く30年以上同じスタンスを取り続けているのを見ると本当に安心する(20冊かそこらは読んでる程度にはファン)。大塚のツイッター(ていつから本人がつぶやくようになったの? 俺の知ってる大塚はタイピングができなかった気がするが)を見ると、メディアなり知識人なりが統一教会と自民党―安倍との関係を追求しないことにブチ切れてて、やはり信用できるなと思った。政教分離の観点から国葬にも激しく反対していて、こっちは大塚が立憲主義の観点からそう言うのは分かるが、私が政教分離についてよく分かっていないので(天と地の分離ってけっこうキリスト教特有の考えだったりしない?というレベル)、問題意識は共有できていない。こういう場合は経験上5~10年くらい経ってから共感できるようになることが多いが、今回はどうだろうか。
話が逸れた。宮台は可能かもしれない処方箋として(異性を念頭に置いた)コミュニケーションを検討する。「全面的包括欲求」に対して応えることが可能なのは宗教と恋愛だけだからだそうだ。そして恋愛は社会の再生産を行う家族システムへの動機でもあるため、社会は宗教より恋愛をプッシュする。にもかかわらず恋愛からはじき出されて宗教に飲み込まれる若者が多いのだから、恋愛は処方箋ではあるが「やれるなら最初からやってる」程度のものでしかないと宮台は言う。
だから現実的な処方箋としては、旧世代が押しつけてくる「輝かしさ」など忘れて「まったり終わりなき日常を生きろ」ということになる。
「処方箋」の妥当性はさておくとしても、少なくとも統一教会は「若者問題」ではない(原理研については詳しく知らないが)という一点においてすでにそのまま転用はできないなあというのが第一の感想であるし、さておいた妥当性をほじくりたくなるなあというのが第二の感想である。
もう少し有意義なことを言うのであれば、この「まったりしたコミュニケーション」こそが統一教会の本質なのではないか、という気が脱会者や現信者のブログやツイッターなどを見てるとするのだ。10年代に流行った「居場所」の問題はいまだ解決していない。