男として生まれて育ち、社会の中で生きていく中で、男としての「性的役割」についての社会的期待を感じない男がいるだろうか? ようするに「男らしく」という呪いを負担に思ったことがない人は、本当にいるだろうか?
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男性は「男のクセに」と言われたりセクハラを受けることで就業先が限定されたり業務に支障が出たりすることが、女性に比べてどの程度あるだろうか。
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/09261100/?all=1&page=1
歴史的に、男性が社会の中で有利なポジションを占め、男性向けに社会をデザインしてきた結果として、この社会では男に対して「分際」という言葉が使われない。それは事実かもしれない。「○○の分際で」とか「○○のくせに」といった言葉は優位から劣位に対して投げかけられる言葉なので、そもそも用例として少ない、とは言えるかもしれない。
だがそれでも、「男らしさ」のような呪いが、個人に拭いがたい違和感を与える現象は常に存在するし、見過ごしてはならない、という視点を失ってはいけないと思う。
たとえば自分は、絵を描くのが好きだった。右手を奪われたら生きていけないだろう…と思っていた若い頃、それでも「男として生きていく中で、いわれ無き暴力に立ち向かうことが『男として』期待されることがあるだろう」という事実に直面して深く考え込まされたことがある。つまり「右手の拳をふるうこと」が求められる(ふるわなければ「男なのに!」という批判にさらされる)可能性である。ちなみに、拳というのは、素人が強めにふるうとかなり痛めやすい。もし後遺症が残れば、柔らかく繊細な線を引いたりすることは大変難しくなるだろう。
同年代の女性の方々が「いわれ無き暴力への不安と恐怖」に曝されていただろうその同じときに、同じ若い年頃の男性である自分は「いわれ無き暴力に立ち向かうことを社会的に要請される」結果として、「命にも等しい右の拳を致命的に失う恐怖」に怯えていたのだ。男性であるというただそれだけの理由によって。
私は、前者の不安が後者より軽いという見方にはもちろん与しない。同じ理由で、後者の不安を前者より軽く見るという見方にも与したりはしない。少なくとも、それは私にとって、以後数十年にわたってひたすら拳を鍛え続けるという行動に繋がった程度には、人生の中で重い出来事だったのだから。私は社会が期待する「男性」像を認めつつ、自分の期待する自己像を失わないために、「殴り方」と「殴った程度では壊れない拳」を身に付けざるを得なかったわけだ。
〈ジェンダーが人を苦しめることがある〉という知見を、こうして私は得ることになった。(もちろん「絵を描くなんて男らしくない!」という批判にも日々さらされていたわけだが、そういう「他者から直接に投げかけられる言葉」というのには鈍感になれば済む話なので、大した問題ではなかった。)
これまで「男」に蹂躙されたくない、という思いで、この社会の下でひたすら自己を物理的、社会的に鍛えあげた女性の方々に、私は深い同調と共感と敬意を表する。同様に、私は、社会の要請する「性的役割」を理解しつつ、それとは無関係な「自己」を保全するため、懸命に拳を鍛え続けるという行為に没頭した自分の思いに対しても、ある切なさと同情心と称賛を送りたいと思う。それは、社会が要請する「男性像」から「私自身」を守るために、どうしても必要だった。それを私は一応やりとげたと思っている。そして、可能なら、こんなくだらないことを、自分より年若い世代の人々が感じたり考えたりしなくなると社会は少しだけ住みよくなるだろうと思っている。私にとってフェミニズムというのは、そういうことだ。
もちろん、年を取れば、自分が「社会的に期待される性的役割」を演じることで得られる果実があることも知る。「男らしい」男性が「男らしさ」を発揮することで社会的によい立場や評価を得る(そしてその逆もまた)、という風景は、誰もが一度ならず目にしていることだろう。それどころか、むしろ「正しいこと」と考える人だって世の中には多いだろう。意識してそうする人もいれば、単に経験的にそうする人もいる。だが、一度このこと、すなわち「ジェンダーは人を苦しめることがあり、それに苦しむ人がいる以上は、ジェンダーを肯定して受益する人は〈搾取者〉である」ことに気付いてしまえば、残念ながら自分はもう「期待される性的役割」を果たして受益する側には回れない。フェミニズムに同調するか否かというのは、ただ単に、このような〈気付き〉にあると個人的には思っている。
少し話しがそれたが、「フェミニスト」を自称する人が、最初の記事のように、男性が自己の性的役割に苦しまされることなど「どの程度あるだろうか」(いや、ないだろう)といった反語的な言い回しで、その被害を「大したことねえだろう」というような片付け方をするのは、大変に筋が悪いことだと思う。性的役割に苦しまされることに、性差などない。個人の苦しみを簡単に計量することなどできない。そういう視点を見失っては、フェミニズムを唱える大義自体が失われてしまう。
フェミニズムと自称する女性中心主義的主張をツイッターなどで見かけるのは、もはや日常になった。それどころか、私の思う「まともなフェミニスト」を見かけることの方が大変少なくなった、という方が適切かもしれない。ただ、確実に言えるのは、そういう「ジイ」的主張は、物事を解決に導くことがないということだ。それは「示威」であり「自慰」的である。見たところ威勢がよくて気持ちいいかもしれないが、仲間内にだけ通じる耳障りのいい言葉であり、自分と異なる他者との対話から未来を開こうとする言葉ではない。もちろん、「お前のこの書き込みだって、カウンターに利用されれば、充分分断的に働くぞ」というご批判もあろう(それはなるほど事実かもしれない)。だが、少なくとも私のこの言葉は、最初の記事を書いたライター、それに同調する方々に向けて書いた言葉である。私はここまで、あなた方を無駄に傷付けるための言葉は使わなかったと思っている。そうでなく、あなた方が何かを考える際のとっかかりになれば幸いだと思っている。私の言葉は、あなた方に向けて開かれている。
つまり、「あなた、私のような男性フェミニストに対しても、その主張をするの?」ってことだ。一度考えてもらいたい。
たとえ、この社会で生きていくために一見無意味な(たとえば自分の拳を痛めつけるような)作業が必要だ、としても、少なくとも「私は社会に傷付けられたが、私は誰かを傷付けるようなやり方で自分を守ることはしなかった」と、自分が死ぬ時に自分に言うことができるというのは、割と大切なことだと思っている。あなたに同じことを強制するつもりはないが、あなたがどう考えるのかは聞いてみたいと思う。
長男か三男かでもだいぶ変わってくるぞ まあ次男三男自体がレアだけどな
次男はバックアップ要員 三男は...
議論の段階としては 「男性はジェンダーで苦しんでいるのか?」 まだここなんだよな 「ジェンダーに苦しめられている男性もいる」 ってのがまだ前提となっていないんだよね