はてなキーワード: ポテトサラダとは
40過ぎると脂っこいもの食べられなくなるよと言われたりしたが、40過ぎても私の食欲は衰えることがなかった
毎晩の晩酌はスーパーで購入した幕の内弁当とからあげ棒とポテトサラダ
からあげ棒とポテサラを食べ、弁当を半分食べ終わる頃には500MLの缶ビール2本を飲み終える
つまみが足りなくなるので、フライパンに火を入れベーコンエッグをつくる
弁当の残りとベーコンエッグをつまみにハイボールを2本ほど飲む
〆はやはり麺類が食べたくなるのでカップ塩焼きそばをつくり、それをちびちび食べながらビールをのんで寝る
これが毎日の流れだったのだが、最近は500の缶ビール1本あけたあたりで酷い膨満感に襲われるようになった
休憩しながら食べてもまったく箸が進まない こうやってどんどん食欲がなくなっていくのだろうかと不安になった
私とて不慣れなことがあるわよ。
不慣れなことなので手間と時間がかるし面倒くさいわ!って思いながらやっちゃダメ!
DHLとかの方が安くて早いのかしら?っていろいろ思うけど、
ちょっと郵便局に行ってきて聞くのが一番早いからまた後で行ってくるわ。
たまーにあるのよね。
海外発送。
じゃ私ならできっしょーって回ってきたんだけど、
これも経験値稼ぎとしてやるわやるわよ。
手間取っている間に
増田を書くわ。
ちょこちょこっと色々な増田もたまには書かなくちゃブクマはもらえないわ!って思いつつも
最近はぜんぜん怠りまくりまくりすてぃーで書けてないところが欠点ね。
なんとかお昼までに書き上げて、
そうそう、
そこの部署つまり上司がいないから今日は定時で帰りましょ。って言われたんだけど、
私は別に定時中の定時なので、
いきなり焼肉誘われても行かないわよ!行きたいけど!
まあ行けたら行くって感じかしら。
そうそう思い出したけど、
ジャポニカじゃないやつ。
その時の郵便局員さんがいじわるだったのよ!
思い出したわ。
「え?マジ?EMSの出し方も知らないんですか?」って
なになにを知らないのが許されるのは小学生までよね!って地で言われたような気がして、
笑って誤魔化したけど、
「E・M・S!E・M・S!」ってそんな言い方しなくても言いじゃないって思ったときから、
私そこの郵便局は苦手よ。
郵便局にも相性があるってことね。
うふふ。
買い足しておかなくちゃって
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
つ『洋食は「和食」なのか? NYに洋食屋をオープンした日本人の挑戦』
https://www.newsweekjapan.jp/nippon/season2/2017/06/194675.php
ニューヨークでオムライスだのカニクリームコロッケだのポテトサラダだの出している店の話だけど、ポテトサラダのくだりだけは納得がいかない。
カッペ系リトルビジネスはお店のブランディングであったり、海外からの文化輸入であったり、
そういう点のこだわりがめんどくささを生み出してるんだと思うけど、
それとは別のもう少し庶民的めんどくさい店巡りが好きな先輩が大学時代にいたことを思い出した。
15年以上前の話だけど、夏休みには、イラクにいって、仲良くなった現地人と一緒にゲームセンター(プレステ置いてるだけ)で遊ぶという
豪快な先輩だった。
先輩は基本的には、オシャレ系ではなく、汚い系一見さんお断りっぽい常連だけの店によく乗り込んでは、
持前のコミュ力で、店主と仲良くなっていた。もちろんたまにブチギレられていたが、そこも含めて楽しんでいたようなので
新橋にあるポテトサラダだけが異常に美味いおばちゃんが一人でやってる店を発見して、常連のおっちゃんと仲良くなったり、
タワマンがまだ工事中だった古き良き時代の武蔵小杉で、オシャレを目指そうとするが、どうにも垢ぬけないバーで、カクテルを教えてもらったり、
平間にあるルールが厳格な焼き肉屋で、店主に気に入られて名刺をもらったり、
北千住の小料理屋でヤの人とトラブルになったり。そんな人だった。
彼の言葉で最も記憶に残っているのは、ある人気のあるショッピングモールも併設されている便利な新興住宅地に行ったときに、
有名な大手ディベロッパーが開発したショッピングモールの中には有名店の支店がずらりと並んでいる。
「あのなぁ、増田。そんな出てくる食事が想像できる店に行って何が面白いんだ。
このヤバい外観。なのに潰れていない店。客もそこそこいる。そういう店を発見して、
なんでこの店がつぶれずにやっていけているのかを食事を通して明らかにする。
たまに、ただの地主が道楽でやってるだけで、クソまずいものが出てくることもある。そういうのも含めて面白いんだろうが。」
学生だった当時は金もないし、せっかく外食に行くなら、雑誌やネットの有名店だったり、
いまでいうインスタ映えのするお店だったり、そういうところに行きたかったのに、
いつもよくわからない店に連れまわされて、なんだこりゃ、と思っていた。
でも、いまならわかる。彼は偉大だったと。
食べログやらミシュランやらGoogle mapsやら、いたるところで評価がなされていて、
美味い店を探すのも簡単になった時代。しかし、こんな時代でも、ネットに載らない情報があり、
そういう人たちの努力と尊い犠牲のもとで、われわれがこたつに足を突っ込んだまま、情報を貪れるようになっているということを。
よく攻略サイトを見ながらゲームをして何が楽しいの?という批判がある。私もそう思う。
食べログを捨てよ、町へ出よう
お互いの気持ちを曇らせるために。
いろいろなものを捨てた。電話番号も写真ももらった手縫いのマフラーも。
ただ彼女のためにつくったSNSのアカウントだけは最後に残った。
開くまいと思いながら、数か月に一度、開いてしまう。
溢れるばかりのメッセージが目に飛び込む。
やがて彼女のメッセージの頻度は減っていった。そして返信もやめた。
あれから7年になる。
元気?
たったそれだけだ。恐らく彼女は、ときおりオンラインになっている俺をみつけては、
ひたすら返信を待ち、オフラインになって三日、一週間と経つのを眺めているんだろう。
俺が彼女にとって最後の男になってしまっているのだとすれば本当に切ないことだ。
しかし、俺にとってもまた、セックスが特別なものになってしまっていることにうすうす気が付いていた。
見つめ合い、肩を抱き合うだけで浮遊する感覚になった。
彼女と長い時間かけて重ねた唇、時には激しく駅弁スタイルでしたときの滑る汗、あの日々を上回るセックスはもう人生で経験することはできないだろう。
その通りだった。
村西が愛した黒木香は今、一体どこで何をしているんだろう。
NETFLIXの「全裸監督」で描かれた黒木香は、虚実交えているだろうが、
ものすごいリアリティがあった。黒木の母親役を演じた小雪の存在感も鳥肌ものだ。
・・せっかくしんみりとしたことを書こうと思っていたのに、だんだんズレてきた。
駅弁といえば。。
「全裸監督」は、今少しずつさまざなまレビューが出てきているが、
近年まれにみる傑作だ。
あの同世代を一歩遅れて歩んできた俺は、社会に出たときにはすでにバブルは崩壊していた。
学生の頃に、友人が苦労して入手した流出裏ビデオがどういう経緯で世に出ていたのか、ドラマでは虚実交えて克明に描いていた。
また、ビデ倫の仕掛け、ヤクザの関わり方を生々しく描いており、80年代のアダルトビデオの黎明期をここまでねちっこく映像化した作品は今まで存在しなかっただろう。
当時、やたらとモザイクが濃いものと薄消しのものがあって、なぜなのか、疑問にすら思わなかったが、「全裸監督」には、その答えが暗示されていた。
また、この作品で再現された、当時の歌舞伎町の舞台セットが素晴らしい。
とりわけ、村西率いる「サファイア映像」のスタッフ軍団が集うスタジオが興味深い。
スタジオの前に目に入ってくる、カレーの店タバサの看板。大量に麺類をつくっては、中華の回転円卓を囲んでスタッフ全員で豪快に食らうシーン。てんこ盛りのポテトサラダ。実にセンスがある。
昭和と平成のはざまの昭和63年暮れから昭和64年1月の冬の雰囲気。
当時、警視庁がわいせつ物の取り締まりを強化する流れに大きく動いていた。
日々の天皇の病状の深刻化が取り締まり強化の動機付けとして、象徴的に語られているのが技巧的だ。
彼は業界の大物を通じて、すでにヤクザとズブズブになっていたが、警察幹部からは、ガサ入れの方針が打ち出される。
一方、黒木香は、こうして業界の闇が描かれながらも、後方馬群でひっそりと控えている差し馬のような存在感で、ドラマ前半で静かに描かれていた。
横浜国大に在学していた彼女は、イタリア留学を夢見ながら、母親から抑圧された存在として、じわりじわりとエネルギーをためてゆく。
この見せ方も圧巻だ。村西とおるへの思いがあって、あのパフォーマンスが生まれた、というのは、このドラマの村西と黒木に対する解釈であって、本当のところはわからない。
しかし、村西と黒木の関係を物語るものとして、ものすごい説得力を感じた。セックスは一期一会といった村上の原点がここにあるんだろう。
ガチンコのセックスに対するこだわりは、売れるからという動機を覆い隠してしまうほどに、リアリズムへの情熱であふれている。
秋になるとなぜか、おばあちゃんのことを思い出す。
おばあちゃんが死んだのは秋じゃない。中3の2月だったのに。
おばあちゃんちには、アメリカの冷蔵庫にあるみたいな大きなアイスがあった。
2Lぐらいあった。私たちのためにいつも買っておいてくれたそのアイスを、私とお姉ちゃんは大きい大きいといって大笑いして、はしゃいで、食べた。
姉なんて小さい頃食べ過ぎて救急車で運ばれたそうだ。
好き嫌いが多い私のために、おばあちゃんは甘い魚(ぶりの照り焼き)とポテトサラダ(にんじんときゅうりの薄切りが入ってるやつ)をよく作ってくれた。
これが関東の一部の変な食べ方だと知ったのは、大きくなって嵐の番組かなにかでだったかな。
いつのまにか、なにもかけずに食べるようになったのはなんでだろ。
おばあちゃんちにの冷蔵庫のサイドポケットには、いつもお花の飴があった。
ピンクの個包装で、それぞれ別の花のイラストと名前が描いてあった。イラストが見たいのもあって、よくもらってた。
なんの味だったかはわからない。数年前にどこかで食べたソフトクリームがまさにその味で、コケモモだったような...違ったような...
また食べたいな、あの飴。
前向きな人だから全然過去の話もしないし、人の悪口を言ったところも聞いたことがないってお母さんが言ってた。(お母さんはめっちゃ愚痴るタイプなのに)
そんなおばあちゃんが唯一してくれたのは、関東大震災の話だった。
子供だったおばあちゃんはあまりの大きな揺れにびっくりして腰が抜けてしまったんだけど、近所に住んでたお兄さんが馬にのせてくれて、それで裏山に逃げて助かったとか。
おばあちゃんは神奈川なまりがあって、「○○じゃんかよおおお〜」っていう話し方をよくしてた。
それをまねて面白がってた時もあった。おばあちゃんは照れたような困ったような顔をしてた。
夏、全然おしっこが出ていない日が続いて、倒れて、救急車で運ばれた。(だから今でも今日おしっこ全然してないじゃん!怖い!とすごく思う)
人が死ぬなんて「まさか」って感じだった。実感なかった。死んじゃう前提の反応もなんか違う気がしてて、でもなんだか怖くて「ふーん」みたいなよくわからない態度をとっていた。
おばあちゃん子だった姉は悲しみを隠さないので、それがそのまま愛情として伝わってて、お母さんを安心させたと思う。すごいなって思った。
おばあちゃんは目を覚ました。
おばあちゃんが私とお姉ちゃんに「誰ですか?」ってキョトンとした顔で聞いた時、お姉ちゃんは泣きそうな顔をしながら「おばあちゃん...○○だよ〜〜〜おばあちゃん....」って言ってた。私は黙ってただ立ってた。ちょっと悲しそうにしたら悪い気もしたのと、本当に頭が真っ白だった。
お母さんは忘れられてなくてよかった。
塾がない日は学校の前でお母さんに車でひろってもらって、よくおばあちゃんの病院にいった。
おばあちゃんは意識はあるけど、息をしてるだけで苦しそうだった。
おばあちゃんは話しかけると少し頷くけど、それすらすごくつらそうで、なんかよくわからなかった。でもお母さんは話しかけろっていう。
「そろそろ死にそう」っていうのが分かってるようで誰にも分からない。
お母さんはおばあちゃんの手をさすって「お母さん、ありがとう、ありがとう」って言ったりしてて、なんでだよまだ生きてるだろって思ってた。
2月、夜12時ちょっと前ぐらいに、寝ようと思って階段をのぼりかけてたら、お母さんが急に話しかけてきて「おばあちゃん死んじゃったって、連絡きた」って言われた。
もう、本当によくわからなくて、「ふーん、そっか」とか言ってお母さんの目も見ずに階段を登って、それで部屋に行ってたぶん寝た。
お母さんはたぶんそのままトイレに行った。
いまだにあのとき、もっと私はやるべきことがあったんじゃないかって思う。お姉ちゃんはあのとき留学してていなかった。
でも叔父さんがおばあちゃんの顔から白い布のやつをとった時、めっちゃ泣いた。
どわーーーーって泣き過ぎて家から出てうさぎを買ってた小屋のほうで叫ぶように泣いたぐらいだ。叔父さんはなぜか、あとでごめんなあって言ってきた。私はうんって言った。(なにがうんだ)
葬儀場に移る時、仏壇のある部屋でおばあちゃんに足袋をはかせた。独特の冷たくて身が詰まってて乾いた質感があった。(4年後ぐらいに、あ、これ冷蔵庫に剥いちゃった後のみかんいれておいたときの感触だ!って気づいてお母さんに言った。怒られるかと思ったけど、"○○は芸術肌ねえ"って笑ってた)
そのあとお通夜もお葬式もなにもかも、なぜか自分の中で絶対泣いてはいけない戦いになっていて辛かった。トイレで泣いて戻ってた。
骨を焼く時、叔父さん②が、焼かないでくれ待ってくれって泣いておばあちゃんにすがって、叔父さん①がとめてて、うおおおおってなった。みんな泣いてたけど、私は泣いちゃだめだ状態だったので固まってた。
骨を拾うとき、いとこがお箸を強く持ち過ぎておばあちゃんの骨が砕けた。なんかそのときまぬけですごいホッとしたっけ。(3回忌かなんかでも靴下がやぶけてて法事を絶対笑ってはいけない法事にしてくれたいとこ。)
3日ぶりぐらいに学校へ行った。
担任の先生がおばあちゃんは何歳だったのかとかいろいろ聞いてきて、聞いてくんなしと思った。学校にいる間中、なんども泣きそうになって必死で別のこと考えてるんだぞこっちは!と思った。今思えばそれも礼儀というか優しさだったのかな。
保健室の先生も、生理痛が辛くて保健室行ったら言葉にするでもなく気にかけてくれた。この先生、今思えば2年次に私が傷が残る怪我をしたあとにも傷が目立たない特別な配慮をしようか?って声かけてくれて、本当いい先生だったな。そん時も私は本当は超気にしてんのになんかかっこわるいと思って「あ、イイッス〜別に見えてもイイっす〜」とかいって断ったんだっけな。なにも言えずじまいで卒業しちゃったな(なんなら名前も忘れた)
それで、中学生なりの頭で考えて、もう会えなくなってしまう人に一番伝えたいのは「ありがとう」と「大好き」だってことが分かった。
そんで詩を書いたりしてホムペに載せたりした。
おばあちゃんの死についてはなんも書かずに、ただ行き着いたことだけを抽象的に書いた。
そしたら同級生が「なんかあれめっちゃいいね」って言ってきて、ほーんってなった。
ほーんってなったけど、私はおばあちゃんに「ありがとう」も「大好き」も言えずじまいだった。