はてなキーワード: クラスタとは
このへんのはなしで。
「Twitterユーザーによる無断転載が悪いならアフィブログでの無断転載のほうが数倍悪いんじゃねーの!?」
「無断転載批判クラスタの連中は無断転載にかこつけて他人を攻撃したいんじゃねーの!?」
というつぶやきをしたら無断転載批判クラスタの親玉に捕捉される
→あるユーザ、急に煽られるので切れてTogetterにまとめる
という流れです。
この攻撃されたユーザは反省したと謝罪をしては「でも俺を煽った親玉が気に入らない」と恨み節を垂れ流すような人間なので擁護は出来ません。
彼の落ち度については上のリンクを見て貰えば理解して貰えると思うので今回は話題に上げません。
今回はいわゆる無断転載批判クラスタに問題はなかったのか、と言うことを自分は考えています。
まずこのユーザは無断転載批判クラスタに直接議論をふっかけたわけじゃないんですよね。
議論をするつもりのない人間に対していきなり議論を始めるというのではそもそも議論にならないと私は考えています。
Twitterは非公開にしない限りオープンな空間なので捕捉される方が悪いと彼らは言うのでしょうが、私には納得できません。
また、この親玉の行動が狡猾で、まず煽りたい対象の発言を逐一RTします。
RTによって無断転載批判クラスタへのろしを上げ、攻撃を開始するという訳です。
彼らは「RTはTwitterが用意している機能だから何も悪いことをしていない」とはいいますがよく知らぬ人間に自分の発言を一つ二つばかりでなく逐一RTされるのは正直自分もやられたくないです。
彼らは別に不快に感じないのだと思いますが、それを不快に感じる人間もいます。自分は不快に感じないからと言って相手が嫌がることをやってもいいものなのでしょうか?
そのようなことを実社会で行った場合彼らは何も悪くないと言えるのでしょうか?
今回あるユーザが総攻撃に遭った原因は彼自身が無断転載批判クラスタとのやりとりをTogetterに纏めるという自爆行為に他ならないのですが、
無断転載批判クラスタが大勢で一人の人間に対して突っ込むのですが、それって議論になるわけないと思うんですよね。
もちろん最初に悪いのは感情的になる彼なんですが、集団で突っ込まれるというのは実際問題恐ろしいと私は考えています。
私が見る限り無断転載クラスタの人々は議論をしたいのではなく、相手を攻撃するという意図を持って行動をしているように見えます。
タチの悪いことに、無断転載批判クラスタの取り巻きはそういった集団攻撃を自己肯定します。
オープンな場で議論をする以上間違った事を言う人間が集団に攻撃されるのは仕方ないし
それを否定する人間は歪んだ正義感を持った歪んだ人間であるとしています。
集団攻撃されるのは批判される人間の自己責任であるというわけです。
しかし自分の気持ちとしてはそんなものがまかり通ったらもう恐ろしくてTwitterなどでは発言できなくなってしまうと考えています。
何か人と違うこと、何か間違っているかもしれない事を言うたび総攻撃、っていうのはもう議論とかそういう問題じゃないですよ…
集団に「お前は間違っている」と言われたらたとえ彼らの主張が正しいことでも自分は辛くて仕方がありません。
議論をするならお互いを尊重したコミュニケーションを取るべきだと私は考えています。
しかし、無断転載批判クラスタの人間はそんなこと知ったこっちゃありません。
相手が間違ってるから突っ込む、攻撃する。彼らにとってはそれが正義なのです。
でもそれって正義なんですかね?確かに正しいことを言っていますが、集団でそれをやられて気持ちのいい思いをする人間は居ないんじゃないですかね…
こんな事を書くと「お前は判官贔屓をしたいだけの妖怪どっちもどっちだ!」などと言われてしまうかも知れませんが、
私は良くないことは良くないと書いているだけです。
議論をするなら相手を極力嫌な思いをさせてはいけないと書いているだけなんです。
そもそも今回の話はどちらが正しくてどちらが間違っているとかそういう話ではないはずです。
アフィブログの無断転載もTwitterユーザーによる無断転載と同列に語るべきという彼の論理には一理ありますし、その議論を無視するというのも怠慢ではないでしょうか。
もちろん最初に攻撃的に書いた彼には非常に問題があります。それについては異論はないと思います。
自分も攻撃されたくない臆病者なので増田なんかで日記を書いているわけですが、本当にあそこは怖い。
正直彼らとは関わりたくないです。恐ろしくて恐ろしくて、私はTwitterのアカウントも消してしまいました。
でも、ああいう状況をみて本当に自分は辛くて悲しくて、たとえ責められている側が間違っているとしても黙っていられないのです。
所詮は外野である「政治クラスタ」に投げる言葉だったらそれでいいかもしれないけどさ
前者と後者の両方からよってたかって言いがかりつけられてる当事者の福島県民としては憎しみの一つもぶつけたくなるってもんですよ
何か勘違いしてネットの世界で目立って発言力を維持する為に、目に付いた物を
何かと規制したがる一部のクラスタ周辺にいる実名派の皆さんお元気ですかー
特定しても相手にとある3種類の方法使われてたら確実にカウンターきますしね
奇麗事ばかり言う人達はコストは払わないのに見ず知らずの他人達にモラル+コスト+時間の消費押し付けようとするとか無いわ
ちょー迷惑っす 「これも電脳化に至る修行」だと思って他人に任せず自分で調べてください 合法な方法は幾つかあるんです
ブロガーとしていうけどコメント欄に書き込まれる大量のアレな書き込みに一々対応するほど暇無い
あの人達の「けしからん教」のせいでどんどんネットが退屈で窮屈になる
ネットは拡張された心のスペースであって、そこに他者がモラルを押し付けようとか「思想の抑圧」
以外の何物でもない
最新の中傷方法で検索サイトの上位に「ネガティブワード表示」という物があるけどあれ実は
法の力を借りずとも「匿名」の力と「金」を使えば簡単に被害者救えるんだよね
金が無い人は知識を自分で習得しないといけないわけですが、匿名disる人達に無料で教えてあげる義理も
ない どう考えても無いね 「コロンブスの卵」みたいな簡単な方法だから検索順位と睨めっこしてせいぜい
考えればいい
中国の『詩経』に「桃夭」という詩がある この詩は誰が詠ったのか分からないけど今も残っている
『詩経』には誰が詠ったのか分からないままの詩がたくさんある そういうの素敵
「余計なノイズ」である「実名」「立場」を一切排除した匿名の文章の集まり
それを読むのっていいなって思えばこそ「増田」であり「匿名ダイアリー」
「増田」識別は十数年「電脳化」してきた「増田」には日本のネットは割と狭いから別の場所に書き込まれた文体から「あの記事書いた増田」と推測したり、他増田が隠してないだけ
もし実名との紐付けしようとして必死になっても「上に政策あれば、下に対策あり」の言葉が示すようにスルスルリン
てゆーか既に日本は「右も左も真ん中も誰かが誰かをdisってクラスタ総出で晒し上げして喜ぶ密告国家」って感じなんで、この上「暗黒国家」に進まないように生暖かく見守っていきたい
普段「差別」とか「人権」とか唱える人達の言葉の持つ重みが、ここ一連のいじめ事件や反日暴動でふわふわ軽くなってその内空を飛んで見えなくなりような予感
国とか関係無くネットにはいろいろこじらせている人達が野放しだから
そういう人達は「承認願望」「発狂トリガー」を何かの拍子に押されると属性に向かってすっ飛んでいくんだよね
煽り上手な人にとってネットにいる人達は何も手を汚さずに動かせる只の「駒」「鴨」に過ぎない
ネットは三国志演義でいう東南の風を吹かせて火計を成功させ逃亡する孔明みたいなことができちゃう場所
「中国人にもこういう良い人が」って書き込み見ると「グットコップ、バットコップ」を思い出す
発言者の「クラスタ」「コミュ」とかそのIDいつ作ったとか仕事での金の流れとかそこまで洗ってやっと信じて丁度良い
聖火リレーで大量に中国人集まった時の流れは憶えているでしょう
日本では統制取れていたけど、韓国では留学生の統制取れずに暴徒と化した事を
まあ孔明をリアル割れするのは無理だろうから、ネチズン一人一人が流されなくなって地道にスイッチ押された人のスイッチオフに空気変えていくしかないあるね
http://anond.hatelabo.jp/20120904110819
上の増田に対するブックマークを見ていて、まともな論理的な反論がないなと思った。みんな感情で批判してる。つまり、彼らにとってMay_Romaとは「よく分からないけど嫌い」という対象なのだろう。
dadapon どっちでもいいけどさ、いい加減、人のことを「属性」だの「クラスタ」で語るのはやめにしないか、くだらない。
元記事は「属性」も「クラスタ」も言ってないと思うのだが。視力が悪いのだろうか。
私は田村耕太郎も加藤嘉一も尊敬してるのだが、貴殿の目にはネタキャラに映るのだろうか。さぞや貴殿は賢い人に違いない。知識層なのだろう。と思って貴殿のはてなブックマークページを見てみたが、お気に入り28人に対してお気に入られ25人だった。マイナス3人の収支である。つまり貴殿は全く世の中に評価されてないのである。なぜ貴殿が知識人である田村耕太郎や加藤嘉一を馬鹿にできるのか分からない。
きっこは確かに誤った情報を流してるかもしれないが、May_Romaが誤った情報を流した事実があるというのなら証拠を出して欲しい。それも出来ないくせに、雰囲気だけで人を叩いていいと思ってんの?馬鹿かこいつ。
shirkuramenメイロマさんが美人という表現がある時点でファンをよそおった悪質な嫌がらせであり、即刻警察に通報するべき醜悪な案件である。
は?May_Romaのアイコン写真はサイズが小さくてブスかどうか分からないんですけど。元記事書いた人が他の大きめのサイズの写真を見た上で美人と判断してるかもしれないでしょう。憶測で物を言うのはやめていただきたい。
お前だよ。
Assume #増田 ネイティブ() 海外() エキスパート()・・・まあここまでは失笑しながら許そう。美人、あたりに至ってはお前それ・・勝ち負け二極論吹くにしても手前の文才と相談してからにしとけと。
全く論拠を示さずに、全くリスクを負わずに他人を馬鹿にする人の典型である。結局こいつは、詳細を書くことを避けている。その能力がないからだ。このように論理的でない人々から次々に攻撃を受けるMay_Romaも、たまったものではないだろう。もっと骨のある者はいないのだろうか。
以上見てみて、May_Romaを論理的に批判してる人間はほとんどいないことが分かった。もちろん、広いネット上にはどこかに、論理的に彼女を批判する人もいるのかもしれない。そういう人間が出てくるのかもしれない。そしてそういう人が彼女を批判した途端、君らは尻馬に乗って「俺もそれ言いたかったんだよねー」と言い出すのだろう。
ではなぜ、それ以前に言わなかったのだ。なぜ誰かがMay_Romaを論理的に批判する前に自分で論理的に批判しなかったのだろうか。答えは、出来ないからだ。その能力がないから。自分の力では雰囲気で批判したり人格批判することしか出来ない。全く無能の小僧である。そんな奴らに人を批判する資格なんてない。おそらくこいつらは、学生時代に誰かをいじめていたはずだ。それも、ジャイアンみたいな強い奴の尻馬に乗って誰かをいじめてたはずだ。自分から行動するのではなく、流れに乗って誰かをいじめる。そういう人生をお前らは送ってきた。社会人になっても自分から行動を起こすことなんてなかっただろう。ただなんとなく生きてきた。それだけならいい。それだけなら人畜無害でありあまり他人にも迷惑をかけてるとは言えないだろう。しかしお前らはパソコンを買ってしまった。パソコンを買って、ネットの世界を知ってしまった。ネットを見て学生時代を思い出した。「自分から行動しなくても誰かをいじめられるんだ」と気づいてしまった。そんなお前らにパソコンを触る資格はない。今すぐパソコンを売り払って、街へ出ろ。なんなら旅に出るのもいい。旅に出て一人ぼっちになってみろ。一人で生きていく術を学べ。日本という国はお前らのベビーシッターじゃない。
「はてな」はゲームクラスタの人が多いのでは?と思ったので、質問。
家人が「リトルビッグプラネット(略称LBP)」というプレステのゲームに嵌っている。
それも、普通に「オンラインゲームを楽しむ」という楽しみ方というより、
「オンラインゲームを介して知り合った、海外ユーザーと英語でチャット会話する」という
楽しみ方をしている。
一方3,500万人首都圏の街並み・生活にアメリカ人が驚いている)
・・・「リトルビッグプラネット」って、そういうゲームなの?
海外ユーザーが圧倒的、国内ユーザーはごく少数、というゲームのようなので、
「日本人と一緒に遊ぶことは期待できない」、
ということのようだが・・・
そもそも、「オンラインゲームをチャットとして使う、異文化交流に使う」という使い方は、
ポピュラーなのか?
リア充とコミュ障についての一般的理解についてはすでに得られているものと仮定する。ところでこれは世界一般の傾向とは言いがたい。コミュニケーション力のあるなしは、たしかに社会での成功につながったり、リーダーとして選ばれる資格ではあったりするものの、社会全体を二つに分けたりはしない。同じ趣味を共有する者たちは、リア充であろうとコミュ障であろうと仲良くする。同じようにリア充であっても価値観、例えば政治信条が違うなどすれば必ずしも仲良く話したりはしない。これは西洋社会のことを説明したのだが、アジアや中東やアフリカがそれぞれ違うかもしれないが、いずれにせよ世界で一般的な社会構造とはいえない。
日本での特徴は、コミュニケーション力が高く集団のリーダーになりうる人間に、その他大勢のある程度コミュニケーション力ある人間がコバンザメのように付着し、そしてその外的構造であるコミュニケーション力がかなり低い人間を自分たちの場にいれないように蹴落とそうとするところにあると考える。ある種のコミュ力の低い人間、たとえば極めて知能の高い人間や有名スポーツ選手などはリア充集団に歓迎して迎えられるが、それはリア充集団が彼をどう捉えるかによって決定されている。つまり、社会構造の決定因子はリア充クラスタの集団意思に拠っている。
ここでアニメ・ゲームをはじめとするオタク文化を考察すると、ここは実のところ必ずしもコミュ障 ∋ アニメオタクという符号が成立しないことには、この分野に詳しい諸家はすでにお気づきのことと思う。大方コミュ障はアニメ好きを許容し、リア充はアニメを毛嫌いするような一般的合意があるように思われるものの、その結果としてリア充クラスタにおける「アニメ好き」趣向は、まるで韓国における「親日」と同じレベルのタブー、クラスタからの脱落を意味しかねない極度にセンシティブな因子なのである。かくしてリア充構成員はたとえアニメ好きであったとしてもそれを隠蔽する傾向にあると推察される。一見すると強力に両クラスタ間を分別する因子がオタク文化のように感じられるかもしれないが、実のところ本質的な差異である「コミュニケーション力(あるいは空気を読む力)」に比較するとオタク文化の識別能力はさほど高くない可能性がある。リア充クラスタにおいて本来オタク文化を好む傾向を持つものは、宮崎アニメ好きやゲーム好きなどという仮の衣をまとっていたりすることがあろう。
ここでコミュニケーション力の高い人間の中でもリア充クラスタを引っ張るほどに実力の高いものには、上記のタブー要因が作用しないことにも注意したい。かくしてリア充リーダークラスに認められたオタク文化、例えばゲームであるとか、エヴァンゲリオンなどと言ったものは、一時的ではあってもリア充クラスタに受けいられることはある。しかしその発言権を有するのはリーダークラスだけであって、構成員はたとえエヴァンゲリオンが面白いと感じてもそれを口にだすべきではないわけだ。
もしこれを読むリア充構成員が、そんなことはなくて本質的にアニメなどくだらなくて毛嫌いすべきもの、自分はどこまで言ってもあんなものを理解することはない、と思うとしたらそれは知性のなさを吐露するものと捉えられよう。どんな文化にもその文化の理解と経験からなる文脈的解釈があって、たとえば夏目漱石を読みたいたいならその背景のあの時代の日本の小説文化をわかっていないと凄みがないし、ゴダールを楽しみたいならヌーヴェルバーグについての一定の知識がないと到底わからないだろう。これらのマニアックな趣味ならばこの発言はすぐに受けいられるが、これはたとえばレディー・ガガだって、浜崎あゆみだって、「読モ」だって同じ事だ。「読モ」なんていうのはあからさまに文脈的文化であり、芸能界と大衆一般文化・特に女子高生文化との異常な接近を意味しているに過ぎず、これがたとえば欧米社会に言って受けいられるようなスター性がある人間たちだとは到底思えない。それはしかし逆も真であって、現在の欧米のセレブリティが普遍的価値を持っているわけでもない。さらに欧米であったって、日本のアイドル文化の文脈を理解した者たちは、熱烈にモーニング娘を支持したりする。結局のところ文脈だ。そしてその文脈を理解した時、アニメの面白さというものが血となり肉となって味わうことができるのであるが、アニメの文脈を捉えようとしたことのないリア充が「アニメなんて子供のものでつまらない」と言った時、文脈をきちんと理解した時彼が同じようにつまらないと思うかどうかはわからない。本当はそのアニメの強力な支持者になりうる資質をもっていたかもしれない。
ここでまず第一の議論に入ろう。先日、プリキュア好きのアホな若者が未成年者略取の事件を起こした際、プリキュアを見るような成人男性は幼い女の子を誘拐しかねないから監視すべきかという議論があった。ここで、金銭目的ではない幼女略取事件を起こすための決定要因はロリータ・コンプレックスの存在にあるとする。これはいいだろう。
おそらくコミュ障・ロリコンの人間はプリキュアを見ている。それは否定しがたい。相関も出るだろう。コミュ障でミリタリーが好きな人はエリア88を好むかもしれない、そういった趣味傾向の行先として当然の帰結であろう。しかし、リア充・ロリコンは、上記の社会的プレッシャーによりプリキュア好きを公言しないか、もしくは好まないもののそれは文脈理解の不足によるもので、コミュ障と同じだけのアニメ文化の洗礼を受けた上で見てみると、その人間の本質的な趣向はプリキュアを是とする可能性がある。プリキュア視聴という因子は、リア充でロリコンの人間を識別する能力を全く持たないと考えられる。
そこで、プリキュア視聴の幼女略取事件発生に関する精度が高いためには、コミュ障の条件付けでは相関があるものの、リア充の条件下では相関が出ないと思われることから、そもそも幼女略取を起こすのはコミュ障であってリア充は起こさないかもしくはとても可能性が低いという前提が必要だ。しかしこれは確認されていない思い込みである。過剰な前提である。コミュニケーション力の有無によって幼女性愛傾向が決まるというのは過剰な前提だ。そもそも幼女に話しかけてつれさってどこかで何かしようという行為はコミュニケーションによって成立しているように思われる。
であるから、現在の情報をもとにプリキュア視聴によって幼女略取を推定できると考えられるとは思われない。しかし研究対象としては興味深い。本当にコミュ障でプリキュアを見てという人がほとんど幼女略取事件を起こしているのか、それとも実はリア充で、社会的理由によりプリキュアを見ていない者が、ロリコンなので幼女略取事件を起こすのか。報道などを総合する限りは、野球選手で幼女にイタズラした事件なども含め、必ずしもコミュ障だけがこの手を事件を起こしているとは思われない。私の直感では、「プリキュア視聴」の識別能力はさして高くないものと思われる。私はここでことさらプリキュア好きな人を擁護したいのではなくて、我が子を守ろうという社会的行動にあってプリキュア好きを調査する行為はおそらく無意味であって、それよりももっと他の面を充実させることで犯罪抑制を図ってもらったほうがよいだろうという思いから述べたものである。
次に第二の議論に移りたい。
最初に述べたようにリア充クラスタにおいて、アニメ好きというのは集団からの集中攻撃を受け、個体として排除される可能性を生むほどの強烈なタブー因子である。それでは、人生のある時点においてコミュ障クラスタからリア充クラスタに移動した人間においてはどうであろうか。これは一般には「大学デビュー」などと称される現象として観察されている。
これは私の話である。高校時代はエヴァやガンダムW、3x3アイズやああっ女神さま、ロードス島戦記といったそんな世代だ。コミケは所要で行きそびれたが、今から考えると正解だったか。萌えとかいう言葉はなかった、と思う。大学に入った当初くらいはエスカフローネやウテナを見ようとしていた記憶もある。しかし内容については一切記憶が無い。私は結果として、アニメ好きを決して公言せず、周囲に同調して「この年齢でアニメ見るとかヤバい」「twitterのアニメアイコンキモい」とか言い始めるようなそんな人間になっていた。実際には周囲の人間は、「こいつちょっとオタクくさいよな」とは思っていたかもしれないが、リア充クラスタというものは、大学レベルで就職なども視野に入りポリティカリー・コレクトな発言を志すようになると、「僕はリア充クラスタに入信したいです!過去のことは水に流します」という気持ちでありさえすれば受け入れてくれるものである。そしてなれないおしゃれな服を買ったり、カラオケではやりの曲を歌ったりするのである。高校まではバカにしていたような、軽薄な恋歌を。そうやっていると、「彼女」が得られるのだ。現代日本社会において、古代ローマ帝国における「ローマ市民」を意味する社会階層に移ることができる。
ところで彼女を得たり、彼女を得るための努力をしたりしているうち、軽薄だと思っていた恋愛の歌が、実際に経験してみると自分の気持ちや彼女の気持ちをわりとうまく表現しているということに実感が至り、そうそう軽薄といってバカにすべきものでもないなとも思う。とはいえ思ったこと感じたことを書いただけで、より深い洞察はどこにもないが。ショッピングも、自分がその中で役割を演じる主体となってみると、無駄な時間と思っていたそれがわりと楽しいものと感じる。買ったものが無駄であることに変わりはないが。
結局のところ彼女に最高のプレゼントを購入し、サプライズ込みの記念日を演出する自分がいながら、その傍らでそれを冷めた目で見つめている自分がいる。オタクコミュニティの言説への親和性はその後もずっと高く、それになんとなく寄り添う気持ちは持ち続けている。
ところがだ。たとえばネットで、オタクへの攻撃的言説があったとしよう。両世界を知る人間としては私は言うが、そのほとんどは謂れ無き差別、思い込み、妄想のオンパレードで、リア充側に理があるといったことはほとんどない。実のところ私と同様に二つの世界を移った人間が、コミュ障的世界への決定的決別を宣言するがために、わざと理不尽な攻撃を繰り出しているのではないかと思えるほどである(そもそもネット系ツールで自分の主義主張をかましてしまうような人間が、オタク文化に一度も染まったことがない可能性はどれほどなんだろう。はてなならまずそれはないと言い切れるが、twitterなら真っ当な人間もいるのかもしれない)。ここでわたしは実名世界ならば「まあまあ」といったところでお茶を濁すところだ。一方匿名であれば、コミュ障側への深い理解と共感、リア充の身勝手さへの反感を述べるのである。それができるのがネット世界であった。わたしの年齢だと、大学くらいから徐々に浸透してきたものだ。
ところがそれに対する反応はどうか、「上から目線だ」「こいつオタク装ってオタクじゃねえ(やはり短期間でも離れると会話についていけなくなる世界だ)」「とにかくむかつく」というような、つまり、リア充がリア充そのものの発言をした時よりもよりいっそうの猛烈な反発をくらっちゃったのである。うん。くらっちゃった。僕はコミュ障のオタク達を助けたかっただけなのに・・・
ここでは韓国において、日本のリア充にあたるのが「反日」、コミュ障が「親日」と考えよう。親日っていうのがいるのかいないのかわからないと言われるかもしれないが、私は少なくともそれなりに知っている。しかし強烈なプレッシャーがあり口にだすことができないという。社会で生きていくのに困難さすらともなう、場合によっては転向を要求される、転向しさえすれば許される。これがコミュ障クラスタと似ていないと言えようか。一方、反日クラスタの中では、ちょっと過激すぎて理不尽とも思われるような反日的発言(日本の高校生のバットは圧縮バット、みたいな)が容易に許される、やや知的に劣等な面が見られる。そう、これがリア充クラスタだ。「親日」側は日本の「コミュ障」よりもはるかに強烈に弾圧され法律まで持ちだされて言論封殺されているような環境ではあるが、構造としては似ている。
そこで李大統領は、就任前の経緯や就任当初の発言を見るに基本的には「親日」側の人間であるように思える。韓国政界でもそのように攻撃されていた。であるが、そこは韓国だ。私が実は井上喜久子姉さん(17)が好きなんですーなんて口が裂けても言えないのと同様に、李大統領も本来の親日発言をすることはできないのだろう。した瞬間に引きずり降ろされる。しかしそれでもなんとかしてやりたい。僕はもうアニメ好きには(親日には)決別してしまったように社会的には行動していたとしても、自分は自分として評価されなくてもいい、ただし何か一つでもアニメ好きの人たちが嫌われない、少しでもよく思われるように、こちらがわ(反日側)の内部からそのクラスタを説得できるようなことができないものだろうか・・・
アニメが危険なものだなんて証拠はないって言わなければ(過去の記憶だけにとらわれず前向きに行こう)、でも僕自身はアニメ好きなわけじゃないって付け加えないとねリア充の人たちから疑われるし(従軍慰安婦への謝罪が不十分だ)、あとアニメ好き側の人も振る舞い方を少し気をつけたほうがいいよねって書こう(天皇陛下に来てもらって謝罪をするなど大胆な行動が必要だ)、そうするとリア充側も納得するだろうし・・・
で、もちろんリア充の方に向けて発言してるわけだから、自分はアニメを支持するわけではないっていうニュアンスをちゃんとただよわせなきゃ(来たいなら来ればよい)、そうしないとむしろ自分が攻撃されてしまうしね・・・
それで猛烈な反発を食らってしまった。ほんとは僕はあなた方のために行動したかったのに・・・(日韓関係の専門家を集めて、真意が伝わっていないと不満をもらす)
どうだ、見事にハマっているわけではないか。李大統領はかつてオタク文化にハマったコミュ障住人で、ある時点でリア充クラスタに移ったのだがあの時のオタク文化に恩を返したい、そんな義理堅いやつなんだ。だけどそんなことしてオタク側から猛烈に反発くらっちゃったわけなんだな。
という壮大な妄言はここで終わりです。
俺が観測してる範囲だとこんな感じ。
┌┬MBAはMacBook Airの意味で普通につかっちゃってる派
│├経営学修士って何?派
│└MBAをMacBook Airの意味で使うのはネタだよ派
├ MBAをMaster of Business Administration以外の意味で使う奴は異常者派
└┬どのMBAなのかは文脈で悟ってよ派
└ミサワ派
なるほど、その時点でミサワっぽさを感じるのか…。
それなら動機は理解できるな!(「一般的かどうか」という切り口で噛みついてくるのはよくわからんけど…)
そうかー。(ミサワ的な意味ではなく)俺の周りはマジでこういう会話が普通(というかそれしかない)なので全くその発想はなかった。
単に対比しただけで「MBAと言ったらMacBookAirだろ」みたいなことは一言も言ってないのに、どうしてそうなるのかというと、
「なるよね。」って言われても
君の発想の不思議さに驚くばかりだよ。
よく知らない人と会話するときにはなるべく世間的な言葉を選んで使うものであって、
そういう場面に狭い世界の言葉を持ち出す人から透けて見えているのは
…ってだけの話だよ。
どの辺が?
それともMBA=経営経営学修士クラスタのプロファイリングを始めちゃうあたり?
俺はそこは本題と関係ないから気にしてなかったぞ。
ってなってるだけだと思うけど...
「何を思い浮かべる?」って聞かれて、反射的に答えるか、ググってから答えるかで、その人の属する社会的なクラスタが大体推測できるよね。