はてなキーワード: 価値判断とは
俺も「その文句を言うことで萎縮させたり抑圧させることで、事実上の規制を促す」っていうやり口には思うところはあるな。
そりゃあ、まあ何らかの表現に対して何か物申すのも表現の一形態ではあるから、それ自体はいい。
問題は“物申した己の行為に対して責任感がなく不誠実”なところ。
「個人レベルのちょっとした意見や批判なんだから反撃してくるな」って態度をとる。
けど、あの人たちは“表現に何らかの誠実性や、表現行為そのものに責任感を持って欲しい”っていう意識のもと物申しているわけだろう。
表現ってのは有形無形の利害が内在していて、その多寡を把握するのが無理だからこそ個人レベルの是非判断が大きい。
その妥当性はともかく、あの人たちは“害”の方を重く見たからこそ物申しているわけだ。
なのに、そうして行った“意見表明という表現行為”に対して責任感がなく、それによって発生した“抑圧や萎縮効果という影響”に対しても不誠実な態度をとる。
何らかの表現に不愉快な思いをしたり抑圧を感じた(と思っている)側が、責任感や誠実性を求めて物申している側が、いざ自分に矛先が向かったとき「ちょっとした意見や批判なんだから」と、“ちょっとした意見や批判”に対して不服そうにする。
価値判断をガッツリしておきながら「自分は事実を言ったまで」という風な態度をとる。
なかなか野性味溢れているなあと思う。
暇空茜さんを社団法人Colaboが訴えた件についての分析です。なるべく中立的な立場での分析になるよう心がけています。個別の事柄について良いとか悪いとかいう価値判断を下すものではないことにご注意ください。そうではなく、良し悪しはともかく私には現状こう見える、この先こうなっていくだろうという予想です。
これでは何のことやら分かりませんね。もう少しくわしく見ていきます。
キズナアイNHK(2018)、宇崎ちゃん献血ポスター(2019)、温泉むすめ(2021)、たわわ広告(2022)など、コンテンツの内容が公共の場にふさわしくないなどの批判をきっかけに炎上する現象のことを、この文章ではコンテンツ炎上と呼ぶことにします。これは一般的な用語ではなく、本文章内での独自定義です。これらの例については萌え絵批判のような用語があるようですが、この文章では萌え絵に限定しないためにあえて別の語を当てます。
というのも、暇空さんは萌え絵にそのものに格別の思い入れがあるわけではないと推測されるためです。彼の漫画評などからすると彼が特に好むのは「天才的な能力の持ち主が天才ならではの苦悩と対峙しながら、その能力を発揮していく」といったモチーフです。おそらく彼がコンテンツ炎上を抑止しようと考えているのは、才能あるコンテンツクリエイターの足を引っ張り、結果良質なコンテンツが減ることへの反発だと思います。つまり対象が萌え絵であるかどうかは二の次で、コンテンツが良質かどうか/クリエイターが有能であるかどうかが暇空さんにとっての判断基準であるということです。
コンテンツ炎上は他のネット炎上同様に、些細なきっかけから始まります。拡散してく過程で、何千何万という人々から作者本人への批判やスポンサーなど関係者への抗議などが起きます。一般に批判は玉石混交で真っ当な批判からインネンレベルのものまで様々ですし、多数が各自言いたいことを言い放つので論点も定まらず的確な反論を行うのは困難な上、反論すること自体が燃料となって多くの場合逆効果です。1ヶ月程度燃料が投下されなくなると自然に沈静化します。基本的に対処法はなく、最低限の発表だけして沈黙を貫き沈静化を待つのが多くの場合最適解です。
暇空さんは以前「畑を荒らすカラスを撃退するにはカラスの死体を吊るすとよい」というような趣旨のTweetをしています。コンテンツ炎上を仕掛けた者へみせしめの炎上を仕掛けて、意趣返しを行うことによりコンテンツ炎上を抑止しようと考えているものと思います。Colaboの会計やらに目をつけたのは、単に温泉むすめ炎上発端になった仁藤さんを炎上させるのに都合のよい隙があったというだけで、女性蔑視がどうのという動機ではないと思います。そうではなくてコンテンツ炎上のきっかけとなった人物の心を折るのが暇空さんの短期的な目標です。大義名分はよく燃えるのであれば何でもいい。そこにイデオロギー性はさほどありません。
最終的には「うかつにコンテンツ炎上させるとまずい。暇空さんに粘着されて痛い腹を探られる」といった風評/空気/認知を作り出すのがゴールです。暇空さん自身が抑止力となるつもりなのでしょう。そのために今は暇空さんに注目を集め、敵対者の心を徹底的にへし折るさまを見せつけようとしているフェーズです。
できれば従来どおりのどんぶり勘定運営で女性支援事業等を続けていくこと
それが無理ならなるべくダメージコントロールすること
暇空さんの目的/戦術が上に述べたことで正しいならば、残念ながらたとえ訴訟に勝ってもColabo側の目的は達成できません。
生活保護とタコ部屋発言を争点にしてColabo側が仮に勝訴したとしても得られるのは賠償金、該当記事削除、謝罪だけです。暇空さんは裁判の経過を公表し続けて話題を提供し続けますし、訴訟争点以外の会計に関する話題や都の監査関連でも燃料を投下しつづけるでしょう。また暇空さんがColabo側の発言を名誉毀損として訴えることもありえます。
自然発生的な炎上の場合は話題がなくなって沈静化するのを待つことができますが、本件はそれもできません。暇空さんは意図的に炎上を起こしているからです。上記の私の仮説が正しければ暇空さんは天才的な嗅覚を使って燃えそうなネタを探し、定期的に供給し続けて炎上させ続けます。前述のように炎上への対処法は基本的になくて沈静化を待つしかないのですが、それもできないならばダメージコントロールするすべがありません。
そもそも暇空さんは訴訟をずっと誘い受けしていました。訴訟が起きればその内容を実況することにより炎上を継続できます。訴訟したこと自体Colabo側の戦略的ミスです。仮に裁判の結果Colabo側に不利な事柄が裁判所によって1つでも事実認定されてしまったら「共産党と強いつながりのある」という二つ名の代わりに「司法によって○○の事実認定された」のような二つ名が使われるようになるでしょう。
ではColabo側はどうすればよいのか。私が思いつくのは2つあります。しかし1つは他力本願で、もう1つはおそらく仁藤さんはそういうことをしないでしょう。
1つ目は暇空さんの敵失を待つこと。暇空さんがそれ以上炎上ネタを提供できなくなれば沈静化待ちで逃げ切ることができるかもしれません。
もう1つは全面降伏して温泉むすめ炎上を謝罪すること。実は暇空さんとして出されたら最も嫌な手はこれだと思います。彼は彼が自分に課しているルールを逸脱することはないと思われるので、これをされたらそこで手を引かざるをえないからです。まあ、多分これは選択したくないからという理由で選択されないと思いますが。
最近コンピューターサイエンスがプログラマーに必要か否かみたいな話が上がっているが、そもそもコンピューターサイエンスって何だよ。どこまでの範囲をさしてんの?
ググって出てきた情報を整理しただけなので詳しい人、補足・訂正よろしく!
https://www.acm.org/binaries/content/assets/education/cs2013_web_final.pdf
CS2013はACM/IEEE-CSによるカリキュラム標準。
ACM(計算機協会)はコンピュータ分野全般の国際学会、IEEE-CSはIEEE(米国電気電子学会)の中にあるテクニカルソサエティ。
https://www.ipsj.or.jp/12kyoiku/J07/20090407/J07_Report-200902/4/J07-CS_report-20090120.pdf
J07-CSは一般社団法人情報処理学会がCC2001CSをベースにアレンジを加えたカリキュラム標準。今はCS2013を反映したJ17-CSがあるらしいけどその辺は良く分からん。
https://www.ipa.go.jp/files/000024060.pdf
J07ーCSから抜粋。CS2013と比較するとナレッジエリアがあったり無かったり。
イーロン・マスクウェルがマックの女子高生とTwiterでSDGsについて次のようなテレパシーを交換しててなるほどと思った。
できる!2人にならずとも人間を減らし虫を食べればよいのだ!
すでに日本は達成しておる!生活保護制度はどんな人間にも死ぬまで医療と介護を提供するぞい!これを第三次世界大戦に勝利して世界中に広げるのじゃ!シン大東亜共栄圏の設置を足がかりにすれば、不健康は罪とする社会も作れよう!
4 質の高い教育をみんなに
できる!質は価値判断なので人による!薬物をみんなが摂取した上で自然から森羅万象を学ぶのじゃ!
平等は価値判断なので人による!その意味ではジェンダーという概念が生まれた瞬間からジェンダーは平等じゃ!
安全は価値判断なので人による!要は水やトイレで即死しなければよいのじゃ!
8 働きがいも経済成長も
捨てることならばできる!全世界が独裁者による共産国家となればよい!保障することはできん!社会には必ず働き手としての無知蒙昧や弱者が必要じゃが彼らの多くは働きがいがない!
既に何度も達成しておる!次は第三次世界対戦で勝つために核融合炉と無人攻撃機の開発を進めるぞい!もちろん陸地の征服のためには兵士も必要じゃ!産めよ増やせよ人工子宮(女性の体についているかどうかは無関係じゃ)!
できる!不平等は価値判断なので人による!無知のヴェールを被ったときに見える格差原理、機会均等原理では国ガチャ親ガチャも公正じゃ!
責任をとったというのは価値判断によるのじゃ!責任を認識して生き、必要に応じて発言を撤回するだけでよい!
14 海の豊かさを守ろう
既に達成しておる!これも価値判断じゃが人間がいようといまいと海は常に豊かじゃ!
15 陸の豊かさも守ろう
既に達成しておる!これも価値判断じゃが人間がいようといまいと陸は常に豊かじゃ!
16 平和と公正をすべての人に
できる!みんながやる気を出して協力すれば目標達成だぞい!
まだまだだな
一周回ってそういう「経験」のための消費はかなり娯楽消費としては良質な方だと分かるはずだぞ
何かが盛り上がってる時に盛り上がりを体験する、物語の一部に入るためにする消費ってのは、その時にしかできないことだしその時にしか得られない体験になる
そして物事はなんでも流行り廃りや飽きというものがあるのだから、それ込みで考えたら物惜しみしない消費というのは枯れ果てたオーソドックスなものしかなくなってしまう
そういう権威的な趣味でイキる人というのは大概見栄のために浅すぎる所で留まっているばかりで趣味の域といえるか微妙なレベルが大半であると気づくだろう
その空虚さを痛々しく感じられるようになるまでディープな世界にハマったことがないから、本質を捉えた価値判断ができる程度の想像力も育まれず、肯定感にも至らず、趣味人的な浪費をあとから無駄だったと切り捨ててしまえる自己否定に逃げてしまうわけよ
はてなブックマークやTwitterなどで、「中立」「客観」と言った態度について批判的に論じるものをたびたび見かける。特に、差別や政治など、権力闘争の類で非対称性が存在するときによく使われるイメージがある。それらについて私なりに論点を整理してまとめ、コメントしようと思う。これらの論に親和的な人も、逆に批判的な人も読んでほしい。
まず、当たり前の話なのだが、何かを批判するときは通常複数の論点から批判できる。
例えば、社会民主主義は新自由主義の立場からすれば「市場が政府権力によってゆがめられ、効率的な資源分配が出来ない上に政府権力が不健全に増大する」と批判できるし、共産主義の立場からすれば「結局彼らは資本主義や自由市場と言った搾取を『多少マシ』にしている程度であって、本質的解決には役に立っていない。どころか、革命に向かう人々を減らすという点で有害ですらある」と批判できる。
これを見て、もし社民主義者の人が「アンチ社民主義者は矛盾している。市場原理主義みたいなことを言いながら、資本主義を否定している。彼らは矛盾している」と言うのがおかしいというのは分かるはずだ。あるいは、「新自由主義者は社民主義を批判している。これは共産主義者と同じだ。よって新自由主義者は共産主義者なんだ」もおかしいとわかるだろう。
インターネットではそれぞれの発言と発言主が結びつかず、なんとなく「自分の考えを非難する人」を全部同じカテゴリに放り込む処理をしてしまいがちだ。(なお、話をややこしくするのは本当に矛盾した意見を言うやつも一定数存在することだ)
そんなわけで、いわゆる「中立」「客観」批判者は皆「お気持ち」(ここでは、自分の快不快の問題をシームレスに社会的な問題につなげて、自分の感情に社会が従うべきだ的な発想を持っている人)の人たちだ、という雑な世界観を持っている人も多いが、ここで「中立」「客観」批判の理屈に触れて、「なるほど、こいつらはこういう理由でそういっているんだな。(自分は賛同できないにしても)まあ理屈は分かるな」と思ってくれれば幸いである。
これは厳密には『中立』『客観』を否定していない。どころか、不徹底な『中立』『客観』を批判し、本物の『中立』『客観』を目指そうとする方向性も見受けられる。
実際問題、はてなやTwitterでは、『中立』『客観』(それからこれと似ている『是々非々』など)を「右」と「左」(あるいは任意の対立する二大勢力)のどちらも全肯定/全否定しないことだと思っている感じがする人が複数見受けられる。まあ確かに、「右」のいう事を全肯定/全否定、とか、「左」のいう事を全肯定/全否定すると最初から決めてかかるのは紛れもなく党派的な姿勢であり、中立的でも客観的でもない。しかし、そもそも「右」がどうとか「左」がどうとか党派性を意識し、この二者のいう事には従わないぞ!みたいに決めてかかっているのは、全く同じではなかろうか。ようは、「中道」という第三の党派に過ぎない。そうではなく、中立や客観というものに自分は完璧に到達できないのだという事を自覚し、他人が中立的であるか客観的であるかは究極的にはジャッジできない(もちろん明らかにこいつ主観的に過ぎるやろみたいな人はいるけど、そう思っている私の方がおかしい可能性は否定できない)という事を踏まえなければ、「中立」「客観」という言葉は単なる党派性の御旗にしかならない。
これは実のところ、「正義の暴走」論とよく似ている話だ。正義の暴走を非難する人は正義が嫌いなのではなく(まあそういう人もいるが)正義のために正義の暴走は抑止した方がいいという話をしている。正義の暴走とは、やっている本人たちが勝手に正義と思っているだけで、実際には悪である、というロジックだ。同じように、「中立」「客観」の濫用を非難する人が「中立」「客観」を否定していないのも当たり前の話だ。彼らが否定しているのは「中立」「客観」を装った「党派性」「主観」だからだ。(面白いのが、「正義の暴走」論を持ち出す人の多くは「中立」「客観」の濫用の問題を考えず、「中立」「客観」を批判する人は「正義の暴走」論を持ち出されると不満を表出することが多い事である。両者はほぼ同じことを言っているのだが)
まあ、つまりこの批判は「お前は自分が客観的と思ってるかもしれないけど本当は違う(かも)しれないぞ!」というものである。個人に向けるときは喧嘩する気がなければ使わない方がいいとは思うが、一般論としては(特にわたしのような『中立』『客観』が大好きな人間ほど)よく頭に刻んでおいた方がいいと思う。
こちらは、『中立』『客観』的な態度を、ある一分野のみについてとはいえ明確に否定している(と私は思う)ので、論点①とは様子が違う。
まあ言っている事は正直分からなくもない。この手の人たちが良く比喩として使うように、「足で踏んでいる人と踏まれている人」の間で『中立』『客観』的な議論を成立させろ、というのは無茶である。差別されている人と、その差別をたとえ直接はしてはいなくても差別によって得られる利益を(その自覚なしに)享受している人の関係は、「足で踏んでいる人と踏まれている人」のそれよりはるかに複雑で見えづらいものがあるが、似たような関係性であるという事は、その是非は別として、可能ではあると思う。なので、倫理的な個人が差別問題について論じるときはその辺に気を付けて論じてもよい、論じた方が好ましいくらいのことは私も思う。
しかし、この考えを強い規範として言論空間に導入することに対しては私は警戒心を抱く。
「誰が加害者か」「誰が被害者か」「どこからどこまでが『差別問題』か」「どんな事実を適示すればそれが『被害者非難をあおっている』と言えるか」
これらをみんなが納得いくように定めるのは非常に難しい。間違った基準を定めてしまえば、例えば本来「被害者」である人たちを「加害者」として力づくで非難する事や、本来「加害者」である人たちの罪悪を「被害者」として覆い隠すこともありうる。「被害者」「加害者」の推定が正しかろうと、「被害者非難をあおっていると言える事実」と認定されたものがもし違えば、その事実は公論上での扱いが不当に小さくなりかねない。差別発言自体は言論の自由で守る価値はまったくないのだが、論点②の批判が拡大すると差別発言以外も巻き添えになるリスクがとんでもなく大きくなりそうである。そもそも一国の言論空間なんて政治勢力も右から左からワラワラ湧いてくる場所なんだから、うかつに基準を厳しくしたら、その基準が「万人」でも「マイノリティ」でもなく「特定の政治権力」の都合の良いようになってしまう可能性もある。一方で、剥き出しの、それこそ差別主義者やデマもなんでもござれの「言論の自由」が良いとも思えないし、「中立」を装って攻撃を誘発する人たちを何とかしたいという気持ちはあるので複雑なところである。
(ちなみに、個人としてこの観点から批判すること自体はどんどんやったらいい。問題なのはこの考えが強い規範になることである)
①②は曲がりなりにも論として成立しているが、③は論外である。これこそが「お気持ち」である。
これについて論じることは特にない。まあしいて言うならば、「個人的な感情の表明」自体は何ら悪ではないという事は付け加えておきたい。こういう風に、自分の感情だけで他人を思うままに動かす権利が自分にあると思っている人をまともに相手する必要がないというだけである。
①②③それぞれ、言う層が全然違ってくるということがイメージできるだろうか。
①は、左右問わずおそらくそれなりに頭のいい人、論理的な思考が好きな人が言うと思う。(ただし、論理的な思考が好きな人は左に行きやすいので、左が多い気はする)
②は、明確に左の中でも主張が強めの人が言うだろう。(なお、加害者と被害者の構造を、中国と日本あたりにすれば、右の主張強めの人たちも似たようなことを言っている)ここで重要なのは、彼らの主張は我々と大きく違うが、別に彼らは頭がいいわけでも悪いわけでもない。どちらかと言えば頭のいい人が多いと思う。
③の人は、多分単純に頭が悪い。左にも右にも真ん中にもこういう馬鹿は沢山いる。ただし、バカの中でもわざわざ自分はバカですとアピールしたがるインセンティブが強いのは右左の中でも過激な人たちだろう。
「お気持ちサヨクはバカ」みたいなことを言う人たちは、多分①②の理屈で「中立」「客観」を批判している人に左翼が多いという事と、③の人たちにバカが多い事を混同して、左翼=お気持ち=バカみたいな図式を作り上げているのではないかと思う。あと、「お気持ちサヨクはバカ」と言った同じ口で「リベラル(おそらくこの人はリベラルとサヨクをほぼ同義として使っているはず)は啓蒙思想を押し付けている」みたいなことを言っている人もいた。確かに②は啓蒙思想押し付けのダメな部分全開という感じで、③はバカである。たぶん構造としては②が③の人たちを率いて暴れまわっているという感じではなかろうか。まあそんな感じで、「中立」「客観」大好きな人たちも、③は論外として①②の理屈は普通にそれなりに通っているっていうことをちゃんと意識しよう。(まあ意識できてる人もいるだろうけど)
日本人は「論理」を数学の論述のイメージでしか捉えてないから。
数学以外の普通の価値判断で、「論理的に導いたから絶対に正しい」なんて答えは出てこない。
日常的な意味で言う「論理的」は「科学的」と同じで、「絶対に正しい」ではなく「正しいかどうか客観的に判断できる」でしかない。
そのために必要なのは、ただ「論点を整理する」ことでしかないのに、無理に「証明」しようとして、絶対的でない根拠から絶対的な結論を強弁するばかりになる。
「自分がそう思う理由(この理由が否定されたら考えを変えます)」という論点を示して、後は相手の判断に任せるのが「論理的」です。
その批判が圧力をかけるためだってのは価値判断を含んでいるから慎重になるべきだろ。
「このような映画はこのような理由で上映されるべきではない」なら問題ない批判だと思う。表現の自由戦士としては「そのような問題があったとしてもやはり表現の自由を優先すべきだ」と言論で対抗する。
「○○映画館はこのような映画を上映するべきではない」はグレー。「このような映画の上映を阻止する!」と宣言したり、実際に妨害活動をするのはアウト。
そんな法のの条文みたいな部分ではなく、もっと理念の根本的なところに踏み込め。
自由の名のもとに許されるのかどうか?
もちろんそれだけは許されない訳だよ。
たとえ、どんなに偏った思想の作品でも、便乗商法でも、くだらないクソ映画でも、法を侵してない限り公開を妨害されてはならない。批判したけりゃ公開作品を観て、思う存分にこき下ろせば良い。それが表現の自由。
というようなくだらない論法がはてなには本当に多くてうんざりするが、公開を妨害するとはどういうことか、という当該コメント自体の問題点はさておき(例えば圧倒的な不評で公開が打ち切られた場合は「公開の妨害」に当たるのだろうか。「観て」「こき下ろ」したのであれば、一瞬の公開でも公開した以上は良いのだろうか。)、違法でない限り表現の自由は侵害できない、という狂った言論の問題に触れておきたい。
そもそも、表現の自由というのは憲法上の権利であり、法律がこれを侵害していた場合は、その法律に優先すべき規範である。すなわち、法律があるから表現の自由を制約できるのではなく、表現の自由を制約できる理由があるから法律によって制約できることを忘れてはならない。
要するに、表現の自由を制約できる(「ある表現をするべきではない」と判断できる)価値判断は、現行法と関係なく存在することに注意する必要がある。余談だがこれは財産権が「法律でこれを定める」とされていることと対照的だ。名誉棄損やわいせつ物陳列が表現内容に着目した規制であるのにもかかわらず刑事罰という国家として最も強い制約を課すことができるのは、それらが刑法に定められた犯罪だからなのではなく、それぞれの守るべき価値が表現の自由を制約する理由たり得ると考えられているからとなる。ちなみに、「名誉権」という明文の憲法上の権利はないし、わいせつ物規制に至っては個人の権利の保護ではなく社会秩序を理由とした規制である。
さて、この時に、現に法規制されていない表現について、「これは表現者の表現の自由を制約してでも公表されるべきではない」と考えた者がいたとする。その時に、「この表現は規制されるべきである」と主張すること自体が表現の自由で保障されないのであれば、この人は一体どうやって自身の考えを実現することができるのだろうか。そもそも、そういった内心を表現し、相互に影響を与えながら政治的合意を得るということが民主主義社会にとって不可欠であるが故に、表現の自由は特別に重要な権利とされているのではないか。
というようなことをここまで考えたうえでようやく、現状のSNS社会におけるキャンセル運動が、時に一個人・一企業の対応の限界を超えてしまうことで、言論の価値ではなく「物量」で黙らせる事例を考慮し、こういった事実上の「圧力」が公的な規制よりも表現を委縮し、自由な表現による合意を却って妨げているのではないか、という問題に行き着くのである。ここで、キャンセル運動の個別の言論自体はその価値を認めざるを得ないという難しさを前提としない限りは、現行法に従うことだけを価値とする冒頭のブコメのようなくだらない言論になってしまう。表現の自由について散々話題にする割に極めて拙い理解に留まるはてなが少しでもましな議論のできる場になることを祈る。
1,自分
2,長男
3,長女含め二人の子供
4,妻含め家族全員
どっちでもいい、正解は無い。
ともかく優先順位が決まったらそれを実現するためのアクションを考えれば済む。
選択肢はさほどない、優先順位が曖昧なままだと選択肢も無限に広がるだけ。
結婚したまま妻を追い出しても良い、籍は抜いてやらない、抜かなきゃ親権の争いにはならない。
妻の思想教育からやり直さないと仕方がない。それが前提になる。
数週間で音を上げて長女連れて実家に帰るだろう。、離婚も言い出すだろうが
無職で資産なし、裁判しもてなにも取れないと弁護士から諭されるだけ
っていうのがあって驚いた。
のは事実でしょ? こういうまとめもあるし。日本共産党 池内さおり候補、比例の順位を3番目にされるという女性差別のせいで落選 - togetter
○○党に属する政治家の選挙集会で壇上に登って応援演説ぶったことがある人は、「○○党と強い繋がりがある」って言ってもよくない?
別に、暇な空白の人は、共産党の手先とか共産党の工作員とかとは言ってないんだよね。「強い繋がりがある」って連呼してるだけ。
「手先」や「工作員」と認定するなら具体的に指示を受け取ってる証拠が必要かもしれんけど、「強い繋がりがある」は外形的な行動から言い切って大丈夫でしょ。
選挙集会の壇上で応援演説するくらいでは「強い繋がり」ではない、という主張もありうるかもしれないけど、何をもって「強い繋がり」とするかは価値判断の領域だよね?
「○○ちゃんはめちゃめちゃかわいい」という主張に対して「いやいやそんな言うほどかわいくないよ」という反論をするのはわかるけど、「それは事実じゃない」って言うのはおかしくね? だって「めちゃめちゃかわいい」っていうのは事実じゃなくて評価でしょ。
同様に「強い繋がりがある」も事実じゃなくて評価なんだから、「それほど強くないぞ」と反論することはできても「事実じゃない」と反論するのは無理筋じゃね?
それともこの仁藤夢乃さんが共産党の選挙集会に出てる映像ってなんかのディープフェイク的なやつだったりするの? その場合は「事実じゃない」っていう反論が正しくなるけど。
ところで、
ということでいいんですね? そうすると、選挙のときにボランティアを組織的に送り込むのも「強い繋がり」じゃないってことでOK? 怪しげな壺売りであり多くの日本人を搾取してきた統一教会と強い繋がりがある自民党さんにもぜひ同じことを言ってあげてね。
以下の記事の追記です、もう前回でだいぶ書きたいことは書いたのであれが最後でいいかなとは考えていましたが、ブコメを読んでいてふつふつとこれだけは書いておかないといった思いが沸き上がり書き散らします、これで最後の追記です。
まだ山上の安部暗殺事件はテロじゃないっていってるアホがいる話
https://anond.hatelabo.jp/20220910005727
続まだ山上の安部暗殺事件はテロじゃないっていってるアホがいる話
https://anond.hatelabo.jp/20220910153218
新まだ山上の安部暗殺事件はテロじゃないっていってるアホがいる話
https://anond.hatelabo.jp/20220911020227
似たようなコメントは最初の記事でもたくさんいただいてたのですが、ここに来てだいぶ意見が強くなってきたのでこれは書かないとといけないなとは。
もう何度か書いてますが、実際にテロなのにもかかわらずテロじゃないというのは、この事件の本質を覆い隠すような、本当に解決しなければならない社会の瑕疵から目をそらしてるような気持ち悪さを感じてます。
まさにプーチンが戦争を軍事作戦といいかえ狂気に走ったようなインチキさ、統一教会から世界統一家庭連合と名前を変えてかつての罪から逃れようとしたように誤魔化している、そんな気がしてなりません。
私怨で安倍晋三と山上との個人的な関係の話だから事件とは自分たちは関係ないんだといった無責任な態度はもうとれないのです、この事件、人が死んでいることをもっと重く受け止めた方がいい。
はてなではテロではない私怨だといって安倍晋三は殺されて当然みたいな意見が憚り通っていることには勿論許すことができませんがメディアの記事や一部ジャーナリストまで言っていることに危機感を覚えて定期的に啓発をするようになりました。
例1 この記事では銃の乱射事件であってテロではないとよくわからない論理を持ち出してる
<凶弾に倒れた安倍元首相>「テロ」と呼ぶことに疑問、「暗殺」は?=国際定義から考えるhttps://www.excite.co.jp/news/article/Recordchina_900837/
例2 この記事は海外メディアはassassination=暗殺と報道しているからテロではないとしている、しかし前の記事でも言ったが暗殺とはテロの一形態だ
安倍元首相銃撃は「テロ」ではない 事件めぐり出回る2つの誤解https://news.yahoo.co.jp/articles/db2b787d0a9dbc1da2df323039f74cd69b3e2f61?page=1
※ちなみ少し検索してみたら海外メディアが暗殺かつテロリズムと報道している例はすぐ見つかった‘
Terrorism’: Abe killing seen as attack on Japan’s democracyhttps://apnews.com/article/shinzo-abe-crime-tokyo-freedom-of-speech-b6a34a5269f6c90097eb677071aeb11c
例3 日曜討論で遮られたのが話題になったジャーナリストの江川紹子氏は発言の中で政治テロというよりも統一教会への恨みとしている
https://video.twimg.com/ext_tw_video/1548680986384220165/pu/vid/640x360/IG9lWLZpbjHBIDV2.mp4
以上のようにテロではないと言い換えるようなことがメディアでも行われていることに危機感を抱いたのです。
onesplat “定義の話をし始めたら死ぬほど面倒な言葉遊びに” いやいやw 「AはXである」という主張はまずXの定義について合意が取れていないと何の意味もないことは理解できるか?まさにその言葉遊びを始めたのはお前なんだよ
最初に定義を書かなかったのは、これまでの記事では最初にテロの定義について書いていたのですが、あんまり伸びなかったからです。ある程度ツッコミポイントを作っておいた方が記事が伸びるのでは?といった狙いもありました。言葉遊びの不毛さに嫌気がさしていたのは事実ですがね。
それに最初に言葉遊びを始めたのは安倍暗殺事件をテロではないとして山上を英雄視しているような身の毛もよだつような連中です。
lady_joker 内容よりなんでこんなエントリを書き続けているのかのほうに興味があるかな。いちいち「自分は統一教会の関係者ではありません」という旨を表明し続けているあたり、他人の目を怖がっている人なんだろなとは感じる
書いておかないとお前は統一教会関係者だろ!って赤狩りし始めるのが目に見えてたのでね、主題とは違うことに論争を費やすのはあまりにも無駄。増田に書き散らすのはただのライフワークです。普段は映画とか漫画とかアニメのエントリ書いてます。
ackey1973 まだ“テロかテロじゃないか”で消耗してるの? 山上容疑者は殺人犯で、統一協会は悪質なカルト。そこがブレなければ、まあいいかな。
分かってない人達の声が大きい限りは言い続けます。山上は頭のいかれた殺人鬼でテロリスト、そして統一教会は悪質なカルト集団これに変わりはないです。
aLa 政治目的ではなく私怨なのでテロという表現には違和感があるね。国葬を強行したい自民党からすれば、「私的なトラブルが演説中に起きた」より「元総理を襲ったテロ行為」と表現した方が都合が良いだろうけど
安倍晋三をテロによって命を落とした悲劇の政治家にしたのは政府や自民党ではなく山上なのです。それがわからない限りはあなたとは平行線のままでしょうね。
koo-sokzeshky 「あの事件はテロだ」は発言者次第で色々な事実認識(山上の目的等)や価値判断(いま何を問題視すべきか等)が埋め込まれるので、テロか否かの論点は単純に遠回りですね。「問題点」のくだりに注力するとよいのでは
遠回りでも本質を覆い隠すようなことにはNOと言い続けます。それが私ができる反暴力、反テロ活動、山上が言論に力はないと凶行に走ったことへの意趣返しです。
itochan 「結果として○○だからテロ」というのは変かと。「○○するために行動したからテロ」と、犯人の意図を重視したい。でないと殺人と業務上過失致死が別けられない。テロ未遂事件も結果がでないなら無罪になる。
起こした状況や関係性によって呼び方が変わるのは当然です。上司が部下に殴ったのならそれはパワハラ、夫が妻を殴ったならDV、政治活動中の政治家を殴ったのならそれはテロです。
kotobuki_84 現状まあ少なくとも「テロリズムの信奉者たちに担ぎ上げられるという形で、あれはテロだったという既成事実が後から形成されつつある」という所までは確実だと思う。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/smart-flash.jp/sociopolitics/200133
過激派にはつける薬がないのでどうしようもないですが、私怨だから山神というような気持ち悪さに与するのは勘弁ですね。記事を読む限りテロリストという側面は強調していないみたいですが