はてなキーワード: 党派とは
でも良い作品はあらゆる人に広められるべきという信条をもっているのと
まとめサイトみたいに一部の害悪を取り上げて過大に嫌だね嫌だねって言い合う池沼しぐさに嫌気がさしているだけのキモオタだ
厄介がコンテンツやコミュニティを荒らすのは人気作なら絶対起こることだと分かってる
男女混作ゆえの問題もその中の一つだが、ほとんどの場合「女ユーザーが害悪」になるほど路線が歪んだり作品を乗っ取られることなどない
そういうのは大抵、もとから懐が広かったものを、自分の都合の良いように捉えて自分たちのものと誤認してた厄介ユーザーが騒ぐ程度のもんで
変な界隈を見ようとしなければ(というか俺は作品を消費するのに他人を見る必要ないと思っている)なんの影響もないケースばかりだと思っている
この手の人間は精神がおかしいから思い込みが強く、どうせ俺のことも女だと思ってたんだろう
自分の想像の範疇外の人間は存在しないという傲慢な思い込みがあるのがこの手の人間の特徴だな
この増田のブクマ欄を見て驚いた。いまのトップブクマがこれなんだけど
「県立公園で健全な写真を撮る」ならまだ分かるし、スタジオを借り上げる/私有地を提供してもらうetc.ならヌード写真だって撮れるのに、「県立公園できわどい写真を撮る」に固執する動機がさっぱり理解できません。
何の話?
・水着撮影会の件で「チキンレースをするからこうなる」「表自が規制を自らで呼び込んだ」と言ったコメントがあったが、手引きの公開は表現の自由戦士にとっても好ましい事態だったのでは?
・基準の明確化は表現の自由戦士にとって嬉しいのだが、左派(?)の人々はそこを誤解しているのでは
・「基準の明確化」と「基準の厳格化」と「基準が細かくなる」はそれぞれ違う
・そもそもこの手引きの公開については表現の自由戦士も左派も嬉しいので、対立など最初から存在しないのでは?
この内容に対して
「県立公園で健全な写真を撮る」ならまだ分かるし、スタジオを借り上げる/私有地を提供してもらうetc.ならヌード写真だって撮れるのに、「県立公園できわどい写真を撮る」に固執する動機がさっぱり理解できません。
いや、何の話?
さっぱり理解できないのはこっちなんだけど
元増田を読む限り「「県立公園できわどい写真を撮る」に固執」していると読み取れる文章が全然見当たらないんだが
それどころか、元増田は
(ちなみに自分個人としては今回の手引きの基準は割とまぁアリなんじゃない?と思っている。もう少し緩くてもいい気はするけど、そこまで悪くない気が、なのでそこまで不満はない)
と言っていて、「県立公園できわどい写真を撮れなくなった」今回の手引きを肯定すらしてる、全然固執してないじゃん
これ本当に元増田を読んだ上でのコメントなのか?ただ単語が共通するだけでまったく関係無い話をしている様にしか見えないんだが
いや、このブクマをした人自体は別にいい、別に全員が全員標準的な読解能力を備えている訳でも、状況に応じたコミュニケーションが出来る訳でも無い、そういう人は居る
ただ、この関係ない話が☆を集めて現在トップなの、一体何が起きているの?
ブコメ欄のこのブコメの「リンク」の部分を押すと☆を押した人たちが出てくるんだけど、この人達はこのブコメが元増田のどの部分に対するコメントだと思って☆を押したんだろうか?誰か教えてくれよ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240322120213
この増田に限らない、一部だがブクマカの読解力の欠如がちょっととんでもない時、結構有ると思うよ、見ていて
よく、勉強できない小学生が算数の文章問題で、文章をちゃんと読まずに出てくる数字を適当に足したり掛けたりしちゃうじゃん?ああいう感じ
今回だと「水着撮影会」と「表現の自由戦士」っていう単語だけ見てそれだけで頭いっぱいになっちゃって、以前思ったこの増田に関係無いことをそのまま書いちゃったんだろうな、という感じ
そういう人が1人2人居る事は別にいいんだよ、でもそれが支持を集めちゃう場所is何?全員が勉強できない小学生なの?
自分も今まで2chだとかヤフコメだとか色々インターネットの酷い場所を見てきたけど、流石にレベルが低過ぎない?いや「レベルが低い」で想定している事柄ってそういう事じゃないんだよ、その更に下を行ってない?想定してない地下をえぐってくるのやめようよ、ネジ戦のナルトかよ
(あと、あまりこういう所でどちらかの肩を持つような事はしたくないのでボカすけど、こういう読解力に問題があるブコメが支持される場面度々見るけど、正直それが起こってる率が党派的に偏り有ると思うよ、本当に酷い、もう片方も読解力に問題があるブコメは一杯あるんだけど、☆を集めるのは一応ブクマ先と関係した内容ではある事が多い、いや求める水準が低過ぎだけど)
せめてさ、ちゃんと読もうよ、読んだ上でコメントして、読んだ上で☆を押そうよ
あ、味方だ、嬉しいポチー、じゃなくてさ、自分がうれしいブコメがトップに上がってたら嬉しいからブクマ先と関係無くてもポチー、じゃなくてさ
一々こんなこと言いたくないけどさ、流石にどうかしてるよ、マジで
自分も松本の考える笑いの一部に暴力的なものや権力側のもの、弱者を笑うものやその他不適切な物等々あったと思うのだけど、
いつのまにかそれが「松本の笑いとは」と全体化され、さらにいつのまにか「面白いかどうか」と言う別の問題と混同される事になった
そう判断した人達を説得しようという気は無い、というか無理だと思う
なので今回も、吉住のこれまでのネタも含めて同じ事になるのかな?というただの予想
簡単に言って彼らは2段の変換を行っている
まず一部の笑いの性質を「松本の笑い」全体に拡大する「全体化」
それから主に政治的に不適切か、倫理的に問題か、あるいはどちらの党派に味方するものか、といった問題を、面白さという個々の感性に依存する問題と混同する「すり替え」
この2つの操作が誰に対しても平等に適用されると仮定すると、吉住も勿論対象になる
今回の吉住のネタは既に(主に左派間で)政治的に不適切という判断は固まったようだから
その評価はこれまでのネタも含めて「吉住の笑いとは」と全体化され、
さらに「面白いかどうか」という問題とすり替えられて「吉住は元々面白くなかった」、という結論になるのかな?と予想する
ただ、これはあまり言いたくはないのだけど、吉住は女性芸人で、しかも(私個人の主観で言わせて貰えば)そこらへんの凡百の男性芸人より普通に面白くトップ層に届き得るある意味では希望の星なので、
「手加減」されて「今回のネタだけ面白くなかった」と、全体化の方は免れるかも知れない(すり替えの方は既に行われているのを見かけるので難しいかな)
ただ、それって吉住に対してもほかの女性芸人に対しても凄く失礼だし、理屈も通らないので考え直して欲しいなと思う、もう一度全体化とすり替えが本当に適切かどうかも含めて考え直して欲しい
最後に自分個人の感想を言わせて貰えば、吉住のネタはこれまでのものも含めて自分は凄く面白いと思うし、好きだ
今回のデモのネタも自分にとっては面白かった、個人的には決勝ネタより好きかな、個人的な好みで言えば街裏ぴんくより面白かったので自分的には優勝は吉住だった
個人的にはもう、女性芸人などと芸人の中から女性をわざわざ分けるのはナンセンスだと思っている、ヨネダ2000や蛙亭イワクラ、ラランドサーヤ、そして吉住などなど一線級の才能がすでに揃っていると思うから
その「面白さ」の価値、「面白さ」がほかの価値観に従属的なただの付属物ではなく、独立した別の価値であること(それ故に同時に、面白い事は倫理的に免罪されることも意味しない)を認めてあげて欲しいなと思う
古文漢文なんていらねぇ!という主張は、とにかく評判が悪い。受験期になると毎年のようにこの手の論争が再燃するが、話がまともに前進することは稀である。
ほんとうに意味のない教養信仰やマウントやwhataboutismをとりのぞいたとき、私の考えでは、必要派のまともな論拠は以下の一点に絞られる。すなわち、古文漢文を学習することは、日本人としての文化的アイデンティティを養うことに繋がるので、古文漢文は学ばれるべきなのだ。
いずれにしたって、古文漢文に優先的に学ばれるだけの価値があるとすれば、それは役に立つからである。
任意の学問について学ぶことにはそれ自体価値がある(誰もこれを否定するべきではない)のだが、それだけでカリキュラムに組み込まれるわけではない。古文漢文は英語や数学とならんでとりわけ役に立つからこそ、受験科目にするほどの価値を認められているのだ。そうでないとすれば、あれやこれを受験科目にせず、古文漢文を受験科目にすることがまったく正当化できない(これはいくらかwhataboutismだが)。
古文漢文はなんの役に立つのか。古文漢文をやっていれば、これに絡んだワードセンスや物語の優美さ・ユーモアが汲み取れる、というのはどう考えても小さすぎる利点なので、この程度の「役に立つ」を指摘して満足してしまうのは小物のやり口である。
もっとがっつり役に立つ、例えば大学や社会に進んだら漢文や古文を読む機会がたくさんある、古文漢文で読解力や論理的思考が大幅に養われる、などと指摘するのは嘘つきのやり口である。そんなことないからこそ、不要論が立ち上がるのだ。
したがって、古文漢文が真に役に立つのだとしたら、上に述べた通り、日本人としての文化的アイデンティティを養うことに繋がるというのが、その「役」なのである。この「役」は、聖書やプログラミングを学ばせても代替できない点で、古文漢文をとりわけ優先するもっともらしい理由を与えてくれる。中高生たちは日本人としての文化的アイデンティティを養うべきであり、古文漢文はこの望ましい帰結をもたらすからこそ役に立つ、優先的に学ばれるべきなのだ。というか、これこそが古典教育の目標であることは(ここまで露骨ではないものの)高等学校学習指導要領に書かれている。
古典としての古文と漢文、古典に関連する文章を読むことによって、我が国の伝統と文化に対する理解を深め、生涯にわたって古典に親しむ態度を育てる。
古文漢文必要派は、この一点突破を狙うべきだろう。小さすぎるお役立ちを挙げるのも、大きすぎるお役立ちを挙げるのも、教養信仰やマウントやwhataboutismに徹するのも、墓穴を掘って自らを辱めるだけだ。
しかし、「中高生たちは日本人としての文化的アイデンティティを養うべきだ」という前提は、すでにかなり党派的なものである。それはれっきとした国粋主義であり、軍国的な仕方で「国民」なるものを要請している。このグローバル化が進みきった時代において、なぜ日本人(にっぽんじん)としてのアイデンティティを持たなければならないのか、それがなんの「役に立つ」のかという疑問はスキップされており、とにかく、「文化的アイデンティティを養うべだ」という義務だけが突きつけられている。
実際、古文漢文不要派の一部は、まさにこの「国民」の押し付けにこそ反対しているのであり、特定の文化的アイデンティティに固執するべきではないと考えているのだ。必要派が本質的にナショナリストならば、不要派は本質的にアナーキストである。
というふうに、「古文漢文必要派vs不要派」の争いは多分に政治的な争いであり、私が思うに、発信する人の多くはこれを分かっている(ほんとうに無自覚な人もいるが)。しかし、両陣営ともに自らの政治的立場を明言しないのが普通である。というのも、露骨に党派性を示してしまえば、そうしなかった場合には言いくるめられたフォロワーまで引かせてしまうからだ。そのせいで議論はいつも上滑りし、互いに口汚く罵り合って、相手は馬鹿だと結論し、翌年の再戦を待つばかりだ。
「中高生たちは日本人としての文化的アイデンティティを養うべきだ」という前提の是非にのみ話を絞れば、古文漢文の必要性をめぐる議論はもう少し見通しが良くなるだろう。
なんにせよ、アイデンティティを持つことは、心身の健康にとって必要不可欠であるかもしれない。国民であるという拠り所すら失われたときに、人はどれだけの孤独を感じるのか。そんなものに寄りかからず自分の脚で立て!というマッチョな個人主義に、みんながみんなついていけるわけではない。
はたまた、仮に日本人としてのアイデンティティを養うべきなのだとして、古文漢文をやらせるというのは理にかなった方法なのかという疑問も意味をなしてくる。これだけ少なくない人々に、古文漢文という科目への悪いイメージを植えつけているのだとすれば、それはいわゆる「義務教育の敗北」ではないか。
はたまた、少なからず党派的な思想を陰に陽に植えつけようとする事自体、中高生の自律性を脅かすパターナリズムでなくてなんなのか。「自分の脚で立て!」とまではいかないにせよ、子どもたちには一定の選択が与えられるべきであり、古文漢文を必須の受験科目とすることはその道を閉ざしているのではないか。
そんなに言うなら、私立理系に進めばいいだけの話だ!と言われるかもしれない。しかし、だとすれば理系はなぜ日本人としての文化的アイデンティティを養う義務から(ある程度)自由を許されるのか、と問われるかもしれない……。
疑問・議論は尽きないが、私たちはいまや「古文漢文は必要なのか」というはじめの問いよりも、はるかに全うな問いたちを手にしつつあるのではないか。
こういう条件反射でどっかで聞きかじったようなワンパかつコピペな主張で食いついてくるけど、日本語読めてるのかすら怪しいから相手するのは無駄ってやつを雑にくくって「ネトウヨうぜぇ」とするから党派とかあんま関係ないんだわ、という一例だな
メインセッション
「東アジア反日武装戦線」とその時代を振り返り、見えてくるもの
https://www.youtube.com/live/ouGKVPIWh9s?si=1pm7-RACXU1kcPQl&t=7782
(約3600文字)
青木理氏:
中核派はまだ組織があるが、東アジア反日武装戦線はもう組織がない。
桐島聡「さん」
田原牧氏:
(「戦線」ではないが過激派の?)裁判支援をしている友人がいた。
私は急に森田童子を思い出した。
荻上チキ氏:
「ぼくたちの失敗」('76リリース、'93「高校教師」主題歌)の。
田:
もっと物議を醸しそうな曲もあったが、そういう時代を思い出した。
荻:
田:
「戦線」は新左翼とは一線を画している。全共闘の一つのエッセンス。
60年代学生運動は日本の戦争責任に触れていなかったが、70年代から問題提起が出てきて「戦線」は愚直に受け止めた。
田:
60年代半ばから80年代半ばまでの運動では人の死が珍しくなかった。
運動も竹竿→ゲバ棒→火炎瓶→爆弾となり、'71には三里塚の東峰十字路事件で警官が3人、'72には連合赤軍事件もあり、最終的には100人以上死んでいる。
荻:
田:
(男子の大学進学率 '60 13.7% → '65 20.7%。'66に18歳人口が+50万人)
田:
東大全共闘のリーダーの山本義隆氏が、闘っているに自分たちの特権性に目をつぶって正義を説くことを批判した。(「邪宗門」の)高橋和巳は「自己否定」を唱えた。
田:
60年代半ばまでは日韓基本条約('65締結)反対闘争で、革新側も「韓国に払う金があるんだったら自分たちに回せ」などと平気で言っていた。大日本帝国の責任は問われなかった。
田:
入管法の制定反対で結成された新左翼系の華僑青年闘争委員会(華青闘)が、集会で「抑圧民族である日本人は信用できない」旨の「華青闘告発」を行い、日本の新左翼党派は頭を下げた。
田:
この自己否定の流れと「戦線」自体のアナキズム的な性格が合わさって、実力行使に繋がっていった。
荻:
今振り返った時代の前半、大学自治や学費問題から階級闘争、安保闘争、反米などとリンクして新左翼が広がっていく経緯は割りと学ぶ機会もある。
青:
戦後の一時期共産党は武装闘争路線をとっていたが、1955年の「六全協」で武装闘争を放棄した。同時期にソ連でスターリン批判が起きた。
共産党指導ではだめだということで(既成左翼ではない新左翼として)「革共同」や「ブント」が設立され、これらが中核派、革マル派、赤軍派などの母体となる。
全共闘は当初セクト(党派)ではなかったが最終的に合体していく。
青:
学生たちはベトナム、日米安保、三里塚など正義感や葛藤の中で行動していたが、69年の安田講堂事件の鎮圧以降急速に沈静化「敗北」していく。
このあとよど号、大菩薩峠、連合赤軍などの事件がおき、さらに爆弾事件と先鋭化してくる。「戦線」活動もこのころ。
田:
「戦線」は71年に興亜観音・殉国七士之碑爆破、72年に総持寺納骨堂爆破など、怪我人は出ないが爆破は始めていた。
青:
「狼煙を見よ」や「腹腹時計」から読み取れる「戦線」の特徴は、現在まで続く日本帝国主義の粉砕にある。
荻:
60年代学生運動は抗議主体だったが、その後日本の加害性を発見し、植民地支配の反省中で農村コミュニティや市民と共に暮らす実践などもあったが、「戦線」のような組織は反省と攻撃を結びつけて行った(とまとめた)。
青:
「戦線」の事件を肯定はしないが、アイヌ、在日コリアン、沖縄などマイノリティに対する問題意識を持っていたというのは現代にも通ずる普遍性がある。
また、従来型の新左翼とは傾向が違い、ストイックに日々の暮らしをしながら爆弾闘争をやった。
荻:
田:
また時代の流れが、新左翼を国家権力が「暴力」で鎮圧することへの対抗として、自分たちも武装する、という意識が強かった。
昭和天皇暗殺未遂、朴正煕暗殺未遂の文世光事件、「命がけで闘った文世光への呼応としての」意識、暴力で時代を切り開く意識があったのではないか。
青:
松下竜一「狼煙を見よ」によれば、お召列車爆破未遂でしょんぼりしていたときに同世代の文世光(22歳)が事件を起こした、あんなに頑張っているのに俺たちは何をしているんだ、と、三菱重工爆破事件につながった。
お召列車爆破用の威力の高い爆弾を使ったので8人の死者を出す大被害となり、大道寺将司は痛切に反省をした。
荻:
今の若い人からすると左翼=マルクス主義だというイメージが強い。
新左翼とマルクス主義の距離、「旧左翼」とマルクス主義の距離、「戦線」の立ち位置はどうか?
田:
新左翼の各党派はマルクス主義に基づく綱領や路線がある。一方「戦線」は党派ではない。マルクスは時代的に当然読むが、全共闘の学生たちと同様に倫理感から直接行動を起こした。先鋭化する人たちのほかに、水俣や山谷に行った人、本格化する前の部落解放闘争に行った人もたくさんいる。
荻:
分かりやすいイメージだと革命を成し遂げるための手段という印象があるが
田:
「戦線」は革命ではなく落とし前。国家権力の奪取にこだわらない。政治ではない。倫理であり生き方の問題。ある意味ものすごくピュアな人たち。
(CMと前半の振り返り)
荻:
この半世紀どうか。
青:
ドイツは戦争責任によって東西に分断されたが、アジアでは朝鮮半島が南北に武断された。沖縄はまだ(アメリカの基地である)。こういった日本の加害性をピュアに突き詰めたからこそ「反日」を冠した。
荻:
青:
皮肉。かつては東アジア人民連帯の「反日」だったのが全く反転してしまった。
青:
新左翼各セクトは「戦線」に批判的だったが、鈴木邦男など右派陣営の一部が「戦線」のストイックさ、(「大地の牙」部隊のリーダー男性の)齋藤和(のどか)の服毒自殺を評価している。こういう流れが新右翼のムーブメントを生んだ。
リスナー:
田:
将来構想はなかった。個々人の落とし前。三菱重工等々の被害者にしてみれば雑談じゃないという話だが、彼らの論理は日本国家の転覆まで。
太田竜という、世界革命、世界赤軍を唱えたイデオローグ(理論的指導者)は、第三世界の革命勢力と手を結ぶ、その基盤は日本の最下層の人たちだと言っていたが、今の我々の建設的な視点とは違う位相にいた人たち。
荻:
青:
ただ、当時から90年代までの、爆弾闘争や内ゲバに先鋭化していく中では、公安警察が肥大化してきたのは時代の必然。
今後は超法規的措置で釈放された大道寺あや子や佐々木規夫などの追跡は担っていくだろうが、徐々に任務縮小か。
荻:
そして、マルクス主義はなくなっても、性教育や性的マイノリティの権利保護や選択的夫婦別姓などをすすめる「文化的共産主義」と、その抵抗としての「反共」が繰り返し保守論壇で語られている。
青:
妄想だけれども、一方で、当時千差万別の人が新左翼運動に関わった、理論家から夢想家まで。ただ結末が先鋭化した隘路、陰惨な結末になったことが「壮大な失敗」と捉えられて、日本の左派というかリベラルへの大きなダメージ、マイナス面になっていると思う。共産党や左翼へのアレルギー。ヨーロッパでは緑の党や旧共産党が政治ムーブメントを作っているのに。
荻:
「理想を掲げることは無駄なんだ」というカッコつきのリアリズムの空気のようなものは残ったかもしれない。
田:
今は、世の中自分が何しても動かないという風潮が強いが、当時の若者には自分たちが世の中の主人公なんだという意識が強かった。「戦線」がやったことはともかく、戦争責任を唱えたことが認知されてその後90年代の河野談話、村山談話につながっていると思う。
荻:
振り返るというのは何を残したのかとつなげる行為でもある。