はてなキーワード: 社会民主主義とは
一般的には社会民主主義の言い換えだが、古典的自由主義もリベラル
リバタリアニズムとも言うが「元々こっちがリベラルであいつらはリベラルでは全然無い」とリベラルを使い続ける人もいる
共産主義がリベラルかといえば、左派リベラルがなぜ「リベラル」なのかといえば
国による平等の実現無くして自由は無いという意味だから、共産党でさえリベラルに含むことは可能
よってみんながリベラルで間違っちゃいないが
「共産党の言うリベラル」はあくまで「共産党の言うリベラル」であって、他の人が考えるリベラルとは違うと考えなければならない
「表現の自由戦士だが...」も同様で、これもはてな等で使われる「表現の自由戦士」ではなく
在野研究者として生きるということーお金についての真面目な話 | 磯野真穂ブログ
「在野研究者として生きるということ」を読んだので自分の経歴を振り返って感じたところを書いてみる。40代のおっさんの自分語り。
地方私立大学の理系に入学したが、単位が壊滅的に取れなかった。また理系に進学したのは就職率が良いから、というだけの理由だった。そのため元から興味のあった分野を学びたいと、卒業を待たずに地方公立大学の文系学部に転学し、言語学を学んだ。
良い師に恵まれ良い学びを得たが、地方公立大学の就職は壊滅的に悪かった。同じ学部の卒業生の就職先は地方のよく知らない会社(その地方に住んでいた親戚でも知らないようだった)か、当時有名だったブラック企業しかなかった。
これはまずいぞ、と思って大学院進学を決めた。だけど学部の新卒カードを使わない手はないと思ったので就職活動もしてみた。全国区のマスコミの二次面接とか最終面接まで進んだぐらいで、大学院進学を蹴るほど行きたい企業からの内定はもらえなかった。同級生と話したら、彼ら彼女らは全国区の企業を受けるという発想が無かったり、都市部の学生よりも明らかに就職活動開始時期が遅かった。場数を踏んだ方が有利になる、と思っていた自分はひどく驚いたのを覚えている。
就職活動で知り合った友人に『貧乏父さん金持ち父さん』を勧められて読んだ。資本家のために働くのは嫌だな、と思った。友人もそう思ったのか、彼は起業して成功し、資本家になった。
閑話休題。大学院については学部の師の退職も近かったし、そのまま上に進んでも就職は有利にならないだろうと考え、別の大学に行くことにした。なんとなくどこかには行けるだろうという気がしていたので焦らなかった。でも、旧帝国大学の大学院に受かったときはうれしかった。そこに進んだ。
そこでも良い師に出会い、厳しく指導を受けた。人文科学を学ぶ者は哲学も学ぶべし、との方針の下、マルクス『資本論』なども読んだ。やっぱり資本家のために働くのは嫌だな、と思った。『貧乏父さん金持ち父さん』は『資本論』の焼き直しだとも思った。
別の教員からは「国立大学の学生は私立大学の学費と比べたらわかる通り、毎年数十万円の補助を国からもらっている。そのお金を出すだけの価値があなたの研究にあるかどうか、考えなさい」と言われた。修士ではその言葉を肝に銘じて研究をしたつもりではある。
ある日、大学院の師から「研究者に向いていないと思う」と言われた。あっさりと、そうなのかな、と思ってしまったので、そうなのだろうと思う。アウトプットが下手な自覚はあった。研究者としては致命的である。別の教授からは夕食を奢られて「博士に進学した方がいい」と言われた。でも、就職については「運だね」とも言われたので、決意は揺るがなかった。
大学院時代の就職活動の結果、インフラ関係の会社からと、その旧帝大の事務職から内定をもらった。インプットは嫌いではなかったので、給料がそこそこよくて地方勤務のある前者より、給料は月並みでも図書館等の設備があって都市部にアクセスしやすい後者を選んだ。学部時代の経験で、地方より都市部の方が学問しやすそうな気がしていた。
アカデミアから抜けて後悔はないかと言われたら、少しは後悔はある。明らかに自分より勉強もしていないし、年間数十万の価値がある研究をしていたと思えない先輩、後輩、同級生らが大学教員になっているのを見ると、もやもやはする。彼ら研究が少なくとも私学助成金分に値するのか疑問に思うことだってある。だけど独立系大学院の悲しさか、教員としての就職状況は良くない。MARCH以上のレベルの大学に教員として採用された例はほとんど知らず、知る範囲では数十年で2人しかいない。経営状況もあまりよくなさそうな大学で語学教育とやらを看板にして語学を教えるのは大変だと思う。それでも教育や研究ができて幸せならそれでいい。好きなことを仕事にできるのは幸運だからだ。私には、そこまでの熱意はなかった。
大学院に行ってよかったかといえばよかったと答えるし、就職してよかったかと言われたらよかったと答える。大学院に行ってよかったことは、学んだ分、世の中を見るときの精度が高くなったことだ。認識論、経験論、存在論などいろんな考え方があるし、新自由主義や社会民主主義など、さまざまな主義主張がある。世の中の人たちの考え方をとらえる力はついたと思う。アカデミアに残らず、安定を取って就職したが、私の能力だと生涯賃金は今の選択肢のほうが多かったと思う。
仕事をしながらアウトプットを続けて、専門とは少し違う分野ではあるが財や研究者として、本の一章も書かせてもらった。仕事では出世コースからは外れてしまったが結婚もして子どももいる。幸せだ。アカデミアに絞らなくても幸せは手に入れられる。
搾取って「労働者が生み出した生産物を資本家が無償で奪い取る」こと全般を表した言葉なんだから時給1500円にしたところで搾取の構造は変わってない。
その後生まれた、革命ではなく体制側に入って構造を変えていく社会民主主義路線なら賃上げが搾取構造の脱却に繋がる話にも多少正当性が出てくるけど、マルクスは最終的に革命でしかこの搾取体制を脱却できないとしてるんだから、この説明はすごく違和感がある。
話の要旨とは関係ないんだけど、マルクス主義の話をする時に「搾取」に対する理解や見方ってすごく大事だから気になってしまった
なんで共産主義にならないんだろうと思っていた疑問が徐々に晴れていった。
プロレタリアによる政治といっても、プロレタリアは一枚岩ではない。
弱者男性の議論でも指摘されていた、安定労働層も居れば貧困労働層もいる。
知識やスキルも違う。やはり、大なり小なり、権力勾配が生じてしまう。
労働価値説は作り手側の都合に終始していて、買い手の需要を見落としている。
たしかに現行の資本主義ないしは社会民主主義も、格差の拡大や経済成長の停滞といった課題がある。
が、だからといって共産主義を夢見るのは、何か異世界に転生出来たらいいのになあという夢想的願望なのだろう。
現実と理想の間をステップバイステップで地道に埋めていく作業をしてくれていたのが、いわゆる社会民主主義思想の人々であったのではないか。
それでもいまだ道のりは長く険しそうであるが。
日本経済って「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」コピペみたいになってない?
ナチスが共産主義者を連れさった[5]とき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。
彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。社会民主主義者ではなかったから。
彼らが労働組合員らを連れさったとき、私は声をあげなかった。労働組合員ではなかったから。
彼らが私を連れさったとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。
日本風に言うと
非正規社員の待遇が問題になったとき、私は声をあげなかった。私は非正規社員ではなかったから。
昔の人がリーマンショックの時などで自己責任論を推し進めたら日本の技術力や労働意欲が向上し競争原理が働き日本が良くなると信じた結果が日本社会の停滞では。
anond:20230628114724のブコメ、写真への言及が多くて驚くな。
ワイは学校教員だけど、なんか行事があったときに子供たちの写真を撮って学校のHPにうp、なんてしょっちゅうやってるやで。
(義務教育じゃないんで同意書も入学のときに取ってあったはず。一応拒否はできるはずだけど拒否した子は聞いたことない)
そういうとき、まあ同意書取ってるんだから別にどアップでもいいっちゃいいんだけど、まあ配慮として背中からの写真にしたり首から下だけの写真にしたりするわな。
(「広報用に通常の授業の風景を撮影」みたいなときは教室の後ろに立って背中から、みたいな。まあ横向いて喋ってるアホの顔が写ったりするんだけどそこは自己責任でよろ。授業中に横向いてるお前が悪い)
あのバレエ講師さんの写真は脚だけ写ってたけど、そりゃ、一番プライバシー的に安全な部位だろうからねえ……ワイがカメラ係でもああいうアングルで撮ると思うよ。
そのアングルでの撮影をエロ目当てって考えるのはさすがに邪推がすぎる。一番問題なさげな部位だからでしょ。
学校のHPとかならともかく個人のアカウントに載せちゃダメ、っていうのも、うーん。
バスケ部やテニス部の熱血コーチの垢でも同じこと言えます? 迂闊だなーと思うし、ワイならやらないけど、契約を切られるほど悪いことだとは思わないな……
うーん、確かにそれは微妙ではあるけど、一歩間違うと職業差別そのものだし、やっぱり契約を切られるほど悪いことだとは思えないんだよな……
(私企業にはささいな理由でも人をクビにする自由がある、それはそう。それはそうなんだけど、はてなって社会民主主義者多くなかったっけ……? 大丈夫……?)
↑左翼
左翼。
資本主義は格差が激しくてついていけないから、もっと平等で公正な社会を目指そうぜ、という感じ。
資本主義によって、土地や工場などを私有する資本家が労働者をこき使って搾取するようになったので、それを打破して平等な社会を目指す。
そのためには、労働者自身が土地や工場などを管理する体制(プロレタリア独裁)を武力を用いてでも築くべきだ(暴力革命)、という感じ。
暴力革命を志向するテロリストや、スターリン・毛沢東のような独裁者を生み出した。
マルクス主義を反省して、暴力革命やプロレタリア独裁を否定し、民主主義を通じて政府に働きかけ、平和的に社会主義を達成しよう、という感じ。
政治面においては「俺たちには自由に生きる権利があって国王や貴族でさえそれを侵害できないぜ」という感じ。
民主主義や共和主義を志向する。フランス革命時における「左翼」。
経済面においては「俺たちが自由に商売すれば自然とバランスが取れるんだから政府は余計な口出しすんな」という感じ。
資本主義や市場主義を志向し、個人の権利を重視して「国家権力は小さくあるべき」と考える。
「社会自由主義」の台頭後は、区別のために「古典的自由主義」と呼ばれる。
古典的自由主義のように野放しにしていると、差別や格差が広がって個人の自由が制限されるから、むしろ国家権力が介入して積極的に差別や格差を是正すべきだ、という感じ。
社会自由主義の反動から、一周して古典的自由主義に戻ってきた感じ。
自由な市場を実現するために、規制緩和をしたり、法人税を下げたり、国営企業を民営化したりする。
右翼。
何らかの急進的な政治運動に対して、それに反対する立場が「保守」と見なされる。
それぞれの政治体制や歴史的経緯によって何が「保守」となるかは異なってくるが、現在の日本においては、政治的には「国家主義」を、経済的には「新自由主義」を指すことが多い。
もとは自由主義と連動していて、誰かに支配されたりするのではなく「俺たち」が中心となって行動すべきなんだ、という感じだった。
しかし国民国家が成立して「俺たち=国家」となると、「おまえも俺たちと一緒だよな」と均質化を強要したり、「おまえは俺たちと一緒じゃない」と排外主義になったりした。
「俺たち」を結びつけるものは「民族」「家族」「宗教」「伝統文化」などであることが多い。
さらに行き過ぎると「個人の権利よりも国家の利益が優先される」という「全体主義(ファシズム)」となる。
↓右翼
はてなブックマークやTwitterなどで、「中立」「客観」と言った態度について批判的に論じるものをたびたび見かける。特に、差別や政治など、権力闘争の類で非対称性が存在するときによく使われるイメージがある。それらについて私なりに論点を整理してまとめ、コメントしようと思う。これらの論に親和的な人も、逆に批判的な人も読んでほしい。
まず、当たり前の話なのだが、何かを批判するときは通常複数の論点から批判できる。
例えば、社会民主主義は新自由主義の立場からすれば「市場が政府権力によってゆがめられ、効率的な資源分配が出来ない上に政府権力が不健全に増大する」と批判できるし、共産主義の立場からすれば「結局彼らは資本主義や自由市場と言った搾取を『多少マシ』にしている程度であって、本質的解決には役に立っていない。どころか、革命に向かう人々を減らすという点で有害ですらある」と批判できる。
これを見て、もし社民主義者の人が「アンチ社民主義者は矛盾している。市場原理主義みたいなことを言いながら、資本主義を否定している。彼らは矛盾している」と言うのがおかしいというのは分かるはずだ。あるいは、「新自由主義者は社民主義を批判している。これは共産主義者と同じだ。よって新自由主義者は共産主義者なんだ」もおかしいとわかるだろう。
インターネットではそれぞれの発言と発言主が結びつかず、なんとなく「自分の考えを非難する人」を全部同じカテゴリに放り込む処理をしてしまいがちだ。(なお、話をややこしくするのは本当に矛盾した意見を言うやつも一定数存在することだ)
そんなわけで、いわゆる「中立」「客観」批判者は皆「お気持ち」(ここでは、自分の快不快の問題をシームレスに社会的な問題につなげて、自分の感情に社会が従うべきだ的な発想を持っている人)の人たちだ、という雑な世界観を持っている人も多いが、ここで「中立」「客観」批判の理屈に触れて、「なるほど、こいつらはこういう理由でそういっているんだな。(自分は賛同できないにしても)まあ理屈は分かるな」と思ってくれれば幸いである。
これは厳密には『中立』『客観』を否定していない。どころか、不徹底な『中立』『客観』を批判し、本物の『中立』『客観』を目指そうとする方向性も見受けられる。
実際問題、はてなやTwitterでは、『中立』『客観』(それからこれと似ている『是々非々』など)を「右」と「左」(あるいは任意の対立する二大勢力)のどちらも全肯定/全否定しないことだと思っている感じがする人が複数見受けられる。まあ確かに、「右」のいう事を全肯定/全否定、とか、「左」のいう事を全肯定/全否定すると最初から決めてかかるのは紛れもなく党派的な姿勢であり、中立的でも客観的でもない。しかし、そもそも「右」がどうとか「左」がどうとか党派性を意識し、この二者のいう事には従わないぞ!みたいに決めてかかっているのは、全く同じではなかろうか。ようは、「中道」という第三の党派に過ぎない。そうではなく、中立や客観というものに自分は完璧に到達できないのだという事を自覚し、他人が中立的であるか客観的であるかは究極的にはジャッジできない(もちろん明らかにこいつ主観的に過ぎるやろみたいな人はいるけど、そう思っている私の方がおかしい可能性は否定できない)という事を踏まえなければ、「中立」「客観」という言葉は単なる党派性の御旗にしかならない。
これは実のところ、「正義の暴走」論とよく似ている話だ。正義の暴走を非難する人は正義が嫌いなのではなく(まあそういう人もいるが)正義のために正義の暴走は抑止した方がいいという話をしている。正義の暴走とは、やっている本人たちが勝手に正義と思っているだけで、実際には悪である、というロジックだ。同じように、「中立」「客観」の濫用を非難する人が「中立」「客観」を否定していないのも当たり前の話だ。彼らが否定しているのは「中立」「客観」を装った「党派性」「主観」だからだ。(面白いのが、「正義の暴走」論を持ち出す人の多くは「中立」「客観」の濫用の問題を考えず、「中立」「客観」を批判する人は「正義の暴走」論を持ち出されると不満を表出することが多い事である。両者はほぼ同じことを言っているのだが)
まあ、つまりこの批判は「お前は自分が客観的と思ってるかもしれないけど本当は違う(かも)しれないぞ!」というものである。個人に向けるときは喧嘩する気がなければ使わない方がいいとは思うが、一般論としては(特にわたしのような『中立』『客観』が大好きな人間ほど)よく頭に刻んでおいた方がいいと思う。
こちらは、『中立』『客観』的な態度を、ある一分野のみについてとはいえ明確に否定している(と私は思う)ので、論点①とは様子が違う。
まあ言っている事は正直分からなくもない。この手の人たちが良く比喩として使うように、「足で踏んでいる人と踏まれている人」の間で『中立』『客観』的な議論を成立させろ、というのは無茶である。差別されている人と、その差別をたとえ直接はしてはいなくても差別によって得られる利益を(その自覚なしに)享受している人の関係は、「足で踏んでいる人と踏まれている人」のそれよりはるかに複雑で見えづらいものがあるが、似たような関係性であるという事は、その是非は別として、可能ではあると思う。なので、倫理的な個人が差別問題について論じるときはその辺に気を付けて論じてもよい、論じた方が好ましいくらいのことは私も思う。
しかし、この考えを強い規範として言論空間に導入することに対しては私は警戒心を抱く。
「誰が加害者か」「誰が被害者か」「どこからどこまでが『差別問題』か」「どんな事実を適示すればそれが『被害者非難をあおっている』と言えるか」
これらをみんなが納得いくように定めるのは非常に難しい。間違った基準を定めてしまえば、例えば本来「被害者」である人たちを「加害者」として力づくで非難する事や、本来「加害者」である人たちの罪悪を「被害者」として覆い隠すこともありうる。「被害者」「加害者」の推定が正しかろうと、「被害者非難をあおっていると言える事実」と認定されたものがもし違えば、その事実は公論上での扱いが不当に小さくなりかねない。差別発言自体は言論の自由で守る価値はまったくないのだが、論点②の批判が拡大すると差別発言以外も巻き添えになるリスクがとんでもなく大きくなりそうである。そもそも一国の言論空間なんて政治勢力も右から左からワラワラ湧いてくる場所なんだから、うかつに基準を厳しくしたら、その基準が「万人」でも「マイノリティ」でもなく「特定の政治権力」の都合の良いようになってしまう可能性もある。一方で、剥き出しの、それこそ差別主義者やデマもなんでもござれの「言論の自由」が良いとも思えないし、「中立」を装って攻撃を誘発する人たちを何とかしたいという気持ちはあるので複雑なところである。
(ちなみに、個人としてこの観点から批判すること自体はどんどんやったらいい。問題なのはこの考えが強い規範になることである)
①②は曲がりなりにも論として成立しているが、③は論外である。これこそが「お気持ち」である。
これについて論じることは特にない。まあしいて言うならば、「個人的な感情の表明」自体は何ら悪ではないという事は付け加えておきたい。こういう風に、自分の感情だけで他人を思うままに動かす権利が自分にあると思っている人をまともに相手する必要がないというだけである。
①②③それぞれ、言う層が全然違ってくるということがイメージできるだろうか。
①は、左右問わずおそらくそれなりに頭のいい人、論理的な思考が好きな人が言うと思う。(ただし、論理的な思考が好きな人は左に行きやすいので、左が多い気はする)
②は、明確に左の中でも主張が強めの人が言うだろう。(なお、加害者と被害者の構造を、中国と日本あたりにすれば、右の主張強めの人たちも似たようなことを言っている)ここで重要なのは、彼らの主張は我々と大きく違うが、別に彼らは頭がいいわけでも悪いわけでもない。どちらかと言えば頭のいい人が多いと思う。
③の人は、多分単純に頭が悪い。左にも右にも真ん中にもこういう馬鹿は沢山いる。ただし、バカの中でもわざわざ自分はバカですとアピールしたがるインセンティブが強いのは右左の中でも過激な人たちだろう。
「お気持ちサヨクはバカ」みたいなことを言う人たちは、多分①②の理屈で「中立」「客観」を批判している人に左翼が多いという事と、③の人たちにバカが多い事を混同して、左翼=お気持ち=バカみたいな図式を作り上げているのではないかと思う。あと、「お気持ちサヨクはバカ」と言った同じ口で「リベラル(おそらくこの人はリベラルとサヨクをほぼ同義として使っているはず)は啓蒙思想を押し付けている」みたいなことを言っている人もいた。確かに②は啓蒙思想押し付けのダメな部分全開という感じで、③はバカである。たぶん構造としては②が③の人たちを率いて暴れまわっているという感じではなかろうか。まあそんな感じで、「中立」「客観」大好きな人たちも、③は論外として①②の理屈は普通にそれなりに通っているっていうことをちゃんと意識しよう。(まあ意識できてる人もいるだろうけど)