はてなキーワード: Double standardとは
これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。
ただ、内田が、
「感情の器」って、あくまでも個人的な身体条件のようなものだから。
というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。
たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミスが道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会の規範を構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。
そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現を内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。
家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。
アレックス・カーが20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。
おりしも建設省に代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代。
アメリカの7倍のコンクリートを使って日本の山河をコンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。
その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。
「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。
A・カーは、フェアプレイの精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者のトップが黒海に豪奢な別荘を保有し、人民は実質的に農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治の開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。
「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司の説教がブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖。
最近、想起するのはやはり旧統一教会。家族の価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族が崩壊している、といった、「おまゆう」問題。崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするときの動機付けのメカニズムなのだ。
内田と永井の議論のテーマのひとつである人権・平等。あたかも普遍的な原理についても、
それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。
アメリカの建国者の一人、トーマスジェファーソンは人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。
これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。
どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者の懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質が人民に備わっていると信じて建国者はデモクラシーを設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法の価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権の矛盾が、南北戦争の北軍の正当性を決定的にする。
内田の議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要なキーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。
「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。
これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係ないかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。
内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。
舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後は憲法そのものがアメリカの経験に基づいたものだ。
しかし、日本の人権教育は、残念なことに、人権の普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説や定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。
戦後、人権を外付け実装してきた日本は、そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。
今現在、旧統一教会問題で話題の、国家と宗教というテーマにしてもそうだ。
政教分離のキーワードとなるのは、恐怖からの解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西の課題だ。宗教といかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴに勝利した古代ローマ。
そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会を構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要が再確認された。それが言論の自由の関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場の比喩が生まれる背景ともなった。
他方、旧世界のフランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会の権威と苛烈な弾圧が恐怖であった。だから公共空間の合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランスの言論の自由は、その意味でカトリックを否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要な意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したことの歴史的な背景は深い。
このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。
それは、実は国によって微妙にコンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的な価値なら、なぜ何千年も克服できなかったかの意味を問うというか。
しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後の日本の裁判所も含めて。
でも、それこそが日本の人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。
その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの、感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。
内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは、自分の国や自分の家族、自分自身の歴史だと俺は思う。
自分や自分の先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理だけが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本のアジアや欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。
歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神を自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。
自分が理想とするものと現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。
自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。
ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要なキーになるし、国家と宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米の経験を教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決は行政が戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料を支出したことを違憲とした歴史的な判決で、戦争の経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法の仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国の精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。
しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通の体験、共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代。
50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。
「あの頃は」という共通の過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣の闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。
つまり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。
それが、失われ、外付けの価値観だけが、カラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。
永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代に
と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。
また、日本国憲法に組み込まれた歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。
それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、
視聴者からは、おしんは私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。
しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ。
しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会、バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争の記憶との関連が薄まった。当然、日本国憲法のリアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教と国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。
しかし、いずれにしても過去の記憶と憲法の規範が直接に結び付かない、その世代の経験、そこに、永井が紛争国の辺境の地を自分のテーマに選んだヒントがあるように思えてならない。
紛争のリアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生のときに知った人権、そして憲法の価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。
しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。
私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。
といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。
「全然、人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。
動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的なロールモデルとは限らないのだ。
この体験と辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。
読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。
A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.
「ハッテン場で掘られてみれば」って意見が袋だたきにされていたけど、
いま再び「非モテを需要あるところに誘導しろ」ってコメントが人気を集めている。
それとも前者はアウトだけど後者はセーフだとでもいうつもりかな。
メタブで「ハッテン場で掘られてみればを批判するのは、ハッテン場で掘りたいゲイをいないことにすることになるのでは」って意見があった。
それに対する返信が
「ならない」「ならない」「ならない」
多くの人が 掘られてみれば = 必ず掘られる という理解に納得しているご様子。
確かにそれならば、必ずしも掘られるとは限らない ≠ 掘りたい人は存在しない となって「ならない」連呼もスジが通る。
でも今回は何も言わずにスルーする。Double standards.
十年間、探していた同人誌の作者を見つけた者です。言及で追記したんですけど、なんか記事が畳まれてしまって無関係なことを喋っている謎の言及みたいなことになったのでこちらで追記します。ごめんね!! はてな初心者だから…許して…。
本がね、増えすぎたの。
同人誌を入れるための棚をお値段以上ニトリで買って「うわーー!!本棚作るの楽しい!!それが同人誌入れるためのものならなおさら!!!クリエイティブ!!!超クリエイティブな気持ちになれる!!!棚作るのにこんなにクリエイティブになれるなら同人誌作ってる人は普段どんだけクリエイティブなの!?」って3日かけてお値段以上クリエイティブな本棚作っていたら、想定以上に反応が頂けていたのでビックリしています。問題ですこの一文でいくつクリエイティブという単語が出て来たでしょうか。配点5点。
想定っていうけど、反応かえってこないと思っていたというか、書いたはいいけど、感想じゃないから送る相手がいなくて、はてな…お前…聞いてくれるか…? って夜も更ける中、好きだった相手に留守番でメッセージを入れるみたいな感覚でした。夜更けの電話…あなたでしょ…話すことなど何もない…二度とかけてこないで…。そ、そんな…。
あまりの拡散具合に腰が引けて、記事を消そうかとも思いましたし、カタログをパンフと書いていたり交通費を参加費と書いていたり、はずかぴ…って思って無言修正しようかとも思ったんですけど、勢いとライブ感って大事だと思うので、そのままにしておきます。ほら、歌手のコンサートでの歌詞間違えも含めて、DVDに収録して欲しいじゃん…?いやその例えは歌手に失礼過ぎるでしょ…ごめんなさい。
すごい書き散らかされた文章を読んでくださって、ありがとうございました。反応や感想まで仰ってる方もいらして、すごいえらそうに聞こえるかもしれないけれど、純粋に嬉しかったです。心の底からの本当の気持ちです。
最初気付いた時は、きもすぎるオタク女がいるって感じで炎上しているのかとすごいビビりました。
でも、そうではなくて、皆さん、思い思いの反応をしているだけだったんだと分かって、沢山の気持ちに触れて、『生まれて初めて』を熱唱するアナみたいな気持ちになりました。神田さんめっちゃ歌上手いよね。歌上手い人は歌が上手いんですよね。好き。
たぶん、私が「正体のわからない誰か」だったから、沢山の共感を得られたのかなと感じています。
なので、反応を返すことで、みなさんの素晴らしいただ一つの気持ちを台無しにしてしまうかもという懸念があったのですが、私は好きだと思ったことは好きだと言いたいので、そう表現します。
同人誌の作者さんが相手でも、この記事に反応してくださった方が相手でも、同じようにそうしたいと思ったので、本当にありがとう。神サークル主さんは、本当に色んな縁を繋いでくれるな、としみじみとしてしまいます。
書いた文章を惜しんで、この場所をお借りして投稿したのですが、なんというか、本当に想像以上の方に読んでいただいて、それが幾人かの心にも届いたのが嬉しいというよりかは、いや、嬉しいんですけど、人間って本当に不思議なんだなって思いました。
反応を見ていると(残念ながら、全部までは追えなかったのですが…)、私の立場に立ってくれる人、サークル主さんの立場に立ってくれる人、俯瞰して感想を言ってくれる人、気持ち悪いと言う人、怖いと言う人、自分もこんなことがあったよと経験を語ってくれる人。本当に色んな人がいたんですよね。人間の多様性、可能性を感じます。
どう進化を遂げて、人間がこの世界に生まれたのだろう…と、意識が高速で種の始まりまで飛んでいきました。え?どこの番組のコメンテーターだ?2018年に帰ってこい。それはそれとしてダーウィンさんの進化論めっちゃ面白かった。ダーウィンさんに感想送りたい。
サークル主さんのことは、教えられないです。ごめんなさい。本当は色んな人に知ってほしい。これが商業とかだったら、そのサークル主さんの生活に繋がるから、教えたかもしれません。
表現する人は、やっぱり、その人だけの思惑があって何かを表現していると私は買い手なりに思っていて、有名になりたい人、有名とかそういうものにあまり関心がない人、ただただ好きを表現する人、認知度をコントロールしたい人、あまり有名になりたくない人、有名とかそんなのはどうでもいい俺の作品を見ていけという人、それこそ、この記事に自分だけの感想を抱いてくれた人たちのように、色んな感情でその作品を作っていると推察しています。
その感情を、私は台無しにしたくはないんですね。私は、作者にとっての脅威ではなく、作者にとってのファンでありたいと願って、そのように行動したいと考えています。
感想爆撃機なのは…ごめん…。ダブルスタンダードってやつ…。〔double standard〕-二つ以上の類似した事象に対して一貫性のない別の判断をそれぞれの事象につけるような行為・態度(はてなキーワードより)。はてなさんは何でも知ってるな。何でもじゃないわ。知ってることだけ。
〔幅41.9×奥行29.8×高さ174.2cm〕カラーボックスカラボ 6段 | ニトリ公式通販 家具・インテリア・生活雑貨通販のニトリネット https://www.nitori-net.jp/store/ja/ec/OfficeBookshelfStationery/ColorBox/8841203s?ptr=item
私は感想を沢山送りますけれど、それを受け取って読むのは、作者さんの自由だと思っていて、私は私の自由で感想を送るけど、作者さんは作者さんで、感想を受け取る受け取らないの自由があると思っています。
思っているというか、なんというか、おこがましいけど、私はこう言ってこう思ったけど、それはそれとして気兼ねなく、楽しく創作してくれ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!っていつも叫んでいます。
だから、感想は絶対送れ!!っていう訳では無くて、この記事を読んでそう感じた方がいたら本当にすまねえ…!って俺の中の悟空が謝るから、謝らせてくれ。オラに元気を分けてくれって思うけど、その元気はお前の中で大事にしていてもいいんだ。
感想…言わなきゃ!という義務感で出した感想はベストな感想な保証はないし…。ただ、表現するのが苦手…でも良き!!と思ったら、「好きです」「素敵でした!」ってその一文でも、立派な感想だと思う。一言だけじゃんって思うかもだけど、感想文の長い短いで、想いって量れるものではないから。それはお前だけの感情なんだ。凄いよな。好きって、どこから生まれるんだ。お前は知ってるか?俺は知ってる。それは薄い本の形をしている。
あとこのサービスブログじゃなかったんですね!!!!!!!!!! それは不勉強でした!!!!!!!!!! てっきり…いつもの調子で…。