はてなキーワード: アニメーターとは
いささか言葉足らずでしたので
ロトスコープについての補足
と主張したいわけではないですし
ロトスコープが手抜きだと言いたいわけでもない。
そして(大事なことですが)ロトスコープが嫌いなわけでもありません。
さらに付け加えるとロトスコープでないと描けない表現というものがあるのは
すでにハルヒという作品そのもので証明されているのは言うまでもないことです。
ただ当時の自分の考え方として
落とし込んでいくかが、
アニメーターとしての腕の見せ所だし
という認識がありました。
その表現を手放しで褒め称える人たちへ疑問を持たさせたのも事実でした。
アニメーションって、そういうことだったっけ?
それは率直な疑問でした。
今風に言うと意識のアップデートを出来ない自分というものを知ったのです。
原因なのかどうかはわかりませんが
徐々にアニメを見る本数はすくなくなっていきました。
私のロトスコープに対する違和感というのはこういう説明でわかっていただけるでしょうか?
今更、こういったことを書いたのは何故か?についてですが
すでに多数指摘されるように随分と古い話ですね、これは。
本来ならもっと前にどこかで吐き出しておくべきようなことです。
ただ何というか論争をしたいわけではなかったのです。
こんなのアニメーションじゃねえよ、とか言いたいわけではなかったのです。
ただ上記のようなことを言葉を選んで訴えかけたところであの当時には
論争をしたいわけではなくて自分の気持ちを理解して欲しいだけの
私としてはこういった思いを胸にしまっておくしかありませんでした。
そうして長い年月が流れました。
そろそろいい加減、胸に残っているこの思いを吐き出しても
誰からも苦情は来ない時期だろうと思って書きました。
ひょっとしたら、俺もそう思ってたよ、というひとりでもいないものかと思って。
入れ替わるようにハルヒで長門にドハマリしてオタクになったという
と語ったことはあったのですが
その詳しい理由は言わなかったな、とふと思い出して
その古くて若い友人がいつかどこかでこの文章を読まないものかな
という期待があって、この場を借りて書いたものです。
最後に、私の文章を読んで不愉快になった方がいるかも知れません。
しかし、それは私の本意ではなく文章力の拙さであると理解していただければ幸いです。
言うまでもなく「涼宮ハルヒの憂鬱」というアニメ作品はマイルストーンというべき画期なアニメです。
当時、オタク層はごぞって絶賛してたし
ロトスコープを要所要所で使っていたんだけど、
それを大絶賛する空気?みたいな
すごい本当に人が動いているみたいな作画を
すごい手間ひまかけてやってるんだろうから
すごいすごい、ってことを言い出す人らが大半だったときに
いや、それはアニメーターとしての仕事を放棄してることになるんじゃなかったっけ?
という古い価値観が浮かんできてうまく乗り切れなかったときだ。
このへんの違和感があらわれだしたあたりで
その証拠ではないのかもしれないが
フル稼働させてた2台のHDDレコーダーと三菱のSVHSは徐々に稼働することがなくなっていくことになる。
リアルタイムで見れていないこととか、まどかマギカを見てないこととか
アニメオタクだった時代の自分だったら歯ぎしりして悔しがるだろうことに
こだわりがない。
※2021年の日本映画のTOP3がアニメであったことについてのコメント
アニメは日本では「主流」ではなく、「支配的」であることに注意する必要があります。
日本の映画やテレビが衰退した最大の理由は、アニメにあります。
アニメ、マンガ、ライトノベルは、実写から可能な限りのクリエイティブな才能を吸い取ってしまったのです。
アニメが国際化に成功し、実写が国内市場にとどまっている間に、この傾向はますます加速している。
日本では、作家、俳優、アーティスト、技術者、監督などの志望者は、2つの選択肢に直面する。
それは、極端に限られた予算と機会の中で競争し、縮小し続ける国内市場の中で忘却の彼方へ向かう国内映画やテレビを作ることである。
ほとんどの作品は、韓国や米国が現在できることに比べれば冗談のようなもので、実写に関心を持つ少数の国内視聴者にしかアピールすることができないのです。
仮に1/10000の成功したアーテイスト映画があって、国際的な賞を取ったとしても、無名で低収入、フランチャイズ構築もできないから、次回作も知名度ゼロからのスタートになる。
アニメやマンガを作れば、爆発的な予算と無限のチャンスを生かすことができ、アニメに対する飽くなき欲求を持つ世界中の大勢の観客のおかげで、前年比10%増の成長を遂げることができる。
この業界では、新しいプロジェクトが無限にあり、経験豊富なスタッフが急速に昇進し、監督になることができるため、(声優を除いて)非常に簡単にスタートすることができます。
あなたが作るアニメは、クオリティと人気の点で世界をリードし、ハリウッドや中国までもがあなたの教え子となる可能性があります。
たとえ小さな成功しか収められなかったとしても、海外の小さな熱心なファンがあなたを認め、覚えていてくれることでしょう。
アニメーターには、素晴らしいショットをクレジットし、賞賛するサクガコミュニティがあり、声優には、あなたのキャラクターをすべてリストアップし、トークショーをすべて聴き、いくつかの翻訳をする熱心なファンがいます。
最近は収入だってよくて、2019年にはアニメ業界の平均収入が日本の平均を超え始めている。下っ端のアニメーターはまだ苦しいが、実写の制作スタッフは経験者でも10倍は苦しいだろう。
能とかが顕著
洗練され過ぎた伝統芸能は、普通の人はよくわからないし、気軽に能見に行く人は現在は少ない
歌舞伎なんかはもうちょっと大衆に浸透しているけど、それでもやっぱり格式が高くて難しいイメージがある
文学もそう
大衆小説やラノベなら読めても、ガルシアマルケス読むのは苦痛だった
現代アートなんかもそう
部屋中にスプーンが散乱してる様を見せられても頭抱えるし、ホールをマラソンランナーが走り抜ける、とかを展示と言われても反応すらできない
これらの現象が生じる理由は、芸術表現の技術の継承や習得の過程で、それなりの作法や慣習、お約束事を学ぶ必要がまずあるからだ
その結果、技術的歴史的背景への理解が深まり、一般人の知り得ない見え方感じ方の習得も行われている
そして、芸術作品というのは過去にあった作品の発展形や、過去の芸術家に対する解釈をさらに新たな作品として世に出すこともある
そのため、目の前のものだけでは理解に必要な材料が揃っておらず、理解には前提となる膨大な知識を要求するようになっているのだ
で
ポップアート、いわゆる美少女イラストなんかも当然そうなっている
親しみやすく感じ取りやすいがため、一般人もポップアートを理解できている気がしているから、批判も起きやすい
が、本当は能がわからないのと同様、ポップアートも全然わかっていない
歴史的には春画から始まり、戦前はノラクロ三等兵、そしてひみつのあっこちゃんにキューティーハニー、そしてミンキーモモやあんみつ姫を経て、スレイヤーズなどの時代から萌え絵という概念が誕生する
そしてスレーヤーズ的な絵柄から、ハルヒ的な絵柄へと変遷があり、さらに今はラブライブ的な絵柄がイラストやアニメに携わるイラストレーター、アニメーターたちの、”お作法”となっている
これはまさに時代の中の芸術の変遷であり、我々がラブライブ風イラストを街で普通に見るのは、いわゆる同時代性と呼ぶべきものであろう
イラストレーターの技術の継承や絵柄の流行り廃りがあるからこそ、岸田メルやさいとうなおきなどのような、現代の優れたイラストレーターがこの時代に優れたイラストを描ける
しかし、それらを「不快な萌え絵」と呼び嫌悪する方が存在する、というのはつまり、他の芸術と同様、ポップアートに対する背景を共有できない者が存在する、ということだろう
イラストに関連する現代の文化そのものが、洗練されすぎ、先鋭化していっているがために、イラスト文化アニメ文化を共有できない者の理解が追い付かなくなっているのだ
この現象を軽く考え、反萌え絵派をただ批判するというのは、「ガルシアマルケスすらわからないやつがラノベ面白い、とか言ってて笑う」とか「高師直も塩冶判官も知らないやつが忠臣蔵のドラマ見てて笑う」みたいな態度と言えるだろう
歴史的文化的背景の継承者のみしか理解できない芸術は必ず尻すぼみになる
絵や文字は、わかっていると勘違いしやすいものであるため、この認識を持ちづらいのも問題であろう
「一般の場に出す実用作品に、背景を要求するものは相応しくない」というのも、萌え絵に関する議論で考えるべきひとつの側面だろう
元がどの話か知らんけど、(設定にそこまで詳しく知らんからキャラ名は出せないけど)外注のアニメーターの女性とか仕上げ(だっけ?)の人とか美人ではあっても「美少女」ではないと思うが・・・
後男性陣についても、基本はイケメン(人格は無視するとする)・イケオジで、そこから外れてるのって監督と万策尽きたの人くらいじゃ
そもそものコンセプトが「リアルなアニメ現場にアンリアルな美少女をぶちこもう」なんじゃないの。
主役周りの「明らかに美少女文法で描かれている美少女たち」に対して、
「現実の女性をベースにしつつ美人寄りに整えている」くらいの感じになってるよね。
この二つは切り分けて考えるべきだよ。
というかSHIROBAKOのキャラって現実のアニメーターをモデルにしてるんでしょ?
つまり、モデルが存在していて、いわば「似顔絵」になってることを考慮しないといけない。
女性陣の容姿が現実をどれくらい反映しているのか分からないけど、
見て分かるくらい似ているなら「女性はみんな化粧とかするしそれなりに整って見えるよね」くらいの話になるし、
まあ「おばあちゃん」キャラを1人くらい出しても良かったと思う。ベテランの高齢女性アニメーターたくさんいるしなぁ。
SHIROBAKOはその辺の役割をかなりゴスロリ様に押し付けてるから、そこでまた偏りが生まれているのだろうな。ゴスロリ様も含めて、「スーパーアニメーター」の描き方はかなりファンタジー寄りだった。ただこれは、主人公たちのような「現実とは違う」ファンタジーというよりも、「事実は小説より奇なり」の伝説的なエピソードを元ネタに、ファンタジー寄りに演出しているという感じだけど。
結局男性オタクたちが「SHIROBAKOは業界のリアル!」みたいに言ってたら水を指されて、女性アニメーターからも女性の扱いについては全然リアルさがないと言われて腹が立ってしまったのは分かるけど
「作品のメインターゲットたる男性の好みに合わせたキャラデザなだけ」
とかいう返しをするもんだからつまるところそれって男オタクが美少女キャラでないと作品を楽しめない文化的な素養もない人たち、美少女キャラでさえあれば金を出す業界にとって都合の良い存在、キャラが美少女でなきゃ作品の本質を楽しめない人たちみたいなことですが?!って感じの発言で自らを貶めていくのが見ていてしんどかった。
バブル期の方がアニメみたいな娯楽にも金を回す余力が日本にあったと思う
ジャパニメーションとか言われてるのだって80年代〜2000年代前半に集中してている
それ以降の作品はアニメというよりはむしろオタク文化の方、つまりキャラクターがメインのカルチャーが推されるようになり、同時代のアニメーターや美術が誇られることはほとんどなくなってしまった
文化の歴史を塗り替えるようなマスターピースはもう十何年と生み出されていなくて、良くも悪くも円熟したエンターテイメント産業と化したのが日本のアニメだろう
現在ではAKIRAのような作品が生まれる可能性は中華や欧州、南米などにしかみられなくなってしまった
タイトルのようなセリフは、日本のアニメ文化が常に優れているという無邪気で空虚な自信と、過去に比べて現在の技術は常に進歩しているものであるという間違った信頼に基づいているように聞こえる