はてなキーワード: 陣営とは
香山リカさんの講演会への抗議が「電話で5件、来庁で1件あった」として、本当に脅迫だと言えるものはあったのか(うち何件なのか)、
「抗議の自由」を大きく認めないと、「香山リカ陣営」のほうが苦労するだろ
ヘイト本を置く本屋に抗議しよう!とか言ってたんだから→https://togetter.com/li/657381
「今日、街の書店に立ち寄った。売り場のお薦めコーナー1段が「嫌韓」「反中」関連の書籍。 レジの女性に、アレ何とかなりませんか?と尋ねたが、はぁ・・でも売れ筋なのでと曖昧に笑う。後で店長が困った顔していたので、【少し大きい声】で言った。 「お宅は本でなくて、偏見を売っているんですか?」」
あと字数制限あって理由あんま詳しく書いてないからわからん人にはどこが?ってなってたもんね。
ただどちらもいつも話あってるフォロワーとならあれで大体の合意形成できてたんでは?ってもう手遅れだけどね。
すでにご存知かしらないが、原凶のNHKサイトって閲覧端末によって表示が違ってるんだ。
PCからみると、アイの全身像が、スマホのフロート広告みたいにちょいウザな動きででてくる。
でもスマホだと全身像ないから、若いスマホユーザーはどこにへそあるの?ってみんな言ってた。
これは弁護士さんだと拡散する前に気づけと言われても気が付けないよね。見りゃわかるだろこれだよ!ってなげたのは結果的に傲慢な行為だったのかも。
両方でちぇっくする人少ないだろうし。両陣営、自分の見ているものを信じる。
罠みたいだと自分は思ったよ。
はてブ開くたびに、「性的な絵が・・・」とか「表現の自由が・・・」みたいなオタクとフェミニストの議論見せつけられてもうウンザリしてるんだよ。
最初は多少は興味あって読んでたが、本当に毎日毎日このての議論を手を替え品を替え見せられ続けて、もうだんだんはてブ自体見るのが嫌になってきたというか、はてな社はこの両者を営業妨害として訴えていいレベルだと思う。自社のサービスを毀損してユーザー数を減らしたという理由で。
フェミニストの言い分が正しいのか、オタクの言い分が正しいのか、正直なところ自分にはなんとも言えんよ。
ただ、どちらの言い分が正しかろうと正しくなかろうと、確実に一つだけ言える真理がある。
それは、両者が憎しみの感情に満ち溢れているという事だ。
片方は男性全体を、片方は女性全体を、巨大な仮想敵に見立てて、憎しみを煽り、自らもその憎しみの虜になっている。まるで今のアメリカの政治のようだ。
こんなこの世の地獄とも言える事態に対して、両者に対して、私から提案したいことがある。
フェミニストとオタク、あるいはオタクとフェミニストで、実際に顔を合わせて会って、一緒のベッドに入って、セックスをしてみてはどうか???????
おそらくオタクもフェミニストも、実生活では孤独なんだと思う。
そんな事を言うと、「いや、バカにすんなし。自分恋人いるし」と猛反発されることが予想されるが、それは嘘だと断言できる。
仮に恋人がいたとしても、うまくいってないと思う。
なぜならば、恋人がいてうまく付き合えているならば、ここまで激しく、異性と言うものに対して暴力的な見方をする事はないからだ。オタクにしてもフェミニストにしても。
お互いが隔離され、顔が見えない断絶された状態にあるからこそ、お互いのことを見えない仮想敵にみなして、敵意を増幅させていくのだ。
それならば、両者が会ってセックスするのがピッタリだ。
お互い孤独な男で、孤独な女であるならば、セックスをするにはうってつけの存在である。
今までお互いがお互いのことを、何か強大で、邪悪な存在とみなして憎しんでいるならば、一度裸になって抱き合えば、相手の事を決して憎むべき存在だとは思わず、一人の人間だと認識するはず。
なので、オタクもフェミニストも、共に一緒のベッドに入ってセックスしろ。
もうお互いこれ以上煩わしいことを言うな。
#LGBT的な方向から攻撃されかねないから一応補足しておくと、どちらか片方がLGBTなら、片方の陣営の同じ性的志向の人間を頑張って見つけてセックスしろ。
その駅に「降りよう」と思う人が殆ど居ない。
割合で言うと、100人が改札に入り、1人が改札から出て行く。
会社最寄り駅の改札は8個ある。
両サイドは、クソみたいな駅から乗り込む人がバカみたいにくるため
改札を出るためには「真ん中」を通るしかない。それ以外に道は無い。
今日も、いつも通り真ん中らへんを通ろうとしていた。
私が通ろうとしているのは見えたはずだ。
なのに、タッチの差で中央部分を男子高生に奪われたあげく、体当たりされ
女子高生みたいなのもおまけについてきた。正直、死ねって思った。
会釈したら許すつもりもあったが、男子高生は何もせず体当たりって何なのマジで死ね。
そして降りた先のバスでは、道路にはみ出るくらいバス停に並ぶ。
そうしないと乗れないだろうけど、歩道全部塞ぐってどんだけ民度低いんだよ。
クソみたいな駅に帰ってくる奴が多い。
上り方面、下り方面とあるが、どちらに行くにせよ人が滝のように居てクソウザイ。
並んでりゃそっちは普通に行けるだろうが、全軍全列で攻められちゃこっちは行けねーだろうが!
民度の低い駅はこれだから困るわ。ほんとクソ。クズしか居ない。
何なのこの駅?滅びれば?
>「批判的意見の表明」と「言論弾圧を狙った攻撃」の区別が付いてないようだな、君は。
“攻撃”になっていったのは途中からで、ごく初期の段階ではまだ“意見の表明”の範囲で済んでた、と考えてる
これが「攻撃するつもりはなかったがエスカレートしていった」のか「最初から攻撃するつもりだったが潜伏していた」のかはエスパーの領域になるので触れない
(証拠がない限りまずは前者だと仮定すべき、と考えてるので元増田では前者のつもりで書いた)
もし前者ならもうちょっとマシな話ができたのでは?と考えてる
>逆に聞くが、フェミの仕掛けた言論弾圧で趣味を奪われた人間が自殺したらお前どう反応したんだ?
たぶん今とあまり変わらない
元増田だけど。
なんとかしてくれ、という言葉には
いや、その極端な読み替えが成り立つなら、フェミの「萌え絵(や女性を消費する表現)をなんとかしてくれ」だって
「その表現を取り下げろ」「規制して生み出せないようにしろ」って読み替えて良い事になるよね。
あくまで萌え表現が女性を傷つける可能性を自覚し慎重に作ってほしい、というのが主なわけでしょ。
非モテの主張も、あなたの言うような極端なことをいう人はごく一部で、
独身と見るやパートナーの有無を話題にするのをやめてほしいとか、
パートナーがいること=幸せみたいな価値観がなくなればいいとか、
そういう穏当な主張をしている人が大半なわけですよ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/halfmoonst/status/1055045976598048769
FubarFubar このように倫理的に正しく差別に真剣で敏感なBBCさんですらキズナアイを好意的に特集していたので、ネトフェミは自身の倫理観のなさを恥じて腹を切って死ぬべき
この指摘は鋭い。
確かに、BBCが取り上げており、その取り上げ方が肯定的か否定的かということを倫理判定の基準とする場合、子供型セクサロイドとキズナアイを同時には否定しえない。
BBCが批判するがゆえに自陣営の倫理的判定は正しい、という形で論拠として利用する向きには、少なくとも
・両方とも批判し続けるが、BBCが倫理的正当性を帯びているということを自明視せず、無関係な別の論拠を準備する
どちらかの選択肢をとらなければならなくなるだろう。
グリッドマンが実体化できるという事で、舞台は電脳世界とみてよさそうだ。
彼らは現実世界に物理的実体を持つ人間なのだろうか?それとも、疑似人格的なプログラムなのだろうか?
仮想世界の存在する理由によっては、グリッドマンを取り巻く善悪の事情は全く変わってくる。
ところで、3話でグリッドマン敗北後も世界が復元している事から、復元は仮想世界自体の機能もしくはアレクシスが行っているのだろうか?
グリッドマンは仮想世界の秩序を守るように戦っている。つまり、仮想世界の運営寄りの勢力と言えるはず。
一方でアレクシスも仮想世界のホストであるかのように来訪者(グリッドマン)を "お客様" と呼んでいる。
しかし、アレクシス&アカネが仮想世界のホスト側であるなら自ら世界を破壊する理由がわからない。
そもそもアレクシス&アカネは仮想世界をどうしたいのだろうか?
単に破壊し、支配したいのだとして、物語開始前(つまりグリッドマン到来以前)なら対抗勢力もなく、怪獣一匹で即時征服完了できそうなものだ。
怪獣を繰り出したのは第一話が最初という事は無いように思われるが、世界は、少なくともアカネの生活圏が支障なく維持される程度の小規模な被害しかこうむっていない。
3話でグリッドマン撃退後のアンチがそれ以上の破壊活動を行わなかった事から、アレクシス&アカネを放置したところで、案外大した危機は訪れないようにも思える。
グリッドマンのいう "迫っている危機" とは何なのだろう。そしてなぜ、グリッドマンは具体的な説明をしないのだろう。
※元々グリッドマンてそういうキャラだから、と言うのは置いておいて
主要キャラクターはトランスフォーマーのキャラになぞらえられているという。それも、善悪反転のパラレルワールドを描く「シャッタード・グラス」シリーズのキャラ。パッと見の善悪とは逆の真相が隠されている暗喩、と言う説も。
OPの歌詞には「君を退屈から救いに来たんだ」とある。が、その動機はアカネ&アレクシス陣営の方がしっくり来る。
「あの日の誓い」「教室で語った」など、一見すると第1話の展開を連想させるがこれはミスリーディングであり、「誓い」も「語った事」もアカネと別の誰か(EDから、中学時代の六花、とか)との出来事かも知れない。もしそうなら「僕らの世界」が「侵略」される意味が異なってくる。
EDは歌っているのはアカネという体で、本編とは異なりアカネと六花が仲良く絡んでいる場面が続く。制服も本編と異なり、冬服ないし中学時代の物のようだ。
アカネと六花の2ショットを単なる視聴者サービスではない、何らかの情報開示であるとすれば、アカネの行動原理に関する何らかの秘密が隠されていそうだ。
フーコー派は「私たちは社会的権力に欲望させられているのだ」という主張を好みますが、これは反自由主義フェミニズムと非常に親和性が高い立場です。なぜならこの理屈を使えば、自由意志の下で性を楽しんでいる女に対して「あなたはそのように欲望させられているだけの奴隷だ」と言えるからです。
いわゆるフーコー派哲学は「我々は社会的権力に欲望させられている」という主張を好みますが、ドゥルーズ派哲学は「その社会的権力とやらを生み出しているのは、結局のところ私たちの欲望なのだ」という立場を選んでいますよね。これはフーコー批判としては最も辛辣なものであるように思います。
ミシェル・フーコーの社会哲学は何でもかんでも権力権力アンド権力と言い募る戯言を通じて結局のところなにをやらかしてしまっているのか。むろん個々人の自由意志を抑圧することに貢献しているのです。少なくとも人間の自由を抑制したがる人々に最適な武器を与えていると言えるでしょうね。
ポストモダニストの代表格であるフーコー、ドゥルーズ、デリダのうち、実は最も「悪用されやすい」という意味で悪質なのはフーコーです。
反自由主義フェミに対し、彼ら彼女らは実は単なる男性嫌悪者に過ぎないと主張する人々がいるけれど、それは真実の半分しか言い当てていないと私は思います。反自由主義フェミは女の自由も抑圧したがっているのですから、彼ら彼女らは同時に女性嫌悪者でもあるのだと考えるのが自然だと思います。
エマワトソン論争は「男も男性性から降りたほうが幸福だ」VS「男は男性性から降りたほうが不幸だ」みたいな対立でしたが、そもそも男が男性性から降りたり女が女性性から降りたりするのは基本無理なので全く意味のない議論だと思いました。ありもしない仮定の下で議論するのは時間の無駄。
当時の私はエマワトソン論争を眺めて「ジェンダーがそんなに簡単にフリーになるわけないだろ。なめとんのか貴様」的なことを考えたり考えなかったり、そんな風な感情を抱きながら両陣営を眺めていましたね。そもそも論者自身が男性性も女性性も捨てていないのにムシのいい話だなと思いました。
今さらジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』を再読しましたが、いくらなんでも生物学的な性差を軽視しすぎていると思いました。これは単なる観念論ではないのか。じっさい、最終章でバトラーが称揚してみせるのは毒にも薬にもならない「パフォーマティブな攪乱」でしかないというわけです。