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はてなキーワード: 耳をすませばとは

2022-09-11

anond:20220911205430

少女漫画は描いてないけど「漫画の才能」と全般さしての言葉だったか引用した。

うる星やつらめぞん一刻とか恋愛ものも描いてるし。

羽海野チカ先生とか美大はおろか大学も行ってないけど憧れから美大舞台にした「ハチミツとクローバー」を描いてるし、音楽家経験したわけではない二宮知子先生の「のだめカンタービレ」は連載当時、音大生にも人気があった。

物事を繊細に観察したり、読み解く力、それらを物語技法にのせて描き出す表現力の問題のが経験より重要だと思うけど。

経験漫画アウトプットするのが上手い作家さんがいるのはわかるよ、東村アキコ先生岡崎京子先生いくえみ綾先生安野モヨコ先生さくらももこ先生とか。

岡崎先生事故後遺症でもう描いてないけど)

でも結局こういう作家さんたちも経験アウトプットする方の力(漫画にする力)が強いからこそ今も描き続けてるだけだと思うけどなあ。

インプット先が違うだけで、結局最後アウトプットする力がないと続かないと思うし。

そもそも妊娠出産を経て漫画描くのやめた少女漫画家は多いし、他のトラバにもあるけど生存バイアスかと。

漫画ではなく、少女漫画原作に作られたアニメ耳をすませば」とか、原作少女漫画だけど脚本書いた宮崎駿監督は(監督近藤喜文さん)、身内が持ってたりぼん(当時耳をすませばが連載されてた)を読んで話の前後想像で描いてしまって現在アニメのあの話になったらしい。私は深みがない作品だとは思わない。

さらに言うと、現代では少なくなったとはいえ男性少女漫画家もいる事は考慮してるのかなあと疑問に思った。

また、最近イチオシでかつ私の中で歴代の好きな漫画作品牛蒡抜きしてる「スキップローファー」は掲載誌こそ講談社アフタヌーンだけど、少女漫画文脈で描かれた傑作(まだ連載中だけど」なので是非読んでみてもらいたい。

私自身は既婚者で夫と一人娘がいる身です)

2022-08-26

耳をすませばって実写化するんだな

しかも2人が大人になった舞台

青春の後は現実しかないんだからやめてくれ

夢を叶えつつある聖司くんと10年経っても小説家の芽が出ない雫のお話

もうこれだけで「ああ~そういう感じね」ってなる、見なくてもいいやーって

いっそ小説で1発当てて大富豪になった雫と庶民の聖司くんの続編くらいぶっ飛んでくれたら興味わくんだが

耳をすませば主人公たち中3なんよなあ。中3の時あんなに素直に生きてなかったし大人っぽい男子もいなかった。当時既にこの映画を見ていたはずだけどそういうものかなと思っていた。人生に対する当事者意識が足りなかった。でもまあ告白なんぞして大恥かかなくてよかったのかも…。

2022-07-07

耳をすませば

聴こえてくるのは文明開化の音か

それとも、ぐんくつぐんくつ

2022-06-22

anond:20220622122012

とはいえ普通」は圧倒的に楽で生きやすいよ。

耳をすませば」で雫の父親も言っていたように。

2022-05-18

個人的に好きなアニメ映画 TOP30

やってみたけど、そこまで個性出ないね(出てないよね?)。

やっぱ、漫画かに比べると総数も少ないしな。

個人的にそこまでではなかったので入れていないメジャー作品結構あるけど、それ以外にも私が知らないだけで、隠れた名作ってのがまだまだあったりするんだろうか。

30 機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ

29 ドラえもん のび太と鉄人兵団

28 機動戦士ガンダムUC episode 6 宇宙地球

27 空の境界 第六章 忘却録音

26 名探偵コナン 天国へのカウントダウン

25 この世界の片隅に

24 劇場版 マクロスF 虚空歌姫イツワリノウタヒメ

23 秒速5センチメートル

22 ドラえもん のび太の日本誕生

21 宇宙戦艦ヤマト

20 風立ちぬ

19 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序

18 魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st

17 機動戦士ガンダムF91

16 超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか

15 機動戦士ガンダム 逆襲のシャア

14 時をかける少女

13 君の名は。

12 天気の子

11 魔女の宅急便

10 機動警察パトレイバー 2 the Movie

9 サマーウォーズ

8 紅の豚

7 君の名は。

6 心が叫びたがってるんだ。

5 耳をすませば

4 ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

3 空の青さを知る人よ

2 逮捕しちゃうぞ the MOVIE

1 ガールズ&パンツァー 劇場版

ガルパンはいいぞ

2022-04-14

耳をすませば実写映画化するって聞いて

絶望したんですよ

とはいえ頭ごなしで否定もよくないと思って

情報を集めるかって調べたら監督平川雄一朗絶望(前作は約束のネバーランド

まぁ約束のネバーランドけが悪いのかとおもって過去作の評価ざっと見ようと

filmarksで監督過去リストみてたんだけどさ

https://filmarks.com/people/137231


なんか逆光系ポスター多くない?

エモ逆光がすごいんですけど

流行ってるんですか?

耳をすませば実写版の10年後の設定に納得がいかない

清野菜名×松坂桃李共演、実写『耳をすませば10月14日公開! バロン登場特報映像

https://www.cinemacafe.net/article/2022/04/13/78283.html

最初の印象は最悪だったが、夢を追う聖司に次第に惹かれていった。それから10年が過ぎ、24歳になった。

恋も夢も中途半端なまま大人になった雫。夢もあきらめ、出版社児童小説編集者になっていた。

なんで小説家になれなかった設定なんだよ。

なんで聖司は夢叶って雫は叶ってないんだよ。

この時点でクソ。ツイフェミ怒っていいよ。

2022-02-23

尺八マニア的にはジョン・海山ネプチューンってどうなの?

お前ら尺八ホットになれるって、良いよね。好きよ、増田のそういうところ。ところで、タイトルだけど、今しかこの人について知れるチャンスはないので聞いてみたいのだ。

はじめてこの方を知ったときには「たか尺八日本に来るって神経が理解できなかった」けど、行動力がすごいと思いました。はい

その音色に一瞬で惚れ込み

https://eiga.com/amp/news/20190905/13/

もう一回言うぞ、尺八だぞ!和製耳をすませば」じゃねえか。かっけー。でも、食っていけるんか?

2022-02-04

まともな地域に住みたかったらココを見よ

コロナ禍と言えど、転居を伴う境遇の変化は必至。

そろそろ新居探しをされている増田もいると思う。

もし「まともな民度を持った人々の街(町)で暮らしたい」と思っているのならば、ぜひここをチェックされたし。

ソース

地方家賃1万5千円の最安圏低所得層アパートに16年住んだ後、同じ地方ながら家賃6万5千円の地域最高額アパート引っ越した俺(地方からこれだけ出せば一番良いところに住めるのだ)。

チェックポイント①:ごみ集積所】

これは必ず見ろと言われている定番中の定番

民度まとも地域指定日以外、ごみが出ていない

低所得層地域毎日ゴミ出し日

低所得層ゴミ出し日なんて概念がない。捨てたいその日が、ゴミ出し日。その上、分別なんて知らない。燃やすごみ袋の中に食いかけの弁当、吸い殻、飲みかけの缶ビールその他諸々がグチャグチャに混ざってゴミ出し日以外に捨てられていることなんて日常茶飯事。

チェックポイント②:庭の手入れ具合】

民度まとも地域→年中きちっと木花が手入れされている

低所得層地域→何十年も放置された不要物が野ざらしになっている。そもそも庭がある家が少ない

庭木に手間を割くという行為はある程度、生活時間と金にゆとりがないとできない。“草木を愛でる“のは心にゆとりがある証。

チェックポイント③:自家用軽自動車

民度まとも地域新車登録後、せいぜい2~3年経ったくらい。いつもピカピカ

低所得層地域→何十年も乗り倒した旧規格時代のオンボロ。意味の分からないステッカーが貼ってある

車格は関係ない。要は物を大事にしてるか。何十年も乗ってるのは大事にしてるわけじゃない。洗車なんか年中やってない感じ。

チェックポイント④:子供の有無】

民度まとも地域休日はどこかで元気よく遊んでいる声が聞こえる

低所得層地域そもそも子供自体を見かけない

ノーコメント

チェックポイント⑤:道路

民度まとも地域→何もない

低所得層地域→鳥のフンまみれの箇所がある

どういうわけか分かんないが、低所得層地域には野鳥に餌付けするジジィかババァが何故かいる。それ目当てに鳥が集まるものから道路はフンまみれ。こういう輩って、何が迷惑になるのかわかってない。

低所得層地域に住むと、

●夜中にパトカー救急車がよく走る

耳をすませば、どこかでDQNが叫ぶ声(真隣からもザラ)

一見してソレとわかる“社会不適合者”と高エンカウント

等々、なかなか愉快な感じ。

若い人なら社会勉強と思ってあえて飛び込んでみるのもおもしろいんじゃないかな。若いうちは金ないのは当たり前だけど、真面目に働き続けていたらいつかの時点で人並み程度にはなるから、今のうちと思って「こういう社会もある」ことを知り、「こうはなりたくない」という発奮材料にするのもいいかも。

いずれにせよ、やがて新生活を迎える方々よ、

洋々たる前途をエアお祈り申し上げる!

2022-01-19

会社トイレうんこが流し忘れされていた

タイトルの通り、会社トイレうんこが流し忘れされていた。

当該トイレ自動水洗機能がある。

きっとセンサーがうまく反応しなかったのだろう。

しかし、当然センサーが反応しなかった時のために手動で流せるスイッチもある。

それでもうんこは流されていなかった。

どうしてうんこは流されなかったのだろうか。

用を足し終わり、立ち上がって下着衣服を整える間にセンサーによる自動水洗が行われる。

トイレの水が流れる音は当然それなりの音量なので、流れたか流れなかったかはわかるだろう。

センサー不具合で流れなかったのであれば、手動のボタンを押すだろう。

手動ボタン不具合作動しなかったのだろうか。

仮に手動ボタン不具合だったとして、犯人うんこ放置することを決意して個室から出たのだろうか。

それはとてもリスキーで、勇気のいる行為だったのではないだろうか。

職場トイレで、いつ誰が入ってくるかわからない状態で、うんこ放置してその場を去る。

とても勇気がいるはずだ。

うんこ放置して個室から出るとすれば、まずトイレ内に人がいないのは絶対条件だろう。

トイレの個室は4つ。

それなりの人数が働いている職場なので、トイレには入れ代わり立ち代わり人が入ってくる。

トイレ内の人の動きは息をひそめて耳をすませばある程度把握はできる。

いまトイレ内の個室に自分以外に人はおらず、また手洗いスペースにも人がいないか

大体は把握できるが、あくまでも大体。

他の人も個室で息をひそめていたり、手洗いスペースで静かに鏡を見つめているとかだと勝率は下がる。

万が一、物音がしないため誰もいないと踏んで外へ踏み出したもの

他の3個室が息をひそめてケイタイをいじっている人で埋まっていたとして、

更にトイレ前で個室が空くのをとても静かにまっている人がいたとしたら。

終わりではなかろうか。

会社トイレうんこ放置する人間だと知られてしまったら。

人として、かなり終わりではなかろうか。

そのリスクを背負って、犯人うんこ放置したのだろうか。

きっと犯人特定することは永遠にないし、

真意を、真実を知ることも一生ないだろう。

私はうんこを視認した瞬間その場を逃げ出したのだが、

さっきまたトイレにいったらうんこは流されていた。

誰かが流してくれたんだね。

よかったねうんこ

2021-11-02

anond:20211026000426

浅すぎる。

平成狸合戦ぽんぽこ』は多摩の開発と自然破壊を題材にしているが、そこに描かれているテーマは「自然vs人間」ではない。

里山vs都会」だ。

なぜ狸が擬人化されているのか?

狸の反抗が左翼活動家集団のように描かれて、居座りやら内ゲバのようなものまで描写されるのはなぜか?

ラストに敗北した狸が「慰み」として作り上げた幻覚は、どうしてただの狸の生息する森や山ではなく、かつての暮らしをする人々のいる人里なのか?

狸たちは都会人としての生活に反抗し、里山的な生活を固持しようとする人間表象だ。

擬人化というよりは、擬狸化と言ってもいいくらいだ。

物語ラストで、敗北した狸たちは、人間に化けられるものは都会の暮らし余儀なくされ、人間ではない狸たちは社会から阻害されて死出の旅へと出る。

その表象現実と照らし合わせたときに、単に自然破壊はよくないという感想になるのだとしたら、あまりに貧しい。

この物語類型は、戦後日本において産業構造の変化に伴い、それまであった田舎といったものや、そこに住む人々たちが変化していかざるを得なくなったという話の仲間だ。

たとえば『フラガール』なんかは第3次産業に移行する時期の地方の村における人々を克明に描写している。

同じジブリでも、近い時期に製作された『耳をすませば』や『もののけ姫』は同じテーマベースにしている。

この時期というのは、宮崎駿漫画風の谷のナウシカ』の方向性を裏返してラストを書き上げた時期でもあるし、寄生獣岩明均が「環境問題への見方が連載当初と変わってきた」と述懐しつつあのラストを描いた時期でもある。

増田が考えるような純朴な「自然環境保護」の思想日本アニメ漫画で力を持っていたのは、藤子・F・不二雄が没するくらいまでだろう。

晩年大長編ドラえもんではかなり純朴な「自然環境保護思想描写される。

顕著なのが『雲の王国』や『アニマル惑星』などだ。

思うに、こうした「自然環境保護」の思想90年代前半にピークを迎えたあと、90年代後半には変質したのではなかろうか。

純朴なほうの「自然環境保護」は「道徳」と親和性が高いので、2000年代くらいまでは学校教育に根強く残っていたような肌感触がある(その後の教育がどのようであるかは寡聞にして知らない)。

この時期的なギャップから、この時代作品についての評価についてはかなり歪みが残っているように感じられる。

2000年代以降は複雑化し単純に善悪で語れなくなった「自然環境保護思想はあまりフィクションで求められることがなくなったというのもあり、当時鑑賞していた人間もこの認識無自覚のまま、見方更新できていないのだろうと思われる。

もし現在の視座から再び『平成狸合戦ぽんぽこ』をみるとしたら、空疎に都会化する郊外についてとか、ゴーストタウン化する商店街とか、高齢化した多摩ニュータウンに残る空き家とか、多摩で育った子供大人になってどこに行ったのかとか、そういったことに思いを馳せることになるだろう。

しかしやはり作品のメインとしては、活動をする集団人間くさい失敗あるあるをみて笑い泣くエンタメという楽しみ方になるだろう。

多摩自然が素晴らしい」という感想はその次に、絵としての美しい描写として出てくるものになるだろう。

そして、「自然を守らなければならない」というのは、この映画テーマとしてではなく、描かれた美しい自然に感動した観客が、自身良心でもって結論づける感想としてしか出てこないだろう。

2021-07-10

anond:20210710142517

京都 大原 三千院

恋に疲れた女がひとり

結城に塩瀬の素描の帯が

池の水面にゆれていた

京都 大原 三千院

恋に疲れた女がひとり

京都 栂尾 高山寺

恋に疲れた女がひとり

大島つむぎにつづれの帯が

影を落した石だたみ

京都 栂尾 高山寺

恋に疲れた女がひとり

京都 嵐山 大覚寺

恋に疲れた女がひとり

塩沢がすりに名古屋帯

耳をすませば滝の音

京都 嵐山 大覚寺

恋に疲れた女がひとり

2021-05-29

三大怒られない違法二人乗り

耳をすませば

当時は自転車はかなり多めに見られていた時代だしいうて免許必要ない乗り物から子供のやること」みたいな理屈も通る。

もちろん現実では自転車だろうと事故れば自分が死んだり他人を殺すことになるのだから子供だろうと責任のある運転が求められる。

イリヤの空、UFOの夏(正しい原チャリの盗み方)

状況としては戦時中であり、発信機や盗聴器が仕掛けられていたという事実があり、敵のスパイに捕まったらどうなるかわからない(本当にわからない)ので手段を択ばず逃げる必要がある、という事情があるので盗んだ原チャリで二人乗りや速度超過くらいはしょうがないみたいなところはある。

そもそもイリヤって免許持ってるんだっけ?軍からそういうライセンスが与えられててもおかしくないしだったら取得から一年は経ってるんじゃないだろうか。でもあのスクーター二種じゃないよな

あと一つは?

2021-03-09

anond:20210309164507

エヴァじゃなく、押井守映画スイッチするのはどうかい? 彼は今でもつらい現実人生に生きる人々の映画を作ってるで。

トーはずっと、ネットの海に消えた思い人を心に一人で生きている。

押井

「こういう例を出して適切かどうか分からないけど、『耳をすませば』に出てくるような健康的な一家を見て、果たしてアニメーション必要としている今の若い子たちが勇気づけられることがあるんだろうか。僕は、ないと思う。『耳をすませば』を見て生きる希望がわいてきたり勇気づけられる子は、もともとアニメーションなんか必要としないんだと。 アニメでも映画でも小説でも何でもいいけど、フィクションを人並み以上に求めている子たちには、ああいう形で理想情熱を語られても、むしろプレッシャーしか感じられないはずだ。僕はそういうものは作らない。 今回もそうだけど、僕が作っているものにあるのは、生きるということはどう考えたってつらいんだ。 多分、あなた方を取り巻く現実もこれから人生も、きっとつらいものに違いない。いろんなものを失っていく過程なんだということ。 生きていれば何かを獲得すると若い人は漠然と思っているんだろうけど、実際は失っていく過程なんだよって。 」

「じゃあ、人生地獄のようなものなのかと言いたいのかというとそうじゃなくて、そのなかで、自分が生きることの意味とは何かということに、マジメに答えようと思っているわけ。しかも、さっき言った通り、僕自身が信じているもの以外のことは出さないで。今回は僕なりにがんばったつもりなんだよね。観て、すぐ元気になるかどうかは別にして、生きていく上で何かの役には立つだろうと。それくらいの自負はある。バトーは、生きるか死ぬかのシビア世界で、苦渋に満ちた人生を送っている。みんなが生きているのは、そこまでシビア世界ではないとしても、生きる上でのつらさは、バトーと一緒なんだよって。

2021-01-18

なぜ私は聖地巡礼をするのか(の話をかくはずだったが)

聖地巡礼とは中世ヨーロッパ封建社会においてキリスト教徒あいだで流行した、キリスト教聖地であるエルサレムを訪れる宗教的行動である

転じて、現代においてはアニメ映画などの熱心なファンが、創作物キャラクター縁の地を訪ね歩く行為を指す言葉として使用されるに至った。

私も昨年度から今をときめくアイドルグループ乃木坂46好きが高じて、(暇を持て余していたことも手伝い)彼女たちが番組ロケで訪れたり雑誌メディアで紹介したりしていた場所を巡ることが退屈な日常を彩る楽しみの一つとなっている。

大塚天祖神社バッティングセンター千歳船橋喫茶店ぱおーん、五反田デニーズ……

思い起こしてみたがそれほど多くはなかった。

それはさておき、この日記(?)で私が考えたいのは「人はなぜ聖地巡礼をするのか」その理由だ。

聖地巡礼には楽しさがある。

思えば私は日本史世界史も好きなので、歴史上の史跡を巡ることが旅行に行く際の主目的の一つだったりする。映画ロケ地を訪れることもある。

(前提として書き加えておくが、行ったことがない土地を訪れるのが好きな方であると思う。「まだこのへん歩いたことがないから」という理由で6時間ぐらい散歩することがざらにある)

今も『世界史をつくった海賊』(竹田いさみ著)なる本を読んでいて、大航海時代マゼランに続いて史上二度目の世界一周航海を達成した海賊フランシス・ドレーク(ワンピースのドレークのモデル)に関する記述を読んで、「彼の航路を船で辿ってみたいなあ」などと空想に耽っていた。

そう、私はフランシス・ドレーク足跡を辿りたいのである

乃木坂メンバーが参詣した神社自分も赴きたいし、バットを振るったバッティングセンターで、彼女らがそうしたように、自分バットを振るいたいのだ。

そして、「ここに彼らも、自分と同じように立っていたんだ」などと感じたいのである

この衝動はなんなのだろう。何故、こんなことをしたいと思うのか。

バッティングセンターで行ったバッティングは、それ自体として面白かった。乃木坂のことがなければ、私はバッティングセンターに行きはしなかっただろうが、バッティング最中乃木坂のことは忘れて純粋ボールバットで的確に打ち返すことに集中していたし、それが成功することに喜びを覚えていた。

しかし、やはりその一連の行為には、「メンバーも同じ場所で同じことをした」という事実認識によって特別意味を付加され、それが私の心に満足感をもたらしている。

私の記憶には、明らかに「ただのバッティング」以上の色が付いて、この思い出が保存されているのだ。

この違いは何に由来するのか。

まず一つ、見逃せない重要な点は「私は乃木坂が好きである」という事実だろう。これは明らかに聖地巡礼動機に深く関わっている。

私は何も藤田ニコル西野亮廣の訪れた場所に行きたいとは微塵も思わない。ニコるんはどちらかと言えば好きだが、出演番組をチェックするほどではない。西野に至ってはどちらかと言えば好きではないし、好きではない人間の縁の地を訪ねたい、その足跡自分足跡を重ねたいとは思わない。

フランシス・ドレークのことも、まあ好きになりつつある。(暇があれば伝記を読んでもいいかなと思うぐらいには)

では、好きな人なら誰でも聖地巡礼したくなるのかと言えばそんなことはない。身近な友人のことは好きだが、彼らの足跡を辿りたいとは思わない。

これは極めて重要着眼点である

恐らくは、その人物との関係性および距離感聖地巡礼に向かわせしめる大きな引鉄の一つなのだ

想像するに乃木坂メンバーでさえ、もし私が直接的に関係性を構築してしまえば、聖地巡礼したいという衝動はなくなるだろう。

同じ場所を訪れて、同じことをしたいという気持ちの裏にあるのは、「近付きたいが手の届かない者の存在」を少しでも身近に感じたいという欲求なのだ

友人という生々しい関係は、最早相手をそういう「聖なる存在」にしておかない。

ただし、友人との関係が何らかの理由で解消され、手の届かない存在になった場合はその限りではない。その最も単純な例は「死別である。死が二人を分かてば、当たり前な存在は当たり前でなくなり、会いたいのに会えない、焦がれ求める対象になる。

「手の届かない特別存在を思うこと」が聖地巡礼の肝なのだ

そしてその感慨は、対象と同じ空間的座標に立つこと、そこで同じ行為追体験することで増幅される。ただ、家でスマホをいじりながらその人のことを考えているだけの時間よりも、その人に少し近付けたような気になる。

その対象は人に限らない、作品、ひいてはその世界観全体も対象になりうる。

私は宮崎駿監督映画が大好きで、監督ハウルを撮り終えた後に数ヶ月間療養し、次回作の『崖の上のポニョ』の構想に繋がった広島県鞆の浦や、『耳をすませば』の舞台となった聖蹟桜ヶ丘も訪ねているが、ポニョや雫個人をそこまで好きかといえばそんなことはない。

フランシス・ドレークのことは好きになりつつあると言ったが、やはり人物に対しての好意それだけというよりは、世界史的な偉業であるという点の魅力が大きいように思う。俗な言い方をすれば世界一周ロマンを感じるし、楽しそうである(実際は辛いことの連続だろうが)。

しかし、ドレークな先立って世界一周航海を達成したマゼラン足跡を辿りたいと考えたことはないことを踏まえれば、やはりドレークには読書を通して僅かながら彼の功績やエピソードに触れたことにより、マゼランに感じる以上の魅力を感じていること、それが巡礼への衝動を後押ししていることは間違いない。マゼランのことは何も知らない。何も知らないので魅力も感じなければ、より深く知りたいという動機も起こらない。

(どうやら相手のことを「知りたい」と思うには、まず相手のことを知ることが必要らしい。少なくとも私にとっては。難儀なことだ。)

「手の届かない「聖なる存在である対象をその足跡を辿り行為をお手軽に追体験することで、少しでも身近に感じること」が聖地巡礼の意義であると一旦結論付けてみる。

ここで唐突に「お手軽に」という制限を付け加えたのは、私はバッティングセンターバッティングをする程度の追体験はしたいが、乃木坂メンバーが日々の研鑽を重ねたダンスレッスン場で一年間同じレッスンを受けたいかといえば真っ平御免だなということに思い至った。

一年彼女たちが受けたレッスンと同様のレッスンを受けることは、彼女たちの辛さや頑張りをよりリアル追体験することになる。追体験としての質は高い。だが時間がかかりすぎる。ダンスよりもやりたいことがあるし、辛そうなので、暇潰しに週二程度通うならチャンスがあればやらなくもないが、それはもう追体験としての価値は薄れて、一年間におよぶダンスレッスンそのものが持つ価値が問われている。(追記そもそもこれ、巡礼ではなくダンスでは?)そういう意味で1000円分のバッティングには十分その価値があったし、世界一周航海も同様である。(追記:これも巡礼と言えるのか?場所を訪ねる行為限定するべきだったかもしれない)

聖地巡礼はお手軽でなければならない。言い換えるなら、その行為自体を楽しめないのならやりたくはない。滝行は楽しそうなのでやりたいが、例えば彼女らが受けていた辛い仕打ち自分も受けたいかというと難しい。

例えばメンバーの誰かが過去イジメを受けていたとして、それと同様のイジメを受けたいか。これに関しては少し受けたい。マゾヒスティックな願望ではなく、多少なりとも彼女らの苦労を追体験することは彼女らを理解することにつながるからだ。

しかし、紛い物のそれはやはり本当のイジメ体験とは辛さの質が大きく異なるし、よりリアルに状況を再現するために半年継続してイジメを受けてくださいと言われればお断りする。あくまでもその一部を、私が本当には辛くならない程度に体験することで、辛さに思いを馳せたい、という程度に存在への接近願望は留まる。

キリスト教徒だってエルサレムには行きたくても、ゴルゴダの丘の上で十字架に磔にされたいかと言えばそんなことはないだろう。ごっこ程度にはやってみたいが、それはごっこ遊び自体が楽しさを持つからである。高所に磔にされて「こえ~」などと言ってるのは楽しいが、手足を本当に釘で打ち付けられるのはたまったものではない。(追記:これも巡礼の話ではなくなっている気がするが、でも巡礼先で対象が何かしてたら同じことやりたいよなあ。(追追記:でもやらなくても巡礼は成立するからやっぱりおかしいねはい。))

体験総体として楽しくないならやりたくない。少なくとも私は。この「楽しく」は何も笑顔になったり、興奮したりするといった類の楽しさである必要はない。

心地よい感情が動きがあればよい。

郷愁に浸るとか、感慨に耽けるとか、今風に言えばエモさがあってもよい。「泣く」ことによる感情の発露も、人間にとっては快感であるので、ここで述べる「楽しさ」に含まれる。

いや、違うな。

上に述べたエモさは体験のものに由来する(既出の例をとればバッティング行為によって引き起こされた)感情ではなく、「行為追体験している」という事実に付随する感情の動きだ。そこは切り分けるべきだろう。

例えば「同じ場所に立つ」ことも、聖地巡礼に伴う追体験行為の一形態だが「立つ行為のもの」には特に何の楽しみもない。(立っているだけで楽しい場所もあるが、必ずしもその必要はない)(追記:この例の方が純粋巡礼っぽい)

先例のイジメのように行為自体許容範囲であれば不快であっても構わない。これは個人差があるし、対象に対する思い入れの深さによっても許容範囲が変わってきそうだが。

追体験行為包含する巡礼行為」が総体として満足感をもたらす体験であればよい。(追記:「巡礼追体験包含する」よりも「巡礼追体験が付随する(ことがある)」が正しい)

距離重要な要素だ。ここで言及する距離とは、対象との関係性としての距離ではなく、その聖地との物理距離感である

遠ければ遠いほど、巡礼を達成した際の体験価値は高い。エルサレムが近所の公園にあったら巡礼の有難みも霞むだろう。

「ここまで来た」という感覚聖地巡礼には必要である

私は電車移動含めて一時間もあれば十分であるしかし、ここまで書いて想像してみたが、家の隣にあった昔馴染みのなんでもない祠が実は家康が足繁く通った祠であったと発覚すれば、そこにはそれなりの感慨が生まれるように思える。巡礼と呼ぶにはあまりにも短距離だし、巡礼としての価値希薄化するものの、完全に失われることはない。いや、とはいえやはり価値の減少は免れないな。

遠ければ遠いほどいい、というものでもない気がするが。例えば、乃木坂メンバーが訪れた場所比較として、私の現在地から大塚バッティングセンターパリ街角にあるカフェとの物理距離には圧倒的な差があるが(もちろんパリの方が遠い)、パリカフェを訪れた際の感慨がバッティングセンターに比べてそれほど深いかといえば、あまり変わらないような気がする。

これは、「パリ旅行のついで」にカフェを訪れるのか、「乃木坂メンバーが訪れたカフェを主目的に」パリを訪れるのか、物理距離を越えんとする直接的な動機がどちらにあるのかによっても異なりそうだが、メンバーが通った小学校とか、生まれ育った地域ぐらいの重要地ならともかく、たかだかロケで立ち寄っただけのカフェ目的渡仏する気にはならない。

いや前者でも渡仏する気にはならないが、(追記:というかメンバーの母校って言うほど感慨深いか?その頃のメンバーが好きな訳ではないし……)するにしてもそれはやはりそもそもパリ自体が好きで巡礼を抜きにしてもパリに行きたいからであって、パリの一地域を訪ね歩く行為のもの乃木坂とは無関係に楽しみを見出している。その意味巡礼行為は「ついで感」が否めない。(追記:「むしろ行きたくない場所への巡礼」を考えてみようと思ったが、思いつかなかった。(追追記日焼けと車酔いに弱いのでそれらが伴う場所には積極的行きたくない。苦労した分、到達時の達成感はありそうだが、それは聖地が持つ意味とはやはり無関係目的地に至る行程に由来する価値を抜きにした純粋巡礼価値は何によって決まるのか。))

これはもしかしたら聖地巡礼も、エルサレム旅行のものに少なから体験としての楽しみが含まれていた可能性もあるが、中世を生きる農民の長旅の過酷さや宗教に対する敬虔さはとても無知蒙昧な私の想像のおよぶところではないので、お叱りを受ける前にこの説は引っ込めておく。

でも伊勢参りとかは楽しそうだよね。明日(もはや夜が明けたので今日なんだが)近所のブックオフ聖地巡礼事情に関する本でも漁ってみよう。

眠いし目も疲れたので「過去自分への巡礼」とかまだ考えたいことはあったが、このへんにしておく。

おやすみなさい。

2021-01-09

anond:20210109225351

>>自分が得られなかったキラキラした青春エンジェイするアニメなんて見ても余計辛くならない?

>>耳をすませばを見て鬱になる人が一定数いるってよく話題になるし

このアニメに対するとらえ方自体がそうだ

あなた快楽目的アニメ好き

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