はてなキーワード: でっちとは
犯人とされてる人がさしたというのも警察の「主張」に過ぎないぞ
集団自殺とか
あるいは上級老人がはねて事故だけど偽装するためにこれは交通事故でなく通りまでスト
いろいろ考えられる
正直あれは大多数の善良な一般市民には縁の無い話なので気に病む必要なんかないと思う
大多数の善良な市民は、そもそも刺されることも刺すこともないだろうから
(ここからめちゃくちゃ長い話が続くのでご注意ください)
気にするのは
・本当に痴漢をやっている奴
・痴漢憎しで疑いのある奴は全部刺そうと思い詰めた行き過ぎた奴
・チクッと刺して相手がビビるのを見て楽しもうと思っている迷惑な愉快犯(冤罪を起こす奴)
ぐらいのものじゃないだろうか
男性はそもそも大多数が痴漢なんかやったことがないしやろうとも思ってない
↓ ↓ ↓
ゆえにどちらかと言うと冤罪の方が恐ろしい
+
「ちょっと当たったくらいでいちいち文句を言っているのではないか」
という「自分ではそもそも経験もなく具体的な話を身近に聞いたことも無いので想像と理解に限界がある」という現象が起きている
それに対し、女性は学生の頃から被害の大小はあれど何らかの性的な嫌がらせを経験した人間が思ったより多い
性的に不快な目に遭遇したという経験の中には「痴漢被害」もある
しかしわざわざそんなに親しくも無い異性に「私は痴漢にあいました」などと言いふらしたりはしないものだ
わざわざ言わないのは何故かと言うと
「まず恥ずかしい。恥ずかしい目に遭ったことをおおっぴらに言いたくない。うわさされたくない」
「告げた相手によっては『モテる自慢なのか』『性的魅力がある証拠だと言っているのか』のような謎の勘違いによるセカンドレイプまがいの心無い言葉をかけられるのが嫌」
「被害の程度によっては思い返すのも吐きそうなほど辛くて忘れ去りたい。なかったことにしたい。だから言わない」
というような理由が考えられる
(あと、少数ながら男性が男性から痴漢されたというケースも、痴女に触られたというケースも実際にあるので、被害にあわれた方々はそのツラさがご理解いただけると思う。
しかしこれがまた一層人に言いづらいものなので、大多数の善良な市民はそんな事が起こっているとはツユ知らず日々を暮らしているのだ。
だからこそ「まさかそんな」「痴漢なんて実在しませんよ」という発想になる)
被害の実情を知らない男性も、自分は痴漢に遭遇したことが無いという女性も、「ウソだろ」と言ってしまいがちだが、それはぐっと飲み込んで欲しい。
まぁとにかく、男女間での理解と想像と経験の差があまりにも違いすぎて、こと「痴漢」の話に関しては無駄に「男女の喧嘩」のようになりがちだ。
しかしよく考えて欲しい。
犯罪もしていない善良な男女同士でいがみ合って、得をするのは誰かと言うと「真の犯罪者(痴漢する奴と冤罪でっちあげする奴)」である。
本当の犯人である自分たちからみんなの目をそらすことが出来るのである。
対立煽りの方向へ話を転がせば、あとは勝手に善良な市民どうしていがみ合ってくれるので、大変に楽なのだ。
とてもちょろい構図だと言えるだろう。
「痴漢なんて絶対してない」し、「今後しようとも全く思っていない」のである!
そして「自分は痴漢じゃないから、冤罪の方がよっぽど怖い」と思っているのである!
考え方の基本姿勢がそこだから、痴漢被害者が勇気を出して訴えた時にも
「まさか」「考えすぎでは」「ちょっと当たったのを大げさに言っているのでは」
という考えになりがちである。
世の女性の大多数はそもそも「誰かを痴漢冤罪にハメてやろう」なんてこれっぽちも思っていないのである!
そんなことをする奴はごく一部。
しょっぴいていい。
むしろ痴漢に悩んでいる女性陣の敵でもあるので、しっかりとおまわりさんに叱られて冤罪にハメようとした男性に謝って罪をつぐなって欲しい。
遊びじゃねーんだよ!
今後の生活がかかってんだよ!
それを軽い気持ちで「キャー!この人チカンですー!」などとウソをついて面白がるような、ニンゲンのくさったような奴はさっさとおまわりさんに連れて行かれるがいい。
最近は微物検査をしっかりしさえすれば、例えば被害女性の胸と尻「だけ」に異様に容疑者の触った跡が出てくるなんて動かぬ証拠もバッチリらしいから、強く希望すればよいと思う。
犯人でないのなら大丈夫、身の潔白を証明するには強く毅然とした態度でいることだと思う。
ところで、一概に「痴漢」といっても善良な一般市民が想像するには限界があり、そして世の中には「まさかそんなやり方で痴漢を?!」というような被害も実際にあるので痴漢被害に詳しくないのは当然な善良な一般市民は被害者を「ウソだろ」「大げさな」などと少ない知識と想像で無駄にけなすのは良くない。
ウソはついていないし、むしろ恥ずかしいのをぐっとこらえて真の犯罪者を何とかして捕まえて欲しい、今後似たような被害が出ないで欲しい、そんな気持ちを無碍にしないで欲しい。
男性は大体自分が痴漢被害者になる事がとても少ないため、本当にその辺何も知らないのである。
知らずに済んでいるのは幸運である。知らないのは、善良だから。
「痴漢」なんて悪いことを考えてみたり実行してみたりしていないから。
これは男女とか無関係に遭遇すると「わかる」と思うのだが「痴漢の触り方」と「うっかり当たっただけ」というのは、それはもう全く別物な触り方なのである。
いかにもいやらしくしつこく撫でさすってくるとかいうのは、まだ分かりやすい。
触りつつとぼけようとする悪い奴というのは、まず「手のひら」を使わないことも多い。
手の甲が「偶然触れた」だけ、を装ったフリをして何度もタッチしてきたり、
新聞を持つヒジが「偶然となりのお姉ちゃんの胸に触れた」だけ、を装って何度も揺れて近づいてきたり、
あいてるのに隣に座って居眠りを始めるフリをして、ヒジを隣の女性のわき腹にグイグイとアバラが痛いくらいに押し付けてきて、次の駅で「起きとったんかい!」とツッコミたくなるくらい素早く降りていく、などなど
これは、本当だ。
触られた側でも「痴漢」か「そうでない」かはちゃんと分かるのである。
触られたほうも、「まさか」「偶然?」「勘違い…?」と最初は悩んで、その上で状況を見て確証を持って判断しているのである。
電車の揺れでピンポイントで女性のお尻の間に元気な息子さんが「偶然」ぴったりフィットするなんてのはエロ漫画の中だけのことで、実際は意図してそうやって腰を持っていかない限りはかなりムリな状態なのである。
偶然少しグラっと揺れただけで、たまたま女性の両胸をピンポイントでわしづかみにしたりは、まず「ない」のである。
大体、善良な一般男性なら「あっ!触ってしまう・・・!」と思った瞬間できるだけ必死で避けようと試みるのが常である。
痴漢の動きは、触られる側からすると「モロバレ」な気持ち悪さなのである。
犯罪者本人は、それを巧妙にカモフラージュしているつもりなのが非常に痛々しい。
あと、何度も言うが「痴漢なんて身近には出会ったことがない」「そんな被害、周りでは聞いたことが無い」というのは、非常に幸運なことである。
電車に乗れば、バスに乗れば、それが「満員ではないのに」わざわざ擦り寄ってくる・・・それが痴漢である。
自転車通学をすれば、「ただ後ろから同じくらいで走っているだけ」という状態でバイクでずっとついてくる・・・そんな場合もある。
痴漢は、痴漢なので善良な市民の思いもよらないような方法で破廉恥なことを仕掛けてくるのである。
これは本当である。
安全ピンで刺すという話が可能(オススメはしない)なのは、そういう「何故か他にもあいてる席が沢山あるのに密着して触れてくる」という痴漢に対してである。
満員電車ではそもそも遠くから手だけ伸ばしてこられたらもう誰か分からないし、自分や別人の尻を刺す可能性の方がよっぽど多いので、全くオススメできない方法なのである。
というのは、ある意味では痴漢被害の現状を知らないから言えることなのである。
すいていても、他にいくらでも席はあるのに、狙ったように妙に近くに寄ってくる・・・それが痴漢である。
日ごろ強がっている(ように見える)女性も、内心は痴漢被害に苦しんで早く忘れ去りたい、犯人は一刻も早く腕を切り落とされるか他界して欲しい、などと考えているものである。
男女でいがみ合ってる場合ではない。
真犯人をどうにかして阻止すること、捕まえて引き渡すこと、次なる被害者を極力出さないようにすること、これを共に考えていかねばならないのである。
連休も折り返し。いま22時半。職場にいる。9時からいるから13時間半?いるのかな。
定時は18時半だった。退勤つけたのは21時以降で、22時よりは前だったけど詳しくは忘れた。今も会社にいるのはサビ残とかではなくネットサーフィンをしているから。自宅までは1時間以上かかるのでさっさと帰宅したほうがいいと頭では、理屈のうえでは、わかっているはずなんだけど体が言うことを聞かない。ネット中毒か?と思ったけどガラケーすら持ってなかった小学生の頃から放課後いつまでも学校に残ってる子どもだったので別の何かかもしれない。あのころ何してたんだ?忘れた。帰らなさすぎて校舎に閉じ込められ、鍵を素手で施錠するテクニックを開発したことしか覚えていない。
話がそれた。退勤後のことは別にいい。問題は退勤前のことだ。定時の18時30分から約3時間の残業をした。したはず。何してたんだ?弊社には残業でこなした業務とかかった時間を具体的に記述して残業申請するシステムがある。何をしてた?自問しても要領を得た答えが浮かばない。きょう手をつけられなかった、終わってない仕事はすぐパッと浮かぶのに。
たしか、部署の勤務シフトを修正した気がする。でもそれで3時間もかかるか?あと返信や新規連絡がないか見た。これも特になかったのでそんなに時間はかかってないはず。あと帰宅前の作業。各種電源落としたりね。それと月初なので印刷物を出した。ん?おかしい。これで3時間?半分くらいでできる内容では?この業務で3時間の残業申請を出していいの?本当に?何を書けばいいかわからず、残業申請をやめた。まあ月末までは間に合うから。1ヶ月経てば諦めがついて、適当にでっちあげて書くだろう。
月初〆の仕事は全部きょう終わらせたかったけど結局ひとつもできなかった。今日も新規の案件が増えそれも片付かず、また自分の首を絞めてしまった。似た役職の人びとはここまで残業していない。夜も更けてみんな帰ったほうが仕事がはかどるって、それはサボりだよ。上司に言われた。ごもっとも。というかはかどってすらいないじゃんね。早く帰って寝たいのに、なぜ残業時間をみずからの手で伸ばしているのだ?
いちど残業グセがついてしまったので帰れなくなったのかもしれない。小学校も一度午後休のときに友だちと午後いっぱいだべってたら以降そのクセがついてしまったような気もする。忘れたけど。帰るのだるいんですよね。退勤もだるい。
クセ抜くためにはいっそもう転職か!?と思ってサイトに登録したのが昨年末だったっけ?電話番号と氏名だけでネットショップのごとくお手軽に登録できたと思いきやリクルーター?から転職状況はいかがですかと鬼電鬼メールの嵐がきてクッッソ面倒くさくなって全部無視している。ごめん1回くらい着信拒否したかもしれない。流石に鳴りやんできたけど今もたまに連絡がくる。
この仕事やめたほうがいいのか、まず今の仕事をできるようにしたほうがいいのか、どうすればできるようになるのか、いったい何をどうすれば自分は満足なのか、幸せになれるのか、なんだろう、なんなんだ?こんなに決断のできない人間だったかな?なんで何も選べないんだろう?自分で自分に責任が持てないからだろうか?
発表された新元号を前に、私は改めてこの国の首相に対し深い失望感と強烈な不快感を抱いた。
「令和」という文字の第一印象は、多くの人にとって「平和を命じられる」というものであっただろう。
実際「令」という字は「言いつける、命令する」が第一義である。
政府は何かと聞こえの良い説明をでっちあげて「『令』は『麗しい』を意味している」などとほざいているが、実態は「上から押し付けられた虚構の調和」を暗に仄めかすものであり、裏を返せば「お上の決めた和から外れた思想は徹底的に弾圧する」というアベ独裁政権の決意表明に他ならない。
自己顕示欲の強い安倍首相であるから「アベの安」の字は必ず元号に押しこんでくるだろうという当初の懸念は杞憂に終わったが、それ以上に市民をバカにした元号を発表したことはさすがに私も想定の範囲外。
呆れてものも言えないとはまさにこのことだ。
もしも民主党政権があのまま続いて、後進の立憲民主党が現在政権を担っていたのであれば、元号はもっと国民目線で国民に寄り添った素晴らしいものになっていたに違いない。
現在の日本はアベ独裁政権が進める極右化によって市民同士の繋がりが分断されてしまっているが、それを取り戻し市民のきずなを再び結びつけるような元号が求められている。
例えば、ヤマトに今なお弾圧されている沖縄に思いを馳せ、「友愛」と「琉球」を組み合わせた「琉愛(りゅうあい)」はどうだろうか。
また、アベが国内のマイノリティに目を向けているのであれば、アイヌ支援法案の閣議決定を祝して「愛怒(あいぬ)」「尺輝(しゃくしゃいん)」なども候補に挙がったはずだ。
国内の反人権主義者たる右翼勢力どもは立憲民主党を「売国政党だ!」などと根拠なく罵っているが、安倍が煽動する現在の"倍国"政治を前にしてこれよりひどい政治体制などあろうはずがないのである。
もしアベに人間としての最低限の良心がまだわずかながらでも残っているのであれば、改元を政治利用した恥ずべき行為を深く反省し、即刻内閣を総辞職させて国会議員の立場も辞するべきである。
このまとめを見た。
【またお前らか】『なんでここに先生が!?』のブースのツイートに、いつもの連中がイチャモン付けに来た。 - Togetter
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1331836
このおっぱい展示を擁護してる人を見るとある共通点に気づく。それはラノベオタクばかりということだ。
最近は社会学VSオタクという構図になってきているが、同時にほとんどの場合、社会学VSラノベオタクでもある。
なぜラノベオタクはラノベという人文・社会科学の産物を超好意的に嗜んでいながら反文学部的なスタンスなのかは興味深い話題でもある。
ひとつの仮説として考えたのは、ラノベオタクは人文・社会科学系の専門書を大して読んでいないということだ(多くの人は理系なのだろう)。そして彼らはラノベや彼らが「一般小説」と読んでいる類の大衆文学ばかり読んでいるということ。
彼らは人文・社会科学の産物であるラノベを大量に読んでいながらも、その文脈を理解しないままただ漫然とストーリーを楽しんでいるということになる。
これでは人格の涵養など望めないし、ネトウヨ的感性のまま年を取っても仕方がないのかもしれない。
ラノベオタクたちは「俺たちは賢い」「他のやつらはバカ」というスタンスが基本になっている。
とても自信に満ち溢れているように見える。
彼らは自分は「読書家」だから知的な人間だと思っているのだろう。
彼らが読んでいるのはたかが「小説」にすぎないのだが、しかし「小説」も「本」には違いない。
「本を読んでいる=賢い」というような思い込みがあるのではないか?
ラノベオタクたちの高慢さ、傲慢さを見るとそういったものを感じる。
彼らを観察していると、年齢の割に教養のなさ(雑学的な浅い知識だけは豊富)、バランス感覚のなさ、他者への配慮のなさ、といったものをすごく感じる。
深い理解に基づく知識のなさや教養の欠落などは大した問題ではない。問題なのはラノベオタクたちが社会の中で厄介者化していることだ。彼らは被害者意識がとてつもなく強く、他者への攻撃性が高い、ということは外から観察している人にはよく見えていることだろう。
いい大人なら社会というのは人と人との衝突(それも陳腐な衝突だ)が日常的に起きるということを知っている。主義と主義、思想と思想、思惑と思惑、そういったものは衝突するものだ。
彼らが絶対の原理として掲げる「表現の自由」だが、もちろんこれも他の主義・思想との衝突は避けられない。どんなものも絶対不可侵ではいられない。それが社会というものだ。絶対の安全圏などない。ここは永遠安寧の天国ではない。
だが、ラノベオタクたちにはこういったことがわからない。社会とは他者との関わりあいだということが理解できない。教条主義に陥っているラノベオタクたちは結果的に文字通り「信者」のようなものと化す。したがって、思考は粗雑になり、「正義のオタクVS悪のフェミ」という安易な構図・構造がでっちあげられるに至る。ここには「対話」「相互理解への意志」といったものはない。
「表現規制への反対」これは大いに理解するし共感もする。ただし、攻撃的だったり刺激的・煽情的な表現はつねに他の主義・思想と衝突することにもなる。だからそこで「対話」が必要になる。議論をして社会の中で落とし所を見つけていくことになる。もちろん一方的な排除であっては絶対にいけないし、かといって完全な許容にもならないだろう。
社会の中で生きるということは自分を全肯定されることでもなければ全否定されることでもない。こういったバランス感覚がラノベオタクには欠けているように見える。とてもナイーブで0か100かという思考になっている。彼らには「中間」の状態が理解できないのかもしれない。
あるいは溢れる想像力が「中間」から「極端」への推移を瞬時に見越してしまって危険信号を受信するのかもしれない。
だがそれこそが教養のなさというものであり、現実の複雑性を理解していない証拠ともいえる。極めて幼稚な思考といっていいだろう。幼稚な想像力に溢れる彼らには大人の想像力がない。
ここまでいろいろ書いてはみたが、ラノベオタクには何を言っても無駄だろうということも感じている。
したがって、社会でラノベオタクという厄介者をどう取り扱っていくのかという問題になってくる。
今回書いたようにオタクの一方的な排除であってはいけない。オタクにも生存権を与えなければならない。ただ、オタク的表現は社会の規範と衝突することが極めて多い。
しかしオタクは「ゾーニング」を「表現規制」と言い換えて反発している。
さあどうしたものか。
このまとめを見た。
【またお前らか】『なんでここに先生が!?』のブースのツイートに、いつもの連中がイチャモン付けに来た。 - Togetter
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1331836
このおっぱい展示を擁護してる人を見るとある共通点に気づく。それはラノベオタクばかりということだ。
最近は社会学VSオタクという構図になってきているが、同時にほとんどの場合、社会学VSラノベオタクでもある。
なぜラノベオタクはラノベという人文・社会科学の産物を超好意的に嗜んでいながら反文学部的なスタンスなのかは興味深い話題でもある。
ひとつの仮説として考えたのは、ラノベオタクは人文・社会科学系の専門書を大して読んでいないということだ(多くの人は理系なのだろう)。そして彼らはラノベや彼らが「一般小説」と読んでいる類の大衆文学ばかり読んでいるということ。
彼らは人文・社会科学の産物であるラノベを大量に読んでいながらも、その文脈を理解しないままただ漫然とストーリーを楽しんでいるということになる。
これでは人格の涵養など望めないし、ネトウヨ的感性のまま年を取っても仕方がないのかもしれない。
ラノベオタクたちは「俺たちは賢い」「他のやつらはバカ」というスタンスが基本になっている。
とても自信に満ち溢れているように見える。
彼らは自分は「読書家」だから知的な人間だと思っているのだろう。
彼らが読んでいるのはたかが「小説」にすぎないのだが、しかし「小説」も「本」には違いない。
「本を読んでいる=賢い」というような思い込みがあるのではないか?
ラノベオタクたちの高慢さ、傲慢さを見るとそういったものを感じる。
彼らを観察していると、年齢の割に教養のなさ(雑学的な浅い知識だけは豊富)、バランス感覚のなさ、他者への配慮のなさ、といったものをすごく感じる。
深い理解に基づく知識のなさや教養の欠落などは大した問題ではない。問題なのはラノベオタクたちが社会の中で厄介者化していることだ。彼らは被害者意識がとてつもなく強く、他者への攻撃性が高い、ということは外から観察している人にはよく見えていることだろう。
いい大人なら社会というのは人と人との衝突(それも陳腐な衝突だ)が日常的に起きるということを知っている。主義と主義、思想と思想、思惑と思惑、そういったものは衝突するものだ。
彼らが絶対の原理として掲げる「表現の自由」だが、もちろんこれも他の主義・思想との衝突は避けられない。どんなものも絶対不可侵ではいられない。それが社会というものだ。絶対の安全圏などない。ここは永遠安寧の天国ではない。
だが、ラノベオタクたちにはこういったことがわからない。社会とは他者との関わりあいだということが理解できない。教条主義に陥っているラノベオタクたちは結果的に文字通り「信者」のようなものと化す。したがって、思考は粗雑になり、「正義のオタクVS悪のフェミ」という安易な構図・構造がでっちあげられるに至る。ここには「対話」「相互理解への意志」といったものはない。
「表現規制への反対」これは大いに理解するし共感もする。ただし、攻撃的だったり刺激的・煽情的な表現はつねに他の主義・思想と衝突することにもなる。だからそこで「対話」が必要になる。議論をして社会の中で落とし所を見つけていくことになる。もちろん一方的な排除であっては絶対にいけないし、かといって完全な許容にもならないだろう。
社会の中で生きるということは自分を全肯定されることでもなければ全否定されることでもない。こういったバランス感覚がラノベオタクには欠けているように見える。とてもナイーブで0か100かという思考になっている。彼らには「中間」の状態が理解できないのかもしれない。
あるいは溢れる想像力が「中間」から「極端」への推移を瞬時に見越してしまって危険信号を受信するのかもしれない。
だがそれこそが教養のなさというものであり、現実の複雑性を理解していない証拠ともいえる。極めて幼稚な思考といっていいだろう。幼稚な想像力に溢れる彼らには大人の想像力がない。
ここまでいろいろ書いてはみたが、ラノベオタクには何を言っても無駄だろうということも感じている。
したがって、社会でラノベオタクという厄介者をどう取り扱っていくのかという問題になってくる。
今回書いたようにオタクの一方的な排除であってはいけない。オタクにも生存権を与えなければならない。ただ、オタク的表現は社会の規範と衝突することが極めて多い。
しかしオタクは「ゾーニング」を「表現規制」と言い換えて反発している。
さあどうしたものか。