はてなキーワード: いいねとは
君の意見だと萌えとエロは差別的ということになるらしいけど、まずそこが間違ってるから君の認識がおかしい。
RTってことはツイッターだと思うが、ツイッターは未成年は登録できないから十分ゾーニングされてる。
お前の意見が痛々しい。
タイトル通りオタクが叩かれた時に自分は違うぅうう!って感じのオタクじゃなくて、オタクを叩く側に回って(俺はキモオタじゃない…!)ってやってる方のオタクね
別にオタクと一口に言っても色々いるけど、自分が言いたいのは萌え好きの反差別ね
反差別の癖になんで萌えとエロをRTしまくったり、いいねしまくったり、語ったりしてるんだろ?って感じになっちゃう
どこで折り合いをつけてるのかわからない
分断を煽ってるわけではなく、純粋に疑問
単なる憶測にすぎないが、田舎でそれなりに立場のある親の子どもは、ガキのころに天狗になりやすい。
しかし都市部の大学に出たときに自分の実力を思い知る。今まで見えていたものは単なる幻想で、自分など大したことはなかったと。ここで非常な挫折を経験する。
「私がいちばん馬鹿」のようなポジションになってしまうとその中でもより挫折しやすい。これは都市部の私立高校でも発生する。
昨今では、地方と東京の断絶が進み、学歴差も大きくなっている。田舎しか見たことがない子どもは、東京の強大さを全く知らないのに「自分がナンバーワン。少なくともだいぶ優れている」と思っている。自分の田舎を100倍したものが日本のすべてだと感じるのだろう。だから、位置的にもそのようになるのだと感じるのは自然なことだ。「日本」と「アメリカ」の関係もあるが似たようなものだ。
こうした子どもが首都圏に行くと自分が味噌っかすであることを全身全霊・魂レベルで経験することになる。そこらへんのどこにでもいる凡愚とされる。準備などしていなかった衝撃である。年々、この落差がどんどん激しくなっているように思う。
彼らは「地元の名士」の子どもでもなかったりする。地元の名士は何かと東京と繋がっているものだからそういう情報が入ってきやすいが、彼らはそういう情報がなく、表面的な文化の部分でのみ都会を理解しているのである。これはしかし原理上どうしようもないことになっている。
彼らのほとんどは挫折によって苦しみながらも自分の立場をなんとか確保して成長していく。とくに、若いころから苦い経験を飲み込んで努力を積み重ねてきた人間は、問題を抱えつつも人格的にも能力的にも徐々に成長していく。こうした人間は適応し、確固たる居場所を獲得する。そういう人々が家臣団として東京周辺にザッと住んでいるのだ。城下町のように、家来として東京の中心地を囲んでいる。そして主君のお望みの通りに馳せ参じるのである。また、各々の人生を歩む。よく成功しようとしたい者は海外に出る。海外というのは「アメリカ・イギリス・EU」などのことだ。ここ最近は主君をアメリカとみなしているのである。長いものには巻かれろということだ。
しかし、大した努力や積み重ねもなく、今まで1番を獲得し続けてきた子や、親から1番になること、1番でなくともある程度優位な立場を得ることを強いられ続けてきた子、強制的にレール上を歩かされてきた子は、ここで強烈に挫折を味わい、脱落していく。「挫折」と表現されたくすらないかもしれない。ちっぽけなプライドゆえに「挫折」と捉えられない。「挫折した」のではなく、「今も挫折し続けている」のだ。立ち直る術を知らない。
「本気を出してないだけ」「時代が悪かった」「環境が悪かった」と、なんとかして知性化という合理化を図り、自分の心が折れていることを観測できない。もう耐えきれない。心を捻じ曲げようとする。「お前ぐらい勉強ができるものは無限にいるぞ」と受け入れられない。そのような「田舎」など、全国で見ればほとんど無限にあるのだ。足軽にもなれないような実力なのに、身分は家老ぐらいあると感じている。穢多・非人程度の扱いをされるのは、到底受け入れられない。
自分を知らないし、他人のことも知らない。ただただ軽視されることに耐えられないのである。第一、もはや身分が違うからといって人を軽んじていい世の中ではない。ますます生きにくくなる一方だ。ポリティカルコレクトネスとはそういう流れだろう。
生きている意味とは何かわからない。親もまた、その挫折を真剣に受け止められない。立場が違いすぎるがゆえに、わかってあげることができないのだ。わかってくれるような親ならば、初めから違った教育をしている。
彼らは、性格も歪んでいるために、友人関係を結べない。「バカで無能で愚図でおまけに性格も悪く、カッコよくも可愛くもなく、一人で生きる力も無いし、人のために何かすることができず、依存性が高く、他の周りの人たちよりも恵まれた環境なのに文句ばかり言う割に、他人の助言を聞き入れもしない」という、どうしようもない子どものできあがりである。何者かになろうとしていると表現されている。アイデンティティの崩壊がある。すぐそこに救いはあるのに、自らが軽んじている相手に頭を下げて敬意を払うことができない。この私が。屈辱だ。なぜ私がこんな目に。私は軽蔑などされるべき対象ではなく、人を一方的に軽蔑しても良いはずなのに、なぜ人は私を軽蔑してくるのだろうか。なぜ人は精神を蝕んでくるのか。
わかっている人でも、これを鋭く指摘してはくれない。下手に関わって逆恨みされたくはない。全く無関係の嫌な奴の精神の奥深くを抉ってもメリットなどないのだ。すぐに離れていくことだろう。そもそもあまりに距離が遠すぎて、そういう人に出会うことがない。ただ運のみである。そういう運命の人がたまたま自分の近くに来ることは少ない。理解のある彼くん、私の王子様、ぼくの女神さま、オタクに優しいギャルなど。
大抵、こうした子の親は両親とも毒親であり、子どもはアダルトチルドレンである。
そして親にそこそこの金があれば、脱落しても引きこもりをすることができる。
自分がゴミクズであることを受け入れて、セルフネグレクトに邁進する日常を選択できる。幸福だ。絶望という名前はついているが、幸福で穏やかな毎日を送ることができる。
何をやっても無駄なのだという学習性無力感と精神の麻痺。突然湧き上がってくる希死念慮。荒廃した生活。死ぬという選択が取れない優柔不断さ。他責的・他罰的な発言。努力をしようと「学問」に活路を見出すも、それをどう活かせるのかは未知数であり、どうすれば生きることができるのかはわからないのだ。学問は決して救わない。機械的人間を大量生産する教育システムそのものが時代遅れなのである。経済の硬直化と後進性と長老支配。学問の民主化により、昭和初期の三流エリートぐらいの知識があるだけでは、生存には足りないのだ。自分の力での生き方はわからないのに、生存自体はし続けることができるという矛盾。欲が無い。欲を持つことができない。
そして、そうした努力も長くは続かない。学校の勉強ぐらいしか知らないのだ。狭い価値観ゆえにそれしか道がないと勝手に思い込んでいる。やがて意味がないと気付くのであろう。容易にやめてしまう。簡単にたどり着けるところまでやったあとはすぐにやめてしまう。見下していた賤業には就きたくないという都落ちを拒否する愚かなプライド。山月記で何を学んだのだろうか。そしてある日、その「賤業」にすら就けなくなる。精神は子どもなのに、体だけはしっかり老化していく。虎にすらなれないのだ。
親に中途半端に金があるのが厄介である。親は、償おうとする。子もときには努力しようとする。それでもうまくいかないし、近所は理解しない。何か精神的に異常なのであろうという、全く異なる価値観によって蔑まれる。それが村社会というものだ。
親に金がなければ、生きていくために自力で仕事につく他ない。首都圏で揉まれ続ければ、やがては苦しみながらも自分の生きる場所を確保できるだろう。
しかし、ただ親元で小さな世界で何年も何年も閉じた生活を送っていると、そうした道も閉ざされる。貴族的な生活。放蕩、放縦。嫌悪している相手に依存しているという忌避感。
年齢の数値は淡々と増えていく。やがて手遅れそうなことに気付くのであろう。
なんなのだこの人生は。なんなのだこの世の中は。許しがたい。テロリストたちへの深い共感。
人は言う。「自分が招いたことだ」「自己責任だ」と言う。この世には悪しかいないように見える。悪辣な社会の中で自分だけが虐げられている。他人に「自己責任だ」と言う者もまたコンプレックスを抱えている。「お前が悪いのだろう」と言いたいのだ。「お前の自己責任だ」という言葉は、「俺が悪いとでも言いたいのか?」の裏返しだ。
他人は楽しんでいるではないか。どうして私が苦しまなければならないのか。
異世界かもしれない。異世界に行けば、愚かな民たちを嘲笑い、自分が正しく認められる世界に行けるのではないかと、光を見出す。
更に狩られているだけなのだ。その精神は看破しているぞ。ただの餌だ。空想の世界へようこそ。現実を直視できない。現実はどうしてこう苦しいのか。
しかし、現実は「そんなどうしようもないものではない」ということをまだ知らない、という点が彼らにとっての最大の不幸である。価値観そのものがどうしようもなく古いのである。
自分がどうしようもないダメ人間だという真実をすべて受容して、それを打ち払おうと一歩一歩踏み出すことでしか道は開かれない。外に出て、本を読むなど世界を広げれば良い。また、生活パターンを変える。思考を広げる。それが本来の学問というものだ。
人材は不足している。別に自分はそういう人物なのだから仕方がないのだ。でもそれを、自分で変えようと進み続けることで自分の人生が拓かれる。ニートのままでも別にいい。全然変わらなくてもそれはそれで仕方がない。
本来、絶望する必要はないはずなのに、どうしても絶望したいのだ。能動的に幸福になるために受動的に絶望を選択している。
絶望することで、「ハンデを負っているのにここまでできる自分はすごいのだ」と思いたいのだ。セルフ・ハンディキャッピングという。
そうではない。より強い絶望を選ぶべきなのだ。能動的に絶望を選ぶことで、受動的に幸福になれるのだ。自ら絶望しなければならない。今より苦しめば、今より苦しまなくなる。
苦しみからずっと逃れようとして「楽な苦しみ」を選び続けているだけなのだ。世間はそれを看破して「楽でいいね」と言っている。世間側のイラつきもある。
もしくは、やはり目を閉ざして、元の穏やかで苦しいメルヘンワールドに戻るかだ。知らぬが仏という。こんな偏見にまみれた文章などくそったれだ。せいぜい凡人たちは、社畜を頑張れば良いさ。
教育ママも、また、気をつけなければならない。教育ママのコンプレックスは、子どもを愛玩動物のように扱おうとすることで子どもに伝染し、子どもを生涯苦しめることになる。愛と呼ばれるものではない。
頑張ってほしい。
「アニメの悪口を言われた報復として、我々には『ヒトを焼く』権利がある!」と叫ぶ「現実とアニメの区別がつかないオタク」問題。「燃やされた」「殴られた」というオタク・ミームが、認知を歪めて暴力を正当化する
いいねというエサと釣り針を用意して、引っかかって自分からメッセージを送ってくる男だけを釣り上げてるんでしょ
マッチングアプリでは女は圧倒的に選ぶ側だから、自分からメッセージを送っても来ないような男は最初から相手にしてないんだと思う
「マチアプで向こうからいいねが来てマッチングしたのに初回メッセージを向こうから送ってくる女がいない」 のではなく 「増田は、マチアプでいいねはもらえてマッチングはするけど初回メッセージはもらえない男」なのである。
おそらく、増田より魅力的な男であれば食い気味にメッセージが来るはずで、増田に対するいいねってのは「あなたにその気があるなら会ってやってもいいですよ」の意思表示でしかないわな。キープ止まりなんよ。
鞄とか一切携帯せず、どっかの役所かなんかに提出するっぽい封筒入り書類(なんか役所っぽい名前が印字されていた)とレッドブルとチョコスナックを手に持っていてさ、財布とかは全部ズボンのポケットに押し込んでいた。
そういうスタイル何だろうと思うし顔もけっこうイケてる系で良い感じだったんだけど、チョコスナック食べようとしたらレッドブル持ってる方の手が疎かになったのか盛大にこぼして、なんかバツが悪そうにしてるけど拭くわけでもなく(そもそも拭くものを持っていないんだろう)、なんなら封筒にも(恐らく中の書類にも)まあまあ盛大にレッドブルがかかっており、無駄なものを携帯しない系ファッションボーイとしてはプライドが許さないのかもしれないが、やっぱ書類は鞄に入れた方がええで、とオバサンは生暖かい目で見ちゃったね。
最重要視してる米が、ごはんが、ライスが、残念で残念だったんだよーー!
チッキショー!!!
というはなしです。
職場近くの居酒屋でランチもやってるらしいと、ほにゃろぐで知って、評価もまあまあだったので行ってみた。
ランチメニュー安めだし種類多め。
水菜とコーンとかドレッシングかかりすぎてなくて、ちょうどよいし、野菜シャキパリ美味しかった。
おお、ほっけ久しぶり美味しいなあ
で米を食べようとしたら
あれ?なにこの、だまっぽいってか、かたまり多い米は…
食べたら見た目通り、もそっ…ていうか、
食べられなくはないけど、おいしくないね
でした
ううーくやしいいい
ランチ定食いろいろ刺身定食とかも提供してるのに、なんでっこんなごはんライスを出すんじゃー!
とか言いたかったが、言わないで、お金払って、職場に戻って仕事しました。
俺えらい。
うちの会社に、いちいち言葉がキツイと評判の悪い女性スタッフがおりましてな。
このひと、ほかのスタッフに指示を出す立場だったりするんですけれども、指示を受ける側にマアー評判が悪い。
指示にしろ指摘にしろ依頼にしろ、いちいちカチンと来る言い方をする。一度はパワハラ事案になりかけたほどです。
と言っても、それはテキストコミュニケーションの上だけのこと。グループウェア上のやり取りとか、チャットね。
実際に対面で話をすると、そこまで失礼な感じはしない。むしろほがらかでケンのない人物像。
つかみどころがないな、と思って観察してたんです。
で、今日、若手が件の人物に依頼されていた作業の完了報告をチームのチャットに書き込んだのに対して、件の人物が😁(笑い)のリアクションをつけたのです。
ふつう、まあ、頼まれた仕事が済んだよという報告に対しては👍(いいね)とか🧡(ステキ)とかのリアクションをして謝意やねぎらいを示すと思うんですよね。
😁(笑い)は、冗談を言った時とか、笑える出来事が起こった時に使うものです。働きに対して使うのは文脈がおかしい。
骨折って仕上げた作業を笑われたのでは、誰しもムッとするんじゃないでしょうか。少なくともうちの職場では、誰かが仕上げた作業を笑う文化はありません。じっさい、弊社で使ってるグループウェアの笑いアイコンは「ウケル~」みたいな顔でムカつくんですよね……。
で気づいたんです。
このひとは性格が悪いんじゃなくて、単に「自分の表現が人に与える印象を客観視できない(それをする神経回路に異状がある)ひと」なのではないかと。
もしかしたら発達障害にそういうタイプがあるのか知りませんけど、あるとしたらそれかなと。病気とか障害だとするとしっくり説明がつくんですよね。
カチンとくる言い回しにしても使い所の間違ったリアクションにしても、「相手がそれをどう受け取るか」をきちんとイメージできていたらしないはずなんですよ。だって、業務を進めるうえで何の必然性もないんですから。業務効率が上がる要素がひとつもなく、ただ無為に軋轢を産むだけ。そんなの、病気くらいしか説明がつかない。
たぶん、地球の言葉をおぼえ始めた宇宙人に教えるように「その言い方だと地球人はカチンとくるから別の言い回しを使ったほうがいいよ」とかつどつど誰かが教えてあげる必要があるんだと思います。
https://ds-b.jp/media/pages/487/ 人手不足倒産に至る前に気づくといいね、その人たち
マッチングアプリやそれを通して会う相手に責任を求めすぎな人が多い気がする。
アプリはツールでしかないし、相手はサービスを提供しに来ているわけではない。
どんな人にいいねを飛ばし、どんな内容のメッセージを何回交わし、どのようなタイミングでデートに進めるか、決めているのは自分。
もちろん「思ったのと違う」とか「盛り上がらない」とかはある。
でもデートに臨むと決めたのは(たとえ相手から誘われたにしても)自分なんだから、
ハズレデートの原因の半分は「プロフやメッセージでの想定が甘かった自分」のせいだ。
それを自覚して以降に活かそうとしない限りハズレ率は下がらないよ。
プロフを盛ったり嘘つく人がいたり、
メッセージと会っての印象が違うことも多い(これについては良くも悪くも。メッセージ微妙で会うと好印象な場合もある)。
そういった見込み違いがまあまあ起きると理解した上で利用すれば、
いちいちがっかりしたり落ち込んだりする度合いが減る。
プロフやメッセージでどんな感じなら会った時の確度が高いか検証していくのはもちろん、
デートとなれば会話はどんな球でも打ち返すぜ!!くらいの気概で挑みたい。
なんだかんだ誰でもノって語れる分野がいっこくらいはあるだろうし、それを引き出し、興味持って聞ける自分になっておく。
相手のためではなく、あくまで自分がその時間を楽しめるように。
そんな感じで期待しすぎず楽しんで続けられれば、そのうちいい相手に出会えることもあるはず。
私は約1年で20人ほどと会って結婚もできたので、マッチングアプリに感謝しています。
はてなブックマークは夫に教わりました。