はてなキーワード: 穿ったとは
大谷翔平を応援してるので、「今日の打席はどうだったのか!?」と気になり、ヤフーで結果の記事を最近よく読むんだ。
だけどこれがなかなかに酷い。
というのも、ヒットがないと大抵『ボール判定の球を見逃して三振!』という記事ばかりで、確かに動画で確認するとボール判定をストライクにしてる。
で記事の続きではボール判定に対する苦情を綴り、あたかも大谷にだけ厳しい判定をしているような描写をしている。
しかしその後、実際の試合を観戦してみると大谷に限らず誤審はあったし、大谷が登板している時にはこうした誤審に助けられていることさえあった。そのくせ、登板したときには誤審のことには全く触れないし、全体を通してみれば誤審もけっこうあるのにも関わらず記事の中では全体の誤審については全く触れず。
ただ『大谷、また誤審で三振!』と煽るように書き、差別的なものがあるのではないか?と暗に示すような内容。
客観的に見れば差別的なところはないのにもかかわらず、穿った書き方で差別的な見方を提供しようとする現代のコタツ記事ってどうなのよ?
なんだか、「モラルなんて置き捨てて、こうした差別意識を喚起させるような記事の方がPV多いんだよ!」っていうのを見せ付けられているような気さえする…
ガチャよりも邪悪なシステム、それがチケット。MMOなんかには経験値2倍とかドロップ率2倍とか、そういう課金要素があったりする。チケットは後者に近く、ドロップ率が上がることは確かだが入手に関しての保障は一切ない。チケットを消費しても何も出なかったりする。
これがMMOならドロップ率増加とガチャは似て非なるものだ。期間限定の効率アップとなんらかのアイテムやらキャラやらを入手。求められる結果は似ているが、与える印象は違う。
しかしチケットはどちらかといえばガチャに近いシステムだ。周回1回分に対してドロップ率を向上させる。もちろん他のゲームと同様に入手の確定は保証していないので、1枚使用して何も入手できない。穿った目でみるとガチャの完全上位システムだ。
たとえばガチャであれば、手に入ったアイテムやらキャラの弱体化は難しい。大抵の場合はなんらかの補填とセットにした上で実装し、その上で場合によっては返金騒動が起こるレベルだ。
しかしチケットはアイテムが手に入るわけではなく、アイテムが手に入りやすくなる権利。故にチケットを利用して入手したアイテムはガチャと比べてもナーフしやすい。
ハクスラモンスターズにおいて、かつて一瞬だけ超優秀だと謳われたモンスターが居た。エルダーエルフ。敵に狙われにくいという特性を持ち、後衛で回復役として貢献するユニットだ。
単独では少し狙われにくいという程度なのだけど、このゲームには二つ名というシステムが存在する。入手したエルダーエルフは稀に同じダンジョンに出現する他のモンスターを能力を得ることがあるのだ。
そこでうまいこと他の狙われにくいユニットの二つ名が噛み合うと、誕生するのが敵対0%エルダーエルフ。他に味方キャラクターが存在している場合敵対0%のエルダーエルフは絶対に狙われない。
同じダンジョンにその2つの存在が同時に出現すれば容易に想像がつく組み合わせ。これが全ての能力からランダムでオプションがつくとかなら話はわかるが作者が選んだモンスターだけが出現するダンジョンなのだから当然想定内だと思うだろう。
けれど修正された。下限値が設けられていなかったバグという扱いで。
バグなら仕方ない。チケットを使っていたとしてもやむを得ないだろう。それがチケット期間限定販売+ドロップ率アップイベント終了直後のことでなければ。
悠長にイベントが終わってからの修正。100歩譲ってアップデートが間に合わなかったとして、次のアップデートで修正しますと告知すればまだわかる。しかしそんなものはない。
どうせこのゲームに毒されたユーザーはエルダーエルフがいなくてもチケットを買っただろう。それにエルダーエルフ以外にも優秀なモンスターは存在している。
けれどさぁ。こんな事をやってもドロップ率という過程を挟めばなんにも問題にならないんだね。手動探索効率アップは延々と自縄自縛でゲーム性を粉微塵にしてるのにね。
もちろんイケメンでもない。馬である(トウカイテイオーは綺麗な馬だと思うし、ライスシャワーの姿には今見ても迫力を感じるが)。
だがウマ娘がアニメ二期、アプリ共々順調な滑り出しを見せてしまった以上、もうそういう訳にはいかないのだろう。トウカイテイオーの有馬も、ライスシャワーの宝塚も、サイレンススズカの天皇賞も、今後それらが(特に今まで競馬に興味の無かった層の間で)語られる時、どこかにあの美少女たちの面影がちらつくことになるような気がしてならない。
もちろんそれは悪いことではないし、少なくとも制作側は、仮にそうなったとしてもその状態が直接的なイメージダウンにつながらないように非常に気を使っているであろうことは、アプリの丁寧かつ慎重な展開や台詞選びを見ていればよくわかる。結果として彼女たちは実在馬へのリスペクトを欠かさず表現された存在として肯定され、特に何の引け目もなく、今後実在馬を語る場においても、そのイメージを形作る存在として大いに引用されるようになるだろう。サイレンススズカは可憐で影のある先輩キャラだし、ライスシャワーは逆境にもめげず健気に頑張る努力家だ。だからこそ感情の問題として、そういった状況を良かったな!と一息に飲み込むことが出来ない。
それは多分彼らがまず馬であって、美少女化したキャラクターを見る前に自分自身の中で『馬』の彼らのイメージが出来上がってしまったから、に過ぎない。そして別にリアルタイムで彼らを知っている訳でもないので(ディープインパクトやウオッカに触発されて競馬に触れた世代だ)、「ウマ娘を見て実在馬に興味持って逸話調べました!感動した!」と実在馬のエピソードに盛り上がってくれる『ご新規様』たちに対して、「でもイメージの切欠が美少女じゃないとそもそも感動も何もなかったんでしょう?」と穿った気持ちで向けてしまう視線が、どこまでも個人的な感情に起因する八つ当たりでしかないことも分かっている。
結局のところ、所謂よくある『非常に良く作られた大手の二次創作が界隈で大当たりしてしまったので、それが界隈の解釈の『正解』扱いされてしまうことにイライラしているマイナー二次創作解釈支持者』のお気持ちでしかないので、ここでぐだぐだ吐き出すに留めておく。
鬱憤が溜まった。毒マロをぶち込もうかと思って冷静になり、はてなに投稿することにした。
女オタク長文お気持ちってやつを自分がすることになるなんてなぁ。
とある界隈に神がいる。画力は凄いし、エロだって上手い。もう神に等しい人だ。
その神はTwitterで多くの人と交流をするし、作品を投稿しない人にもフォローバックをしてリプライを行う。
私は好きな絵師様や文字書き様とは関わりたくないタチなので、リストに入れて眺めて、RTといいねを送っていた。
神は少し、承認欲求の塊のようで自分の絵のRT先のツイートを拾ってはRTしていて。まあそれくらいなら別にいいかなと思っていた。リスト内が少し騒がしくなるだけ、リストは真剣に追ってないしどうでもよかった。
正直、ファンを囲ってる地下アイドルみたいだなぁって、そう思ったけど別に気にしていなかった。
私は二次創作を投稿している。拙いけれど感想だって来るし、私の作品でこのカプに落ちましたって言ってくれた方もいて、楽しいなと、そう思っていた。
今ハマっているものを投稿することにしているので、例の神がいるAB(便宜上そう呼ばせてもらう)も投稿することにした。ブクマはそれなりについた。メインで投稿しているジャンルだと1000ブクマは余裕でつくから、少ないなと思ったけれど、そもそもジャンルの人口が少ない上にABより人気のカプがあるから、この程度かと頷いた。
ABを投稿すればABのリクエストも来るようになった。本ジャンルでは無いので頻度は稀だったけれど、それでも細々と投稿した。
ABを投稿すればABの人からフォローされるようになり一部の人にフォロバをすればTLにABの人達が流れてくるようになった。楽しかった、ABが好きだったから。
私をフォローしてきたAB界隈の人は神と皆相互だった。神はフォローバックを行うから、こぞってフォローするみたいだった。
神は地雷が多かった。プロフィールで地雷を列挙して、こういう趣味の人とは繋がれませんと公言していた。
神は人の好き嫌いも激しいようだった。
プロフィールでリムったらブロックすると公言していた。ふぁぼ魔もブロックすると公言していた。
私は地雷を地雷だと喚く人は好きではないけれど、存在することは容認できるから、まあこんな人もいるかって思ってスルーしていた。リムったらブロックとか、少し怖かったけれど。
私の投稿作は神の地雷を踏み抜いていたから、活動に使っているアカウントでも神をフォローしていなかった。神のような存在が私のような底辺を気にするはずないだろうなと気にしていなかった。ROM垢で絵を見れるならそれで良かった。
TLで神のAB絵をRTしては褒め称えるABフォロワーを見てもなんとも思っていなかった。実際エロいし上手かったから。
そんな日々が続いていた。普通に楽しくABの話を私はしていた。ABの作品を検索して楽しく読んで、たまに投稿をしていた。
AB界隈の人は皆、神と相互だったけれど気にしていなかった。そもそも私は他ジャンルのカップリングメインで活動しているのだし。
数日前、これ凄い好きだなと思ったABの作品があった。結構RTもされていたし私もROM垢でブクマした。その作品主様はその後も好きだなぁと思う作品を投稿していて、こういうABって好きだなぁって私はそう思った。
少し前、その作品が突然削除されて焦った。
マロでコメントを送るほど気に入っていた作品だ、どうしてなのだろうとAB界隈を探ると原因はすぐに見つかった。
神だった。
初めて神の日常ツイートを見た。空リプや趣味のツイートが多い人で、遡るのが大変だった。
神はその素敵なABに対し、「地雷だ」「これ以上こんな作品が流行るようならその作品で騒いでいる人たちをブロックする」とツイートしていた。
だからか、と合点がいった。
神のツイートは絵しか見たことがなかったから(リストに入れたとしてもリスト内を追うほど私は暇人ではない)、攻撃的な発言を繰り返す神に慄いた。
凄かった、怖かった。
RTをして「地雷だ」「吐きそう」という旨の発言を繰り返していた。
神は自分の存在に価値があることをよく理解していた。「これ以上酷くなるならミューブロする」という発言も繰り返していた。
自慢話も多かった。フォロー整理という単語もあって、ああ、そういう人なんだなとかなり引いた。いい大人が何やってんだか、と苦笑いをしながらツイートを遡った。
地雷は踏み抜いているだろうなと思っていたけれど、わざわざ非相互の私の作品まで晒すのかと驚いた。数千人単位の彼女のフォロワーに私の作品が晒しあげられたのかと思って悲しくなった。
よせばいいのに、さらにツイートを遡れば私への悪口ツイートがあった。自意識過剰ではなく、確実に私宛だった。
まさかの人格否定だ。面と向かって嫌いだと言われた経験が少ないので泣きそうになった。
わざわざABメインで活動していなくて、数作しか投稿していない私のツイートを見て悪口を言うんだって悲しくなった。
その神にABの人は皆媚びていて、ミューブロをすると常に脅されていた。「怒るよ」なんてツイートをされればすぐに謝らなければいけない。神の地雷作を投稿すれば削除に追い込まれる。神の投稿作はRTして褒め讃えなければいけない。
やってらんねぇなと思った。
同時に、私はABメインじゃなくてよかったなと思った。可哀想だ、こんな神に支配されているAB界隈が。
好きだなと思っていた文字書き様も神に媚びて、神の要求通りの作品を投稿していただけだった。
もうなんか、色々と嫌だった。
小学校か何かか?成人済みってみんな書いてるけど、もしかして学生だったりするのか?
現実世界では悪口ばかりを言う人って周りから縁を切られるのが常だけれど、絵が上手ければ周りから媚びられるんだ。
これが世界なんだ。きっしょ、やってらんねぇ。
ABの作品消そうかなって思わずツイートしちゃって、そしたら消さないでくださいって声が来たりもした。嬉しかったけれどもう消すって決めた。ABは好きだけれど、悪口を言われるようなら去りたい。
長々と愚痴ったら冷静になった。
こんな界隈じゃまずABを投稿するなら神の意思に沿ったものじゃないと受け入れられない。
悲しい世界だ、辛いな。
あーあ、好きだったなAB!!!私も神くらい影響力があったらなぁ!
でもそれくらい影響力あった上で地雷作投稿したら神からブロックされちゃうんだろうな。
あーあ、人格はどうであれ神の絵は好きなのが憎いな。
神の作品、キャラの一人称が違うし、神の信奉者の文字書きの作品は、謝る時の言葉が原作だと「すまない」なのに「すまん」とか「悪い」とかになっててちゃんとストーリー読み込んでるのかなって思っちゃった。
穿った目になると粗探ししちゃってよくないな。
コントロールできないものを、さもコントロールできるかの様に語る
宗教はたしかにその対応策にはなるし、宗教がこの世界に必要ないとは自分は思わない
ただ、大衆の不安を逆手に取って、実態は集金ビジネスなのに宗教を装う、というのが近年の新興宗教のほとんどなわけで
地頭とかコミュニケーション能力とかも、一種の新興宗教なんだろう
そう語っておけば納得できるみたいな
でも、納得した気になっても、その目の前の何らかの問題はまったく解決しない、するわけがない
問題を解決するためには、何か適切なパラメータを測定し、仮定し、実験し、検証するを繰り返さなければならない
これは科学的問題でもヒューマンな問題でも同じ様に自分には思われる
というか、これが「地頭に含まれる論理的思考」なんでないの?w
コミュニケーション能力だの地頭だの語るとき、その背後に何かun-touchableなものでもあるんでないの?
その後ろめたさを誤魔化すために何か曖昧な言い訳をしたい、そこで新語を造語し、
ってまんま1984だよなあww
たしかに1984はやたらと新語を造語するし、それは背後にun-touchableなものがあるからだ
政府を批判するべきでないとか、そういう状況が新語を作らせてる
例えば、就職の面接で落とした理由が、コミュニケーション能力の欠如だったとして、
だったら、自分なら、単におまえは気に入らない、だから落とした、で問題ない気がするんだよな
でも、法律的にどうこうだの、
というより、美辞麗句で本音を単に隠したいビビリ君だからなんだろうけど、
おまえが気に入らないから落とした、とは言えない
そうすると社会がどうなるかというと、
コミュニケーション能力を向上させる教材w
だとか、コミュニケーション能力を向上させる研修wセミナーw
上記のように、コミュニケーション能力で会社を落とされた、特に新卒とか社会を知らない人がそれを購入する、
という仕組みが完成する、というか実際そうなってるw
私ははてなブックマークを数年間使っていたが、途中から使い方を変えた。
以前は気になった話題にコメントを付け、同意できるようなトップコメにスターを付け、自分の考えから納得できる記事をブックマークをしていた。
ただ、それが途中から虚しくなった。
どれだけ政治的な判断によって考えを深めようとしても、無意味だった。
大抵のことは対称性のあるものであるが、たいていの政治的な話題は単なる罵倒か、あるいは「一歩引いて見ている俺はお前らより賢い」というようなコメントが一番スターを付けている。
もちろんたまに、鋭い視点から穿ったような芸術的な一矢を認めることもあるのだけれど。
特に嫌いなのが(エッセイなどではない記事での)「この文章はわかりやすい/整理されている/論理的だ」「この文章はわかりにくい/乱雑である/非論理的だ」の類いのコメントだ。
なぜなら、このコメントが付けられる殆ど全ての原因は、その文章の中身が同意できるかできないかだけだからだ。
同じ記事の中で「わかりやすい」「わかりにくい」にも双方スターがついているのを見ると、乾いた笑いが出てくる。
スターは中身のない称賛だ。
その価値を本来捧げるべき相手に仮託した肯定行為となっている。
だから私は最近、自分ではコメントをせず、スターを賛成できないコメントに付けることにしている。
それが沢山の人の目に止まればいいと思っている。
そんな事ある?
荒れそうな要素はある気はするけどそんな特筆して荒れるほど?
気になったので調べてみました!
まあ荒れるな。どちらかのファンの人種がどうこうの話じゃないなこれは
星街すいせいちゃん
なるほどこの子はすごく頑張っている子だ。きっとアイマスの事が本当に好きなんだろう
アイマスの人にはなれなかったのでVという敗者復活戦に本気で挑んでいる並々ならぬ執念は感じるし実際に歌もうまい
いいんじゃないだろうか。そのままがんばってほしい
ここから先はキライなものキライという話で、それは非常にリスクが高いので匿名で書くことにしたけど
うわーやばいな
すいせいちゃん本人はよほど好きで歌ってるんだろうけど運営やクリエイター陣にまったく敬意がないんだな
ツイッターでもつべでもこの曲についての紹介が二の次。この書き方はアライブファクターを知ってる人から星街すいせいというコンテンツにリーチしてほしいけど逆はどうでもいいという根本が透けて見える
ツイートした文章の一つ目にタイトル以外の情報がもう少しあればここまでの嫌悪感は無かったんじゃないだろうか
そして動画の質
Vのカバー曲は大部分が少ない立ち絵に歌詞テキストを如何にかっこよく流すかという競技だが
そこでミスを犯すのは嫌われても仕方がない
重箱の隅をつつくような小さな事を言うなよ、ではなくカバー曲は1ナノミリのスキも見せない完成度を求められて然るべきものだ
微に入り細を穿てない程度の人が手掛けてしまったのだ、なんて不幸なことだろう
そのへんがどうでもいい人達がすいせいちゃんを取り巻いているのだ 根が深い
ここまでぶっちゃけクソ穿った憶測どころかただの汚い妄想でしかなかったのに
ホロライ勢がゲーム配信で広範囲にトラブっている話が駆け巡っており
矢面にいる彼らはともかくその裏で管理・運営をしている人間の質は少なくとも
”彼らを売り出すために使っている他社が作り上げたエンタテイメントにひとかけらの敬意も持っていない”
という方向で裏付けられつつある
最近どっかの委員長がシャニマスを取り上げてはちゃめちゃに愛欲に溢れている様が話題になったのに対して
ある程度の深度まで知らないとカバー歌ったのに私はアイマスが好きだー!がまるで伝わってこないVとの差はそんな運営によって醸し出されてるのではないだろうか
っていうかVがアイマスのカバーを発表する、なんて事象別にこれが初めてとかそんな事ないんじゃない?知らんけど
それがやたら燃えるのはたまたまとかでなくそれなりに多くの層が嫌悪感を覚える要素が今回はあったんだなというのは想像に難くない
日本人なら誰でも知ってるあの名曲をカバー!とはわけが違う話だ
ミリ界隈に古くからいる人間の多くはアイマスシリーズの中で唯一、この世界はいつ終わっても不思議ではないことの具体的恐怖をもって知っておりそしていつも脅かされている
そのため基本的に新規層の取り込みチャンスにはセンシティブになる人間が多い
故に、お気持ち勢は新規にミリシタに触れて欲しいという願いがまったく見受けられない事に壮絶な嫌悪を催すし
お気持ちのお気持ちを表明する側のPは新規開拓すれば儲けものなのに否定するなよ!って事のみのお気持ちに終始している
アライブファクターや贐の鳥が持つ背景がどうこうだからカバーすんなとか平和なお気持ちを垂れてるPはただのバカなので好きなだけ叩かれてもかまわないんだけど
お気持ちのお気持ちさんたちもホロのカバーぐらい好きにさせろよバーカ!って言ってる人間かそれをオブラートに包んで冷静な俺を表現したいけどあんま隠せてない人間しかいなくて本当に地獄だな
そんな無駄な時間つかってないですいせいちゃんの歌がよかったみなさん!この曲はね!っていうRT0のツイートの一つも拡散してあげればいいのに
今回行われたカバーの内情に渦巻いているものはきっと「すいせいちゃんからこの曲を知ってミリシタを初めて課金までしました!」という新たなPが生まれて初めて浄化されるものなのだろう
それが観測できる気配は
いまのところ まったく ないのだ ……
このアライブファクター歌ってるVは誰?見たい!っていうミリPはけっこうみた
もう記憶があやふやなくらい遠い昔、同じゲームが好きで話すようになった女の子のことをひたすらに大好きだったんです。
その女の子が他の子と遊んでいたらその子達が死ぬほど憎くなるくらい、その女の子がプールの自由時間に一緒に遊んでくれなくてガチ泣きするくらい、それを気に病んで髪をハサミで切るくらいには大好きでした。当時の幼い恋ですから、自分勝手な気持ちです。ただただ彼女が好きというだけで、特段彼女側の視点に想いを馳せない身勝手な恋をしていました。
あの頃を思い返してはっきり仲が良かったと言える子はもうひとりいました。その子に対してはフラットに友情を抱いていたのです。今でも親友、盟友と自負しています。お互いに。だからこそ、初恋の子への想いはくっきりと友情から区別されるものだとわかったのです。
何故この恋が特別だったかというと、これを10年くらい引き摺ったからです。中学が別になったので、彼女と一緒に過ごしたのは2年ぽっちでした。それでも中学の頃はやたら長い電話をかけたり地域のお祭りで会ったりしていましたが、高校生になると私も部活で忙しくなり接点はなくなりました。あの頃はLINEがなく電話とメールしかないし、そうなると連絡は自然と億劫になります。それでも心の奥底で好きだったんです。ずっと。毎日最低一度は彼女の名前を思い出しました。時には彼女の顔や言葉を思い返してきゅんと締まる胸を押さえました。事あるごとに彼女の名前を呟いては思い返していました。今思えば執着みたいなものだったのだろうと思いますが。
人生色んなことがあります。中学の頃は部活の女の先輩が大好きで年中ひっついてましたし、大学生の時は短い期間ながら彼氏がいました。だから初恋は執着に形を変えて心の奥底に寝そべっているような感触であったのです。大きなかたまりの感情はあれど、彼女の名前を毎日思い返せど、それでも終わった恋だと思っていました。
大学何年生だったか、彼氏なる存在と別れてしばらくした頃、ふとLINEの友達を整理していて心臓が飛び出そうな感触を味わいました。電話番号による自動追加か、友達欄に「彼女」の名前があったのです。震える手でメッセージを作りました。なんでもないような感じで、「やっほー!もしかして○○ちゃん?」と。そんな些細なメッセージを作ったはいいが、いざ送るのにはまる1日かけて悩みました。軽いノリで行くべきか丁寧に行くべきか、怪しまれない言い訳をどう盛り込むか、そう考えている時点で下心ありありなのではなどと、様々な思いが去来していました。
ええいままよとLINEの送信ボタンを押した時の手の震えと、返信が来た時の高揚感をまだ覚えています。「彼女」と現状の話をぽつぽつと送り合うたびにときめきが胸を吹き荒れていました。まだ、好きになれたんだなと実感されました。
雑談を続けていたらトントン拍子に「今度の休みに遊ぼう」という話になっていました。しかも向こうからの持ちかけで。もう有頂天でした。色々と忙しい時期だったのですが、テンションMAXで浮かれていました。
遊ぶ日の当日は、めちゃくちゃ服を悩んだりメイクを調整したりと、恋する乙女そのものでした。ハイテンションにこれまでの年月について語らい、私にとってのデートを心から楽しんでいました。私より背の高い彼女を隣から見上げる時の、甘酸っぱいような感覚をまだ忘れていません。
このような浮かれ方をしていたので、まさかその日のうちにこの恋が冷めるとは思ってもみませんでした。2人とも少し歩き疲れ、お茶にしようと喫茶店に入りました。様々な話題をぽつりぽつりと話すうち、人生の話がちらほらと混じり始めました。何故かこの年頃の女性と長く話すと、なりがちな話題です。私は当時学生でしたが、彼女はもう働いていました。かなりハードな職種、悩まされる人間関係、今後の人生の方向性。話を聞いているうちに、恋愛観の話題になりました。「好きな人に男も女も無いんだよね」と彼女が自然に言った時、私は踏み込まれたような気持ちになりました。彼女のことを一方的に好いている自分に後ろめたさを感じるような、そんな感情です。私は彼女の眼中に入らないからこそ、好きでいたのでは?とまで思考が回るほど、私は混乱していました。ただ、彼女は言葉を続けました。「でも女の子は『やりたい』って気持ちになれない。そこが大事だと思うんだよね。だから恋愛では無いかな」と。
ドライアイスが溶けて昇華されるような、心臓の奥にたまっていた愛着の塊が、10年かけて作られた塊がその一言で一瞬のうちに消えました。
自分でも動揺するくらいあっさりと、彼女に対する恋愛的な「好き」の気持ちが消えたのです。
ああ、相手が範疇にないなら、その可能性すらないなら私は色恋として好きにならないのだなと、瞬間的な悟りを得ました。「そうなんだね」とあくまでストレート(用語)のふりをしながら、私は相槌をうっていました。バイの私にとって「恋愛対象の」女の子は全然「やれる」相手であることも、そう彼女を思ってきたことも、ひた隠しにしてただ当たり障りのない会話を続けました。
決定的な溝を前に恋愛的な「好き」が消え、彼女に対する気持ちにはもう1人の親友とまったく同等の「友情」だけが残っていました。
また遊ぼうと軽く言い交わして別れた後、私は全くフラットになった自分の心のうちに困惑していました。これまでの毎日、本当に、彼女の名前を忘れたことはなかったのです。10年以上執着を持ち続けて凝り固まった感情が、こんなにもあっさりとなくなってしまうとは。このようなことを人生の中に予測したことはありませんでした。たった一言で私の見る世界は一転し、拠り所のないふわふわとした気持ちで、帰路を歩んでいました。
こうして私の初恋は終止符を打たれたのでした。
構ってもらえなくて泣くくらい、LINEの返信を心臓の高鳴り抱えて待つくらい、10年以上その想いを抱え込むくらい大好きだった彼女への恋愛的な「好き」が、一瞬で跡形もなく消え去りました。
未だにその子に対して恋愛感情を持っていた記憶は残っています。未練のようなものではなく、さっぱり消え失せてしまいはしましたが、思春期、青年期にかけて私の心にぽたぽたと垂れ続けて形作られた雨だれが作ったあとが、埋めるものもなくその形が残っています。彼女を愛した記憶ごと、最早私の人生であったわけです。
今後、私が生き続ける限り、彼女を愛した年月は人生の中に占める割合を減らしていくことになります。それでも私を形作るにあたり基礎の部分に混ぜ込まれたことに変わりはありません。石を穿った雨だれはもうなく、ただその跡を残したまま、その上に今後の人生を積み上げてゆくのだろうと思います。
高校の頃N88BASICでアルカノイド風のテニスゲーを作る。
顧問の先生から褒められるが、授業中にコードを書いていて本を取り上げられる。
おとなになって資格を考え、Cにチャレンジしようと思ってソフトバンク社の教本を買うが、ポインタで躓いて挫折。
次にSharpDevelopというありえなくらいマイナーな言語で遊んでみるが、Swing的なウィンドウアプリが簡単に作れるねえ……という感慨を得て何故かやる気がみるみる失せてやめる。
次に手を出したのはJavascript。Ajax(アヤックスではない)全盛の頃だったので、なんとなく。
ただのメンヘラかもしれない。
ふと、何故だろうと考えて、
昨今の学生(?)若者(?)の等身大を謳っている曲が多く、穿ったその歌詞は度々批判の種になっていることも多い。
アイドルが歌っているということも、いい意味でのらしくなさから注目を浴び続けている理由だろう。
自分が学生だった頃、平均や一般化が叫ばれていた頃よりも、現在では各々の個性や性格、能力を大切にするようになったと感じている。
それでもこの国では固定観念や偏見、先入観がまだ根強く残っており、
そこにニューエイジ達がNOを突きつけている。(そういう曲だけではないが)
ある種の悲痛な叫びで、彼女達の声が乗ることによって余計に心を揺さぶられる。
恐らく、自分自身の、当時許されなかった感情が今許された気がして、こんなにもわからない涙が溢れてくるのだと、きっとそうなのだと思っている。
何なんだこの人、得体が知れない。
とはいえ。
できれば次回以降デザインにもっと留意して改善してほしいと考え、発言しています。
と言う一方で、実際のデザイン(乃木坂46による広告)が(北村紗衣先生が定義するところの)倫理的理念という基準に反しているようなのに批判しないので、先生の倫理的理念を実際の広告を例にすれば明確になるのでは、と思って質問しています。
日本赤十字の広告を改善してほしいという北村紗衣先生の希望は、不明確な基準のままで改善を要求するのなら、「基準は教えないけど、私がOKを出すまで仕事をやり直して」と指示するパワハラ上司のようです。でも北村紗衣先生はパワハラ上司ではないので、自分の発言でデザインを改善したいと望む限り、発言が示す基準を明確に更新し続けるはずです。この意味で、増田による質問への回答は(質問者の増田だけでなく)北村紗衣先生にもメリットがあります。
元増田さんが書いたように、好感度高い有名人が献血を呼び掛けたときの方が自発性が低くなるのではという疑問があります。それに加えて、実際のデザイン(乃木坂46による広告)では、直接献血をするようはっきりと書いてあり、自発性が低くなるのではという疑問があります。
北村紗衣先生の自発性を理解するために、直接指定・婉曲質問という言葉を定義します。この観点では、乃木坂46による広告の方が自発性が少ないとみなせます。
直接指定 相手の行動をそのまま指定すること。(例 乃木坂46による広告の「あなたが献血に行けば私は嬉しい」、「絶対この機会に献血をした方がいいと思う」)
婉曲質問 相手の今後の行動に関係する質問をすること。(例 「まだ献血未経験なんスか?注射が怖いんスか~?」(献血した方がいいとは言わない))
直接指定の内容が正しければ、相手に選択肢はなく指定された行動を取るしかない、自発性の乏しい状況です。
婉曲質問の内容が正しくても、答えに選択肢の幅があり、関係する行動を取らないこともできます。例では、注射が怖くないと否定すると献血につながりますが、注射が怖いと認めてしまえば、(とことんからかわれる代わりに)献血に促されにくくなります。婉曲質問における自発性は、選択肢を選べるわずかな分、直接指定よりはあります。
乃木坂46による広告は北村紗衣先生が定義する倫理的理念という基準に反しているので、先生が乃木坂46による広告を批判するか、非難しない理由を明確にしないと、先生の倫理的理念に一貫性がないという疑いは妥当です。
元増田はちゃんと「理念に限定ということにしても変わらない」とあらかじめ書いており、そこを見落としたか誤読したとおぼしきブコメへの反論までしているのに、まだ「曲解」と主張する方がいるのだなと
元増田さんとこの増田は別人で、元増田さんの書いたことに頼って書いたので、おかしい理屈があれば、単にこの増田の理解不十分のせいです。すみません。
これも0点。「呼びかける=自発性を阻害する」なんて、氏は一言も言ってない。曲解マジ見苦しいから速やかに止めた方がいい。
その通りです。北村紗衣先生は直接的な呼びかけが望ましくないかどうか発言していません。婉曲的な「注射が怖いんスか~?」は自発性を尊重する倫理的理念に反しているなら、より自発性の低い直接的な呼びかけも倫理的理念に反しているように見えているのか確認しないと、先生の批判に一貫性がないことになってしまいます。
増田は、直接の呼びかけは「不適切な広告なんでしょうか?」と質問しているだけで、自分の理解は何も書いていません。その理解が曲がっているかどうか以前に、増田の理解が見えるとすれば、Ayrtonism さんは超能力者でしょうか?何が見えているのか、教えてください!
流れを見てると、saebou氏はお母上が亡くなられたことでSEALSの女子高生(家でお母さんがご飯作って待っててくれてる)や日赤やついでにキモオタに対して報復(八つ当たり)してるのかな?と穿った目で見てしまう。
安心してください。お元気ですよ。北村紗衣先生の「献血ポスター問題について 」の最初に書いてあります。
曲解して難癖付けてるだけだと、そろそろ気づきなよ。あまりに下らない難癖で返答の価値もないエントリだけど、無視されたら勝利宣言でもするつもり?攻撃したいという欲望だけで動いていて、本当に気持ち悪い…
「不適切な広告なんでしょうか?」と質問しているだけです。書いていない増田の理解が(曲がって)見えるとすれば、sadamasato さんも超能力者でしょうか?何が見えているのか、教えてください!
北村紗衣先生が直接指定の形をとる表現の可否を示さず、ただ改善するべき、と発言を続けるなら、デザインする人や日本赤十字社は基準がわからず、何も広告できなくなるかもしれません。それは誰の勝利でもありません。
全体的には「役に立つ行動だから協力を」という趣旨の呼びかけで、「自発性の阻害」には当たらないだろう。だが、「血液検査の結果の通知」を得られるから「無償協力」に抵触する、という理屈は流石に馬鹿すぎる。
Arturo_Ui さんは、直接「絶対この機会に献血をした方がいいと思う」と勧めるのは献血について自発性を阻害せず、婉曲的な「注射が怖いんスか~?」と勧めるのは献血について自発性を阻害すると考えているのでしょうか?もしそうなら、その理屈を教えてもらえませんか?
北村紗衣先生がだめだと言っている売血は、お金をもらうという意味で自分のためであるだけでなく、血液を提供するという意味で他人のためでもあります。「血液の検査成績を希望すると、健康状態も知れて「自分のため」にもなる。」と乃木坂46が言っているのと、グラデーションが違うけれど大枠では同じです。もちろん、そのグラデーションが大事なので、私は許容範囲だと書きました。東京都赤十字血液センターの検査サービスと似たレベルの検査を受けると2,100円かかる場合があります(料金にばらつきはあるので、参考です)
ここで質問しているのは、「「血液検査の結果の通知」を得られるから「無償協力」に抵触すると北村紗衣先生が考えるかどうかです。どこまで許容するのか、一切認めないのか、まったく不明です。Arturo_Ui さんの主観で馬鹿に見えていても、それは議論の外の話です。
多分、北村先生はあんまり具体的なことは考えてなさげなので、何を投げ掛けても「そんなことは一言も言ってない」以上の答えはたいして帰ってこないと思う
「そんなことは一言も言ってない」のはこの質問の本質ではありません。「できれば次回以降デザインにもっと留意して改善してほしいと考え、発言しています。」と書いて、他者である日本赤十字社に先生の発言を取り入れるよう要求しているからには、先生が今から考えて不明確な発言を補わない限り(北村紗衣先生の考える)改善は他者に不可能でしょう。高い倫理性を他者に求めた北村紗衣先生なら、高い倫理性にもとづいて返答する可能性もあるかもしれません。
9月27日公式ツイッターで11月から新シリーズが始まり、春田と黒澤部長は同じ役名で残ることが伝えられると、一部ファンは荒れた。
リプ欄は「アカウントを分けろ!」「牧くんがいない!」「悔しくて泣けてくる」「ひどい裏切り」「ファンのことを何もわかっていない」などなど、厳しいリプで溢れていた。
うるせえ、嫌なら見なければいいのにわざわざ公式に石を投げるなよと思った。ましてや、今まで自分たちを楽しませてくれていた相手なのに。もしこのリプ欄をお前らが好きな牧くんが見たらどう思うかわからないのか?おっさんずラブって民度低いんだなーと言う印象が残った。
そして昨日11月2日、新シリーズが放送された。自分はリアタイはできなかった。
別ジャンルではあるが、ツイッターのTLを見ていたら「おもしろかった!」と言う声がちらほら。トレンドも一位だったらしい。
ここで性格の悪い自分は、公式に石を投げたやつらが手のひらを返すのを見に行こうと思った。
結果、自分が確認した中で、手のひらを返している人間はいなかった。次のどちらかのパターン。
①見ない。土曜は早く寝ます。ツイッターを離れます。と宣言してる人もいた。見たくないものは見ない、非常に健全な判断だと思った。
②見る。見た上で、めちゃめちゃdisる。「つまらなかった」「三十半ばであのキャラは痛い」(前作もそうだっただろうが)「キツイ女とぶりっこ女しかいない」「テンポ早すぎ」「テンポ遅すぎ」などなど。わざわざタグをつけてまで延々と愚痴をこぼすアカウントもあった。最初から穿った目で見てたら絶対楽しめないだろう。時間の無駄。ほとんど牧ファンだろうし、牧の印象も下がるのでは?と言う感じ。
まあドラマを見ておもしろい、おもしろくない、どう感じるかは自由だ。でもあいつらがわざわざ来週も見ておっさんずラブをdisり続けるかどうかが楽しみである。
趣味の集まりで、よく遊びに行ったりするメンバーが5、6人いるんだけど、そのうちの2人を仮にAさん、Bさんとしよう。
最近、Bさんの知り合いのCさんが近い趣味を持っていて、いっしょに語りたいと言うので「メンバー集めて食事でも」という話になった。
ただここでBさんから店の希望があって、実はCさんはヴィーガンなので肉や魚メインの店は避けて欲しい、とのこと。最初は「え?」と思ったが、すぐに野菜の美味しい店やヴィーガン食の店とかみんなで探し始めた。
でもAさんはいつもと違って反応が悪く、場所も日程も決まってないうちから不参加で、って雰囲気だった。
私はAさんと仲が良かったので「何かあるのでは?」と思い個別メッセージを送って聞いてみた。最初は「肉とか食べたい気分だったから今回はパスかなー」みたいな感じだったけど、聞いていくと実はヴィーガンの人が苦手だという。
どういうこと?と思った。まだ会ってもないヴィーガンの人が苦手って、それはヘイトなんじゃ?って思うと、私の中のポリコレ棒がむくむくと大きくなるのを感じた。半ば義憤にかられ、論破するつもりでAさんとやりとりしたが、話しているうちにみるみる萎んでいった。何が正しいのか今は分からない。
Aさんの言い分はこうだ。
自分は肉も野菜も好きだし、たぶんヴィーガン食でもたまになら満足して食事できるだろう。それ自体には何の偏見も問題もない。
ただ、最近の記事や報道を見ていると、他者を攻撃したりヴィーガンを強要したり、人の嫌がるような写真を公共の場に掲示したり、ヴィーガンという人たちの行動が信じられない。
Cさんはそういう過激なタイプではないと信じたいが、どうしても穿った目で見てしまう。過激な行動をしなくとも、いっしょに食事をして肉を食べていたり、そういう会話をしているだけで見下されそう。熱心に勧められるのも嫌だ。もういい大人なんだから、自分の食べるものは自分で決められる。
これは偏見だと自分でも自覚しているが、嫌悪感が出てきたのはここ数年の話で、昔ベジタリアンと呼ばれていた人たち(実質には同じ層だと思うが)に対してはなんとも思わない。
Cさんに食べ物の好き嫌いをする権利があるように、自分にも人間関係の好き嫌いをする権利がある。だから今回のような態度をとったら察して、放っておいてほしい。Cさんを含めてコミュニティに迷惑をかけるつもりはない。気が向いたら食事の席にもふらっと同席するかもしれない。
結局、食事会はAさん抜きで開催された。Cさんもいい人だった。私はAさんもCさんも好きだから、こんな形で分断されるのはただただ悲しい。