はてなキーワード: Motownとは
日本では'76年に、フィレス・レーベルの作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかもCDのボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者のインタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証致します。
1958年、17才にして彼は”スター”でした。この後ポップスの歴史を彩ることになるクリスタルズやロネッツ、キャロル・キングやバリー・マン、ビーチ・ボーイズやビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思います。ポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージ・マーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質を理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサーの仕事だ、という常識的な意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点でヒッチコックを捉えるとおもしろい解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります。黒沢さんもそうですね。)
デビュー・アルバム「TEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオ・バージョン>はナント、リード・ボーカルの女の子の声が左で、真ん中がフィルのコーラス、しかも、ところどころリード・ボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。
デビュー前からしてこうなのですから、自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。
SCHOOLもの
のちにブラック・ミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリスト、ギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽は一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分のデビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]
また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者のキー・ワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラス、バイクというスタイルが流行しました。
彼のでデビュー・ソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生のお気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子が自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至の若者のフィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法、スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事なことなのです。
ある程度、あるいはそれ以上の音楽の素養がなければミュージシャンや作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロックの時代でした。子供が技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供が子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽の単純化に拍車をかけました。ジャズが豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズが大人の音楽で、背景はナイトクラブと女性とお酒が似合いましたが、子供の音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。
麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角-ストリート・コーナーが似合ったわけです。
それにくらべて土地の広大な中西部や西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本のロックのサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器は感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽の素養は必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギター・インストゥルメンタル>でした。これは、楽器を感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズの単純化がロックとすれば、これはさらに、ロックの単純化で、その極致であったわけです。
これが<ガレージ・サウンド>の正体でしたが、この時代に呼応するかのように、新しく生まれた現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージや居間などでの<ホーム・レコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモ・テープのような、ある意味では乱暴
チャートに登場するようになり、まさに音楽の大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスもバディ・ホリーもデビュー曲は地方の、オヤジさんが社長、オカミさんが専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。
それまでの録音は、演奏者と録音技師はガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師が演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホーム・レコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンドの母体となるのです。
スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時から、スタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢は最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウル・ミュージックの追求というのは、スターにありがちな<後付け>である、と私は考えています)。
このホーム・レコーディングが、実は<スペクター・サウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり、大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハル・ブレインのドラム>、整理は<J・ニッチェのアレンジ>、単純化は<L・レビンのミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクター・サウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。
この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターもギター少年でした。本名のフィル・ハーヴェイとしてインスト・レコードも発表しています。また'58、'59年はインスト・ロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンク・レイ、そしてジョニーとハリケーンズ、サント&ジョニー、サンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムはデビュー前の彼です)、そして極め付きはギター・インストの王者、デュアン・エディーの登場でした。
日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドのユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バット・マン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇のインスト・テーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージ・マーチン楽団の「リンゴのテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャー兼プロデューサーがレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオで仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクター・サウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。
シルはこの時すでにスペクターがプロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルがナント「BE MY GIRL!」。
スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム(佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターがポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。
例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます。
シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッションを見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナント<ベース・ドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベース・ドラムのイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。
エディーのスタジオは1トラックのテープ・レコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンドの秘密であった水道管やドラム缶をエコーに使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいます)スペクターが興味を持たなかったはずはありません。
そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンドの製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットやアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初に評価された人なのです。
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中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています。
その後シルは、スペクターをプロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークのリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代の代表的なコンビがレノン&マッカートニーとすれば、’50年代はリーバー&ストラーの時代で、ロック・ビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクターの学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供やプロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位を確立したのがこの二人なのです。
スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングのヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....
ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクター・サウンド>への引金になったと、私は思います。その手法でプロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクター・サウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初の作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルドン出版社の代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムのフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルはドラマーのゲイリー・チェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。
この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクター・サウンドを作ったのはやはり彼なのです。
この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクターの時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。
また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。
そして現在までジャンル問わずかなりの数を聴きまくった自分の良い曲だと思った10曲
Apple Musicも始まったことだし
曲ありすぎて何から聞けば良いか分からないやつとか参考にしてもらえれば
● Golden Lady - Stevie Wonder
誰もが知っているスティーヴィーだけどこの曲はシングルでもなくたぶん推し曲でもない
そしておれは特にスティーヴィーのファンでもないMotownの初期のカタログを少し聞いていた程度
2年ほど前彼女にフラれて音楽とかクソ時間のムダだわと絶望してたおれは
”そういやいわゆる名盤には手を出してねーな救われねーかな"と思い
「名盤」で検索して引っかかったスティーヴィーの"3部作"と呼ばれる傑作アルバムがある事を知った。
さっそくその中の「Innervisions」というアルバムを落とした
飽きたくないから何回も聞きたくない...あーでも聞きてえみたいな
そこからたぶん相当数聞いてるが運良くまだ飽きない
聞くたびに「なんて良い曲なんだ」と口に出す
https://www.youtube.com/watch?v=qS2yMn3JbQk
● Mr. Dieingly Sad - The Critters
数年前ジャズミュージシャンの菊地成孔氏が川勝正幸という評論家の人が死んだ時に自身のラジオ番組の追憶放送でBGMとして流した1曲
この人たちをよく知らなかったがたまたま「追憶」というドラマティックな回が上がっていて
聞いてみるかーと思って視聴したら大当たりだった思い出がある
この回でかかった曲は人の死が背景にあった事も影響してるが全てが良かった
https://www.youtube.com/watch?v=u-6khXfUK3M
ラブホテルに行った時に教えてもらった1曲
どういう流れで音楽の話になったか覚えてないがたぶん相手の青春の1曲だったのだろう
状況と背徳感もあってか異常なほど興奮しながらこの美しいメロディに耳を傾けていた事を思い出す
(その女は後にストーカーになった)
https://www.youtube.com/watch?v=qCoxPHTyXuo
● How Soon - ROLAND ALPHONSO
当時ライブハウスでもフェスでもとにかくスカバンドが多くて"ルーディ"という言葉にカッコよさを感じてたおれは
「スカじゃねえよスキャって言えや」と本気で周囲に言ってるバカで
1枚20Kもするレコードを買って毎日牛丼しか食わないようなクソみたいな日々を送っていた
連中のオシャレだと思っていた古着ファッションセンスもただ貧乏なだけだと気付いてから完全に冷めてしまった
そんな事を思うようなおれは大学を中退しユニオンにジャパレゲを売って生活してるクズで
女にも縁が無くただただ悶々とした日々がティッシュに埋もれていった
この曲は二度と戻りたくない時期の唯一の収穫で唯一売らなかったレコード
https://www.youtube.com/watch?v=HGyzq6S4Ssk
● bikinikill - Moscow Club
同級生とバンドを組みブラフマンのAnswer Forで田舎のクソ狭いライブハウスで数えるほどしかいない客にダイブしていた
ビジュアル系のカバーバンドを結成したくさんの女の子にリアルにキャーキャー言われていた
(後に彼をインターネットで発見した時、髪の毛が一本もなくなっておりポルノグラインドを一人でやっていた)
皆その後は音楽はほとんど聞かなくなるが30前後の結婚ラッシュでバンドの再結成を果たし
中性脂肪の塊の腹を引きずりながらギターを奏でる姿がなんともいえず感動を誘った
当時を懐かしがる連中は多く久しぶりに会うとそのような話にもなるが昔話は一日もたなかった
抜け出せない現実に限界がきてギターショップで万引きをして捕まった奴
精神病を患って引きこもった奴
車に轢かれて死んだ奴
ずっと働かずにスロットしてる奴
周りには自分も含めてクズだらけだがこの曲を聞くと10代の彼らの笑顔しか思い出さない
https://www.youtube.com/watch?v=FfsLKefAkyQ
● Song 1 - DJ Krush
10年以上前THA BLUE HERBにひたすらハマっている時期があった
一時期はカトマンズに住もうかと思うくらいだったがブタほどの行動力も無いヘタレのおれは
当時片思いしていた女に無理やりボアダムスを聞かせて感想を言わせたり
その女が好きだった大人計画の演劇に同行して「よかった〜あんなの始めて見たよ!」と言って
内心は「どこがおもしれーんだクソだわでもヤリたい」と腐った思いを握りつぶしていた
そんなモヤモヤしていた時期のおれがラップに入れ込むのは必然みたいなもので
そして5lackが登場するまではHIPHOPに対しても距離を置くことになる
このインストゥルメンタルはその時期に聞いた至高の1曲で宝物だ
https://www.youtube.com/watch?v=bj3y5vFS3Es
● Feel It All Around – Washed Out
ある時期強烈にブラックな仕事に従事していたおれは疲れ果てていた。
上司のパワハラと時間に追われて睡眠薬が無いと寝られなくなった、ブクブクに太って体が重い、
給料はストレスから全てデリヘルに消える、二度と帰りたくないクソみたいな日々、
「日本に生まれるだけで宝くじに当たったようなものだ」と文句を唱えて必死に感情を押し殺していた
背が低くて足が太いクソブスの女上司に「君って感情が無いみたい、ロボットなの?」と言われた時
2010年の夏は太陽が本当に眩しくて暑かった、サマーオブラブは間違いなく2010年に来ていた
● Go Berri Be Happy - Mark Barrott
去年の夏に同僚の人妻を好きになってしまい、頭の中が彼女の事で満たされてしまった俺は、
ある日から体調が異常に悪くなった、検査したら胃から出血していた、
15年ほど吸っていたタバコを辞めざるを得なくなった。
もう抱けるならどうなってもいいと毎日デパス飲んで働いていた(顔を合わすから)
そんなある真夏の日、田舎に現実逃避旅行へ出かけボーっとしながら緑がキレイな山沿いをチャリでブラブラしてた俺は突然
「あなたの事が好きになってしまった、一度食事してくれませんか?」とメールを打ち、
返信を待つ間の胃の痛みに必死に耐えた。一週間後、俺は彼女と一緒に食事をしていた、
夕方の街をブラついた後ネカフェへ行きペッティングした。とても簡単だった。
次の日から好きだった職場に行きにくくなった、背徳感からなのか、すさまじい興奮を覚えて汗が止まらなかった(継続)
この曲はメールを売った驚くほどキレイな自然の中でリピートしていたアルバムからの1曲
https://www.youtube.com/watch?v=2e8Py9ToC7M
● 君はそう決めた - 坂本慎太郎
坂本氏の良さを書こうなどたぶん野暮だし恐れ多い
思い出はまだ無いけど、全作品心を鷲掴みにされる
https://www.youtube.com/watch?v=t08i_cWdcbM
● ADEPRESSIVE CANNOT GOTO THECEREMONY – imoutoid
モテる要素が皆無だった自分に女が寄ってくる、ただ好きな事に熱中して作品を発表しただけで、
本質は変わってない自分への周りの変化に戸惑い苦しむ、世界へ絶望する第一歩を踏み出す。
もしこのような事だとしたら自分は人間に改めて感動する。なんて脆くて危なっかしいんだろう。
心と体のバランスの取り方は複雑で人それぞれだから何も言えないけど
良い音楽は死ぬまで聞くし俺より何倍も生きてる価値がある(あった)
また書く