はてなキーワード: 主人公とは
北島マヤをご存知だろうか。
少女向けの傑作漫画、『ガラスの仮面』の主人公。千の仮面を持つ少女である。
役柄の心を理解し、演じる中で役と一体化していく、憑依型の天才女優。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
小学生の頃から大学を卒業するまで、演劇クラブ、演劇部、演劇サークルに所属していた。
きっかけは覚えていない。確か2つ年上の友達が女優になりたいとかで、一緒についていったのが始まりだったと思う。
演じることは楽しかったし、周りからの評判も良かった。ただ所詮は役の真似事で、北島マヤのように役が憑依するということはなかった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
私はW主演の片割れの役をもらった。離婚寸前の両親を笑わせたいからと、文化祭で漫才をやる女子高生の役。結局家族は離れ離れになってしまい、転校を余儀なくされる。文化祭には出られなくなったが、相方と共に最後の漫才をする……、そんな役だ。
いつも通りに読み合わせをして、台本を覚えて、軽く立ち稽古をして。
本番が近くなったからと取り組み出した通し稽古も順調に進み、ラストシーンの漫才が始まった瞬間だった。
転校したくない。
そんな思いが胸を貫いて、急に涙が止まらなくなった。
大好きな友達と一緒にいたい。お父さんと離れたくない。
ぼろぼろ泣いた。泣きながら漫才をした。
ちなみに私には物心ついた時から父などいない。でも、『私』にはいた。母と不仲な父。昔は仲の良かった優しい父。
文化祭で、私たちの漫才を見せたかった。笑ってほしかった。こんなに練習したのに、いっぱい頑張ったのに、これが最後だなんて。
悔しくて辛くて悲しくて、ずっと泣いていた。
共演者たちが引いていた。
最終的に、いつも役名で私たちを呼ぶ顧問が私の本名を呼んで、そこでぴたりと涙が止まった。どうして泣いていたのか分からないくらいの平常心。私が私に戻った。ものすごい体験だった。
昔、異世界転生なのに主人公がひたすらステゴロと知恵で吸血鬼だかと戦う漫画読んだ事あるなぁ。
子どもの頃にSF映画の「コンタクト」を見て以来、ジョディ・フォスターが演じた主人公のアロウェイ博士のファンなんだ
彼女は天文学者で、同業者にバカにされながらも「宇宙人を見つける」というSETIプログラムに従事している
たとえばさ、男向けのマンガでさ
年収とかルックスとかへの嫉妬が動機になって物語が動いていくものってある?ないでしょ
ってそりゃここ最近の話で一昔前には、ブサイクブサメンが主人公の漫画があって、
それらはサブカル系として、「一段高い」漫画として扱われてた。
しかし結局、そんな意識の高いものを読みたがる人間は少数派で、
主流にならずにマイナーの中でも「一段高い」マイナーさで市場から消えていった。
ファーストの最初の方のアムロは割とクズだし、以降の作品もうじうじとしたところを見せてたけど、
そして逆シャアではララァにいつまでも囚われてるシャアよりも精神的にもパイロット技能的にも超越して、
そう言う、成長の物語がアムロの人気の背景にあるんじゃないかな?
スパロボとかの作品だと大体この逆シャアのアムロがベースになってるので、ガンダム主人公としては年齢が高めで、
他のまだ若い主人公をサポートするような役回りを与えられることが多いので、そのあたりでポイント稼いでる節もある。
氷河期世代の負け組を救う大河ドラマとは、1990年代後半から2000年代前半にかけて就職難に苦しんだ若者たちの人生を描く物語である。主人公は、大学卒業後に何度も就職活動を繰り返したが、なかなか採用されないでいた男性である。彼は、友人や恋人との関係もうまくいかず、孤独と不安に苛まれる日々を送っていた。しかし、ある日、彼は偶然にも自分の才能を発揮できる仕事に出会う。それは、歴史上の人物や出来事を再現する大河ドラマの脚本家としての仕事であった。彼は、自分の想像力と知識を駆使して、感動的なストーリーを作り上げる。やがて、彼の書いた大河ドラマは視聴者から絶賛され、彼は一躍有名になる。彼は、自分の夢を叶えたことで自信と幸せを取り戻し、周囲の人々とも和解する。氷河期世代の負け組だった彼は、大河ドラマを通して勝ち組になったのである。
男性向けラブコメで、男性キャラクターを意図的にダサキモく描く理由について、興味深い疑問ですね。ヘイト感情ではなく、真面目に考えてみましょう。
1. ヒロインの魅力を引き立てるため:少女漫画や女性向け漫画では、ヒロインをより可愛く見せるために、周囲の男性キャラクターをダサく描くことがあります。人間は相対的に魅力を認識するため、ヒロインを際立たせるための強力な手法と言えるでしょう。
2. 共感を得るため:男性向けラブコメでは、読者が主人公に共感することが重要です。ダサキモく描かれた男性キャラクターは、読者との共感を生み出すためのテクニックとして利用されている可能性があります。また、相手のレベルに詰める過程をネタにすることで笑いを引き出すこともあります。
3. 読者の期待に応えるため:一部の読者は、主人公が外見的にキモくないと楽しく読めないと感じるかもしれません。しかし、このキモい描写が読者全体にどれだけ影響を与えているかは不明です。中学生や高校生の漫画を読む際、主人公と自分の身の上を区別することは普通ですが、世の中の人々はさまざまです。
1. 男性向けラブコメで男性キャラをダサキモく描く理由は、ヒロインの魅力を引き立てるためや共感を得るために利用されている可能性があります。
「この程度の試験でいい成績取るためにそんな勉強に時間かけんの!?」って驚くくらい。
東大1人しか受からない高校で1年間必死こいて勉強してようやく中央経済受かった程度のThe凡人の俺ですらそう感じる。
渡米して短大入ってから、コーネルに編入しても自分がサイヤ人になったような感覚でずっといられてる。
多分、東大受かる知能の日本人がアメリカで生まれ育ってたらハーバードでもコロンビアでもUCバークレーでも余裕で受かって、天才の名を欲しいままに学者でもNASAでも投資銀行マンでも選ばれしエリートに当たり前のようになれると思う。
Serial Experiments lainの貧乳美少女主人公をエッチな目線で見ているのですが、これも駄目なのでしょうか?
理系アピールで「攻殻機動隊とか好きなんすよね~~」と言おうとしたとき、ふとよぎるのだよな『草薙素子をエロ目的で消費していると疑われるのでは』という不安が。
その点だとフリーレンは比較的安心なのだが、なんというか意外とフェルンの胸がデカかったりアウラの服がビキニアーマーっぽかったり、そういった所で『エロ目的か?」と思われそうな不穏さががよぎる。
ドラマにしたって主演女優がセクシーアピールしてるのは褒めにくいし、清楚アピール系もそれはそれで「俺この女優好きでさ―!」と職場で平気な顔して言うセクハラ親父の仲間入りしそうで表現しづらい。
そうやって疑い出すと小柄なキャラクターが主役でもロリコン疑惑が怖くなってくるし、男同士の友情もブロマンス目当ての腐男子や同性愛者扱いされそうでちょっと怖くなる。
世の中の作品が気軽にエロをアピールするからこんなことになるんだと思う。
シンウルトラマンですら主人公のキモい性癖のせいでオススメしたあとで「つまり、お前も匂いフェチなの?」みたいに思われそうな不安が付きまとってくる。
いちいち何にでも性欲を絡めてくるんじゃねえよクソが。
マヨラーが何にでもマヨネーズをかけるような感覚で何にでもエロを盛ろうとしてんじゃねえよ。
エロ目的で見たい連中は作品の中で何もやらなくても勝手に同人誌やコスプレの時に胸をデカく描いたりパットをモリモリ盛ったりするだろうが。
女優そっくりさん設定のAVだってちょっと胸が大きめの女優をつかってたりするし、そういうのに全部任せて本家は大人しくしてろよ。
アマプラでアニメ見てたら、吸血鬼に家族を殺されて復讐に燃える少年のやつがあった。
主人公は生き延びたが、兄弟が吸血鬼になってしまう。残りの家族は皆殺しにされてしまった。主人公は軍隊(月鬼の組)に入隊して、強い刀で吸血鬼を一生懸命退治してゆく…終わりのセラフというタイトルだった。
面白いしドラマチックだし鬼滅の刃だし、しかし鬼滅の刃より前の作品だ。
大ヒットはしていない。
何が足りなかったのか…
キルアオやウィッチウォッチは良くも悪くも全体にも個々の話にも一貫性があるんだが、グリーングリーングリーンズは何をしたいのかが明確な感じになってない。
要領よく生きてきた凡人が天才になって世界で活躍するという設定に対して、周囲のレベルがいきなり凄い高い。
凡人が天才に食らいついていくという物語は分かるんだが、当の本人がどういう人間なのかがイマイチ見えない。
正々堂々勝負したいのか、勝つためならハンディが欲しいのかも場面ごとにコロコロと変わる。
それが人間臭いテンパリとして描かれるならともかく、作品はさもそこに一貫性があるかのように語ってくる。
なんで?
今週の内容もなんだか、チグハグだ。
「凡人のくせに挑戦した結果、失敗した」という思い出が宿った写真を「変に冒険心を出さない戒め」と語りながらも、それを切り口に始めた話で「俺は本気でやって天才に勝つよ」と口にする。そして、最後には写真を消す。
一見すると話が繋がっているように見えるが、よく考えるとおかしい。
「戒め」の写真を消して冒険に挑むというのは確かに物語としてはそれっぽいのだが、実際にこの写真に写っているのは「凡人だけど挑戦してしまうという気持ちが昔から一貫していた」という部分なんじゃないのか?
100人の漫画家を集めたら95人は、この物語の終わりで「挑戦しちゃうんだよな。結構いい顔してるじゃん、俺」と言ってこの写真を大事にしまいなおす物語を描くだろう。
漫画なら絶対にやってしまう「主人公に一貫性をもたせる」を放棄している。
第三者の目で見ればおかしく見えるような公道を普通に主人公にさせるし、それがおかしいことを漫画の世界は自覚なく描く。
主人この目から見れば、一貫性のない行動に一貫性があることになっているという思い込みが世界を通して我々の目に飛び込んでくる。
漫画というものはどうしても「体を一貫させる*」ということを大事にしてしまう。
起承転結として正しい形を。
チェーホフの銃は撃たなければいけないし、燻製ニシンの虚偽はそれが分かる形にして終わるべきだとされる。
物語として納得の行く着地点を目指して、都合よく全てがトントン拍子に進まなければいけない。
何気ない食事一つから殺人事件のヒントを見つけ、怪しい動きをしていた子供は真犯人に口止めされていなければいけない。
凡人の癖に主人公が強いのは「めっちゃ努力する天才だから」で終わらされており、他の天才も滅茶苦茶努力しているはずなのに追い抜かれていく。
なんで主人公がゴルフを始めたのかの理由は驚くほど薄っぺらいし、主人公の自己認識も言ってることもしょっちゅうブレる。
枠組みに囚われた人間がついつい「これはこうあるべきですよ」と自縄自縛に陥ってしまう所をすり抜けていく。
これは、まるでAIによる出力だ。
人間が常識という壁によって気づかなかった可能性を、ブルートフォースアタックの総当たりで無理やり引っ張り出してくる。
将棋の世界はAIの力によって新手が無数に産まれ、新手を乱発する棋士はまるでAIのようだと評される。
ジャンプという動脈硬化を起こしきった雑誌に吹き込んだ新しい風だ。
皆、読んでくれ。
そして首を傾げてくれ。
「体を一貫させる」ことに囚われないリアルな高校生の無軌道さを楽しんで欲しい。
今の勇者像の元になったであろうドラゴンクエストがIIIかIVのとき、ファイアーエムブレムの主人公は勇者ではなくロード(王子的な存在)。
勇者は傭兵の上級職で、剣のみもしくは剣と斧などを使う汎用の職業である。勇者に主人公や救世主といった意味はなく単に勇気ある戦士という意味だろう。ブレイブヒーローと表記される作品もある。
たとえばクレジット順が変わるのはタレントの事務所が金だしてるとかあって
実際見たら内容は原作とは変わらんやんみたいな映画は結構あるんだが…
それはわりと許容範囲なんだよ。結局商売もあるし忠実度を期待したいのは作品の中身だし。
たとえばキャプテン・マーベル。
幸運なことに原作キャラを知らないので「はえー」って感じで見たんだが実は原作は男と聞くと…腹がそわそわしたんだよな。
舟を編むが実写ドラマ化されて、主人公が別のキャラになりますって情報を見たから。
見てない人に説明すると舟を編むは小説原作で実写映画がすでに高く評価されている。
映画とはキャストを全員変えているのだが、分かりやすくキャスト名で言うと
映画版の主役は松田龍平なのだが、ドラマ版の主役は池田エライザになるのだ。
とんでもない性転換だなとか、まあ松田龍平の映画なら変なのも多いしアリか?とか思えるのだが
ドラマ版の池田エライザは映画版では黒木華がやってたキャラなのだ。
ドラマ版相関図ではエライザが大きく主役だと分かり、野田洋次郎と並んでいる姿を確認できる。
ダッッッs
あらすじを読めば少しは理解できる。
若手の社員として主人公のいる部署にエライザが移動してくるというストーリー。これ自体は原作の流れだ。
確かに、エライザを主人公のような見方をしても悪くないかもとは思う。
しかし原作でよかったのは結構何にもできない主人公が時間をかけて成長して後輩を持つという流れだったのだ。
これが途中から始まるわけだから、主人公の成長過程はシンプルには見えないわけである。
これは完全に視点を変えるということになるよなと。
どう思う?正直なにが起きてるんか理解が追いついてない。