はてなキーワード: 写像とは
そもそも正当性は証明されているので、わざわざ証明を補足する必要もないんですが。法的に問題ないのは明らかだ。
この問題に関して非論理的な否定で「献血ポスターの正当性」を否定できたと勘違いする人が居るといけないので、「補足」しておく。
その「反論」を献血ポスターに適用するのは「無理」だというのが、言いたいことの中心だ。
無理筋である理由を説明しておこう。一言で言えば、「男性が求めるから」
男性が求めてはいけない理由が存在しない以上、無くなることはあり得ない。
女性が見たくないものを「見たくない」という権利がある。それは当然。と「同時に」、見たいものを「見たい」というのも男性の権利として存在しうる。
なので、単に「見たくない」で規制するのは、「男性への差別」だ。全部の男性がそう思うかどうかは重要ではない。昔々はフェミニズムが「先」に権利があったかもしれないが、今は存在しない。これらの権利は「同時」に発生しうる。
フェミニズムがもう無理な理由は、ここにある。男性差別が激しく、これからの論理としてもう終わってると考えるべきだ。
なお、これは男性を優遇しているという論理ではない。当然女性を差別していいという論理でもない。
例えば、人前に出たくない女性を無理やり出させるとか、明らかな「差別」をしていいと言ってるわけではない。
そもそも元がポスターなのだから、嫌な人に強制されているわけでもなく、女性差別をしているわけでもない。過度に性的なわけでもない。
この献血ポスターを見て「女性を性的対象とみていい」というメッセージだというのは、「気のせい」だ。それが証拠に何一つ証明されてない。
これからは、「女性を性的対象にするな」は無意味であって、「何々だから」という理由が必要だ、という話。
なお、「女性」を性的対象にするなという主張が無意味な理由は、もはやすでにほぼ達成されているから、だ。「アンチフェミニズム」で、その論理を一生懸命否定する奴が存在しない。否定する理由もない。
ひと昔前はそういう「アンチフェミニズム」も存在した。例えば「女性は出しゃばってくるな」とか、非論理的なのは存在していたが、さすがに今は絶滅してる。
献血ポスターのような存在は「絶対に存在しない」命題も否定されることになる。
ある程度献血ポスターのような三次元も「存在しうる」のは明らかであり、「存在しないような」女性を描いて差別を助長しているという批判も当たらない。
なお、この献血ポスター他の場合、なぜ巨乳かと言えば、以下の理由がある。
ある程度の理由があるのであって、成り立ってるものを何の理由もなく否定できる理由はない。
結局のところ「問題ない」所の「公開」を否定されてしまった場合、これからは「全てダメになるだろう」と予想せざる得ない。
いわば領土みたいなもので、すでにさんざん浸食されているのだから、これから際限なく浸食されるのだろうという思うのは「自然」だ。
何も比較してないが…
という言明と
が矛盾していることを、君が認めないという点について私が糾弾しているんだよね。
仮にu:v→R (v∈Vは任意のOS)という写像があるとして、君の主張はu(初代Mac)=u(Windows 10)だ。ここまではいいね?
そしてそのような関数uが可算集合Vを台としてあるということは、先のツリーにもあるように素性のよい二項関係Rがあるということだ。Rからuへの誘導はほとんど自明だから省略する。
君の先の言明は「何も比較していない」すなわち「二項関係Rの存在は不要」と「俺は初代Macから10まで何不自由なく使える」すなわち「u(初代Mac)=u(Windows 10)」を等値しているのだが、私のここまでの話を理解していれば、この2つが等価だというのはおかしい、と理解できるはずだね?
ここまでの話はRが全順序か半順序かに依存していないことに注意しよう。つまりこれは
ここまで解釈が乖離するのはなぜなんだぜ、というのもあるだろうな。
例えば不気味の谷とかは、全人類があんまりブレることなくある写像に一致するもんだと思うんだけど、こういうエロ問題というのも一昔前ならば暗黙の了解が成立したと思うんだよね。(昔の方がエロ映画のポスターいっぱいあったというのはまた別の話)
でも、Japanはオタクカルチャーというニッチなドメインをもっこりさせちゃったせいで、つまりは多様性を生み出し過ぎちゃったせいで、国が二分されてしまった。
こんなバカなことで議論しているのは日本だけだろうな。よその国ではこんなあたりまえに答えが出る問題で意見わかれることないと思うよ。
凸最適化になってるか(なってない場合に一般的に最適化をどう構成するか)とか、カーネル法で非線形に写像した嵜が気軽に"無限次元"とかいうけどどういう意味で無限なのか(例えばそもそもその"内積"は写像したさきの空間で完備化されてるのか、もっと言えば可分なヒルベルト空間でなければ高々可算個の直交基底の存在すら一般には言えないけど計算機で表現するときには有限次元で近似するわけでそのへんどうするのか)とか、そういう数学的に素性のいい空間での議論になってないと色々厳しい気が。(いや私もディイイイィィーーープラーーーーーニングは全然知らないのでそのへんどうなってるのか無知なんだけど)
全射って言えば全ての要素への写像があるなって理解できるじゃん?
上ってなんなのかわからない。
数学が苦手というか、数学がこういう意味不明な事をするから苦手になってしまった。
他には
位相空間(X,O)の異なる2点を p,q とする。 p を含む開集合を U、 q を含む開集合を V として、互いに交わらない U, V が存在するとき
難しそうに書いてるけれどよく見るとなんだか普通なことが書いてあるやつ。
俺の頭が悪いからこんな些細なことにこだわってできなくなるのは分かっているんだが
こういうことでなんでこうじゃないの?って思うせいで数学が嫌になっていった。
だいたい大学で数学を勉強すると「何この定義」とか言い始めるからさ。だいじょーぶ。だいじょーぶ。
増田は自分を卑下する必要はないよ。きっと人類は数学が苦手なのだ。
なので肩の力をぬいてちょっと聞いてほしい
数学用語のネーミングがピンとこないときは英語訳をみると意味がわかることがあります。これ豆知識ね。
上への写像は onto-mapping、関数は function だね。
「この条件はなんで必要なの?」とか「なんだか回りくどい言い回しだな」とか
こんなときはいくら定義を眺めてもなにも起こらないので、とりあえず疑問は胸にしまって前に進んだ方が良い。
ところで増田は「穴あきおたま」を知っていますか?料理に使うやつね。
あれね、私はなんで穴空いているのか最初わからなかったのよ。でね、おでん作って卵をすくったときにね。
「あーーこの穴があると具だけ救えるのかー なるほどー」と穴の理由が初めて理解できたのよ。
そんなかんじでね、初見では理解できなくても使ってみると理解できるものというのは世の中いっぱいあるのよ。数学もおんなじね。
もちろんね、俺が新しい公理系を考えるぞとか、もっとよい定義を考えるぞ!とかやってもいいわけだけれど
それは勉強というより研究に片足突っ込んでいると思うし、自分は数学ができないと思っている人がやるようなことではないと思うのね。
自分の場合、謎の記号と名前と意味をなんとなく覚えるとよかった。
f,gは関数(写像のパターンも)、limは極限,maxは最大値,argmaxは最大にする変数、vがイタリックで太字だったらベクトル、大文字でイタリックだったら行列、i,j,k…は添え字、Σは合計 Πはかけるやつ、dxだったら微分、∂だったら偏微分、∇はナブラ、∫は普通の積分で∲は線積分、かっこいいNだったら正規分布、大げさなNだったら自然数の集合、大げさなRだったら実数の集合とか、ヨは存在するで∀はすべての~について、||は絶対値で||||はノルムとか、とかとか、雑だけどそんな感じ。
もちろん、定義が異なっていたり裏には数学の深淵が広がっていたりするのだけど、まず自分にどの分野が必要か、読めないと話にならないから。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6%E8%A8%98%E5%8F%B7%E3%81%AE%E8%A1%A8
ある程度腰を据えて勉強するのなら大日本図書の数学シリーズ(高専生を想定して作成された)を強くオススメする.
https://www.dainippon-tosho.co.jp/college_math/
高専は,工学を学ぶ五年制(高校+短大)の大学である.本教科書シリーズを一通りマスターすると文字式の展開から複素関数論まで,高校数学のなかでも工学に必要な知識(≒数学科を除いた大学数学に必要な知識)+基礎的な大学数学(微積,線形代数,ベクトル解析,複素関数論,ラプラス・フーリエ変換)を学ぶことができる.
読者の対象はそれほどハイレベルではない(高専にもよるが,偏差値の低い高専は高校偏差値で55程度+大学受験を経験しない)ので,説明が平易で,例題も豊富.練習問題も非常に豊富である.それでいながら公式の導出はどれもしっかりと記されているので,腰を据えた勉強にも向いている.
全六冊だが,一日数時間をとって勉強できるのなら数週間で一冊を容易にマスターできるようになっている.
統計学を理解したいのならば,本シリーズの教科書を以下の順序で学べばよい.
基礎数学(高校数学の基礎が身についているのなら省略可)→線形代数(ベクトルの定義から線形写像)→応用数学(ベクトル解析の単元だけやればよい)→確率統計
寝るのが遅くなってしまい、次の日も早い。
でも日が昇りだすと急速に目が痛くなり、眠くなる。
「今眠ってしまってはダメだ、お前は起きたら遅刻していた恐怖を知っているだろう」と言い聞かせながら耐える
レム睡眠だとすぐ起きられる。
自意識がハッキリしているので「妙に視覚情報が多い...思考できている...そうかこれは夢だ!何時か分からないが起きねば!」
となってすぐ起きられる。しかしノンレム睡眠は別だ。脳が休んでいるので思考できない。知覚できない。とても怖い!
知覚できなくなったと逡巡したのち「これはまずい!」と無意識に飛び起きる。夢なんて現実の続きみたいなものだ。夢日記なんて、現実の写像であるのに。
原文精査お疲れさま。
個人的な考えとしては、あんまサーバー関連の仕組みは興味ないかな。
「現金」「小切手」「買掛金」「売掛金」と言った勘定科目が、借方と貸方にどう仕分けられるかが重要だと思う。
F社のサービスを使っているユーザーの集合をF、M社のサービスを使っているユーザーの集合をMとする。
さらに、Fが生成するデータの集合をG、Mが生成するデータの集合をNとする。
ここで両社のサービスを使っているユーザーは異なる事を仮定すると、「G≠N」となり、集合Gと集合Nは一致しない。
このことから集合G、Nのある要素g,nにおいて何らかの操作(写像)fを行ったとき、f(g)≠f(n)となる。
日本語に直すと、F社のサービスとM社のサービスは、使っているユーザーの母集団が違うため、それに依って導き出される自動仕訳の結果も異なる。
実際に動いてるし、その部分のコードの入口も明示されたのに、
http://kenokabe-techwriting.blogspot.jp/2016/05/frp_18.html
残りは全部、使ってるライブラリのソースコードからfrequencyやリフレッシュレートやら、timerの解像度っぽいことをアピールしてるみたいですが、
タイマーの解像度設定しながらマウスイベントを同時にとってなんかやることと、
状態f(0),f(1),f(2),…を得る、という本来のFRPの基本原理
ってまったく違うでしょ?
誤魔化すなと。
状態f(0),f(1),f(2),…を得る
というのはどこだ?とけなされているのだけど、
イベントごとに写像されているのだから、状態f(t)だ、とかいうのなら、
岡部氏の言う時間軸をストリームにする、という話と関係ないのに、
ただ「実際のシステム時刻t=0,1,2,…」って言いたかっただけちゃうんか?ってのは見るものすべてにバレてる誤魔化しだ、って意味でしょ?
http://kenokabe-techwriting.blogspot.jp/2016/05/frp_18.html
残りは全部、使ってるライブラリのソースコードからfrequencyやリフレッシュレートやら、timerの解像度っぽいことをアピールしてるみたいですが、
タイマーの解像度設定しながらマウスイベントを同時にとってなんかやることと、
状態f(0),f(1),f(2),…を得る、という本来のFRPの基本原理
ってまったく違うでしょ?
誤魔化すなと。
状態f(0),f(1),f(2),…を得る
というのはどこだ?とけなされているのだけど、
イベントごとに写像されているのだから、状態f(t)だ、とかいうのなら、
岡部氏の言う時間軸をストリームにする、という話と関係ないのに、
ただ「実際のシステム時刻t=0,1,2,…」って言いたかっただけちゃうんか?ってのは見るものすべてにバレてる誤魔化しだ、って意味でしょ?
http://anond.hatelabo.jp/20160517023637
それを処理系が実際のシステム時刻t=0,1,2,…に適用して
状態f(0),f(1),f(2),…を得る、という本来のFRPの基本原理
子供は電車をみてガタンゴトンと叫ぶ。走るときは両手を拡げてキーンと言うとそう昔から決まっている。
ガタンゴトンは対象の重要性を重みづけ、キーンは行為の妥当性を評価していることにお気づきだろうか?
タモリの音楽は世界だが終わってから生まれた脱ゆとり世代の君達は。(倒置法)
西欧では擬態語は幼稚な言葉とされるが日本では擬態語は幼稚とされることもあれば立派な言葉とされることもある。
日本の擬態語の豊かさについては、擬態語辞典を見て貰おう。海外ではどこの国にもそのような辞典は存在しないと国語学者は指摘する。日本固有の文化である。
しかしながら日本人特に近現代の日本人は擬態語を十二分に活用できていない。つまり我々は人生において
物事の重要性を決めたりそれに対する行為の妥当性を評価することで日々の生活をコントロールをしていきたいと考えている。
にも関わらず、それに最適なツールである擬態語をまるで活用していないという事実にばったり行き当たるのである。
シュミラクルという芸術用語はご存じか?パクリのパクリ、パクリのパクリのパクリと模倣の連鎖が起きることで
やがてオリジナルのパクリの境界がとろけてオリジナルという概念そのものが喪失する。シュミレーション(模像)がクルクル回ってオリジナルが喪失する。
擬態語というのもこれと極めて似ている。ある対象を模擬した擬態語があるとしよう。その擬態語はやがて拡大解釈されて意味があいまいになる。
つまりオノマトペの「使用が」シュミラクルの無限廻廊に取り込まれ、真正性はやがてどこにも見当たらなくなる。
そのような過程を経て、擬態語は本来の機能を失い、物事の重要さの重み付け、またそれに関する行為の妥当性の評価という機能を喪失する。
子供はそのような喪失からは至って自由である。すなわちアラレちゃんはキーンと感じた時にだけキーンと言う。キーンと感じない時にはキーンと言わない。
しかしそれをまねする大人はどうだろう?キーンと感じなくてもキーンと言う。それはもはや演技である。言行不一致。
言ってることとやってることが違うのである。還元すれば自由妖精もとい物事の重要性と行為の妥当性との間のマッピング(写像)が歪んでいる。
ここで議論を明確にするため、重要度関数と妥当性関数という概念を導入することができる。
例えばロボットの性能評価は時にだめ人間とは何かという哲学問題を提起する。無駄なことに無駄な労力を使うのがダメであろう?つまりこれは近似的にはコスト分配の問題である。
巡回セールスマン問題の近似解を求めるよりははるかに複雑であるが。
話を戻すけど擬態語の問題は音楽にもついて回る。ノーミュージックノーライフと拳を突き上げるまでもなく人生は音楽、世界は音楽というプロパガンダがある。
それは結局のところ音楽で世界のあらゆるものを重み付けできることを指している。ところが、音楽の中で消費文化のJPOPが絶えず流れ
アレアの一擲に身を任せているような人はそのような機会をすべからく失っている。
もうお解りだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20140506144603
これだけのものを「ちゃんと」読めば、そりゃあなんとかなるでしょう。
しかし、何万円になるんだ。