はてなキーワード: 成長物語とは
世相を反映して、それを日々日々描く4コマ漫画なんだから、我々と同じ世界観が無い方がおかしい。
うーん・・・
戦闘でも、恋愛でも、成長物語でもなく、キャラの掛け合い(キャラにとっての日常)を淡々と描くのが日常系だと思うんだけどな。
この『キャラの掛け合い(キャラにとっての日常)』を、『我々の(現実的な)日常』に近い形で描いているって認識が、私とはずれてるんだと思われ。
なんだか知らないが大富豪がいて、とんでもない天才がいて、狂言回しの大馬鹿がいて、そのなかで没個性ともとれる普通の人が居て。
それらキャラの存在になんら疑問を持つ必要がない世界で、キャラの掛け合いに特化したような話を展開するのが、日常系だと思うんだが。
昨日hokusyuuさんの文をリンクしてたたき台にしたら怒られたので今日は地の文で書くようにしてみる
hokusyuuさんのは魔法少女まどか☆マギカ論と言うのは嘘で魔法少女一般論だから結論が違ったら本編が間違ってると言い張れるけどw、自分の話はまどか☆マギカにしか通じない
えーと構図から
QBとの契約に現れる世界は通常の世界が魔法の世界によって脅かされる世界
これを2重の円に例えると内側が日常の世界、外の大きい丸が魔法の世界、外側の円に存在する魔法的存在により脅かされる。
この2重の世界は神話的暴力により、普通の世界しかないひとつの円から発生するわけだ
ここで自分にわかりやすいように神話的暴力ををフーリエ変換と考える
つまり日常の世界をフーリエ変換するとフーリエ空間上に2重の世界が現れると考える訳だ
hokusyuさんのではフーリエ変換とかの世界を変換する力を神話的暴力としてる事になる、個々の要素をA→aに変換する操作
それに対してその操作する主体である神が行う、変換する操作自体を選んだり、捨てたりするメタな力が神的暴力になる
真の魔法少女はこのメタ操作をして変換自体壊してしまえと言う主張になります
で昨日書いたのはここに、大人/子供軸 を導入すると説明範囲が広がるよねという話
魔法の世界が児童画的に書かれてるのが理由ですが 大人(=コスモ)/子供(=カオス)と考えてもらったほうが分かりやすいですね
hokusyuさんのは円の中身には踏み込まなかったけど、ここで2重円の中央に大人(コスモ)をおいて、子供(カオス)を円の周辺方向に軸をとる
画像のフーリエ変換を行ったとき、フーリエ空間中央部分に周波数0が来るイメージですね
でその画像の真ん中あたりに境界を守る魔法少女の境界線がかける
まどか☆マギカの世界で対応させていくとコスモの中央はコスモ=ノモス(日常)とすると、まどかの家庭(家)にあたると思う
ここから離れるにしたがってカオス度が上がっていく、他の魔法少女に付き合って戦いに行くと一番端っこの境界線までいくことになる
だからまどかの家庭(家)の演出ではシンメトリーの構図が多用されコスモ秩序が記号として強調されるわけです
それに対して境界に存在する魔法少女がいるとカオスになり、秩序が破壊された不条理を強調する演出が多用されるわけです
また大人/子供とコスモ/カオスを同時に扱うことで子供から大人に向かう成長物語が立ち現れる事になります。
キャラクター一人一人のストーリーラインは大人に向かう少女の物語として現れます
魔女と戦う魔法少女たちは幼児的無規範な世界から規範のある大人の世界を守るためにも戦うともいえる
大人として不適格な行動をとった場合闘争に負ける、つーかもともと少女だから勝ちよう無いのだが
マミはまどか本人に無利益戦いに引き込みそれに依存しようとした、独立した大人にあるまじきことに
さやかは成熟した女性としての恋愛感情の解決に失敗した・・・らしい8話によると見てないからよーわからんが
ほむらは負けそうにないな、(大人性を強調してるし)子供なのに大人って変な話だなー
今考えると魔法少女になると年をとらないので大人の年齢なのに外見は少女のままなんだな、やっぱし大人にはなれないわけだ
だから成長物語としては規範を内面化し、幼児性を規制してりっぱな大人になると言う話になる
では目指すべき大人としてのモデルは何かとなるのだが、そこに出てくるのがまどかの母である
テレビの人おまけにTVの世界で権力闘争までやってるスーパーウーマン
うんちょっとモデルとして問題あると思うよ
つまり、まどか☆マギカとは非情なサバイバルを生き抜いて大人になる訓練をして大人のせかいのサバイバルをする話だったんだ、ええーなんだってー
いや言いすぎだけど、時々そういう説明みるけど
まどかが神的暴力を振るうとき大人の階段をひとつ上ると言うストーリーラインが用意されてるとはいえると思うんだ。
と言うことで終わります
ニコ動で7話まで見てる、それに言葉とか無神経に使うのでいろんな意味とかないです、中学生レベルですから
hokusyuさんの――『魔法少女まどか☆マギカ』奪還論は難しくてよく分かんないだけど
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20110223/p1
これに大人/子供軸の追加したらもっと説明範囲が広がるんじゃないかと思う
以下いい加減な解釈だけど
魔法の力ってのは幼児性からきてて大人には使えない、大人の魔法使いとかいない
魔女と戦う魔法少女たちは幼児的無規範な世界から規範のある大人の世界を守るためにも戦うともいえる
大人として不適格な行動をとった場合闘争に負ける、つーかもともと少女だから勝ちよう無いのだが
マミはまどか本人に無利益戦いに引き込みそれに依存しようとした、独立した大人にあるまじきことに
さやかは成熟した女性としての恋愛感情の解決に失敗した・・・らしい8話によると見てないからよーわからんが
だから成長物語としては規範を内面化し、幼児性を規制してりっぱな大人になると言う話になる
では目指すべき大人としてのモデルは何かとなるのだが、そこに出てくるのがまどかの母である
テレビのキャスターおまけにTVの世界で権力闘争までやってるスーパーウーマン
うんちょっとモデルとして問題あると思うよ
つまり、まどか☆マギカとは非情なサバイバルを生き抜いて大人になる訓練をして大人のせかいのサバイバルをする話だったんだ、ええーなんだってー
いや言いすぎだけど、時々そういう説明みるけど
タイトル通りゾンビの出てくるコメディ映画で、アメリカではヒットした。日本では、どうなのかな?
でもこれ、面白いんだよ。ゾンビ映画だが基本そんなに怖くない(だってコメディだしね)ので、映画好きで観れる人は観てほしい。
さてここから本題なんだけど、映画の中盤当たりでこの増田の事を思い出させるシーンがあったのでその事について書きたい。
当然、内容に触れるから、これから観るからネタばれはダメとか言う人は読まないで。
この「ゾンビランド」は上に述べたようにコメディ映画なんだけど、アメリカのコメディ映画のパターンの一つで、主人公はダメダメルーザータイプの人間に設定されている。
つまり非モテですよ。大学生、あるいはそれ以上の年齢設定になっているが、全然女の子にモテた事がない、家ではずっとテレビゲームをやっている非モテ青年。
別に見た目キモオタなわけじゃなく、演じている俳優さんも普通の顔立ちだが、映画の中では頼りない、情けない、モテナイ雰囲気を漂わせている。
そんな主人公がゾンビの増殖して人間社会が崩壊した後のアメリカでマッチョタフガイ一人と、二人の姉妹に出合い成長するという予想通りの物語なんだけど、この姉妹が詐欺師姉妹で、主人公とマッチョは何度か騙されるんだが、一緒に旅をするうちに主人公と姉の方が良い関係になりそうになる。
夜、二人っきりで酒を飲みながら話しているうちに、昔話をするようになる。
非モテの主人公でかつアメリカの話だから学生時代のうちに男女間でのイベントがいくつもあるわけで、そういうイベントで主人公が女の子達に相手にされなかったと言う話をすると、姉が怒り、主人公にその時の苦しみを償ってやると言って、主人公とチークダンスをはじめ、主人公はついにファーストキスをする一歩手前にまでいくが...
もちろん、ファーストキスにはならない。こういうオタ系主人公のコメディは基本成長物語なので、女の子と結ばれるのは最後の最後、試練を乗り越えた後になる。
なのでそれは当然なんだが(そして最後に結ばれるのも当然)、俺がこのシーンにとても強く惹かれてしまった。
それはこの姉が主人公の痛みをはっきりと認識し、そしてそれを今、償ってやる、と言葉にしたからだ。
同様のシチュエーションの映画は一杯あったし、最終的に非モテの主人公が女性に認められ受け容れられるのは娯楽映画として当然なんだが、その主人公達のかつての苦しみを女性が理解・共感し、それを償い・癒すと明言したことってあったなか?
この事をしつこく書いているが、それはこのシーンで一時期増田に出没していた「30過ぎてからモテても仕方ない」の非モテ達の事を思い出したからだ。
個人的には30からでも40からでもモテルならありがたいじゃないかと思うのだけど、俺も非モテなのでその感覚が全く分からないというわけじゃない。
彼らは30過ぎてから来る女は金や社会的地位の為によってくるだけで虚しいし、かつて持ちたくても持てなかった経験は今更どうにもならない、という。
そりゃ確かに10代の頃の彼女との経験など今更どうにもならないだろう。
しかし真剣にそれをいまになって求めるなら、それは愚かというものだ。
かつての非モテも、もう当時の痛みが風化して笑い話に出来るものいるだろう(俺は一応こっち)。
だが、まだ痛みを感じ、あるいははっきり覚えているものには、痛みがなかったかのような対応は傷口に塩を塗るようなもので納得できないこともあるだろう。
そして俺も当時の痛みがまったく疼かないわけじゃない。
もちろんそういった非モテの10代の時の痛みを与えた女性達と30過ぎてから知り合う女性達は別人なわけで仕方がないんだけど、人間の心はそんなに簡単じゃないよな、とは思う。
そういう頑なな非モテ達の心を癒すためには、この映画で描かれたようなシチュエーションが必要なんだろう。
だけど現実にはそうはなかなかならない。理解されず、そして償ってももらえるわけはない。
別人の女性達に償ってくれとか言ってしまったら、まさにアホかといわれるだけだろう。
だから傷は消える事はない。ただ傷がふさがり、痛まなくなるだけだ。醜い傷跡を残して。
戦う男の子の物語には、倒すべき相手がいる場合が多い。倒すというと威勢がいいが、身も蓋もない言い方をすると殺しだ。強敵を倒して成長する、と書くと綺麗だが、人を殺して成長すると書くと、大変物騒だ。だが、無論殺人そのものに、そういった力があるわけではない。
殺しには動機がいる。「暴力は、正統な理由がなければ退屈である。」と、ヒッチコックもいっている。ただ、登場人物の動機を「アイデア1000本ノック」のようなもので作ったとしても、観客がそれを納得するかは別である。納得しないモノを出しても駄目なのだ。
船戸与一によると、冒険小説における納得できる殺人の動機は、大別して三つだという。「生体の保存」「任務遂行の目的あるいは手段」「復讐」。「生体の保存」は、殺らなきゃ殺られる、というやつ。「任務遂行の~」は、プロの殺し屋や軍人などに多い。
ロボットアニメを頭に浮かべる。
受け売りだが、ロボットの設定を凝りまくる場合、殺しの道具、ピストルやナイフに凝る事に似ている。「いかにして相手を殺すか?」という事であるが、「なぜ殺すか?」については、ロボットそのものからは見えてこない。
ガンダムのアムロは、最初は「復讐」だった。ほんっとに最初だけだけど。次は「生体の保存」、ついには「任務遂行~」になった。エヴァのシンジ君は、強いて言うなら「生体の保存」だが、疑問である。廻り(ネルフ)が無理やり「乗せちゃえ!」という感じだったので、動機なき殺人、という気も、しないでもない。そのせいか、あまり成長もしなかった。
ただ、動機が「殺らなきゃ殺られる」だったとしても、殺る側の動機だって必要だ。昔は「地球を侵略しに来たのだあ!」などで済んだのだが、今ではそうはいかない。なんせ我々は進歩したのだ(ホントか?)。殺る側の動機を考えてみる。「俺は悪い宇宙人だから」「戦争だし、軍人だから」「考えた事もない」「システムがそうなっているから」「そういう決まりだから」あまりパッとしたものが浮かばない。
少年の物語には、「あいつ気にいらねぇからブッ潰す!」とか、「強くなりたい!」という、ものすごくわかりやすい動機がある。が、ロボットアニメの場合、軍隊と結びつく事が非常に多く、「強くなりたい!」という理由でミサイルぶっ放したとしたら、見ているお客さんがどう思うのか、何となく想像はつく。
凸凹軍対○×軍があって、凸凹軍に主人公やヒロインがいて、ライバルが○×軍にいる、とする。戦争で軍隊に居るのだから、戦闘には事欠かない。とりあえずの理由もある。軍隊にいると、色んな年齢や人種の人達に会えるし、遠くの場所だって移動できる。宇宙に行ってもおかしくない。が、軍隊組織やロボットを事細かく描くだけでは、「いかに殺すか」だけで終わる。エヴァの後、敵の姿をハッキリと描かないアニメがあったが、戦いの理由がぼんやりしているというのは、危険である。主人公の動機がなければ、「しかたないよね、戦いだし。人を殺してもさ」。これがテレビの放送に耐えられるのか、私は知らない。(物語内の)個人の動機と、環境や状況を混同してはいけない。「人を殺してみたかったから殺した」と答える者は、いつまでたっても大人になれないのではないのかと思うが、そういう事を語るのは、専門家ではないので荷が重い。「成長成長って、そこまでしてなぜ大人にならなければならないの?」という問いが浮かぶ。これは「では、子供のままでいいのか?」とセットで考える必要がある。戦いを経験すると必ず成長する、という決まりはない。ロボットアニメの主人公は、成長しなければならないという決まりもない。決まりはないが、「最新ロボを操縦している少年は、幼稚なままだった」という姿を観客に見せる作り手は、おかしいと思う。黒い笑いを描きたいのなら別だが。
「戦う男の子」「戦わない男の子」「戦えない男の子」 こう並べてみると、男の子の物語は、選択肢がほとんど無い。冷遇されているといってもいいし、戦ってりゃなんとかなるという、ある意味甘やかされてきたともいえる。なぜ十代の少年が、巨大ロボットに乗って敵を殺さねばならぬのか、という事を考えると、「戦う男の子」が、非道く揺らいでいるように見える。ふと考える。巨大ロボットのバックには、軍隊や国家がある場合が多い。作る上では設定上、そうすると助かるのだろうが、十代の成長物語を描く上では、もう時代に合わないのではないか。戦う男の子の目的地が、戦う男になる事しかないとするのなら、ロボットアニメにおける主人公の成長の定義は、いまだ戦中といっていい。生意気な態度をとり、戦いに悩んだとしても、それらは国家のお墨付きの中で、である。最新型のコックピットの中で、である。愛国的であるが、単なる戦闘馬鹿ともいえる。「ロボットを作った『ナントカ研究所』の面々が、よってたかって主人公を一人前の男に仕立て上げる物語」でも、昔はよかったのかもしれない。だが、90年代にもなると、庵野監督をもってしても、動機付けすることは不可能になった。一人前の男にする事も出来なくなった。一人前の男とは何かすら、わからなくなった。深く設定を作ってしまったばかりに、動機があいまいでも、なんとかなってしまったのが皮肉である。
ロボットアニメに出てくる十代の主人公が持つ、殺しの動機。大人の職業軍人などが主人公なら、また話は別なのだろうが、今ではそれは怪しいものとなった。巨大ロボアニメは、以前と比べて人気は落ちたというが、それは分かる気がする。それとも、緻密な世界観だが、動機なき殺人者達が蠢くその世界で、観客は満足するしかないのだろうか?
最後に、ここまで読んでくれたあなたへ。この文章は「今のようなロボットアニメで少年を描くのは、もう無理ではないのか?」と、短く書けばこれで済む話である。こんな珍論、最後まで読んでくれてありがとう。。
元増田みたいなキャラクターってさ、よく恋愛ものとか男の子の成長物語とかに出てくるキャラクターの一典型じゃん。それでそいつの心の奥深くに潜んでる問題の典型がhttp://anond.hatelabo.jp/20100419005827だろ。だからあながち間違っていないと思うよ。だから元増田は気づかないうちに陳腐な恋愛ストーリーの一部に成り果てているわけだな。
男にとって女はセックスマシーン以外のなにものでもない。←イマココ!
↓
↓
気になる
↓
アプローチする
↓
衝突する
↓
離れる
↓
心に迷いが生じる
↓
事件発生
↓
都合よく偶然再会する
↓
ぎこちない二人
↓
再び事件発生
↓
ふぉーりんらぶ
↓
あっさり宗旨替え「俺は間違っていた。やっぱり大切なのは愛だよ愛」
↓
かつては「家」というシステムがきちんと運営・循環されていた。
しかし「家」から出て行く自由を許し、
「家」というシステムを成り立たせる構成員=家族がいなくなった為,
っていう過去の上に今が乗っているよね?
「かつて」をスペクタクルで見せてくれる。
それでいてその描き方が「ペシミストになれ!」って方向ではないから、
カタルシスでやってくる。
お婆ちゃんが亡くなって、「仇討ちだっ!」って男たちが活気づいて、
最後、「家」はそう快に半壊すんの。
アラワシの直撃は回避するんだけど、衝撃波はあって、ちゃんと半壊する。
でも、みんなぴんぴんしてんのね。
そういうプロットは良いと思う。
でも何が惜しいかっていうと、主人公の健二でね。
「なんで健二を主人公にしてるのかなぁ?」とついつい言いたくなってしまう。
時かけの時にも思ったけれど、「我が身を削って物語を顕現させる」っていう
姿勢ではなく,大多数の当たり障りのないところに落とし込むのな。
それだったら、佳主馬を主人公として、夏の娯楽映画として、
少年の成長物語として構成した方がよっぽど素直に観れたよ,と思うのです。
健二が旧家に飛び込む現代っ子代表だったら、「自分の家では一人だったので、
この家に来れて嬉しい」っていうのを演出で見せて、受け手に委ねてくれればいいのに、
台詞で言っちゃうしさ。(台詞で言えたら、彼は素直だね。って広がりのみさ!)
健二は数学の天才って設定だけど、それ以上に、あの年頃の男の子で、
ああ素直なのは、きっぱり特異だよ。
健二は裏方に徹っし、格闘ゲーム・チャンプで子供の佳主馬と、健二が
憧れる先輩で女の子の夏希がバトルは受け持つので、それでそのふたりが、
素直に頑張る健二の横顔に、ぽーっとなるから、平衡はとれてるけど。
「今の男の子にとっての家」っていうのを、描き出すには、
健二はあまりにぶれてない(健二は侘助とも対比になんない‥!)
家族の愛情なんて、同じ釜の飯でも喰ってりゃ、後からついてくるもの。
そういうスタンスで作られたこの映画において、健二が旧家の大家族に
受け入れられることはさほど問題じゃない。
(だから健二が素直でさっさと問題解決なのはイイ!)
旧家は壊れて、じゃあ新しい「家」は?
それらは尻すぼみっていうか、別段提起されてなくってさ‥‥
健二みたいな子が、ウチの婿だったら可愛い!って理想の男の子話に
摩り替わっちゃったYO!っての。
ネタバレ有
既に結末は二回描かれている。そして数多の二次創作によって様々なEVAが描かれ、消費されている。
この作品がシンジの成長物語でしかないのであれば、シンジは描かれる度に、「物語」に翻弄され、何度も何度も身を削られ、苦痛に顔を歪まされ、辛い思いをさせられ、凌辱され、蔑まされる。それはあたかも2000年以上も磔にされ続けている「彼」のようである。
「破」はその無限円環に続く原罪からシンジを救う物語であった。
10年前、シンジは全てを失い、その代償として、ここにいても良い理由を見つけた。失ったものは余りに大きく、観る者には不快感と絶望を与えた。庵野は観客からも全てを奪い去っていった。
TV版も劇場版も、共に「大きな物語」に翻弄される「弱い子供のビルドゥングスロマン」だった。
大人になると解る
「この世界には自分の為に用意されたセットなど何も無く、スポットライトすら無く、自らの居場所は自ら創りだし奪い取って行くものだ」
自愛から慈愛への転換。
真希波という新しいキャラクターは「幸せは歩いて来ない、だから歩いて行くんだね」と謡った。彼女は前作へのアンチテーゼとなっている。
その真希波に誘われるように新しい物語は進み、シンジは彼女の信条を転移したかのように、その意志で自らの道を歩み出した。大切な、かけがえのないものを守る為の自己犠牲という愛の形。
綾波の命が失われずに済んだのも、トウジの妹が退院し、トウジの片足が失われずに済んだのも、アスカがメンヘラーにならずに済んだのも、全ては「破」においてシンジが慈愛に目覚めたからである。
アスカは予告において、旧劇場版のラストシーンでTV版第一話の綾波と同じように「包帯」で巻かれた左目を、伊達公宜しく威風堂々たる「漆黒の眼帯」に変えて現れた。アスカは明らかに、前作よりもキュートに、セクシィに、力強く描かれている。
庵野秀明は、「誰も不幸にならない世界」を描こうとしているのかも知れない。稚拙かも知れないが、物語として、純粋に強度のある作品を創ろうとしている。最高のエンターテイメントを。
EVAは、日本製アニメーションには珍しく、海外での評価が低く国内、国外での温度差が激しい。理由としては、特にシンジの評価が低い点が挙げられる。庵野秀明のように才能のある作家の作品としては珍しい。
シンジは、最高のエンターテイメントを指向する際に、庵野自身にとって克服すべきハードルであった。
新劇場版で庵野は「破」において、既に数多描かれている「弱い子供のビルドゥングスロマン」を早々に切り捨て、新たなステージへ観客を誘っている。
乗るか反るか、観客は庵野に試されているとも言える。庵野が今までも、観客の期待を裏切り続けてきた事を鑑みると、私達は新劇場版を、数多のEVAとは全く異なるモノとして観る必要があるだろう。
次世代を担う若者へ、不安が支配するこの世界で希望を与える物語として、新たに書き換えられたエバの全く異なるもう一つの姿に、観客は堪えられるか。
私達の強度が試されている。
一般にいわれる成長っていうのは、つまり子供的なものが通過儀礼を経て大人的なものに変わっていくということだよね。
わがまま坊主が協調性をもつようになるとかね。それは成長だけど、ある意味で堕落でもあるよね。大人への堕落。
こういう成長とか堕落とかっていうのは、それ自体完全にイコールなものだ。腐敗と醗酵。日本人がブラジル人に「変な立ち方してんな」って言うぐらい滑稽なもの。
ところで、「昔の自分は馬鹿だった」なんて、思ったり言ったことない?おれはある。
でもその時、つまり今の自分はそんな馬鹿じゃないっなんて気持ちが背景にあるとおもうんだ。
不当だよね。フェアじゃない。過去の自分にはなんの反論も許されない。卑怯。
このスレの面白さって、どうしようもない男が一念発起してやがて一人前の男になっていくっていう成長物語の黄金パターンを踏まえてることと、そのストーリーを崩すことなく小説入門として役立つ情報が詰まってるってとこにあるのかな。
それと成功するためにはもちろん本人のやる気や努力も大事だけど、いい師匠(グル)に出会うことが大切だって実感した。やらない男みたいな師匠がいればいいよなあ。
ただ、いい師匠に出会えたのも、大人なのに友達に頭下げて教えを請うやる男の、良い意味でのプライドの無さのせいでもあるんだよな。大人になると変な自尊心が出てきて素直に人に教えを求めたりできないし、悩みが深いほど他人に打ち明けられなかったりするからな。
俺、昔のジャッキー映画や「ベストキッド」みたいにひょんなことから達人に出会って秘伝を授けられるなんてパターンに憧れてるが、本来はやる男みたいに自分から動き出さないといけないんだろうね。