はてなキーワード: 古書店とは
本の場合、電子書籍を液晶画面で読むと目が疲れるという人がかなりいて、それは「デジタル配信の音楽を聴くと耳がおかしくなる」という人よりだいぶ多いと思われる。
電子ペーパーのKindleなんかだと目の疲れは緩やかだと言われるけど、あれこそパソコンに対するワープロ的な存在っぽいんだよな。
なので、革新的な電子書籍リーダーが出ないかぎりは、紙の書籍はCDほど急激に減少しない。
そして、現在でもCDがかなり残っていることを考えると、30年程度では紙の本は無くならないだろう。
あと、電子化されていない古い書籍が、レコードやCDの比でなく大量にあるので、古書店的な存在は無くなりづらいのではないか。
高知県立大学の蔵書の整理の件、ブコメでいろいろ意見出ているが思うところを述べる。
ブックマークコメントの粗さがしをしたいわけじゃないので、論点となりそうなところを適当に項目立てて書いていきます。
そんなことはない。図書は刊行物なんだからどこからでも手に入る。
裏返しで、どこにもない一点モノの本や史料を捨てたらそりゃ問題だ。
刊行物の場合、一ヶ所の施設が捨てたとしても代替措置がいくらでもある。
記事には古そう、かつ郷土に関係する、かついかめしいタイトルがならんでいるが、これに騙されてはいけない。
刊行物か一点モノか。ここで判断すればいい(もちろん「○○氏文庫」とかを崩すのは問題があるけれども)。
むろんその境界はあいまいで、限定された刊行物なんてのもあるんだが。
これも一点モノor刊行物の機軸で考えてみよう。
他所にもある刊行物をあえて電子化する意義はどこまであるだろうか。
当然、コストの問題がある。膨大な資料をスキャンする。そしてそれを常に使えるようシステム保守していかなくてはならない。
記事には『国史大辞典』『日本国語大辞典』が燃やされたとある。
いやあ国史も日国も重要な辞書ですよ。でも、それ使ったことある人どれだけいますか? 手に取ったことある人どれだけいますか?
私は日本史学専攻だったのでアホほど使ったけれど、世の中のみんながこれを使っていたとは思えない。むしろみんな使ってたらすごい社会だと思うが。
他の本もそうだと思う。私は記事で上がっている書籍について、恥ずかしながら国史と日国以外、ほとんど手に取った事有りません。
本が一冊一冊貴重なのは重々みんな承知している。だけど、それをどの程度で使ったり読んだりしているのか。
そんな中で廃棄の判断がなされた。国史も日国も重複してるんだし、今は電子化の絡みで言えばジャパンナレッジあるし。
その通りで、未来に向けて予算が限られるなか建物を建て替え、未来に向けて増え続ける蔵書を合理的に整理していかなくてはならない。
一見すると蔵書の焼却は知の後退のようにみえるけれど、実際、今後数十年数百年存続していくための知的なチャレンジであるように思う。
高知県立大学の今回の措置で責められるべきは、焼却の前に頒布の機会を持つべきだったということ。
新聞記事にもあるが、大学図書館の蔵書を処分する際にはいくつか頒布の方法がある。
私の大学では、書庫の大改修の際に本が放出された。エクセルの表になっていて、希望者は随時図書館を訪れ、本を受取る。
また、しれっと近くの古くからある古書店に図書館のラベルが付いた本が並ぶことがあった。
事務処理的には、入札して適正に古書店に販売したのだろうと思う。
表を作ったりなんなりと事務作業量は増えるけれども、このあたりは本の処分の前に出来ることだったのではないかと思う。というかほかの大学ではやっている。
ただし、これはこれで問題になることがある。どうしても、一点モノに近い貴重書が混ざるのだ。
先輩から聞くところには、農学部が放出した書籍の中に著名な植物学者の記名のある本が含まれていたことがあると言う。
そういう「瑕疵」みたいなのを露見しないためには燃やしちゃえ! となるのかもしれない。いずれにせよダメだが。
高知新聞の書き方は、いらずらに問題を騒ぎ立て過ぎな印象を受ける。
貴重な書籍が失われた、というところに力点がありすぎる。述べてきたとおり、刊行物は貴重かというとそうでもない。失われた、といっても代替物はいくらでもある。
頒布の機会もなく燃やしたこと、図書館の蔵書管理、キャパシティに関する話題と絡めて語るのであったならばどれだけ良かったか。
本が燃やされた! 残念! という感情に訴えるところに力点があり、この辺りに記者の見識・力量の限界が見える。
刊行物はそれほど貴重ではないよ
使用頻度を考えた方がいいよ
そのこと自体については多数の方々が問題点を述べてらっしゃるので、そちらに譲る。
高知県民として腹が立つのが、この7月に県民・市民両図書館が合築して新しい図書館「オーテピア」ができていることだ。
もう一度言おう。
焼却処分された本の数は「3万8千」冊だ。
なぜ、なぜ、焼却処分しなければならなかったのだ。焼却処分は2014〜16年度中。なぜあと数年待てなかったのか。
地元紙によると、「同大は本の再利用を具体的に検討することなく焼却」とあり、その理由が「図書館のラベルを貼ったものが(古書店などで売られて)世の中に出るのはいかがなものかという意見が、大学の財務担当者から出たため」らしい。
それならば各地の図書館への移管の可能性をなぜ検討しなかったのだ。なにより県内に新築されるオーテピアの存在には誰も思いを浮かべなかったのだろうか。
古書店の雑に積まれた本の中で存在感を放っていた「虚構世界の存在論」を手に取ってから20年くらいになるか。
一般向けの論理学入門でありながら理屈がハードで手応えのある二見書房の「論理パラドクス」シリーズは好評
のようだが、増田の好みではないので買ってない。
「サウンド・オブ・サンダー」として近年映画化されたブラッドベリのタイムパラドクスもの「雷のような音」を
「虚構世界の存在論」で取り上げていたこともあり、SFに強い哲学者として認識している。小説の方は合わなかった。
三浦俊彦の得意分野は、「可能世界」を用いたフィクション論、「人間原理」を用いた意識論。とサプリメント。
可能世界論、とは何かはwikipediaでも読んで欲しいが、もし暴走トロッコの先にドラッカーが居たら、とか
プロレスラー専用列車があれば、とか現実ではない仮定について、論理的に扱う仕組み。
そのハードコア一派に様相実在論というのがあり、そういう可能世界は仮定の存在や記述上の論理ではなくってな
全部実在してっから、いやマジで、と主張して、急にそんなこと言われてもいやソレはないわー、と異端視されてる。
その実在している他の可能世界と、我々が唯一認識している現実とを区別するものは、我々が居るという
真空のゆらぎからビッグバンが生じ、宇宙の各定数には様々なあり方が有り得たはずなのに、なんでこんなに人間が
存在するに都合よくできているのか。それはね、人間が見ているからだよ。
人間が宇宙を観察する時には、人間が存在できるような宇宙でなければならない。
こういう理屈は判るんだが理由を説明しきれない自己撞着的な話が人間原理。
宇宙は様々な形でありえた、また実際にある、というマルチヴァース、多世界解釈、サイクリック宇宙論、物理学の話。
それと様相実在論をつなげ虚構実在論にも踏み込み、フィクションをも真面目に哲学的に語る。
なろうもカクヨムも在るんだよ。
ここでいう古本屋はいわゆる古書店ではなくブックオフ的なところね。
中古屋と著作権については過去にさんざん議論されたと思うけど、今はどういう認識なんだろう?
単純に考えればお金を出すのが読者か広告屋かの違いだけで、お金そのものは動いているけど作者や出版社には1円も入らないという点では同じだよね。
新刊が売れ続けなければそもそも成り立たない古本屋と、新刊が1冊手に入ればコピーで延々とやっていける違法サイトでは確かに違いはある。
でも古本屋だって作者や出版社のために何かするわけじゃないし、結局はただ横に流して利益を得ているだけじゃない?
制限速度40kmの道を80kmで走るか120kmで走るか程度の違いしかないような気がするんだよね。
よく言われていることだけど「違法サイトでタダ読みしている人は違法サイトが潰れたら本から離れていくだけ」であろうことと同じで、古本屋でしか買わない人は古本屋がなくなったら本を買わなくなるだけだと思う。
逆に普段から新刊も買う人は、どんな形で読んでも気に入れば新刊で買うんじゃないかな。
違法サイトが普及する前は古本屋についてもこの辺にたびたび言及されていたと思うんだけど、最近はほとんど聞かないような気がする。
(古本屋という形態自体が傾き始めているからもう議論する必要がないのかな)
ただ、相手が古本屋だとしてもコンテンツにお金を払う習慣があるというのは良いことなのかもしれない。
無料で手に入るのが当たり前になったらろくなことにならない。ような気がする。
仕事が原因で病気になり、働けなくなり、ヘロヘロで専業主婦をしながら趣味とリハビリのために同人活動をするオタクです。
夫と話し合った結果、小遣いは1万円(ここから交際費や化粧品、服、生理用品、薬その他諸々を出す)。
イベント毎に夫から3万円を貸してをもらい、印刷費交通費スペース代差し入れ代etc.を支払い、イベントでの売上から3万を夫に返済するシステムだ。
欲しい人の手に必ず渡るように!と本を大目に刷っている人を実際に見たりツイッターのRTで知ると神様かな!?と思うと同時に、在庫を抱えるだけ本が刷れて保管できる余裕があるってすごい…と羨ましくなってしまった。
同人活動もオタク活動も一個人の趣味だから、完売した同人誌の再販をするのもしないのも本人の自由、推しのCDを買うのも買わないのも本人の自由、舞台のチケットを買うのも買わないのも本人の自由、公式に課金をするのもしないのも本人の自由である。
だが萌えると推しのCDは欲しいし、舞台観に行きたいし、課金もしたいし、友達と萌え語りをしたい…けれど月一万円の小遣いでは正直厳しい。
私は強欲なのだろうか?
その後友達とファミレスで萌え語りして電車賃含めたらお小遣いは大体消える。
その月は実家にも帰れないし友達とも会えないし下着も洗顔フォームも買えない。
洗顔フォームが買えないので最近はお風呂の石鹸で顔洗ってるんだけど乾燥して顔がかゆい。
お金があれば同人活動がしやすくなり、推しの理解を深めるために同じ推しの人と語れて、きっとハッピーな気持ちで原稿ができるかもしれない。
けど、そうでないかもしれない。
そんな不毛な思考をしているうちに親戚の結婚式で着るワンピースがなくて買うことになったのだが、今月は夏コミで出した赤字の補填のために小遣いを返済に回してしまったのでお金がない。
私がお金に換金できるものと言えば同人誌しかないので、泣く泣く現在活動しているジャンルの知り合いが出した同人誌を同人誌古書店に売った。
感想を送ろうと思ってた本が5冊ほどあって、迷ったけれど売った。
売ったお金でワンピースを買いたいが、長袖の服が2枚しかないので長袖の服がまず欲しい…。
結婚式、就活用スーツならあるから就活用スーツで行けないかなぁ…でも親戚の結婚式に就活用スーツなんかで行ったら確実にアウトだなぁ…。
話が逸れた。
お金がないので当分新刊はないしイベントも参加できません、ごめんなさい。
ちなみにピク◯ブにアップする作品を描くのと、本にする作品を描くのでは描く段階から心構え(?)違うので、オン専で同人活動をすれば良いのでは?と言われるかもしれないが違うのだ。
原稿期間中は情緒不安定になりやすく、泣きながら「出ない神本より出るクソ本、描き上げることが大事なんだ」と何度も唱えて描いた原稿。
そんな原稿が本になった時の感動。
友人や好きなサークルさんへ渡すためにデパ地下をウロウロして買った差し入れ。
差し入れの一つ一つに短いながらもカードにメッセージを書いて貼り付ける前日の夜。
イベント当日、知り合いと顔を合わせて元気?と挨拶をする時の嬉しさ。
好きなサークルさんに「これからも頑張ってください」という一言(大抵噛む)を言う時の緊張感。
グッときた本には感想を送り、会える人には手紙をしたためて次のイベントで渡す。
オン活動は描いたものにすぐ反応が来てそれはそれで楽しいのだけれど、上に書いたような経験はできない。
社会に馴染むリハビリで始めたとはいえ、オフの同人活動したいな〜〜!またあの幸せな時間を楽しみたいな〜〜!!でもお金がかかるんだよなぁ〜〜!!と、思ったところで、ある程度お金をかけないと趣味は楽しくないよね…?と思ったので書き留めておく。
就活でも職場でも、「趣味はなんですか」と聞かれることが多い。
多いけども、毎度毎度答えに困る。
平積みの本を見て買って読んだり、入門書を実践してみたりするが、趣味:読書とするにはあまりにライトすぎる。
神保町の古書店に通ったりするほどでもないし、月に何十冊も読むほどのビブリオマニアでもない。別にレビュー書いたりもしない。
映画もよく見る。撮ったりはしないが、ああここから第2幕で、ここらがミッドポイントだな、とか思ったりはする。
だけど別に映画.comにレビュー書いたり、試写会に行ったりするほどでもない。人食べカエルとかメタルマンの人ほどの影響力もマニアックさもない。
なんというか、趣味といえば極めろ、部活は3年間続けろ、会社は新卒で入ったら定年までとどまれ、みたいな「やり抜け思想」が強いな、と思う。
そもそも趣味なんてたかだか気晴らしだし、ましてや他人の趣味に成果を求めていたりするのは高慢というか、何故そこまで強いるのか、その神経質さは何だ、と聞き返したくなる。
就活でもそうだ。
それの趣味はうちの業務にどう結びつきますか、という意味不明な問い。(研究内容でも学科の内容でもなく!)
別にたかだか気晴らしなのだから、内容や取り組み方を聞いた所で人間性が見えたりはしないし、
「とりあえずやってみた」程度のことでも趣味と言ってもいいように思う。
思うけれど、やっぱり趣味と言うには自分のはライトだなぁ、俺は無趣味だな、と自分でも感じてしまうあたり、俺も変わらないんだなぁ。
いったん社会に出ると、そういう素朴な感じの見た目で、なおかつ本が好きという人が身近にいなくなってしまった。
図書館の司書さんや本屋の店員さんはそういう感じの女性が多い、と僕は思う。
何だか、彼女たちには独特の雰囲気がある。知的でストイックといえばいいのか。
図書館や本屋は街にたくさんあるしよく行くけれど、僕はそこで勤める人と親しい仲になったことはないし
どうやったら彼女たちとお近づきになれるのだろうか。
何か良い案はないだろうか…?
あ、ちなみに
働いている時にナンパするっていうのは迷惑だし事案になりかねないので却下です。
あと、一番いいのは一緒に働く(=僕が図書館・本屋に勤める)ことだが、
あと、
もし「司書・書店員が彼女」という人がいたら、どういうきっかけでそうなったのか教えてほしい。
図書館や本屋で働いている女の子と恋人になれたらしたいことを以下に挙げる。
(ただしずっと一緒に見ているわけではなく、店内で別行動して○時間後にここで待ち合わせ、等も行う)
・好きな本を貸し借りしあう
・最近読んだ本について話し合う
・本の朗読会をする(二人で)
・キス
・セックス
好きな漫画だったが、某所でステマ疑惑が持ち上がっていた漫画だったためである。
そういうものを部屋の中に置くこと自体我慢ならなかっただけあって、売り払った後の気分は爽快であった。
しかしその1カ月後、近所のコンビニに某漫画の新刊が置かれているのを目にし腰が抜けた。
そのころから、夢の中に件の漫画に関する事物が(時折だが)登場するようになった。
件の漫画を再び手にすることのないよう書店にはなるだけ近寄らないようにしている。
また、ブラウザにも件の漫画に関する用語が表示されないよう設定している。
にも拘らず件の漫画が夢に出てくるとは、ある種の呪いにかけられているのだろうか。
一週間以上件の漫画が夢に出てくることはなかった。しかし今度は漫画の登場人物2人と遊んでいる夢を見た。
今度は神奈川県内某駅近くの店で件の漫画本(古本)が売られている幻覚を見た。
正直もう手の打ちようがないような気がする。
また夢の中に例の漫画が出てきた。フルカラーだけど作画が崩壊していた。
2週間ぐらい前に紀伊国屋で英語に翻訳された例の漫画を見たからだろうか。
また夢の中に出てきた。もう嫌だ。
もうどうすればいいか分からない。
もしかしたらこの漫画関連でチキンレースしているのも大きいかもしれない。
あと近くのセブンイレブンで去年10月、例の漫画がこれ見よがしに売られていた。
その光景が頭から離れないのも、この夢を見た要因であるような気がする。
http://anond.hatelabo.jp/20130830202223(最初のトラバ先)
http://anond.hatelabo.jp/20130831142238(自分の記事)
元増田の人が2nd Seasonを書いてくれたので、こういった若い人たちに役立ちそうな知識をさらに追記してみたい。
(実は若くなかったら申し訳ない)
念のために書いておくけれど、僕は最近のラノベ専門学校の実態は知らないし、体験入学に行ってみて入らないというのは、優れた判断だと思う。
実際に教師の質をどう担保しているのか不透明だし、やはり意識の低い学生も多い。(自分の時は、おおよそ2割=10人は中退した)
教師は別に仕事を持つ社会人が多く、どちらかというと偏った業界の偏った人格の人達で、しかも扱う分野が本来主観的なものであって、生徒への評価も心情的になりやすい。
それに、最近のラノベブームで、雨後のタケノコのように学校が開かれているのかもしれない。
そういったところはやはりノウハウも無いだろうし、授業の質も低いだろう。
(余談だが、僕が通学していた当時は、まさかこれほどラノベが流行するとは正直誰も思っていなかった。ただ、先生は「これからミステリー小説のように定番ジャンル化するだろう」と予言していた。涼宮ハルヒも出ていない頃だ)
だから、専門学校に通わないというのは、比較的低リスク・低コストで賢明な判断だと言える。
しかしながら、元増田が挙げてくれた問題について、それを断定のまま終わらせてしまうのはもったいない。
特に3番目の問題、
でも、文章を書く営みって、そんな秩序立ったものではないですよね?
元増田が残念なのは、この深い疑問を、専門学校の体験入学ごときで解決してしまった気分になっていることだ。
僕自身、先生に教わったり罵倒を受けたりしながらも、この疑問に突き当たった。
そして、学校の内側と外側の両方で、この問題について世の中の頭の良い人達がどのように携わってきたか、それなりに気にしてきた。
おそらく、以下の参考資料を全部精読し、実習を行い、誰か信頼できる人からの客観的な添削を受け、頭だけではなく全身に技術をしみ込ませることができれば、決して取り戻せない数百万円と数年を賭して専門学校に行く必要など、皆無だろう。
また、下記ばかりでなく、もっと体系的でしっかりした知識が学べる大学なり海外大学なりケンブリッジやオックスフォードもあるかもしれない。
そういったものがあると分かったら、単純にそこへ行くべきだ。
文芸的な文章を除く基本的なライティングについては、古典的な書籍がたくさんある。
下記2冊は、ここで紹介するのが恥ずかしいくらい基本的な書籍だ。
さて、上記のような確立した情報伝達技術ではなく、独自の表現をしてみたり、人を感動させる文章を書きたい場合、そういった技術は教える・教わることができるのか?
それを体系的に扱うことは確かに難しい。そもそも人の感情であったり、表現から受け取る印象が非体系的だからだ。
だからといって、先人がそれを教育の世界で取り扱おうと努力してこなかったわけではない。
どうしても総論ではなく各論になってしまうが、それでも個人的に見て良書は多い。
「文章作法を学校教育のように教えられない」結論に至るのは自由だが、下記書籍を全部読んでから至っても決して遅くない。
「作文」の価値を捉え直した、文章表現の入門書。作品でも製品でもなく、純粋な「作文」そのものの価値を再発見している。
大学の講義をまとめた本。固いタイトルに反して、極めて柔らかい語り口で柔らかい内容を講義してくれている。
だけど、書くことの意味について、「美」について、とても鋭い視点であふれている。
前の文章でちょっとだけ出した。レトリック、つまり、文章で人の心を動かすための体系的知識(!)を取り扱っている名著。
レトリックは長らく馬鹿にされていたらしい(結局、ただの言葉のあやではないか?)が、それを感覚論・認識論・記号論の観点から再評価した名著。
なぜ直喩が隠喩より優れた修辞技法になり得るのか? といったことが詳しく書いてある。
大江健三郎による文学論。そもそも小説や文芸作品とは何を目指すものなのか? といったことを明確に書いてくれている。
それは同時に、読者としての私たちが誠実な文芸作品の中に何を求めるべきなのか? ということでもある。
文章読本は色々あるが、その中でももっとも実践的と言われる丸谷才一の本だ。
歴史的仮名遣いで読みにくく感じるかもしれないが、内容そのものは平明だったと思う。
(しかし、いまなぜか手許に無いので詳しいことは書けない。「ちょっと気取って書け」くらいしか思い出せない)
E.M.フォースターによる文学理論。Amazonで8000円くらい。僕はカチグミなので古書店で1000円で入手できた。
「ストーリーはあまり美しい要素ではありません」という衝撃的な宣言が印象に残っている。
小説というものを本来どう味わうべきか? どう書かれるべきか? という熱のこもった講義録だ。
新装版が出るんだ……。
芥川賞を最年少(23歳)で受賞しながら、文壇に属せず、独りストイックに小説を書き続けている作家の文学指南書。
テクニックの本ではないが、ここで明らかにされている執筆姿勢には衝撃を受ける。
ホームレスをしていた25歳のコリン・ウィルソンが大英博物館で一気呵成に書き上げた文芸評論書。
「アウトサイダー」というキーワードのもと、文学・美術・舞踏・哲学などなどを横断的に眺め渡した名著。
本気で読むと人生が狂う。
先の記事で書いた。全日本人が読むべき。
なんだかこういう本のことを書けるのが嬉しくて、ついかっとなってリストアップしてしまった。今は反省している。
偉そうに書いたけれど、結局は僕も文学界新人賞で名前が小さく載ったくらいの実績しかない人間で、そんなには当てにはならないだろう。
しかし、僕自身が当てにならなくても、何が当てになりそうかの感性は結構あるつもりだ。
教育における教師とはそういうもので、自分ができなくても人の作品を見て添削できたりはする。
失敗している人からだって、むしろ失敗している人だからこそ学べることもある。
そういった人達の行く末をよく見て、やはりラノベなんかやめて、楽しくOS・エディタ・コンパイラでも作ろうと思って欲しいのだ。
(ひたすら打ち込んだため、タイトルから全力で話がそれてるかもしれんです。)
就職活動をしてるんだけど、どこにも引っかからない自分に嫌気が差してきたので、吐き出してみた。
現役4年で3年の12月から大手から零細までブラックを回避しながら就職活動をしてきた。
スキルは、普通自動車免許と情報処理関係が3つ、簿記会計が2級。
正社員になりたかったただの大学生です。専攻は文系情報処理学科。
自分では就職活動がんばった結果が今なんじゃないかなあって思ってる。
色んな意見があると思うけど、自分が自分で見つけてしまった限界がココだった。
内定は0。
内定はなくても、最終選考には人事の気まぐれみたいにたびたび行ってたりする。
落とされるたびに泣いちゃうくらい気合入れて企業と対してきた。
悔しくって東京のどっかの橋の上で泣いてたら警察に保護されたのはいい思い出だ。
どうしておちるのか分からなくって、大学の就職課に行ったら「特に悪いところはないよ。まあ最後は運だからねv 縁がなかったんだよ」と言われた。
親は普通に働いてて、普通に暮らしてるけど、高校進学のときに話した1回以外でしゃべった記憶がない。
育ての親はしんだばあちゃんだしな。
ぶっちゃけ親の手料理よりカップラーメン食った記憶の方が色濃い。
普通に働いてるから話を聞けるはずなのに、顔も微妙な記憶のかなたにある家族だから打ち明けることもできない。
このままだとどうなっちゃうか、わかんなくてこわい。
就職ができないとしか思えなくって、大学のゼミの教授に紹介されたところに行ったんだけど、なぜか落ちた。
教授も「まあ、運が悪かったね。今回国立が多かったらしいから」とかよく分からんことを言われた。
だれもかれもに運が悪かったといわれてしまうと、しようがないなあと思うようになった。
いま、就職をあきらめて、別の道を探そうかなあって思ってる。
夜中の車運びも体力ある限りできると思ってる。
おばちゃんに混じって清掃するのも慣れてる。
などなど、現実味のないこと色々考えてるつもり。
イチバン現実味があるのは生活保護ですな、ハローワークでも驚かれる不採用の数にケースワーカーもびっくりですわー。
でもさ。
「運が悪い」だけで正社員になれない自分が、ナニカをやって上手くいくと思えないんだよね。
だから、働くの諦めたいなあって思った。
ネットサーフィンしたり、アイドル追っかけたり、アニメ見たり、腐女子活動したりするくらい。
現状をもって諦めたのは、遠い将来私設図書館か古書店をやる夢をもつ予定だったりもするよ。
自分の周りには内定10個ほど貰ってる人もいて、すごく羨ましい。
どうせ9個はお断りするというのに、「運が悪かった」だけで落とされる自分がすごく惨めだ。
悔しくてたまらん。
自分自身は自分の運が悪いから落ちてるって思ってないし、8月の内定ラッシュまでは頑張ろうと心に決めている。
本当に辛くなって、身が入んなくなっちゃったから、ここに書きました。
つきあってくれてありがとう。
http://anond.hatelabo.jp/20100831203134
はっきり言って、HMV、Right On、ピンクラテ、IKKA、ヴィレッジヴァンガード、ワーナー・マイカル、無印良品がある程度で「擬似東京」なんて言う人がお目出度すぎる。あんなもん、東京資本が中国の工場で作ったものを売ってるだけで、別に東京の文化を売っているわけでもないし、東京の記号ですら無い。確かにそれっぽい服を買ったり、けいおん!のCDを買ったり、特攻野郎Aチームを見に行くにはいいかもしれないけど。でもそれ、別に東京じゃなくてもできるじゃん。
そういうわけで、本当に擬似東京「トーキョーモール」に有るテナントを妄想してみた。
紀伊国屋でも三省堂でもなく青山ブックセンター。今となってはブックオフ傘下となってしまい、スノッブハイソ書店としての地位はすっかり凋落してしまったけど、それでもここで洋書や美術書を買ったり、トイカメラを買ったりするというのは、一種のトーキョー的消費じゃないだろうか。どれもこれもアマゾンで買えるものだけど。
イオンモールがランドマークになるようなクソ田舎で一番文化的にレベルが下がるのは映画。フジテレビとかが制作するような映画とか、ハリウッド大作とかはワーナー・マイカルで十分だけど、ユーロスペースでやるような単館系は田舎じゃ見る機会がない。いや、それどころか「涼宮ハルヒの消失」ですら見れない県は沢山ある。
ここも青山ブックセンターと同じで、アマゾンで買えるんだけど、でもかつての田舎の音楽少年ってここに憧れてたよね。
去年のここの銀座店オープンの時、田舎のおしゃれ好きさんたちが、現金握りしめてならんでたよね。
アップルストアを家電量販に含めるのは間違っているんだけど、扱い的にここ。MacもiPhoneも別にヤマダ電機で買えるんだけど、最上階でやるワークショップとかイベントとかはアップルストアでしかやっていない。
あとは神田古書店街とか下北沢のライブハウスとか秋葉原とか中野ブロードウェーとか色々あるんだけど、それを言い出すとモールじゃなくなるので除外する。
でも僕がくるとカーテンでバリアーを張ってあって中身がぜんぜん見えない。
酷いじゃないか。隠し事をするなんて。
「何でこんなことしてるの?」って聞くと
「日で焼けちゃったりするからね・・・」
とか古書店の店主のようなもっともらしいことを言う。
「ふ~ん」って感心したふりして相手の自尊心を満たしてやりつつ、
カーテンに手をかけると「だーーーーっ!」と雄叫びをあげて静止する。
「なにーーーーーっ!?」ってそれはこっちのセリフ。
本棚を見られたら身体が溶ける呪いでもかけられてるのか、キミは。
「・・・なんか見えた?本?」
ちらっと見えたのが「ムーミン」シリーズ?と辛酸なめ子の本がずらーっ。
「ムーミンは子供のときに親が買い与えたもので別にわたしの趣味じゃない」
「辛酸なめ子はブックオフで安かったから暇つぶしに買っただけで別にファンじゃない」
謎の言い訳タイム開始。「そうなんだ~」と上っ面で納得すると、
「辛酸なめ子にハマるようなぬるいサブカル痛い子だと思ってんだろ~!」とご立腹。
なんじゃそりゃ。やっぱり何かの呪いにかかっているらしい。
怒る理由がわからない。
諸君、私は本が好きだ
諸君、私は本が大好きだ
小説が好きだ
漫画が好きだ
歴史物が好きだ
推理物が好きだ
純文学が好きだ
恋愛物が好きだ
童話が好きだ
SFが好きだ
翻訳物が好きだ
学術書が好きだ
思想書が好きだ
辞書が好きだ
評論が好きだ
ライトノベルが好きだ
ファンタジーが好きだ
ミステリーが好きだ
ノンフィクションが好きだ
文庫で 新書で コミックで 文芸書で 雑誌で 絵本で iphoneで
昔に一度だけ読んだ本に古書店で出会えた時など、心が躍る
生涯に一度出会えるかどうかと思えるかのような小説を読んだ後など絶頂を覚える
結末が自分の予想をはるかに超えた時などはもう最高だ
傑作が読めたなら、その時に死んでも構わない程だ
他人から薦められた本が望外に面白かった時など、感動を共有できた喜びで胸はいっぱいだ
逆に自分の薦めた本が気に入られた時など、自分が褒められたかのように嬉しい
好きな作家が死んでしまった時などはとてもとても悲しい
その人の新しい作品が読めないなど悲劇以外の何者でもない
一日に一度も本に触れられなければそれだけで屈辱だ
たいして本を読んでいない連中がこれ見よがしに、y田y介の本を絶賛しているのを見ると、あまりの頭の悪さに哀れみを抱く
君たちは一体何を望んでいる?
さらなる読書を望むか?
情け容赦ない、圧倒的な名作を望むか?
疾風怒濤の筆舌の限りを尽くし、三千世界の脳を焼き尽くす、嵐のような傑作を望むか?
「読書(read)!読書(read)!!読書(read)!!!」
よろしい ならば読書だ
我々は満身の誠意をもって物語を追い求める、ページを捲る手だ
だがこの山のような駄作の物語の中を耐え続けた我々にただの傑作ではもはや物足りない!
大傑作を!! 一心不乱の大傑作を!!
ならば我々は諸君と私で、総冊数100万の本棚となる
我々を忘却の彼方へと追いやり、眠りこけている連中を叩き起こそう
髪の毛をつかんで引きずり下ろし眼を開けさせ思い出させよう
連中に読書の味を思い出させてやる
連中に文字による感動の味を思い出させてやる
天と地の狭間には奴らの哲学では思いもよらぬ物語がある事を思い出させてやる
一千人の読書中毒の病的集団で
世界の傑作を読み尽くしてやる
第一次傑作羅列作戦(project masterpiece) 状況を開始せよ
征くぞ 諸君
ということで、皆様が今まで読んだ本の中で傑作だと思えた作品を教えてください。