はてなキーワード: 日本人らしさとは
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190117/k10011780351000.html
なんか近年は男に生まれてとことん損した気分。女性を消費したり抑圧したりする文化と殆ど直接的に関わりなく生きてきたくそ雑魚陰キャなめくじなのに性別男であるが為にDQN男性文化の連帯責任をとらされてる気分だ。
こんなコメントが星を集めている。
発信した人を攻撃したいわけではないから名前はのせないし、見つめるべきは沢山の星がついている事実だ。
まさかこんなことでこの気持をみんなにわかってもらえるなんて思わなかったよ。
自分は何もしていない、むしろ品行方正に生きているのに、突然大多数の人間から敵意を向けられる恐怖や嫌悪感が少しはわかってもらえたかな。
助けてほしいと叫びたくても、その叫びすら自らの命を脅かすかもしれない怖さを。
「男らしさ」からの解放は、男のためになる。人から強要されるものじゃない。「女らしさ」と同様に。男女みんなクソみたいな呪縛から自由になって、他者とのよりよい関係を模索しようっつーメッセージちゃうの?
そうそう。
おなじく日本人らしさからの解放もそうだと思うのだけど、そのことに気づけた人はいる?
男性は、粗野粗暴に見えるよう振舞うことを社会に強いられている一面がある。粗野粗暴を男らしさとはき違えさせるクリシェは、荒っぽいことを好まない男性の肩身を狭くして生きづらくさせる
そう。大半の在日韓国人もそのことに気づいている。
だけど一部の在日韓国人らしく生き無くてはならないと思い込んでいる人間のせいで、全体がそのイメージだと思われてしまう。
まさに一部の粗野粗暴な男性のせいで被害を被っている状況と一緒だ。
うれしいね。こんなに理解あるコメントがこんなにも星を集めてくれていて。
ここまで例を挙げても、この問題の根本が同じではないと思っている人間は重篤だ。
だけど、それが大半であることが事実で、だから世界から差別なんてものはなくならない。
それがたまたま自分に向かってきたときに、人は「自分は何もしていない」と泣き言を言う。
違う。
何もしていなかったからそうなったんだ。
世の中だって突然そうなったわけではない。
少しずつ傾いていって、今に至ったに過ぎない。
どうするの?それでもまだ何もせずに「自分は何もしていない」と言い続けるつもり?
美しいストレートの黒髪のままがいいのにとかヤイヤイ言ってるのをたまに見るが、ヒラリーやパリス・ヒルトンデーブ・スペクターマリリン・モンロー等々金髪に染めている有名人は数多く、そもそも大人になっても自前で金髪はほとんど居ないとかで白人の方が高頻度で髪を染めている。
白人の毛染めは信頼を得るためだったりファッションだったりで社会人でもごく自然に受け入れられている。
例えばアニメキャラを見たら日本人の作るアニメは何故白人的特徴のキャラばかりなのかと疑問を持つらしいが、私からしたら鼻が低く顔が平たい日本風のキャラが白人的な顔をしているようには見えない。
宇宙人的な顔の方が近い気がする。
白人がイメージする日本人的なデザイン、ムーランのような黒髪ストレートで肌が黒く目が小さく釣り目一重まぶた、そんなステレオタイプ以外は全て白人に見えるようだ。
そして日本人は白人に憧れているから日本的な特徴ではなく白人的なキャラを作っているのだと勘違いしているらしい。
日本人はくせ毛も二重瞼もたれ目も多いしそこまで肌は黒くないが白人には日本人の多様性は解らない。
日本人からしたらムーランやステイシーヒラノのような顔がお前達の顔だと言われても全くしっくり来ない。
多分茶髪に反発するのも、俺達白人に憧れて日本人らしさを捨てている見苦しい人種だと勘違いしているからだと思う。
しかし日本人はアニメキャラも髪の毛も白人はさほど意識してない、自分達がいいと思うように自由にやっているだけだ。
白人に混ざっている他人種はその人種らしさのステレオタイプにはまらなければ白人にコンプレックスを持っていると馬鹿にされるが、日本ではそうではないだけなのだ。
そもそも白人の思う日本らしさは中国とイメージごっちゃなあやふやな物だし、白人は髪の色やキャラ造形等々で自由に出来るけどアジア人はステレオタイプのアジア人らしくしろよーと言うのは傲慢だ。
https://oriver.style/cinema/tcc2016-cb/
先日東京コミコンが開催され、その中でマーベルの副社長であるC.B.セブルスキーさんのトークショーがあったようだ。
該当の記事には多くのブックマークコメントもついており、皆様々な意見を言い合っている。
しかし、この記事で一つ大きな誤解が生まれており、いくつかのコメントはその誤解のために少し的外れな内容になってしまっているように思える。
本記事ではその点についての私見と他国に日本のコンテンツをどう広めるていくかについて書こうと思う。
■マーベル副社長は「日本人よ、日本にしか通用しないものばかりを創るな」などと言っていない。
まず、大きな誤解を招きかねない原因はこの記事のタイトルに原因がある。
マーベル副社長「日本人よ、日本にしか通用しないものばかりを創るな」
と、でかでかと記事タイトルを掲げているが、記事の内容を見るとセブルスキーさんはそんなことを言っていないのがわかる。
という部分は「世界を目指せ!日本の映画産業は小さくまとまりすぎている」という段落の中でまとめられている。
日本の映画産業は小さくまとまりすぎであるというところ。日本のファン、日本の観客のことしか見ていなくて、海外の観客のことを全然考えていない。日本の監督、映画プロデューサー、映画会社はもっとグローバルにやっていくべきなんですよ。だって、日本にはとても優れたストーリー・テリングの伝統があり、日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから、物事をもっと大きく考えるべき(Think Bigger)でしょう。」
ここでセブルスキーさんが言っていることをよく見るとわかるが
「日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから、物事をもっと大きく考えるべき(Think Bigger)でしょう。」
つまり、日本の映画・アニメ文化的なものが受けないとは決して言っていない。
これはセブルスキーさんも言っているが、過去の実績からも明らかだ。
マジンガーZやグレンタイザがヨーロッパの一部で受けたり、セイントセイヤがラテンアメリカで受けたり、マッハGOGOGOがアメリカのマニアに受けたのは明らかだが、これらの作品が果たして海外を強く意識した作品だっただろうか。
巨大ロボットに乗りながらも、強く苦悩したデューク・フリードはヨーロッパでの受けを狙ったとはとても思えない。
海外で高名な黒澤明や小津の作品がアメリカ風やヨーロッパ風、あるいは中国風の映画だっただろうか。
事実はその全く逆だ。
黒澤が作った作品で恐らく最も有名な作品である「七人の侍」は時代劇ではないか。
侍が出てきて日本刀で百姓と一緒に戦う映画のどこに西洋らしさがあるのか。
小津の映画は全編が静謐としており日本人らしさに満ち満ちている。
明らかに日本人らしさに溢れているにもかかわらずこれらの映画はそのどれもが海外で受けた。
モチーフに西洋風のものを使っていたとしてもその作品の根幹は日本人らしさで溢れている。
セブルスキーさんは現状存在する日本映画のストーリー・テリングの伝統をそのまま貫けば良いといっているだけだ。
ここで注目すべきなのはむしろ、前半の部分で海外の観客を見ろと言っている部分だ。
海外の観客にコンテンツを届けたり、今現在既に存在する海外の観客が何を思っているのか良く考えろと言っているのだ。
それは、コンテンツの内容をアメリカ向けに変えろとかそういう話ではないはずだ。
例えばクランチロールでアメリカやカナダ、ヨーロッパで受けている作品は何かの一覧を発表していた。
なるほど、バイオレンスが好きなアメリカ人らしいと思うが、であればアメリカで物を売りたいのであれば今後そのような作品を積極的に送り出せばいい。
しかし、そこでアメリカ人におもねって、不自然にアメリカ要素を入れたりするべきではない。
我々日本人の考えるバイオレンスさと、ドリフターズで受けいれられた要素を真剣に考えるべきだ。
アメリカのような作品を作りたいと、アメリカのコンテンツを適当にナメタような態度で作ってもアメリカ人の作った作品に敵うわけがない。
生まれたときからアメリカで育ち、アメリカのものの考え方をしている人のようなことを日本で育ち、日本で生活をしているだけの人ができるわけがないのだ。
骨をうずめる覚悟で何年も生活すればまた別かもしれないが、そんな人がなぜ日本の映画・アニメ産業で物を作らねばならないのか。最早意味不明だ。
日本人は日本人でしかありえず、それ以上でもそれ以下でもない。
それはつまり我々の作る作品は日本人的でしかありえずその枠から出ることは決して出来ない。
かならずどこかに日本人的な部分が混じる。
アメリカが世界的なコンテンツを作ることが出来るのはある社会的な前提条件が存在するからだ。
インディアン/ネイティブアメリカンの生活していた文化やヨーロッパからやってきた文化。
そのどれもが並立して存在しており、また映画製作の現場でも多数の民族の文化が交じり合う。
このような状況を無理やり日本に作り上げたいなら東宝や松竹の社長をアメリカ人にして、フランスの映画監督でも引っ張ってくるしかない。そしてスタッフには多数の外国人スタッフを入れるべきだ。
しかし、残念ながら日本の社会でそのような会社を作り上げるのは難しいだろう。
少なくとも主流にはなりえない。
であるなら、我々は逆に日本人的であることを貫き続けるしかないのだ。
これは日本人の文化SUGEEEEEEEEEEEEEとか日本最高!であるとかそういうことでは決してない。
日本で生まれ、日本で育った日本人が「自分のストーリーを語る」とは一体なんなのか?
それを突き詰めると結局日本で生活した人間の目線から見た作品でしかありえないのだ。
例えば、近年東京で増えてきた外国人と日本人の交流・衝突を描いた映画であるなら語れるだろう。
あるいは「シン・ゴジラ」のような日本のポリティクスを突き詰めた作品をもっと作ってもいい。
細部については理解しやすいようにローカライズするのも構わないだろう。
しかし、将来を見据えるならそういったカルチャーの積み重ねによって理解してくれる人を増やすしかない。
海外では日本被れをweeeabooooといって揶揄する言葉も存在する。
では、ハリウッド映画を毎年のようにバンバン見ている私たち日本人はなんなのだ。
そこらじゅうweeeabooooだらけではないか。
もし本当に日本のコンテンツを海外に広めたいのであれば、文化的衝突を恐れてはならない。
海外の人が日本的なものを作って欲しいという要望を出しているのにもかかわらず
なぜか海外的なものをつくらなければならないと勘違いしてしまう事が日本では多発する。
「日本にはとても優れたストーリー・テリングの伝統があり、日本文化はもっと世界に受け入れられるものなのだから」
という発言を聞いておきながら
というタイトルをつけるのは雑すぎるだろう。
もっと日本人の観客の言っていること、海外の観客の言っていることを良く聞くという地道な
今日、被災地支援に於いて千羽鶴が不要だという声があがっている。
被災地への千羽鶴 「いらなかった」の声続出-ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw2152972
これに対してツイッター上では
「邪魔かどうかではなく気持ちを素直に受け入れられないのか。傲慢ではないか」など反感を買っているようである。
被災者の「千羽鶴はいらない」に激怒する人達-togetter
上記まとめ末尾で言われているように、お金という即物的なものを送ることへの抵抗感や
自分は被災者の為にできることをしたという充足感、その両者を得ることができる形として
千羽鶴を送るというのは古来より婉曲表現を好む日本人らしさすら感じるし、そういった考え方を否定しない。
だがその一方で、ソーシャルネットワークなどによる情報共有の簡易化の為に顕在化したのか、
それとも実質的な数値の上でなのかは定かではないが被災地支援における千羽鶴問題は存在するのである。
千羽鶴が一切いらないとは言わない、だが避難所1つに有り余るほどの千羽鶴がある光景を想像して欲しい。
例えば、あなたが不慮の事故や病気によって入院したとき、あなたの病室には家族や親戚、友人が見舞いに訪れる。
そしてその一人ひとりが全員笑顔で千羽鶴を抱えてやってきた時、あなたはどう思うだろうか。
最初はもちろん嬉しいと思うだろう。
でも2人目、3人目の見舞客も千羽鶴を持ってきたら?
俺ら日本人ってそんな略し方しないじゃん。
携帯電話を電話の部分略してケータイって呼んだり、あまつさえガラパゴス携帯電話なんていう意味は通じるけどもよく考えたらわけのわからないものを「ガラケー」って言っちゃうような適当な国民なわけじゃん。
むしろダメな略し方こそが日本人のアイデンティティでしょうがよ。
なんかそこだけアメリカ人じゃん。
「なんかそこだけアメリカ人」っていういい加減さも日本人らしさなのかもしれないけど、なんか受け付けないわぁ。
ロサンゼルスをロスって言ってしまうくらい、取り澄ましてて受け付けないわ。
さすがにアメリカ人はロスって言わないらしいけど。
それを考えたら彼らの横暴は止まるのかっつーと全然そんなことないのはこの10年ほどで嫌と言うほど思い知らされてるわけで。
竹島問題や韓国大統領の発言でにぎわっている中、安易に国交断絶しろなど言う輩が増えてきて人気取りの馬鹿な政治家がその場発言をしないかハラハラしております。
そもそも国交断絶というのは外交カードでもなんでもありません。
国交断絶というのは将棋で例えると盤をひっくり返す行為であり、現在のグローバル社会を考えると宣言国は非難されてしかるべき野蛮な反則行為です。
日韓の関係でみれば、一昔前の磐石な状態とは言えないとしても強固な経済基盤を持つ日本と比べた場合、韓国の布陣は六枚落ちのような状態であり、日本側からそのようなことを行うということはまさに愚の骨頂と言えるでしょう。
日本側が大きく有利な状態なのにわざわざ反則を使うことは理性的であると言えません。
国交断絶まではいかずとも、通商断絶は韓国側から日本に対し行ったことがあるのですが、これも一方的に断絶してきた韓国側から再開の依頼をするというお粗末な結果です。しかも二度。
彼らは家出をしてもおなかが空いたら帰ってくる子供のようなもので、日本側は理性的・論理的に対応していればよいのです。幸いなことに日本は韓国に対して有効な外交カードをたくさん持っています。
国交というのはお互いにとって益のあるものでなければ続きません。しかし将棋で例えたとおり、二国間のパワーバランスは日本に大きく傾ています。
事実、日韓の事情により韓国が国際貿易で得た利益の半分が日本の取り分になるのですから、まさに鵜飼と鵜のような状態と言えるでしょう。
そこで韓国はなんとか自国の利益を得ようと、日本にちょっかい(知的財産などに対する盗人行為)を出すわけです。
このようなことは戦後からずっと続いてきたことであり、何もいまに始まったことではありません。
インターネットが普及して大衆が韓国の行いを知る機会を得て、状況は変わってしまいました。天皇を馬鹿にされ領土を侵され、感情を抑えきれる人間はなかなかいません。
それに加えて、扇情的なタイトルをつけ内容を誇張しミスリードを誘うメディアのやり方は、多くのインターネットメディアも同様で変わることはありませんでした。
日本人として韓国の行為を許せないと思い、感情的に行動してもしかたがないのかもしれません。
日本人らしさという日本人にとって最も大切なアイデンティティが失われてしまうことです。
それは勤勉であったり、聡明であったり、謙虚であったり、誠実であったりと、我々の祖先が代々積み上げてきた大変誇らしく尊いものです。
もちろんそれらが転じて否定的に見える部分もありましょう。
近隣国の日本国に対するおよそ未成熟な所業に対し、感情的になることで日本人らしさが失われようとしています。
野蛮な行為に対して日本人らしい断固とした態度をとるべきで、野蛮な行為で報復するべきではありません。
その点、国際司法裁判所への提訴や信用できない国との通貨スワップ協定の見直しなどは理性的であると言えます。
韓国文化を馬鹿にしたり、挑発行為と理解しながら安易に竹島へ近づくことは愚かしく嘆かわしいことです。
日本の政治家は日本国民が選びます。日本人らしさを失った国民が増えれば、日本人らしさを持たない政治家を多く生むことでしょう。
日本人らしさを失った政治を行う国は、はたして日本と言えるのでしょうか。
特に近頃、空気が冷え込んで来てからは、二人に一人くらいはマスクを着けていると言って良いだろう。
「冬だね!マスクしてもいいよね?」
と言わんばかりにだ。
マスクの一般的な使い方として知られているのは、咳などで風邪を他人に移さないことと、外部からの菌等を防ぐための2つだと思う。
風邪を患うといっても2人に1人という高い割合になることはさすがに無さそうので、予防の為の着用というのが説得力がある方だと私は思うが、
果たしてそれがどれほど効果が期待できるのかは懐疑的である。つまり、予防の為に着けてると言うには着用してる人の数が多過ぎ、又効果の程も怪しいのである。
特に電車内でマスクを着ける人は多いと思うが、ではつり革に触ったあとで必ず石鹸で手を洗う人はどれ程いるのだろうか。
ニコニコ動画やyoutubeで個人作品を見ている人は分かると思うが、アップしている人達の半数はマスクを着用している。
もちろん、ネットに顔を晒すことと日常生活におけるそれは全く異なることだけれども、動画上でマスクを着けるのも不思議なことに日本人だけなのである。
日本人には明らかに、自分の顔をさらけ出すこと対して抵抗を覚えるという、国民的ともいえる性質があると思う。
例えば今も存在しているのか分からないが、日本のヤンキーの象徴の一つはマスクである。
私は、これは彼ら自身を強く見せる為に着けているのではないかと思っている。
表情を読まれることは、自分の弱みを悟られることに等しいからだ。
で、結局のところ一般人がマスクを着ける理由もヤンキーのそれと大差無いのではないかと思う。
日本人は感情表現に乏しく自己主張が弱いと外国人に揶揄されことがある。
個を前面に出してゆくのは日本人の苦手とするところで、常に周りに同化していたいと感じ没個性を望む。
まさしくこれが日本人らしさで、これを適えるのにうってつけなのがマスクなのである、と私は考える。
といってもこれらは全部私一人が考えたことなのでこんなふうにネットで意見すると色々有意な反論も貰えると思うので、
皆さんの意見をお聞かせ願いたい。
引き継ぎもあらかた終わり、普段と同じように仕事のない時間が続く。
外資系にもいろいろあるんだろうけど、これくらい楽で環境の良い職場は初めてだったし、たぶん、もうないんじゃないかな、と思ってる。何か別の、今とは根本的に違う状況にならない限り。つまり雇われる側から雇う側になったりしない限り。
山手線のとある駅から五分程度の好立地(でもあまり開発されていない駅だけど)、約二畳半の広さで俺の背丈くらいの仕切りがあるブース、PCはIntelMac一台、Dellノート一台、Dellデスクトップ一台。シスコのIP電話が一人一台支給。椅子はハーマンミラー製。腰の悪いおれにも心地よかった。クーラーも完備、自販機はあるけどもちろんただ、水もなんか上の方にタンクが付いているやつが置いてあって、おいしいのがいつでも飲める。もちろん当然私服。おれはひげもじゃだしね。
ミーティングルームにはビデオカンファレンス用の設備が備わっていて、ライトアップを何種類か選べ、音楽も流せてすごく心地よかった。クォータに一度は当然会社持ちでケータリング取って、ビールやワインやシャンパンを飲んだり、ホテルを借りてパーティしたり、なども楽しかったな。
正月は半月近い連休、GWも10連休は当たり前、夏休みも当然それくらい、と休みも充実してた。
おれは派遣だったから完全フレックスの恩恵にはあずかれず、その意味では正社員と同程度に満喫したわけではない。正社員は四年に一度、三週間のサバティカルリーブがあったし。有給とかもかなりたくさんもらえてたみたいだし。何よりストックオプション関連が充実していて、高給取りだった。つまりおれは経済面ではそれほど潤ったわけではなかった。
けど、毎日二時間近く昼休みを取っても何も言われず、自分の仕事は自分だけのペースでできる(もちろん報告とかはするけど、普通にやってれば文句は言われない)。誰とも話さなくてもいいし、周りの視線も全く気にならない。エロサイト見てても(みないけど)、ついったしてても、たんぶらしてても。
一番よかったのは、繰り返しになるけど、周りからの縛りがないこと。一人一人にプロジェクトが与えられてそれを遂行する、という形態だったこと。誰かと一緒に、というのはなかった。勿論一つのプロジェクトを分割してやる、というのはあったけど。
それに、大半は日本人だったから、日本人らしさは至る所で出ていた。人事的なことも陰で決まっていたようだし。だけど、それでも今まで働いてきた企業とは風土が全く違った。規模に比して人の数がかなり少ない印象だった。やはりそれは一人一人に仕事がはっきりあって、責任を負わされているというところからくるのだと思う。
で、外資だけに、首を切られるさまも何度も見た。というか、おれ自身、ポジションクローズで辞めるわけだ。つまりおれのやってる仕事自体がなくなるってわけで、後任もいない。でも、実際のところ、おれが上でもそうする。俺は超暇だったからw その意味で恨みつらみはない。判断が遅いって思うくらいで。