はてなキーワード: 反証可能性とは
前半("トリチウムの話も含めてあらゆる科学理論は証明されておらず、すべての理論は仮説だと言えるよ。"まで)は正しい。
反証という日本語は正しくないので帰無仮説と呼ぶ。帰無仮説になる「安全であるない」は一般に状況証拠の積み上げで否定する。
ある集団が健康被害を訴えた。彼らの共通点は処理水を放出した海域で泳いでいたあるいは海域で捕獲された魚を食していた。彼らは内部被ばくをしていた。彼らの体内の三重水素の比率が、そうでない人の体内の三重水素の比率に比べて有意に多い。
これは直接的に海洋放出が健康被害の原因であることを示すものではない、いわゆる状況証拠であるがこれでよい。
「安全である」は「安全でない」を統計的に否定したものなので、帰無仮説成立の可能性を有意水準の範囲で否定できなくなった時点で「安全である」とは言えなくなる。
そうやって今までの四大公害や食中毒や得体のしれないものの原因を突き止めてきた。最近では沖縄米軍基地や横田基地のPFASが記憶に新しい。
海域モニタリングも同じ話。現在多くの国が原発処理水を放出し続けている中で
今後のモニタリングで異常値の原因なんか特定できるはずもない。
仮に今後異常値が出たとして、「処理水放出が原因とは断定できない」というしかないんじゃないかな。
(冒頭で正しいと書いた)前半部分では一般的な方法論を述べているにも関わらず、ここにきてケース固有の現実の技術水準の話にすりかえている。
特に海域モニタリングについては、主観の域を全く出ていない。異常値が出たら放出口近辺を調べることによって放出が原因か否かを科学的(確率的・統計的)に判断することができる。
危険の判定を下すことは十分に可能(否定の根拠が増田の主観でしかない)なのでこれ以降は語る必要がないのだが、以下については論理に飛躍があり過ぎるので一つずつ潰しておく。
処理水放出が危険だったという判定を下す、つまり反証をできないのであれば、反証に繋がりそうな事例を否定するに終止するしない。
反証可能性は否定できていないので事例を否定するに終始する必要はないし、むしろ被害者救済を担う国は早く見つけたいだろう。
「処理水放出は安全である」という主張は、そもそも確率的/統計的なもので絶対ではない。科学とはそういうもの。
従って、健康被害が発生した場合は政府として何が原因なのかは当然調査することになる。システムのフェールなのかそもそも構造的にトリチウムで健康被害が生じないというのが誤りだったのか。ただし、ことトリチウムに限って言えば実績が十分にあり過ぎるので、否定されることは考えにくいが(もちろん絶対ではない)。
①処理水放出は科学理論だよ。主張する当の日本政府がそう言ってるよ。
①言いたいことはわかるが正しい日本語を使いましょう。処理水放出=科学理論って何ですか?
③状況証拠の積み上げだよ。工学に数学のような厳密な証明は必要ないし一般にできるとは限らないから詳細なメカニズムの解明は後で十分だよ。その状況証拠を統計的に否定する責任は東電と政府にあるので第三者は詳細メカニズムの解明までする必要はないよ。
https://anond.hatelabo.jp/20230908154902
を書いた者だけど、反証可能性という概念自体がイマイチ理解されてない気がするので
あくまでも例であって、トリチウムの安全性や危険性について述べたいわけではないので注意してね。
その根拠は今までに理論及び実験で確かめられたトリチウムという物質の性質、
https://www.kaiseiken.or.jp/publish/reports/lib/2022_27_12.pdf
この命題の偽は「トリチウムは生物濃縮する」であって、例えばトリチウムの蓄積量が有意に多い海洋生物が発見されて、
それが生物濃縮の結果だったことが判明すれば(そんな簡単な話でないことは承知の上で)
「トリチウムは生物濃縮しない」という命題は反証されたことになるよ。
この元の理論が間違いである可能性、元の命題が偽である可能性を反証可能性と言います。
例えば「トリチウムが生物濃縮がされないことは理論によって証明されている」だと、
トリチウムに関する実験も観察もその後一切行われないことになる。だって証明済みなんだからそんな事する必要ないでしょ?
たまたまトリチウムの生物濃縮に繋がりそうな事例が発見されてしまったら、
いかにその発見が誤ったものか、価値のないものという攻撃に終始するようになる。
こういうのはみんなが知ってる科学じゃないよね。
科学は新たな知見を取り入れながら、より正しい理論のあり方を追求するものです。
いま通用している科学理論は反証される余地がありながら反証されていない事実を持って、
その正しさを示していることになる。
なのでトリチウムの話も含めてあらゆる科学理論は証明されておらず、すべての理論は仮説だと言えるよ。
(個人的に証明という言葉は、厳密な意味では数学以外の分野では使えないと思う)
では本題の「処理水放出は安全である」という命題だけど、これも上のトリチウムの話を含め、
この理論の反証は「処理水放出は安全ではない」だけど、この命題、どうやったら証明できる?
元増田でも書いたけど、今後太平洋沿岸で海洋生物摂取を要因とした健康被害が発生したとして、
どうやってそれが2023年日本の海洋放出が原因だと断定できる?
海域モニタリングも同じ話。現在多くの国が原発処理水を放出し続けている中で
今後のモニタリングで異常値の原因なんか特定できるはずもない。
仮に今後異常値が出たとして、「処理水放出が原因とは断定できない」というしかないんじゃないかな。
つまり「処理水放出は危険だった」という判定できる条件が見当たらない。
となると日本政府は今後のいかなる関連事象に対しても処理水放出は危険だった、という判定を下せないわけだよね。
で、ここで一つ考えていただきたいんだけど、
「危険」の判定を下せない審判の出す「安全」という判定って、何か意味があるの?
処理水放出が危険だったという判定を下す、つまり反証をできないのであれば、反証に繋がりそうな事例を否定するに終止するしない。
そうすると日本政府による「処理水放出は安全である」という主張は、
「今後処理水放出による健康被害は政府として一切これを認めない」という政治的なステートメントになってしまうんだけど、
なので処理水放出安全論を唱える人は、いかなる条件を満たせば元の命題が反証されるか教えて下さい。
上で私は無理だ、といったけど、健康被害者の調査または海洋モニタリングの結果から処理水放出が危険だと判定できるならそれでもいいです。
まとめると
①処理水放出は科学理論だよ。主張する当の日本政府がそう言ってるよ。
②科学理論であれば反証可能性を持つはずだけど、現状は反証される条件が見当たらないよ。
③なので日本政府またはその主張の支持者は、反証されうる条件、処理水放出が危険だったと認めうる条件を明示してね。
です。
以上、id:p__o__n でした。よろしくおねがいします
音楽や美術には対位法なり遠近法なりを体系的に包括した理論があるのに対し料理には理論と呼ばれてるものがない。
栄養学とか家政学はあるが料理すること自体の学問がないのが気になる。
学問として料理学なるものがないのと料理に理論と呼ばれるものがないのはリンクしてる気がする。メイラード?反応のような化学の成果の援用ならあるが、料理人が料理人の視点で発見したものの集大成としての、客観的に共有可能な形でよりよく作るための技法みたいなものは理論化されていない。どんなにプロ向けのレシピ本も専門書扱いはされてても学術書扱いされてない事がそれを裏打ちしている。
しかし冷静に突き詰めて考えるとたとえばゲーム攻略本は学術書かもしれないと思う。
編集者が誤認してない限りはゲームの挙動に関する事実しか書いてないし、記述内容に対する反証可能性もゲームをプレイするという形で明確に開かれているからだ。
ゲーム攻略本でさえそうなのなら学術書かどうかの判定基準のハードルは案外低く、レシピ本も学術書たりえるのかもしれない。じゃあ料理は学術書はあって理論はなくて学問ではないということになるのだろうか(料理は科学とはよく言うがこれを額面通りに受け入れると馬鹿を見る気がする)よくわからない
科学教育に携わるのであれば、ポパーの反証可能性やクーンのパラダイム論といった古典的な「科学とは何か?」という議論は基礎教養として通過しているからである。
それらの授業は必修じゃなく選択科目だった。教養としてはとても面白く有意義だったが、必ず基礎として習得しているはずだと考えるのは自己の経験を盲信している。
私が残りの一人ということになるのか? あなたは自分の誤読に奇妙な自信を持ちすぎている。
「その一回の行為では問題なくても、繰り返すと有害か」という意味だろう。
これでは大学教員どころか小学生の作文だろう。すべての誤りを指摘するのは時間の無駄なので、次の一文だけを取り上げる。
「科学的に無害」だが「長期間繰り返すと有害」とはどういう意味なのか?
1000人に読ませれば999人が意味不明だと答える文章であろう。
前の段落を読むと、著者は「科学的に」を「ある特定の条件下では」という定義で使っていると推測はできる。
だが、理系の大学教員が「科学的」という言葉をこのような限定的な意味で断りなく使うことは考えられない。
科学教育に携わるのであれば、ポパーの反証可能性やクーンのパラダイム論といった古典的な「科学とは何か?」という議論は基礎教養として通過しているからである。
一般的な用語をあえて一般的でない意味で使うなら必ずそれを言明しておかなければならない。
誰でも子供の頃に単語の意味を自分で「発見」して、妙な使い方をして笑われたことがあるだろう。この文章は「科学的」という言葉を自分で「発見」した文章である。
ここで分かるのは、筆者は大学教員としての最低限の知識を備えておらず、学ぶ意欲もないということだ。
そもそも、文章の核となる単語を明確に定義するという基本ができていない。
大学教員として当然有しているべき論理的な文章を書く技術も修得していないことが分かる。
ここから言えることは、著者は大学教員としての最低限の知識も技量も足りていないということだ。
自分の手で理論を組み立て、実験して、何が信ずるに値する事実なのか、どうすれば後進にそれを伝えられるのか、そうしたことを真摯に考え、先人に学ぼうとした者の文章ではない。
この文章から浮かび上がる著者の人物像は、科学の盲信とやらに一言物申したいが、科学を成り立たせるシステムについて真剣に学ぶ意欲はない人間であろう。
学びを放棄したまま生煮えの科学観をひけらかすのは個人の自由だが、「大学教員」を騙るのは明らかにやりすぎであり、不誠実の極みと言わざるを得ない。
以下に「大学教員」のための参考文献を掲げる。今後の学びに期待する。
「拷問」を告発した警察官の夫は逮捕され、異常者扱い――105歳が語る「冤罪」の長い苦しみ
県警は拷問を告発した山崎刑事を偽証罪で逮捕し、検察は精神鑑定で「妄想性痴呆症」の結果が出たことにより山崎刑事を不起訴処分にして、警察は山崎刑事を懲戒免職処分にした
なお、山崎刑事の自宅は1961年3月14日昼、不審火で焼失。二俣事件関連の書類も全て燃えた。小6の次女と小3の次男は「長靴の男が入るのを目撃した直後に火が出た」と証言したが、警察は次男を補導して犯人扱いし尋問した。火をつけたことが立証されなかったため次男の身柄は解放されたが、この不審火については未解決となった。山崎兵八は運転免許があるので、警察を辞めてもトラック運転手で生計を立てるつもりだったが、精神障害と診断されたために免許を剥奪された。
「所謂変質状態ノ基礎状態テアル生来性神経衰弱症」「表面柔和ニ見イナカラ内心即チ無意識界ニハ残忍性『サディスムス』的傾向ヲ包蔵シテ居リ両極性相反性ナル性格的傾向ヲ顕著ニ示ス」と鑑定した
1952年 5月31日 控訴審終了。Nに懲役15年の有罪判決。
1981年 4月27日 青森地裁弘前支部で一審終了。Nが部分勝訴。
足利事件菅家さんが刑事補償請求 再審無罪で8千万円 - 47NEWS(よんななニュース)
福島章教授が足利事件の精神鑑定録音テープを破棄した心理 : 少年犯罪データベースドア
犯行動機の構成と成員カテゴリー化実践 : いわゆる「足利事件」における精神鑑定をめぐって 大貫挙学 東洋大学非常勤講師 松木洋人 慶應義塾大学大学院
松木 洋人
大貫 挙学
陰謀論とかって理屈でちゃんと反論しようとしたら難しいんだよね。反証可能性って言うの?知らんけど。
それを一蹴する時って別に論理的にどうのというよりは、今までの人生で得た常識とかバランス感覚に照らし合わせた上で「ま、ないやろ……」とか「考えてもしゃあないやん」みたいにいなしてるんだと思う。
むしろ下手に論理的に考えようとするとハマるんじゃないかって思うよね。
まあ自分で考えてみるっていう事は大事だと思うけどね。例えどツボにハマるかもしれなくても、そうしないと自分の人生って自分のものにならいし。
でも全部の事柄について自分で考えたいかっていったらそうでもなくて、大切な事もあればどうだっていい事もある。
おれにとって朝どんな服を選ぶか、どんな映画を観るかは重大なこと。それは自分で考えて選ばなきゃ意味がない。
でもどの球団を応援するかはどうだっていい。そもそもプロ野球見ないし。阪神ファンの友達と一緒に球場行けば阪神を応援するし、巨人ファンでも同じこと。
PCのスペックだってどうでもいいから適当に常識的な価格帯で選んでる。
人生に関わる、生きがいにまつわる事は自分で決めたいけど、別にどっちだっていい、どうでもいい事はいちいち考えるのもメンドクセーし、そこは常識や外部に判断を委ねてるというか、思考をアウトソーシングしてる。
風邪をどう治すかのプロセスなんかどうでもよくて、治りゃいいんだから医者の言う事を聞いてりゃいい。実際今までそうやって治してきた。
確かに健康状態は大事だけど、自分で医学を志してまで科学的な正解や自分なりの納得を得たいとは思わない。
でもワクチンを打つ打たないとかあの政治家は宇宙人に違いないとか真実を伝えければみたいなそういう話に異常にこだわりたい人もいて、そこん所は不思議な話だよね。
こういうのを反証可能性がない主張というわけ
宗教進化論説か。確かにその立場は宗教の正しさを保証したりはしないけど、しかしだからと言って生き残った宗教の内容が正しいとも正しくないとも主張できないはず。次の部分がミスリーディングっぽい書き方に読めた。
進化論と同じ考え方なの。
私は進化論と同じ考え方をとってるの。って意味だよね。同じ考え方を取るべき、ではなく。
宗教進化論説の立場自体は批判できないと思う。反証可能性がない——進化的に見ることができない場合はこうなるはずだ、という事ができない。ただ、結論自体には疑問がある。宗教にも中立進化説的な形質があるかもしれない。人々に広まっていく間に、宗教自体の存続に影響しない部分が偶然に生き残り、いまに伝え得られてるかもしれない。だとすると、そのような宗教の教義が現代でも有効に働く可能性は否定できない。正しい教義はあり得る。
定義が出来ない、または反証可能性がない言葉で相手を批判するやつは、貴様が相手のことを妬んでたり気に食わないだけなのを自覚しろ。
誤解のないように最初に書いとくと、俺自身、「現代」の先鋭化した「フェミニズム」「ツイフェミ」には反対だし、個別の論者も言ってることとやってることがちぐはぐ過ぎるしカルト化しているとも思う。ただ、対抗する動きとして出てきたアンチフェミニズムはどうかというと、ここ最近のネット論壇は一見説得力があるけど、どこかおかしい議論を展開する論客が支持を集めているように思う。
特に影響力のある筆頭としては白饅頭氏あたり?アンチフェミニズムにとどまらず女性憎悪を煽るような言説を(有料Note内で)ばらまいてるし、支持者も少なくないぽく見える。小山晃弘氏は女性の立ち位置に幾分理解を示してる分はマシだけど五十歩百歩。他にもその手の論客を挙げればキリがないのだけど、彼らの共通項を一つ上げるなら「疑似科学」や「疑似論理」を用いて巧妙に「だから女性が悪いのだ」「男性は迫害されている」という方向に持って行きたがることに尽きる。たとえば「現代日本では女性の幸福度の方が男性の幸福度よりも高い」ので「男性の方が差別されている」のだ、という一見もっともらしい言説が彼らの間では普及しているけど、全くもって論理的じゃない。
実際問題、幸福度に大きく寄与しそうなファクターとしては孤独でないってことが挙げられると思うのだけど、女性の方がコミュニティを作る性質が強いので男性より幸福度が高いかもしれない、とかいくらでも他の可能性は思いつくのに、女性を仮想敵にする言説ばかりをやたら量産している。あるいは、進化心理学を援用した男女の性差議論もだいぶ怪しい。そりゃ、そういう風に説明しようと思えば説明可能かもしれないが、どう考えても反証可能性がない。
もちろん、他の哺乳類でも男女の能力に性差があるように人間でも男女の性差は色々あるのは間違いないけど、彼らはとかく議論を単純化して女性を悪魔化する方向に持って行きたがる。「女性の他責性は本能的なものだ」みたいにね。それでいて、白饅頭氏も他の論客も不要な分断を埋めようみたいなことを嘯くわけで、分断を煽ってるのは一体誰なんだろうとは思う。下手したら、今のいわゆるツイフェミよりも性質悪い存在になりつつあるんじゃない?くらいには思ってる。