はてなキーワード: はなとは
真に男女平等の名の下に犯罪を防ぎたいのなら、切符購入の時点で自身の性別を選択可能なようにして、割合で男性女性の境界を車内で定めるべきだ。
また、現状の女性専用車両については何の法的根拠はない。車両が混んでいるなら無理をせずに男性も可だという事を世に知らしめるべきだ。
ペテン師としては何も変な事は言ってない、昨日言った事を今日翻すのが今のトレンドだからこれくらいは真顔で言い切れないと真のペテン師にはなれないんだよきっと。
しらんけど。
震災復興を一刻も早く目処立てて退陣するって言ってるのに環境対策云々で継続してやっていきたいとか言ってるのって、つまり震災復興はあとまわしにすればそれまではやめずにやれるから矛盾してないよ、ウソ言ってないよって事なのかな?
そんなに使わないからこそ、家庭で持ってた方がいちいち業者用借りるより安上がりなんだろ。
そもそもここで指摘されてるのは、不可欠な生活ツールとして所有してる田舎暮らしの人の話ではなく
それ以外の部類の所有の話ないだろう
anond.hatelabo.jp/20110603094911での
から。
「一人っ子政策」と「赤ちゃん製造工場」は同じようなものであり前者は後者と比較する例えとして相応しいと考えているんだとしたらそれはそれで。
「『女の赤ちゃんは捨てられたり売られたりしてるのかね』という言葉が出るシチュエーション」の1例。
(っていうかどこに比較してる箇所があるんだ?)
『女の赤ちゃんは捨てられたり売られたりしてるのかね』という推論には
その推論が当たりであれ外れであれ
あー
この間もちょっと孤独や閉塞感で胸がいっぱいになってた時に
ジムで知らないおっさんが話しかけてきてフォームとかいろいろ教えてくれた。
それではっきり自覚を得たんだけど
おっさんに親切にされたりすると些細なことでも本当に嬉しかったり胸が温かくなったりする。
美術系じゃない大学で進路や毎日に悩みながら美術室で絵を描いてたときにも
初めて見かけた40ぐらいの無愛想な教授か講師が急に本を見せたり指導したりしてくれて
帰り道に誇張じゃなく涙ぐみながら歩いた。
辛い時に励ましてくれたり力になってくれたりしたのはみんな
知己のおっさんや見ず知らずのおっさんだった。
人生から得たフィードバックとして、自分は女の人よりおっさんが好きだ。
おっさんに励まされたりおっさんに感謝したりする話は少ないというか、ほとんど無い。
男が苦境や悩んだ時に支えてくれるのは女の人、と決まっている。
これまで女の人から受け取った励ましのようなものは心のこもっていない社交辞令である。だから心に響かなかった。
おっさんからは心のこもった励ましを受け取ることがあった。
本当は若い男に親切なのはおっさんなのであって
お話の中で女の人の言葉が男の励みになるのはただの恋愛商業的な広告会社の陰謀である。
おっさんと若い男の心の交流なんてものはむさ苦しく商品にならないので黙殺されている。
心理学的な穴埋めの何とかかんとか。
ただ、一応自分は父親が健在だし仲も悪くない。
ジム行ってるぐらいだから筋肉には関心あるけど肉体美的な意味ではやはり若い方が美しいし。
何か心理分析してくれる人は居ますか。
堂々と付けたらいいと思うよ。
ただ君が煽られるのはなにか別の要因があると思う。
普段運転がヘタなんじゃない?
うまいやつなら
「お前でもバックモニター付けるのか!」「うん、あったほうがいいだろ」
で済む話。
ヘタな自分を自覚してバックモニターを付ける姿勢には敬意を払うけど、
だからといって煽られるのが収まるわけじゃないと思う。
なぜかというと俺は戦争の均衡や継続による恩恵ではなくて、純粋な心を優先しているから。そういう人から見ればお前らの維持してる均衡は何もありがたくないと理解できるはず。つまりお前らの大嫌いな子供に政治的実権を握らせようというのが俺の目論見だ。分かりやすいだろ。
フィクションにおける古代文明はわりと人類共通の「黄金時代神話(昔はよかった神話)」によるもので、
「黄金時代」の言葉のルーツはギリシャ神話である。ヘシオドスの『仕事と日々』によると、かつてクロノスが神々を支配していた時代が、黄金時代である。
黄金時代には、人間は神々と共に住んでいた。世の中は調和と平和に満ち溢れて、争いも犯罪もなかった。あらゆる産物が自動的に生成され、労働の必要はなかった。人間は、不死ではないものの不老長寿で、安らかに死んでいった。
その後、ゼウスがクロノスに取って代わると、黄金時代は終わりを告げ、白銀時代が始まった。白銀時代の人間はゼウスに滅ぼされ、青銅時代が始まった。以後、神話の英雄が活躍する英雄の時代、歴史時代である鉄の時代と続くにつれ、人々は堕落し、世の中には争いが絶えなくなった。
そうした理想郷が崩壊した理由を行き過ぎた科学に求めるのはSFの手法で、人口に膾炙したのは Final Fantasy のようなRPGゲームの影響が大きい。また、日本社会はアニミズムに親和性のある社会だったし、RPGゲームが出た頃には初等教育で公害問題を学ぶのが普通になっていたので、「理想郷が崩壊した理由を行き過ぎた科学に求める」ことの下地はあった。
Final Fantasy は、「奇跡の力を独占・横領する、あるいはそれを使うことで暴走する」存在が倒すべき悪として描かれているが、これはニューエイジ思想がファッション化され、エンタテインメントに組み込まれたもの。根底にあるのは科学に対する不信感。正確には科学に対する期待外れ感。これは、マルサス的な人口容量の限界を感じる精神と表裏一体。
科学に対する期待外れ感がフィクション作品にどのように反映されているかは岡田斗司夫「失われた未来」あたりで。
今、生き残っている文明は、環境負荷の増大による文明崩壊リスクを人口制限や科学技術の進歩で乗り越えてきているので、TYPE-MOON作品の「抑止力」と呼べるような精神性を持っているように思う(オカルト的発想だけども)。それがフィクション作品に「古代文明の崩壊」という形で表象している。
これが教育現場で通っちゃまずいよ。
残念ながらそれが「通って当たり前」だと本気で考えてる人がまだまだ多いのが現状なんだよね。
Twitterとかmixiとかでも、さすがに少数派ではあるものの、少数派故に極端に先鋭化してる筋金入りばかりが残ってしまってる。
これが通ると、たとえば極右思想に凝り固まった教師が歴史の授業で生徒に要らん事吹き込む事も合法になりかねないんだけど、彼らはそういう所にまでは想像力が全く働かない。どちらも公務員が職務より自身の思想を優先する事態に変わりはないはずなのに。
石原や橋下が増長しているのも、リンク先の人ような対抗勢力が世論に支持される(自分の支持者が減る)可能性が限りなくゼロに近い事を熟知しているからだろう。
だから、「対抗勢力よりちょっとだけマシ」なレベルまで横暴を働いても大丈夫だと思っていて、実際それは大体その通りになってしまっている。
それはただのおっちょこちょい、ボンヤリ野郎なのは間違いないけど
「女の子が生まれたら捨てられたり間引かれたりしてるのだろうかね」って言う。
で、君の論理に言わせればこの発言は、俺の、女を無価値とみなすミソジニー根性の証明ということになる。
でもこの発言には俺の女の子への評価は含まれていないよ。
「この国、この状況、この『市場』では、女の子は人気がないだろうかね。」
といってるだけ。
これぐらいの論理や理屈もわからないのに人のコメントに差別を見出して裁いちゃいけないんじゃないかな。
これも凄い発言でねえか?
「女の家政婦や売春婦としての価値に思い至ってないからこいつは女性差別主義者だ」ってかい?
本物のミソジニーの人はむしろ女のそういう利用価値については敏感なんじゃないのかね。
君の発想傾向の方が、ブコメのおっちょこちょい野郎より、ミソジニーのヶが見えるんだが。
君の性別がわかる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110602-OYT1T00921.htm
これはもう異次元過ぎてついていけないよ…
こういうのも多様性の一端として希少価値を認めるべきなんだろうけど
きわめて民主的な、正規のやり方に則った不信任
↓
↓
↓
不信任案が否決されたら「やっぱやめません」と言い出す総理
さすがにこれは
民主主義を踏み倒してるのも
難局を悪用したのも
茶番やってるのも
菅総理だと思うんだけど。
大体菅さんは大地震が起きるまえから窮地にあって、大地震に救われた。
大地震のせいで政局がストップしなければもうとっくに辞任だった人だよね。
だいぶ待って今不信任案を出すのの何が「難局を悪用」なんだろう。
もうまるではてなーがなに言ってるのか理解できない。
ネットを見て回っても今回の件について「菅側が正しい」といってるのははてなだけだった。
多様な意見はそのままにしておいたほうがいいのだろうけど
確かに、昼に速報で辞めるようなことが流れたけど、
実際本人の発言をよく聞くと、そんなこと一言も言ってないwww
と言うか、どうにでも取れる微妙な発言なんだが、プロとしてのメディアにとっては
その事実に気がついたのがあまりにも唐突かつ脈絡の無いことだったので、わたしは心底びっくりした。
夜中に一人でテレビを見ていた最中のことだった。マグカップに紅茶を満たして、いやにCMが挟まれるアクション映画を眺めていたわたしは、ふいにわたしという内実が空虚であることを悟った。
それはもう天啓というか、ピンと光り輝く雫が頭の上に垂れてきたような発見であり、驚愕に眼を見張るだとか愕然のあまり硬直してしまうなんていう身体的反応をも許さず、呆れんばかりの正当性でもってわたしの身に降り掛かった。否定することも拒否することも叶わない。ただひたすらに、ああそうなんだ、と納得することしかできなかった。
わたしという人間は、その精神の底に到底見過ごすことのできない黒穴を孕んでいる。穴は、いわば吸引力を持たないブラックホールのようなもので、わたしが見たり聞いたり触れたりして得た感動なり情動をするすると呑みこんでいってしまっている。
思い返せば、わたしは誰かからよく冷めやすい性格をしているよね言われたことが多かった。マグカップをサイドテーブルに置いて記憶の糸を手繰り寄せてみると、出るわ出るわ、級友や部活友達、先生やサークルの仲間、同僚や上司からも、冷めやすい性格であることを示唆する言葉をたいへん多く頂戴していた。
家族からも頻繁に言われていたくらいだった。ぼんやりと映画を眺めながら、わたしはわたしの中にぽっかり開いた黒穴を意識してみる。
膨らみを持った円筒形のわたしの底に、黒い点がちょこんと穿たれているようなイメージ。上の方から注ぎ込まれたたくさんの感情は、円筒形のわたしに認識されながら、やがて黒穴へと近づいていく。ぎゅーっと引き伸ばされるように圧縮されて、底の見えない穴の中へと落ちていく。
なるほど。確かにそういうことになっている。それは紛れもない事実だった。確認はできないけれど、わたしはどうしようもなく確信してしまったのだ。気付かされて、受け止めてしまった。わたしの中にはびっくりするくらい何でも呑み込む黒い穴が存在している。
わたしは、助け出したヒロインを目の前で殺されてしまった主人公をぼんやり見やりながらふと、黒い穴に落っこちた感動や情動はどこへ行ってしまったのだろうなあと思った。わたしの中にある黒穴に落ちたのだから、当然わたしの中にまだ残っていてもいいような気がするのだけれど、なんとなくそれは間違いであるような気がしてならない。
なにせわたしには、受け取ったはずの感動を絶対的に手放してしまっているという実感があったのだ。いや、実感などというあやふやな判断で論じなくてもいい。事実として構造上わたしはそれらのものを汲み取ることができていないのだった。
記憶として、あるいは思い出としてならば、確かに追想することは可能である。感傷に浸ることだってできる。身悶えするようなこともいくつかは経験してきたのだから、そう言った記憶を思い返すことなら、わたしにだってきっとできる。たぶん絶対にできる。
でも、追体験だけは絶望的に不可能だ。わたしはその時その時で落ちゆく感動を確かに観測してはいたものの、それがいったいどのような感動なのか、どのような実像を持つ『もの』であるかを、記録すること以外に汲み取ることができなかった。いつどんな時であっても、わたしは落ちゆくものどもについて、実体があるものとして肉体的精神的感覚で感じ取ることができなかった。
つまるところ、それらの経験はただただわたしの前を通りすぎていっただけで、最終的に穴に落っこちたのだ。その先のことは全くわからない。どうなってしまったのかなんて今まで考えたこともなかった。
どうしてなのだろう。どうして穴の奥のことがわからないのだろう。考えて、わたしは黒穴の底を覗き込んでみようと意識を傾ける。わたしの中にある黒穴。きっと見つかると信じていた。目の前の画面では派手な爆発が断続的に生じている。誰かが大声で叫び声を上げている。紅茶は半分ほど飲んでしまっていた。結局黒穴の底はちっとも見通せなかった。
不思議なものだ。少し疲れたわたしは眼を閉じて深く息をついた。それからもう一度、不思議なものだと思い直す。わたしの中にあるはずの黒穴は、わたしではないどこかへとその穴をつなげているのである。その精神的構造上の不可思議さが奇妙だった。わたしはわたしとして今ここにいるはずなのに、そのわたしの中にわたしではないどこかへとつながる穴が開いている。わたしはわたしであるはずなのに、同時にわたしでない何か、あるいはどこかを内包している。受け皿としてわたしは、決してその穴の行く末を確認できず、ただただ呆然とすることしかできないのである。
すごいな。素直に感心した。わたしとわたしの中にあるわたしじゃない黒穴との間に生まれた関係性にひれ伏さんばかりに感心してしまった。不思議なことがあるものだ。三度そう思ってわたしは紅茶をすする。ずるずるずるずると。たいへん美味しく頂く。上手に淹れられたのだ。少なくなっていくのが惜しいくらいだった。空になってからも、寂しい気がして紅茶を吸い込み続けた。どんどんどんどん、吸い込み続けた。するとマグカップが、マグカップを持っていたわたしの手のひらがきゅーっと引き伸ばされて口の中に流れこんできた。音もなくわたしはわたしの身体を呑み込んでいく。するするするすると呑み下していく。右手を、肘を、肩を。喉は一度も嚥下していない。それでも勢い良くずずずと呑みこんで、右胸を下半身を、左脇腹を胃を肺腑を心臓を左腕を両耳を頭蓋を眦を鼻頭を、どんどんと口の中に含んでいく。
ついには口まできゅるるんと吸い込まれて、わたしはわたしの中にあった黒穴になる。黒穴がわたしで、わたしは黒穴の中にありながらまたその中に黒穴を抱いており、何度も何度も吸い込み吸い込まれていくことを繰り返している。
わたしという内実は空虚なのだ。
一際大きな爆発音と閃光がテレビから発せられた。はっとして我に返る。いつの間にかマグカップを手にしてぼんやりしてしまっていたようだった。
映画の中で助けだしたヒロインを主人公が抱きしめている。この先彼女は殺されるのだっけ。思ってぼんやり見ていたけれど、結局最後までヒロインは死ぬようなことはなく、悪役は倒されて幸せなエンディングを迎えることができた。
チープな物語。あんまり面白くなかった、と感想を抱きながら、淹れてから一度も口に付けなかった紅茶を飲もうとマグカップに手を伸ばした。
今すぐ消費税の公平性の話をしよう - 赤沢 良太 (アゴラ) - Yahoo!ニュース
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110602-00000002-agora-soci
この記事を読んで、世間の消費税の問題点の的外れさが気になったので書く。
世間一般的に消費税のことが語られるとき、次の2点が論点に出ると思う。というかこればっかりだ。
確かに理論的にはこの通りだ。が、それは机の上でのお話に過ぎない。ここで挙げる問題点に比べたら逆進性なんて小さな問題でしかない。
現実を見たらこんな理想論はどこにもない。消費税なんて無くなってしまえ、と思うに違いない。
まず最初に消費税の仕組みをおさらいしよう。ただし、理想論でのお話だ。
消費税に関しては、消費者は税の負担を追うけれど直接納付するわけではない消費税は間接税だ。では誰が納付するか(納税義務を負っているか)というとその消費税を預かった事業者である。
事業者は預かった消費税を消費者の代わりに国に納付するわけだけれど、事業者自身もモノを購入するような消費者の一面を持っており、消費税を支払っている。
事業者Aが支払った消費税はまた別の事業者Bが納付するわけだから、その分2重に納付されてしまわないように、自分が預かった消費税から自分が支払った消費税をさっ引いて国に納付することになる。
このように事業者間で消費税のリレーが行われ、末端の消費者が負担した消費税が国に入金される、というのが消費税の仕組みである。
机の上のパズルとしては非常に合理的に見える。
このようにして、「消費税ってのはうまくできてるんだよ」という説明で終わってしまっているが、それはある特殊な前提があった上でのお話だ。
その前提は、
というものだ。すべての取引に消費税がかかるのであれば、先ほどの仕組みは簡潔でスムーズにわかりやすい。
「えっ、違うの?」と思う人も居るかもしれない。消費税が全然理解されていない、いい証拠だと思う。
しかし、消費という感覚にふさわしくないとか、政策的な目的などから、消費税が課せられない取引が存在する。
給料の支払いや土地の売買、社会保険診療だったり、住宅家賃だったりが代表的なところだと思う。
これらの取引には消費税が課せられないが、これらを生業とする事業者はそこら中に存在する。
とある大家さんがいて、マンションの賃貸(消費税ナシ)と事務所の賃貸(消費税アリ)をやっている。
先ほどの消費税が国に入金されるまでの流れにこの大家さんを当てはめてみると、大家さんは、事務所家賃で預かった消費税から自分が払った消費税をさっ引いて納付するわけだが、大家さんが支払った消費税はマンションの修理代だったり、事務所の修理代だったりするわけだ。
ここで、「アパート修理代の消費税はさっ引いていいのか?」と疑問を持って欲しい。
事務所修理代についての消費税はそれに相応な事務所家賃という形で預かることになる。まさしく「預かったんだから納付する前にさっ引くよ」なのだ。
だが、アパート修理代についてはどうだろう。消費税を払うことは払うが、預かる消費税も存在しない。まさしく、大家さんが消費税を負担しなければならない状態になるのだ。
これを、アパート修理代の消費税をさっ引いてしまったら「預かってないけどさっ引くよ」という訳のわからないことになってしまう。
こういった問題があるため、消費税の納付額計算上もさっ引かせないように仕組みを作っているが、取引量を考えるとそんな個別に区分けなんてすることができないので、なぁなぁにされている。
基本的に、真っ黒以外は事業者有利なところでやっているのが現実だ。
消費税は↑のような面倒な区分集計をしないと納税額が計算できない。ちっちゃな事業者には大変でしょ?ということで「免税事業差」やら「簡易課税制度」やらがあります。
消費者の代わりに事業者がまとめて納付するんじゃなかったの?
百歩譲って小規模事業者保護がアリだとして、取引規模で判断する小規模事業者なんて、会社をたくさん作れば一社あたりの取引規模は自由に操作できる。
現実、取引規模を小さくしたペーパーカンパニーで人件費を計上して一切納税せず、本体の会社じゃその人件費分を業務委託費だとかいってさっ引く消費税を作って納税抑えるとか。
消費者が負担したと思ってるお金は実は事業者の懐に入ってた、とかどんな詐欺制度だよ。
それに、消費税は赤字でも納税が出るから滞納されやすい。滞納されたんじゃ税収増になんてならない。
こんな状態で税率を上げようとか言ってるのはバカかと思う。
こういう問題点が全然表に出てこない。増税論者も現実を知らずに、理想論だけでお話ししてる。
そして一般国民はそもそも消費税の仕組みさえ理想論以上のことを知らないで賛否を迫られてるとか。
なぜ増田で書いたのか。良くある話だけど、身バレしたくないのと、自分のブログでやるよりもみんなに見てもらえるかなぁと思ったから。
どこに書いてあるんだい ヽ(; Д )ノ 見えないよ。
一応、「(そんな事例も)あったという」みたいな、なんか又聞きみたいな雰囲気の文はあるな。
それが本当なのかを福島まで調査しに行き、妊婦さん全員に話を聞いて「そんな事例はなかった」なんて証明するのは現実的じゃない。
言ったモン勝ちだわ。
「一般的にムラというものにはそんな同調圧力があるのだ。まったくもって不可解で非効率的な人間の集まりなのだ」とdisるのが流行ってるような気が。なんでだ? 俺もムラの住人なんだけど、不快極まりないんだが。
営業成績が悪いせいかもしれんが、「お前、最終的にはなんとかなると思ってるだろ・・・そんなに甘えて要られては困る」ってよく上司に言われる。
サラリーマンでノルマがあれば誰でも言われれるセリフだと思う。
でも、実際その通りだよね。なんとかなるんだよね。だから、上記のセリフ言われてもどうとも思わなくなってしまった。(本来は自己啓発でもしたいのだが)
だって、ノルマ未達成が続いても会社をクビになるだけ。その時は、コンビニでアルバイトすればいいだけだし。
コンビニのアルバイトの給料だけで生活が苦しければ、生活保護を受ければいいだけだし。
生活保護を受けてもどうしようもなく、絶望したら死ねばいいだけ。
ほら、なんとかなっちゃった。
共通言語っていろいろなパターンがあるんだよね。音声や効果音、文章表現にも絵にも現れてる。
そういった共通言語を、人はいつ覚えていくんだろう。他社との交流がないと、それって学べないよね。
そういう意味において、テレビってすごく啓蒙的というかコモンセンスを育むための重要なツールになってると思う。
ただ最近のテレビの何が深いかって、無闇矢鱈と言語での反応を聞かせてくるところにあるんじゃないかな。
笑い声とかならまだいいんだけど、タレントが結果として解説を挟んでくる様式になっているのがうるさいんだろうな。
昔やってた珍プレー好プレーとか、めちゃイケなんかだと、視聴覚的記号表現をうまく使ってると思う。
ああいう番組編成のほうが個人的には好きだなー。結局そんなに見ないわけだけど。
まあテレビの表現はさておき。漫画とか小説とか絵画とか、それを消費する対象が個人である場合、どのようにコモンセンスは育まれるんだろう。
だってその消費を同時期に一緒に体験する他者がいないわけでしょう。それでも大体分かることがある。
いや違うなあ。これは厳密に共通言語を対象にしているわけじゃない。というか、テレビの時に上げた共通言語とは別物のことを意識してる。
もちろん、テレビと似たような共通言語もある。でも、それとは別に、その表現物と消費者との間に接触を重ねるごとに生まれる共通言語というものもあるんじゃないかな。
いわば、個人と表現物との間に生まれた共通言語だ。個人と他者という横の広がりではなく、個人と対象物という縦のつながり。
むろん、そう言ったつながりが様々な表現者の間に広がって横に広がることもあると思う。ガンダムや東方などに見られる同人活動における解釈の共通性みたいなものだ。
共通言語の閉鎖性。言葉や解釈って閉じていれば閉じているほど面白いものになるんじゃないかなあ。傍から見れば腐臭を放っていたり理解出来ないものになるんだろうけど。
むやみに共通化しなくてもいい気がするなあ。
一貫性もクソもないな。終わり方がわかんない。
今後似たような状況にあった場合、本当に正しい情報を選択できるかの役に立つと思うんだ
特に「うんち・おならで例える原発解説」は事態をかなり楽観的に見すぎていたと思う
うんちは広範囲にばらまかれ、ダッシュ村は糞死した。
餓死・略奪・強姦が横行しているっていう噂がまことしやかに流されていたけど、
だいたいがデマだった
ググってすぐにでてくるところは
http://ameblo.jp/seicousya/entry-10832660362.html
ここあたりだったけど、他にも色々なことが言われていた記憶がある。
あと、自治体が壊滅しているのでボランティアが直接行った方がいいって情報もあったけど
http://npo-uniken.posterous.com/46132557
ここはその後どうなったんだろう
まだ結論出すのは早いかもしれないけど、
「原発を廃止したら相当な不便を強いられて、もしかしたら経済的に没落するかもしれない」
という話は杞憂っぽい。
現状の東京電力の原発の発電量は柏崎刈羽原発の500万kwのみ、
http://www.gengikyo.jp/status/status1.html
http://www.tepco.co.jp/forecast/index-j.html
だから、全国で東京電力関内並みの節電してれば原発いらないんじゃないだろうか?
多分当初の計画停電のインパクトが強すぎて、電力不足の恐怖がみんなに伝染したんではないか
どうなったw
元手はバイトで貯めた5万。
moving averageとMACD、ニュースとか見ながら、「たぶん損はしないんじゃないか」ってタイミングだけでドル買い、というチキントレーディング。
売り注文を仕込んで放置。
別に自分に才能も能力もないし、たぶんそのうち大損食らって全部なくなるんだろうけど、なんだかな。
はたらくってなんだろうな。なんかもう疲れた。
チラシの裏スマソ。
量子テレポーテーションとか、知らずに聞いたらトンデモSFの領域だぞ。
「知らずに」聞いたらトンドモに聞こえますよね。
考古学についてはどう思う?
現代文学は?
哲学は?
それをうまく使えば有効に機能するという側面がある点を認める必要もある。
そんなの常識だと思うけど。
真面目に向き合わなければならない理由がないし、
真面目に向き合った後でなければ発言してはいけない理由もないと思う。
もっと言えば「僕に将来必要になるかも知れないのだから不毛と断ずるのはおかしい」
という人があるかもしれないけれど、
何かをやろうと思ったら何かを捨てなければならない犠牲にしなければならないわけで、
少なくとも今の僕にとってはキリスト教はわずかなりとも時間を割く価値がないもの。
それでも別の理由で勉強しなければならない状況になることもあったりする。
うん。バックモニター付けたほうがいいよ。
今はもう車を手放したんだけど、昔10年程車に載ってて、1回だけ接触事故を起こしたことがある。
それがバック時だった。
結構大きめのセダンに載ってて、ゆっくりバックしながら歩道を超えて、駐車場に車を入れようとしていた時のこと。
当然こっちはバックミラーで後方確認しつつ、ドアも開けて後ろを確認しながらゆっくりとバックしてたんだけど、
途中、いきなりガンって何かにぶつかる音がして、三輪車に乗ってた婆さんにぶつかったんだよね。
マジで全く見えなかった。
つーかこっちはゆっくりバックしてんのに、どうしてそこにわざわざ突っ込んでくるんだよ婆さん…とムッときたんだけど、まぁ文句は言えない。
ゆっくりバックしてたんで婆さんに怪我は無く、車にも傷はなかったんだけど、
婆さんが乗ってた三輪車はフレームが歪んでしまったんでこれは弁償した。
バックモニターがあったら、バック時に急ブレーキをかけられるタイミングも早くなると思う。
もし次に車を買う機会があれば、必ずバックモニターは付けるよ。