2011-06-02

共通言語っていろいろなパターンがあるんだよね。音声や効果音、文章表現にも絵にも現れてる。

そういった共通言語を、人はいつ覚えていくんだろう。他社との交流がないと、それって学べないよね。

そういう意味において、テレビってすごく啓蒙的というかコモンセンスを育むための重要なツールになってると思う。

ただ最近テレビの何が深いかって、無闇矢鱈と言語での反応を聞かせてくるところにあるんじゃないかな。

笑い声とかならまだいいんだけど、タレント結果として解説を挟んでくる様式になっているのがうるさいんだろうな。

昔やってた珍プレー好プレーとか、めちゃイケなんかだと、視聴覚的記号表現をうまく使ってると思う。

あい番組編成のほうが個人的には好きだなー。結局そんなに見ないわけだけど。

まあテレビ表現はさておき。漫画とか小説とか絵画とか、それを消費する対象が個人である場合、どのようにコモンセンスは育まれるんだろう。

だってその消費を同時期に一緒に体験する他者がいないわけでしょう。それでも大体分かることがある。

いや違うなあ。これは厳密に共通言語を対象にしているわけじゃない。というか、テレビの時に上げた共通言語とは別物のことを意識してる。

もちろん、テレビと似たような共通言語もある。でも、それとは別に、その表現物と消費者との間に接触を重ねるごとに生まれる共通言語というものもあるんじゃないかな。

いわば、個人と表現物との間に生まれた共通言語だ。個人と他者という横の広がりではなく、個人と対象物という縦のつながり。

むろん、そう言ったつながりが様々な表現者の間に広がって横に広がることもあると思う。ガンダム東方などに見られる同人活動における解釈の共通性みたいなものだ。

共通言語の閉鎖性。言葉解釈って閉じていれば閉じているほど面白いものになるんじゃないかなあ。傍から見れば腐臭を放っていたり理解出来ないものになるんだろうけど。

むやみに共通化しなくてもいい気がするなあ。

一貫性もクソもないな。終わり方がわかんない。

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