はてなキーワード: 規範とは
他の動物に対して、不快だから殺す、食べたいから殺す、ペットにしたいから生かす。人間はこれを当たり前にやっているし、それを問題視する社会を私は寡聞にして知らない。
ジャイナ教徒、仏教徒、菜食主義者の一部等は不殺生主義なのだろうけど、人類全体の中では少数派だ。それにしたって、動物は食べてはダメだけど植物はOKなどと、やはり命を等価とはみなしていない節がある。
「個々の生き物の命は等価ではない。ただし、無駄に自由を奪ったり、無駄に苦痛を与えたり、無駄に殺したりすることは慎みましょう。」一般人としてはこんな規範を持っていれば十分だろう。
子供がペットを飼いたいと言うのなら、その動物に対して無駄に自由を奪ったり、苦痛を与えたり、殺したりすることになってしまわないか?ペットとする動物にとっての自由や苦痛とはどんなものか?を思いやり、それらに配慮しながらその動物が死ぬまで面倒を見られるのか?と子供には問うべきだ。実際にペットを飼った場合は、親は子供が左記の責任を果たせるよう導いていき、万一子供がその責任を放棄した場合は親が代わってその責任を果たすのが子に対する教育だと思う。
割れ窓理論に近い話だと思う。
ここのサークルはこういうのありなんだなってなるとそこに内外から見做されるサークルの秩序レベルが設定されてしまうからある程度の引き締めは必要かもしれない。
といいつつも自分も社会人スポーツサークルの取りまとめをしているがそこでも似たような問題が起こっている。
こちらは30中盤の既婚女性に対して一回り下の子がかなりべったりしている形のケース。イベントや飲み会など、ふとしたタイミングで腰に手を回したり肩を寄せ合ったりしているようで他のサークルメンバーからも一言もらうことが増えてきた。
自分自身それを聞いてから二人の動向について同じ場にいる時だけでも気にしてみるがタレコミと同様の話を確認しており振る舞いの意図の確認と場合によっては伝えざるを得ない改善要求について悩んでいる。
女性側は配偶者とうまくいっていないのと若い子に気にしてもらえてこのアプローチにまんざらでもない様子で、男性側は男性側で相手の容姿が完全にタイプな言動を出しており悩んでいる。
正直これがお互いフリー同士なら付き合うのは自由だけど人前ではほどほどにねで済ませられるのだが、この組み合わせではそもそも(それをやっちゃ)いかんでしょというレベルの話までしなくてはいけなくなるのが悩みの種。
2人とも気が強くサークルの空気にまで伝染させかねないタイプなので宣告するタイミングとシチュエーションの設定を考えると頭が痛くなる。
何はともあれ不貞行為はNGという人として当たり前すぎる規範をサークルの共通認識として全員に周知して空気作りした上で二人に言う流れを作りたいと考えているがはてさて。
なぜ男性は炊事場に立たないのか、みたいな常識を問うことは割と良しとされても、人権とは何なのか、そもそもそれは存在するのか、みたいな疑問については混ぜっ返し、拗らせ、人類の叡智の否定、野生への回帰、歴史の勉強不足、愚行と断じられるのってなんか茶番っぽさを感じる。
もちろん人間の半分を占めてる女性を抑圧しかねない規範を疑問視するのと、ごく一部の強者の欲求を抑圧して大多数の弱者に恩恵をもたらしてる(と少なからずの人が思っている)規範とでは話が違うんですけど。
自然法則は神様が決めた絶対のルールであって、誰が何を思おうがリンゴが地面から枝に戻っていく事にはならない。でも規範は誰が何を思うかそれ次第、というかそれが全て。時間が流れて考えが変われば常識も変わって法律だって変わる。正しさを見出したのか単に考えが変わったのか、それは答え合わせのしようがない。その口からは絶対の真理が告げられる神様でも連れてこなければ、どちらの捉え方が間違っているとも正しいとも、断言のしようはないと思う。
なんて言おうものなら烈火の如く怒り出す。人権はお気持ちなどではなく絶対です。異を唱えるのは勉強不足でバカなネトウヨか冷笑系です。
誓約書を書いた覚えも、同意しますと言った覚えもないんですけど。それとも世間一般の人はそういうのやってるんですか?
そんな事を言ってるオマエだって人権の利益を享受してるだろって?
それは話がすり替わってますよね?私が人権の利益にあやかっているのと、人権が本当に合意であるかどうか、絶対的な価値であるかとは論理的に繋がらない。
いくら人権がもたらす利益を並べ立てたところで、人権思想を広める有用さを示すには十分だけれど、人権が絶対かという問いからはズレてる。
疑問を挟む奴は人権剥奪のような言いようではまるで異端審問会ではありませんか。
他人を無闇に害してはならない。ムカつく奴を殺したい。これは根拠を辿れば等しく快不快の問題になる。どちらも論理だけでその考えの正当性を示す事はできない。論理と言うより、どちらかと言えば共感の問題だ。
意見とは価値観や感情を土台にしてそこから論理を積み重ねていくものだけれど。人権思想は根源的な感情に論理を乗せたというよりは、感情の多数決そのものではなかろうか。
とは言っても人権思想が多くの人にとって都合が良いというのはまあ確かなのだろうし、多くの人は「多くの人」に包括されるのだから別にそれでいい。論拠などよりも肝心なのは得られる結果なのだし。
別に論拠なんかなくても快不快の多数決で良いじゃんというか、そうする以外にないと思うのだけれど。
人権の「真実」に目覚めたバカ共と違ってこちらは論理的な話をしているが?みたいな感じで、その実さしたる論拠はない所が、なんというか不誠実だよねって思う。ナイーブといえばそれまでだけど。
人権の何たるかについて厳密に議論する事と人権が相対化され果ては軽視される危惧とを秤にかけて、後者を選び取った上で自覚的に絶対的なものだと喧伝しているのかもしれないけどね。
まあ絶対的なものではないけれど、いやないからこそ、不断の努力によって維持せねばならない。高校の現文の魯迅だかの評論でそんなような事を言ってた気がする。当時は理屈レベルでしか今はまあ肌感覚でそうかもねって思う部分もある。
……人権を相対化したからにはこうやって結ばないといけない感じなのもなんか茶番っぽいよなって思う。まあ実際、普通ならそういう結論になると思うけど。
「普通」ではなくて、別にそう思わない人がいた所でそれは単に価値観の相違だろうし、それを否定するには「や、まあ……一応世の中そういう事になってるらしいんでどうぞここは一つ……」って多数決で突っぱねるしか無いんじゃねって思う。というか実際そうされてるだろうし。
辞書やなんやらがそれを〈追認〉するかたちで更新されていくこともわかっとるわい
だが、辞書や国語審議会が〈追認する前から〉テレビ局が積極的に「おかしな使い方」をして、それが世に広まるのを加速させるのは俺は違うと思う。
あくまでもマスコミは辞書に載っている言葉を辞書に載っている通りに使うという〈規範〉にしたがって、言語のスタビリティを守る側であるべきだ。
言語が軟体動物であることはわかってる、でも柔らかすぎちゃ困るんだ。
野放図に意味が増えたりコロコロ変わったり綴り方が日によって違ったりしたら、コミュニケーションの基盤としての役割がまっとうできなくなる。言語は共通認識なんだから、みんなが同じ言葉から同じ意味を汲み取れなきゃいけない。
「小学校でシャーペン禁止」が吹き上がるたびに、いっぺん小学校きて先生やってみ?って思っちゃう。
少なくとも小学生の子(特に活発な男子)がいたら、なんで小学校でシャーペンを禁止したいのか理解できると思うんだけど。
コンセントに芯を突っ込むとかそういう話「だけ」じゃないのよ。
>管理が面倒だしガキが調子づくのはムカつくから全部禁止にしたろ、とか
>無意味で不合理なルールに後付けで無理やり理由を考える、とか
確かにうちの小学校も低学年のとき「鉛筆キャップ」さえ禁止になったこともあって、なんで?ってなったけど、
実はキャップ持ってくのが流行ってて、でも落ちたやつをうっかり踏み潰したりとかで、トラブル続出になってたってわけよ。
キャップを盗った盗らないのトラブルもあったりで。たかが鉛筆キャップされど鉛筆キャップなのよ。
鉛筆キャップでこれだからシャーペンはもっとすごいことになりそうよね(まあ高学年になればトラブルも減るだろうから解禁してもいいだろうけど)。
そんなんが毎日、毎時間ちょっとずつ起こること想像してみて?ご存知のように先生暇じゃないのよ。同時に他のトラブルも起こるんだから。
学校の事情を知ると、何かの禁止の背景には何かあるんだなって想像するようになる。
一見死ぬ程くだらないとか不合理とかに見えることも、聞いてみればちゃんと事情があってしょうがないかなって思えることもあるんだよね。
想像力や好奇心?そう思ってた時期が私にもありましたが、そう思うならそういうのにいちいち付き合ってくれる学校に入れた方がいい。
(自分が女と見てる)女性に「キャー素敵!」って思われる言動や、よく分かってないけどなんか規範的っぽい言動を『フェミニズム』と思ってそうな人はわりといるように感じる。
ただそういう人達の方が、社会運動として正しいフェミニズムを実践している人より、前者はモテるし、後者は俺は正しいって悦に入れて自己満足感が高いっていう悲しみ。
元です。
セックス/ジェンダー区別する考え方があるじゃない?あれからすると、その二つが一緒くたになってる時代にできた戸籍制度のままってことよな?血縁をはっきりさせるためのものだというふうに理解してるけども。
戸籍制度はジェンダーを区別せずセックスだけを扱うって宣言しちゃえば、<身体に違和感ないけどジェンダー規範から逸脱してる人>と戸籍上の性の問題は理屈上解消されてわざわざ自分の戸籍上の性を変えなくていいんじゃね?って思ってしまう。
性転換に手術強要してて違憲じゃないか?って裁判、性同一性障害じゃない人がやってるのが違和感。あの法律はトランスジェンダーが戸籍いじる為の法律ではない認識なんだけど。判決どうなるんかねえ。
着いて行けてないだけ/とっくに通過済みの議論かもしれんけど、いわゆるトランスジェンダーと、日本の法律の言う性同一性障害って、感覚的には別物なんだよなあ。変わりたい/越境したいトランスジェンダーと、戻りたい性同一性障害というか。私はシスヘテロのオスです。
性同一性障害当事者も訴えている側にいるってことらしいし、まあ、トランスジェンダーとその障害との線引きは難しそうではあるけども。
戸籍上の性別を自認に基づいて変えたいってのなら、ジェンダーフリーを推し進めるか、どうしても別の性別に戸籍変えたいならこの特例法とは別の法律作るのが筋じゃないのか?あの法は性同一性障害の当事者達が勝ち取ったものじゃないのか?
日本の場合、学校教育で得られる数理国等に関してはずっと優秀なんだけど、公共心や正しい心理的規範をインストールする機会が全くないのが問題だと思う
仏教やキリスト教は功罪あっても普遍的な善を幼い子供にインストールしてくれるし、儒教は微妙でイスラムもまあ…罪も多いけども…
翻って我が日本は宗教による普遍的な善的価値観を養う機会が無いし、「善悪は立場によって変わるから『正』なんぞどこにもない」とかいう反知性原始人主義が大手を占めているから割と多くの人間が悪行為を悪だと認識すらできないことになる
私人逮捕なんて合法的にやるのはハードルが高すぎるから、人命被害が拡大する恐れがあるくらいじゃないとやるべきではない。もちろん人命被害が拡大する恐れがあったとしても、私人逮捕しなくても批判されるようなことではない。
だからそもそも痴漢くらいでは私人逮捕を推奨すべきではなかった。
今回最初に痴漢くらいで私人逮捕したのを女をはじめとした連中が賞賛したので、社会の規範が崩れた。
以前もはてなでは、女が男に痴漢を取り押さえるよう要求するような言説があったが、要は私人逮捕なわけ。
まともな人間なら私人逮捕なんてやらない。逆に自分が犯罪者になる恐れがあるからな。
>これくらいの規範は身につけておかないとまともな女性と結婚なんて無理
女への性的加害には敏感なのにジャニーズの性的加害は無視するようなダブスタクソ野郎でジャニ問題で発狂するような女がまともwww?
クソ笑えるwwwwwwwwwww
読んだけど、内心どう思っているかは別にせよ増田の妻への対応はごく当たり前。私の職場でも偶然似たよな状況に置かれてる上司がいるけどやっぱり優秀な人だよ。これくらいの規範は身につけておかないとまともな女性と結婚なんて無理だと思う
そもそも男性アイドルを推すというのは女性が生きてるだけで性的搾取されてることへのカウンターであり女性の尊厳に関わる営みだというのは言うまでもないけど
性被害のことだって真面目に考えればあの声高に主張している冴えない「被害者」たちは妊娠させられるという恐怖も別にない時点で女性の性被害とは比べ物にならないことくらい田舎の下流の人でもなければわかるよね
だいたい女性の枕営業の強制はもっと当たり前のように行われてきたんだよ?それすらも理解できない佐々木敦というオッサンはマジで最低 西田藍さんも鍵垢で恥を知る能力もなさそうだねって怒ってた
こんな男女の権力格差のある平面上の非対称な「性被害」を、鬼の首を取ったかのように「男性の性被害者だぞ!ジャニオタざまあ!キャンセルしろ!」と噴き上がってる人たちの本音がどこにあるか・・
あんまり「弱者男性」という言葉は使いたくないけど、彼らはジャニーズタレントのような男尊女卑社会を反転させる存在を貶めて間接的に女性に嫌がらせをしたいだけだなんてことは定型発達の人間にはバレバレだよと言っておきたい
おニャン子クラブが1980年代なので、「しなかった」は断言しすぎだけど、その転換期に10代だった人間にとっては実感としてよくわかる。1990年代初めまで、エロ本の主流はハイレグの大人のお姉さんだった。
ブルマやスク水も、ここまでエロのアイコンとして爆発的に普及する(その結果として教育現場から排除される)なんて、想像もしていなかった。
「セーラー服を脱がさないで」が当時許容されていたのも、セーラー服がまだエロのアイコンになっておらず、曲の明るさもあって「ちょっとエッチな青春の歌」ぐらいに受け止められていたから。当時のフェミニストも、家父長制的な性規範を解体するようなコンテンツには、どちらかと言えば好意的だった。