はてなキーワード: 能力主義とは
「自分達は能力主義を批判している。自己責任論の能力主義者はネオリベだろ」
とか馬鹿みたいだ。
ネットのトレンドはよく知らんが「学歴差別は差別ではない」なんて理論は聞いたことないな。そもそも、能力主義批判なんて左右ともにほとんどやってなくて、極レベルの低いものか、極レベルの高いものが散発的に現れてるだけだと思う。
自分の知っているもので言うとイヴァン・イリイチの『脱学校の社会』が1971年に出てる。「階級社会を放擲するために制度としての学校を排除せよ」という主張はあまりにラディカルすぎて、この議論はそれほど発展しなかった。もちろんイリイチはゴリゴリの左翼。
最近でも、中学生のYouTuberが登校拒否宣言して、批判したのは左右に限らなかったと思うので、状況はそれほど変わっていないんじゃないだろか。どちらかと言うと保守系の方が批判が苛烈だった気さえする。
Twitter上では、アンチリベラル勢が、「サンデルが俺らに追いついた」と声を大きくしている。
確かに最近のアンチリベラル勢は、学歴などの能力主義に基づく格差や階層について、リベラル勢が当然視し、懐疑の念すら持たないことを批判してきた。
だが、能力主義批判そのものは、教育学や障害者についての社会学のなかで、数十年前から行われてきたことだ。
能力主義で検索すると、それらの書籍や論文がいくつもヒットする。
だから能力主義批判は、実はオールドな左翼的言説であるとすら言える。
しかし、ヘイトスピーチに対抗する過程で、リベラル勢が、国籍や民族や人種についての差別は差別だが、学歴は持って生まれたものではなく後から変えられるので、学歴差別は差別ではない、との理論を採用した。
学生が書いたっぽいな。
だけど、社会に出ると良くて「売上に貢献したか」悪いと本当に何を指標にしたらいいかもわからなくなる。
なおかつ、能力主義でトップは今までと同じぐらいで、残りは能力が悪いからとコストを削減する餌として使われることがある。
評価指標がまともに作れないというのはそうなんだが、それにしてはあまりにも「能力が定規で図れる」みたいな幻想に囚われてる感じがするな。
・能力を得る機会が平等ではないから問題(どの家で生まれるかによって、受ける教育が変わってくるなど)
・能力を正しく公平に測れないから問題(仕事の成果を上司が評価してくれないなど)
というように、能力による差別を肯定した上で、能力を得る機会やその評価が正しくないから問題なのだと読み直す人が多い。
能力主義に対する批判については、障害者に関わる福祉の分野や教育の分野などで昔から言われていることで、
そこでの論点は、
・能力が高い者が富を独占してもいいのか?
ということだ。
たしかに教育の機会均等とか、仕事の成果に対する公正な評価とかは、それ自体としては大切ではあるが、
じゃあ、機会や評価が公正・公平なら、
・能力の高い者がより富み、能力の低い者がいっそう貧しくなる社会でいいのか?
という問題がある。
障害者に対する偏見が一切なくなった社会においても、存在しうる。
知的障害者は、どれだけ教育の機会が均等になり、障害者への偏見がなくなったとしても、
よって、低賃金の仕事に就くのがせいぜいで、貧しい生活を強いられる。
なぜなら、障害者を雇うと、健常者を雇った場合にはかからなかったコストが発生するから、
障害者に対する偏見がゼロの企業であっても、わざわざ障害者を雇うメリットがないからだ。
障害者という例を出さなくても、人間は能力が高い人から低い人までいろいろあり、
・いや、良くない、社会から発生した富は、能力の高低によらずに、なるべく平等に分配しましょう。
共産主義や社会主義のリアリティがあった世界においては、結果の平等を求めることはそんなに変なことではなかったが、
資本主義オンリーの世界においては、機会の平等だけが重要であり、結果の平等は悪、低脳が貧しいのは自己責任。
そんな考えをナチュラルに持っている人が多い。
だから、能力主義批判について、そもそも何を言っているか理解できないし、
今度出るサンデルの本についても、
・能力の測定に関わる不公正
弱いもの虐げられたものが一致団結して、一部の搾取する横暴なものを倒す。人類はそれを大昔からやってきた。
資本主義・自由主義が今ほどない時代でも、いつでも自然と格差は生まれ、搾取が生まれ、闘争があった。
その結果、あまりに横暴なものやズルをするものは殺され、公正さや規範意識を進化させてきた。人類は不公平に対してなによりも敏感になった。
いま、すさまじい格差があるのにそれが機能しないのはなぜだろう?
能力主義、個人主義によって、「自分が割りを食っているのは自分のせい」という考えが広まりすぎたのだろうか。
現在のネオリベ的な社会状況は良くない。だけどそれをひっくり返すもっといい仕組みを思いつかない。共産主義は失敗に終わった(かのように見える)。
今だって才能とやる気のあふれる誠実な若者よりも、森元みたいな実績()とコネのある老人が権力を握ってるけどさ。
これから若者はどんどんマイノリティになっていくから搾取は免れられないよ。2人の同じ実力の人間がポストを争えば「あんな若造には無理」と若い方が退けられるよ。
例えば朝のニュース。老人コメンテーターの意見を若手アナウンサーたちがはいはいとうなづいてるでしょ。若くて爽やかで真面目な人たちが聞き役やらされる。あれは老人の欲望なんだよね。
女が「お淑やかで従順」に押し込められていたみたいに、若者も押し込められるよ。老人の欲望を押し付けられるよ。老人のポルノ(若者に説教をして威張り散らす)を見せられ、ポルノの真似っこ自慰に使われるよ。
今だって高校生なんかは「高校生らしい格好をしろ」とかいう意味不明な大人の欲望を押し付けられてるけど、あれは20代30代にまで拡大するよ。爽やかな若手像、従順な若手像、老人を慕う若手像を押し付けられるよ。レジ打ちの若者を年金暮らしの老人が罵倒する時代だよ。
年功序列がなくなって、能力主義に移り変わってるから大丈夫、なんてことないよ。むしろ能力主義が進めば進むほど、能力主義のはずなのに年齢によって差別していることが問題になるんだよ。
かつて聴いてそれなりに感動した覚えがあるんだけど、今聴くとけっこうヤな感じがする
暗い水の流れに打たれながら 魚たちのぼってゆく
光ってるのは傷ついてはがれかけた鱗が揺れるから
いっそ水の流れに身を任せ 流れ落ちてしまえば楽なのにね
このくだりとか割と最悪なんだよな
「努力をやめて転落するのは"楽"だ」というメッセージ、超ネオリベなんすよね
例えで言うなら、流れに任せて流れ落ちたらふつうにその辺にぶつかりまくって苦しんで死ぬだろというのがまずある
努力をし続けるのは苦しく、しないとしないで苦しいという構造になってるのが現代社会なので、「努力をやめると楽になるのに頑張ってるやつは偉い(=努力してないやつは楽してるし偉くない)」ってのはカスすぎる
ファイトし続けるやつと流れ落ちるやつの違いが何かって言ったら、まあ脳でしょ
報酬系だかセロトニン受容体だか知らんけど、そういう生まれ持ったものにかなり影響を受けてるのは間違いない 苦境に耐え抜く才能があって偉い・苦痛に耐え抜く才能がないお前はクズで死んだ方がいい、そういう考え方はホント酷いですよ
薄情もんが田舎の町にあと足で砂ばかけるって言われてさ
出てくならおまえの身内も住めんようにしちゃるって言われてさ
田舎者は「敵」として辺縁化されている
俺もさすがにこんなひでえことはしないけど、地方を捨てて東京に出ることをただ賛美するのは良くねえよなとは思う
じゃあどうすりゃいいのかはわからないが、この田舎ヘイトを煽るようなやり方が間違っているとは思う
そういうことなんですよね
嫌すぎる
最初に、この文章を書けている時点で、今のところまだ先にいってないと思う。死というのはいざ向き合うとあまりに恐ろしくて通常の精神では選択したりできない。
自死した者たちはショックや高揚感で頭が一杯になるからそれを克服できてる。愚痴を装って助けを求めたりは一切しない。
準備している間も感情が薄れるからもたもたしていると直前に怖くなってしまう。ここらへんは安楽死と複数回出てきてるからもうわかってるかもしれないが。
そして私もこれとよく似た状況にある。無能であることが、他人に憐れまれることが、有能でないとそこ(社会や職場)にいてはいけないという思いを強くさせる。
この感情の正体は不安であり、無能が原因で集団からリジェクトされるのではないかという恐怖心でもある。こう考えるに至った経緯は幼少期の体験かもしれないし、親の態度かもしれないし、読んだ物語や友達の態度かもしれない。
私については何となくこれだと言えるのは小学校の頃いじめられていたときに、マンガの貸し借りというギブアンドテイクのような形で少数の仲間を無理に獲得したことだ。こちらから差し出すものがなければ、集団にはいられないという刷り込みが発生したのかもしれない。また中学時代、父親は能力主義的なところがあり、自分が指示したことに能力を発揮できなければそもそも相手をしないような人であった。単に不器用な人だったのかもしれないが、無視されるのが成人まで長く続いた。これもおそらく原因の一つなんだろうなと思う。
そして今30代、もう上記の性格を治すことは不可能だと気づきつつある。もしこの性格でも有能であればなにも問題はなかったと思う。単に傲慢なくそやろうとして生きていたと思う。
しかし私は無能だった。有能を望む無能がどうなるかというのは増田にあるとおりだ。自分の心の中でギャップが発生して多分に死にたくなる。これが反対であればよかった。無能を望む有能であれば朴訥とした気持ちの良い人間になれたかもしれない。
本当は天秤の、そこに居ていい権利の片側に乗せるべき、能力といったおもりなど必要ないのは心の奥底ではわかっている。無能ならば開き直り誰かをヨイショしたり踏石になったりゴマをすって生きればいいのだ。
でもそれができない。私の心の中の屈辱心がそれを許さない。前述のいじめの話には続きがあり、一度だけそのいじめ集団が私に仲直りをしてくるような素振りを見せた。しかしそれは非常に屈辱的な行為とともに行われ、私はそれに対して何の疑問持たず受け入れた。その後それが教師によってなされた一時的なたわむれだったことが判明し、私はまた集団から省かれるようになった。その時初めて自分が惨めだったことを理解した。一度屈服するといかにしてもそこを抜け出せないというのが私の頭の中から取れない。
ぐちゃぐちゃ書いたがねじ曲がった人生はその後もねじ曲がった人生しか歩めない。元増田も「生きてて辛いことばっかだったな」とあるからそうなるまでになにかあったのかもしれない。
死が救いに慣れば幸いである
能力主義と競争社会だけでなく国際化も格差が広がる原因になってるとは思うよ。
というか国際化で確実に戦争の数と規模が減ったから資産が戦火で収奪されたり破壊されることなく蓄積され続けるようになったやろ。
r>gみたいなのが機能している限りこういう時代は元々資産持ってる奴がずっと強いし、より強くなり続ける状況が続く。
一代で富を築くような起業家もいるけどそういうのは金融資本主義をフルに活用して他人の資本を集めて使えるからであって、元々社会に存在する資産をさらに増やすことで利益を得ているのは変わらない。
グローバリズムで勝ち組/負け組の格差が広がってるのが、ことの本質ってことかな?
グローバリズム=「国際化」+「競争社会(能力主義)」のミックスだと思うけど、格差の原因の根っこは「国際化」じゃなくて「能力主義」の方が問題なんじゃないかと思ってる。
けど、能力主義って簡単にやめられるものなんかな。「能力によらず公平」って。
そもそも動物の本能的にも、能力主義の方が本質に近いのかもしれんし。
障害者支援で例えれば、本能とは別の”理性”で配慮してやっと公平にできるもので、自然にしてたら能力主義になっちまうよね。
じゃあどうすりゃいい?
地方には「地方交付税」、個人には「ベーシックインカム」をバリバリに効かせて、再配分すればいい?それこそバイデンよりサンダースに近い話だけど。
けどそれって、エリートも納得しないだろうけど、元増田も納得するんかな。cf. 内閣府 https://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je07/07b03040.html
あと、国の単位で再配分しすぎたら、国際競争には勝てない方向に働くよね。それやったのが旧共産圏なわけで。
結局、再配分で是正しつつ、「動物として能力主義の悲哀と同居して生きくしかない」というのが俺の現時点の結論かな。悲しいけど。
ちなみに、トランプのやってたリアリティショーは思い切り能力主義だよね。https://www.wowow.co.jp/extra/apprentice2/intro/