ただだからといって、『容姿を選考基準にするな』という考えに至るのはおかしいと思う。
研究結果もあるように顔が良いということはそれだけで人に良い印象を与えられる能力だ。
企業が高い能力の人を選考するのは当然のことで、そこに文句をつけるのはやはりどうにも納得し難い。
もしもそれでも、容姿という先天的な要素が強い点で損をしなければいけない世の中はおかしいと考える人がいるのなら、そういう人達が社会に求めるべきは『容姿が一定以下の人間も企業は社会的責任として雇用義務を負わなくてはならない』という障害者雇用のような社会制度作りなのではないだろうか?
企業には頭を良いや肉体的に優れた人を優先的に選ぶ権利がある。
だけど同時に障害レベルで能力が劣る人を救済するために、社会はそうした人々の雇用義務を企業に課している。
容姿もこれと同じように優劣を認めた上で、弱者に救済処置を儲けるという考え方をした方が筋が通っているのではないか?
『容姿を選考基準に含めるべきではない』という考え方は、『容姿に優劣をつけられたくない』『でも劣る自分を救済して欲しい』という矛盾が含まれているように思えて、強い違和感を覚える。
知能指数などと比べると容姿を明確な数値化することは難しく、障害のように『ここから下は社会的救済が必要』という基準を設けるのが難しい。
KKOが営業来ても話聞こうかなとも思わんが、感じの良さそうな青年ならちょっと話聞こうかなと思うで。
欧米では履歴書に顔写真貼らなくなってるけどね。面接はあるけれど年齢差別禁止の一環で容姿の判断手段は減る方向。
真の能力主義社会とはどのような社ッ会か 顔がぐちゃぐちゃな東大医学部卒の人 ルクセンブルクトップモデルで重度知的障害の人 この二人が応募してきた場合ちゃんと前者を採用する