・能力を得る機会が平等ではないから問題(どの家で生まれるかによって、受ける教育が変わってくるなど)
・能力を正しく公平に測れないから問題(仕事の成果を上司が評価してくれないなど)
というように、能力による差別を肯定した上で、能力を得る機会やその評価が正しくないから問題なのだと読み直す人が多い。
能力主義に対する批判については、障害者に関わる福祉の分野や教育の分野などで昔から言われていることで、
そこでの論点は、
・能力が高い者が富を独占してもいいのか?
ということだ。
たしかに教育の機会均等とか、仕事の成果に対する公正な評価とかは、それ自体としては大切ではあるが、
じゃあ、機会や評価が公正・公平なら、
・能力の高い者がより富み、能力の低い者がいっそう貧しくなる社会でいいのか?
という問題がある。
障害者に対する偏見が一切なくなった社会においても、存在しうる。
知的障害者は、どれだけ教育の機会が均等になり、障害者への偏見がなくなったとしても、
よって、低賃金の仕事に就くのがせいぜいで、貧しい生活を強いられる。
なぜなら、障害者を雇うと、健常者を雇った場合にはかからなかったコストが発生するから、
障害者に対する偏見がゼロの企業であっても、わざわざ障害者を雇うメリットがないからだ。
障害者という例を出さなくても、人間は能力が高い人から低い人までいろいろあり、
・いや、良くない、社会から発生した富は、能力の高低によらずに、なるべく平等に分配しましょう。
共産主義や社会主義のリアリティがあった世界においては、結果の平等を求めることはそんなに変なことではなかったが、
資本主義オンリーの世界においては、機会の平等だけが重要であり、結果の平等は悪、低脳が貧しいのは自己責任。
そんな考えをナチュラルに持っている人が多い。
だから、能力主義批判について、そもそも何を言っているか理解できないし、
今度出るサンデルの本についても、
・能力の測定に関わる不公正
機会平等だったら何もしないのが平等 人の命は一人一つ 救急車も医者も政府も必要ない
学生が書いたっぽいな。 大学までなら勉強の成績だけでなんとかなるだろう。 だけど、社会に出ると良くて「売上に貢献したか」悪いと本当に何を指標にしたらいいかもわからなくなる...