はてなキーワード: 狂信者とは
ミリシタはランダムだけど無料で限定込み確定ガシャチケ。デレステは金払ったらセレチケ。
デレステは取り敢えず何でも金なんだね。正直ミリシタの闇鍋もあれだが、取り敢えず金払えってのはなぁって思いました。さすがサイゲ
(シタ1thの頃は色々とネガってだけど、3thで安心したわ。もう手抜きとか言う奴居ないだろw)みたいなの見かけた。
流石に周年だからコールはさておきMVも良いし、配布衣装も良いし、新機能きたし、これ見て手抜きと言える奴は感性が狂ってるか、何でも叩きたい奴だとは思う。ただな、小日向美穂のSSRの価値を落とした事は忘れてないぞ?今回の周年イベのオリメンにはなったけど、本来only oneという触れ込みだったSSR衣装の価値を無くした事は許せない。
何を今更と思うだろうけど、過去の失態は無くせるものじゃないぞ?
それに自分は取り敢えず運営に金を払う狂信者では無いので、非難するところは非難する。というかこのまま周年の印象で無かった事にされそうだから言ってる。
たしかに今回は凄いと思うが、今まで手抜きしてた事は忘れてない。
無料ガシャ
そして、ミリシタはこのタイミングで無料ガシャやるなよ?他所の周年に水差すような事はしないでね?(特大ブーメラン)
衣装の色変え
正直前回の手抜きSSRの失態を無かった事にする気に思える。
ほぼ同じ衣装だけど、色変えたら問題ない!って言い出すやつ絶対出てくるだろ。美穂のSSRの件が無かったら心から喜べたのに…
カバー曲
カバー曲実装ってのを見てバンドリが頭によぎった。グラブルの曲はカバーだっけ?
正直あのカバー曲があります!ってやつ、客寄せにはとても良いと思うけど、狡いなって思ってた。だからデレステがやるのかよってなった。だってデレマスはデレマスの曲だけで全然やっていけるじゃん。カバー曲で人を集めるバンドリみたいな事するなよ。ゆずの曲カバーよりも既存曲の実装が良かったです。
トレンド上位にずっといるとか普通に考えて凄い。とても宣伝になるから、流石サイゲって思った。きっとこの後色んなゲームにパクられそう
ツイッター見てて
新曲のMV、今までのMVに+してちゃんとダンスしてて良い!とか、衣装がカッコイイとかじゃなくて、無料ガシャ!とかRTキャンペーンでのリアル景品とかカバー曲などで流石デレステってなるのはちょっとないだろってなった。別に無料10連とかRTキャンペーンが嫌いなのではなくて、デレステはゲームなんだから、ゲーム面で評価しようよって思った。こういう人達の基準だとずっと無料10連してて、他人の人気を使うゲームが神ゲーになってしまうと思う。デレステはそんなゲームじゃなくてオリキャラとオリ曲の人気、デレステOnlyのゲーム機能(ミリシタからパクってるじゃん!とかいうのは取り敢えず置いとく)でここまで大きくなっているんだから、そこを評価してあげてよって思う。
10年目内科医。ここを見ていると「医者を増やせば解決する、日本医師会が巨悪」「女性医師は医療崩壊の原因」云々…との意見が多いように思う。
恐らく東京医大の事件に関しても、「男女平等の時代に逆行するなんて前時代的大学なのだ」といった感想を持つのが一般的なのだろう。
しかし、この出来事は実は医療崩壊の最終段階の端緒となる出来事のようにも思われる。
他でも議論されているが、まず医師を増やすことに原則的に反対の医師は多くないように思われる。増やせるものならどんどん増やしてほしいと思っている。
しかし我が国の医師の数が増えないのは、医師会が反対しているから、医師らが声をあげないから、等々ではないように思う。
欧米と決定的に違うのは、我が国では国民皆保険制度があり、誰でもどこでも医療を受ける権利がある。ということである。
極端な話、日本最高峰の大学病院に突然風邪でかかっても、数千円のはした金を余計にはらえば見てもらうことができるのである。
保険証の力は絶大で、診療の求めを受けた医療機関は「応召義務」のため診察を原則拒否できない。
しかし国民皆保険のこの素晴らしいシステムには致命的な制約がある。
それは、国が決めた一律の料金で患者を診察する、ということである。ここに「よりよいものを提供し、より大きな対価を得る」という資本主義的価値観はない。
訓練された一流の外科医が胃がんの手術をしようが、3年目のペーペーが手術しようが、病院が手にするのは「所定の胃がんの手術料金」である。
外来で例えよう。A医師は患者の話を遮り、高圧的で、診察は3分。B医師は患者の話に共感的で、優しく、10分間丁寧に診察を行う。
しかし病院からしたら、A医師は一時間に20人分の売り上げを獲得するのに対してB医師は6人分の売り上げしか獲得できない。病院から見てより稼いでくるA医師の評価の方が高くなる。
要するに薄利多売のビジネスモデルを「お上」に強制されていて、回転率が命なのだ。即ち某ラーメン屋風に言えば、ロット乱しはギルティであり、長話する客と、それを許容する店員は退店やむなしなのだ。
以上のように、国民皆保険のシステムと病院の関係を考えると、「高圧的で話を聞かず、3分診療の医師」の需要はとても高いのだ。
B医師は人間的には素晴らしいかもしれないが、殆どの病院が赤字すれすれでやっている現状をかんがえると、「いらない子」なのである。
でもそんなA医師みたいなやつばかりな病院はどうせ患者がこなくなるかというとそうではない。
一つは、医師不足で患者余りであること、もう一つはA医師のような人物は大体特殊な技術や多分野における専門医資格保持者であったりするからだ。そのような、希少価値のある医者は一時間に20人ほどの予約がはいる。そりゃみんな、「優しいけど非専門」より「ぶっきらぼうだけどド専門」の先生に見てほしいからね。こうしてA医師はさらに人の話を聞かず、高圧的になっていくのでした。
以上のように、医療の価格は「お上」に決められているのだ。うちはすごい手術するから+10万円ね!なんてできない。当然、すごい手術をする医師に特別手当てが出る病院なんてのもない。そもそも病院は儲かってないのだから。
そうすると、医師からしたら、腕を磨く必要って何?ということになる。
普通の会社であれば、大きなプロジェクトを遂行し、地位が上がって、給与もあがり、達成感を得るのだろうが。
それがない医師はどうしたらいい?残されたのは「やりがい」のみである。患者さんに「ありがとう」と言ってもらった。助からない人を助けた。そういうことに価値を見いだすしかないのだ。
医師は医科大学に入学し、その段階から世間とは切り離された環境で培養される。総合大学においても医学部とその付属病院は、他学部とは明らかに一線を画している。「頑張って素晴らしいパフォーマンスをあげれば収入が増える」といった極めて基本的な資本主義的価値観を体験することなく研修医となり、医師となっていく。
そういった育成環境によりいわば世間知らずのまま育った医師は次第に先鋭化していく。「医師は人命に関わる特別な職業であり、滅私奉公を基本とし、過労死も厭わない。金を求めるものは、医は仁術の精神を忘れた愚か者だ」と言う奴すらいる(自分は引いてしまうが、どこの医大にでも少なからずいるものと思う。)
いわばエリート意識の塊となり、医療現場に放り込まれるのである。
一人前の医者になってもその「呪いとも言うべきエリート意識」から解放されることはない。技術を高めても、接遇を改善しても、給与に反映されることはないからだ。
しかしこの「エリート意識の塊」こそ、現代医療の根幹を支えている人たちなのだ。
医者には三種類いる。勤務医、開業医、フリーターだ。一番儲かる(時給換算で)のは開業医、次にフリーター、最後に勤務医である。しかし、勤務医は段違いに忙しく、高度な技術を要求され、責任も非常に大きい。しかもこの三種類の形態はお互い自由に行きできるのだ。
それでも勤務医が存在し続けるのは、「エリート意識の塊という呪い」のおかげであり、先鋭化した医師がいるからである。36時間連続フルパワーで働き、土日も働き、下の教育と、病院経営陣との間に挟まれ、寿命を削る(実際に勤務医の寿命は一般人口より短い)。こんなことができるのは言わば「エリート意識の塊=狂信者」だけである。
この「狂信者=勤務医」の呪いがとけて、居なくなるときが日本の医療崩壊が真に実現するときではないだろうか。
医者を増やす事のリスクとしては、①医師数の増加による、医師の社会的ステータスの低下②収入の低下があげられると思う。
①に関して、先に述べたように「狂信者」のエネルギー源は強烈なエリート意識である。数を増やすと言うことは、医師の質は下がるのは必死である(弁護士の例をかんがみても)。今まで医師になれなかった人を、医師にするのであるから。こうした変化は、家族も省みず、収入にも執着せず、すべてをなげうって医療に身を捧げる者の士気を「医師の希少価値の低下」を通じて下げてしまうかもしれない。
②に関しては、医療費はその半分が人件費であり、医師の数を増やすと言うことは、医師一人辺りの給与は下げなくてはならない。これも「医師間で相対的に少ないとはいえ、一般社会人より多い給与を減らすこと」で「狂信者」の、モチベーションを下げ、呪いを解き、開業やフリーター医師への逃散を誘発するには十分な理由になるだろう。
つまり、今の医療崩壊は医師を単純に増やすだけでは解決しない。また増やすことは万事を解決するわけでもなく新たな問題を起こす可能性もある。
これが我が国で医師を増加させることが、医療崩壊の解決にならないであろう理由である。
歪な国民皆保険制度のもと、なんとか医療業界が試行錯誤でたどり着いた妥協案が現在の医療体制なのだ。東京医大の問題もその歪みの一部でしかなく、この問題を小手先のテクニックで解決したように見せたところで、根本の病理はなにも変わらないのだろう。
みんな!みんなには嫌いな言葉や嫌いな物があるかな?
はいそこ、「お前」とかいうつまらんのはいらんからな。オウム返しは面白くないぞ。面白くない俺以下だからな。
まあ人間はたくさんいる以上個性も嗜好もまちまちだわ。
お前が好きなものを他の人は嫌い、お前がやめてほしい事を他の誰かはすすんでやりたがる。
そういうもんだ。
でもインターネット、とくにここみたいなとこではなるべくそういう事を主張しない方がいい。
絶対に傷つくハメになる。理由かどうかわかんないけどダラダラ語らせてもらう。
読む気ないならこのはてなで活発なオスメスの喧嘩や政治マウント合戦にお帰りなさい。
まあ前提として匿名空間やハンネの仮面がある様なサイト/コミュニティは「現実じゃできない事、言えない事」を言いたいのがいっぱいいる(と、俺は決めつけておく)。
そりゃそうだろ。自分語りをパズピーされてけんま(意味はググれ)されるか、サイト側がやらかしたりクラッキングされて個人情報漏れない限りは誰かバレないからな。
度合いは人によるけど、自分の心の汚い部分や闇の部分、見栄を張りたい嘘つきの部分が活発になる。現に俺はそうだ。俺がそうだしそれ以外にもいるだろう。
つまり、「何言っても顔無しの名無し」「謎の仮面の怪人」「電池無限のステルス迷彩とサプレッサー無限の銃を装備したスネーク」状態な訳だ。
うーん、結論になってねえな!
つらつらオタクの気持ち悪い構文を広める前に例でも挙げるか。
まあここはネットの人間の汚すぎる部分が凝縮されてるから、傷つく人間も出てくる。
ある女が「私達のことまんこって言わないでください」と切実に書いた日記があったな。URL忘れたけど。
で、その日記になんて言及付いたと思う?
「いきなりまんこが喋るとびっくりする」「おっと、下の口じゃなくて上の口も閉めとかないとな(笑)」だぜ。
もっと傷付くハメになったね。
まあそういうことだ。「やめてくれ」という意思表示、「嫌い」という拒絶は正直逆効果だ。
「こいつこういう事されると傷付くんだな!もっとしちゃえ!」って性格悪い奴に煽られる事になるから。
性格悪い奴だけじゃない。そうなった経緯を理解してもらう為に話せば、逆張り大好きな奴から「どうせ嘘松なんだろ?嘘つきめ。みなさーん!こいつは嘘つきですよー!」と責められ広められるだろうし、「何であなたはこれが嫌いなのですか?こんなに素晴らしいのですよ!さあ!私達と一緒に!」と狂信者に布教される。
布教されずに「我々の経典を馬鹿にした愚か者がいる!天罰を!天罰を!」と十字軍を派遣され数の暴力に晒される事もある。
だから俺から言えることは一つ。
黙っておけ。触れるな。見ない姿勢でいろ。
傷つくのが嫌だからと自己防衛をしようとするのは、逆に傷つく事になるからな。
狂気に憧れる凡人の話
それはほかでもないぼくのことであるのだが。何よりもまずこのもったいぶっていかにも尊大そうな文章にケチをつけなければならないが、どうしてもこの文章じゃないと書けないのは、普段の自分の頭の中をかけめぐる独白の数々がもう常にこの状態で、いくらケチをつかえようにも治らないのである。そしてその結果所々に綻びが生じる。そしてそれを許容するにはあと何十年も人生が必要になるだろう。
明け方。明け方といっても現在午前19時である。日当たりのいる部屋に住むせいかカーテンを未だ閉めているせいか太陽を拝むことはないのだが、とにかくこの時間までぼくは寝れずにいた。寝れないときに頭を駆け巡るのはたいてい直近の過去の反省か僕が主役の何かしらの劇的な映画である。ある時は正統を追い求めた結果化け物となる主人公を演じ、ある時は自分の人当りを恥じたり、ある時は海外旅行先で危うく性欲に負けそうなった事実を思い出す。現在や過去からの逃避のためにぼくは狂気の自分を追い求める。その狂気というのは目的達成のために没頭することができて周りを省みずそして周りもまた本人を認めている状態を指す。つまり自己実現と自己顕示が両立した理想的状態に憧れる。そしてその状態は過去のいかなる自分を構成している伏線を全て回収し、何等かの今現在の結果にすべて一本の柱で繋がることを求めている。求めているのである。現実はそうはいかない。そのような狂気の自分が自分に舞い降りたことはなく、狂気の結果になったこともない。狂気を演じてみたこともあったがそこに生じたほころびはむしろ自分を苦しめることになった。つまりは結果が伴わなかったのだが、それはそうとしよう。なにより自分自身はどこまでも凡人で、その凡人さと、そして誠実さを追い求めていたという現実に直面したのである。狂気は理想、凡人も理想。でも現実は凡人。では理想は叶ったと思うが、これもまた難しい。この構造がよくわからない。凡人という層の上に狂人という層が乗っかっていて、その両方を求める自分がいるのであろうか。
これはぼくの物語の妄想に関連してくるのだと考える。ぼくの頭の中の物語、しばしばそれは12歳の頃から文章となって表現され印刷され、多くの人に読ませたりはたまた読まれたりしたわけだが、その妄想こそが平凡の上に狂気がコーティングされている。つまり、世のなかに多く知れ渡るフィクションと全く同じ構造を取っている。具体的に言えばスターウォーズ。
例えば運命の申し子になりたがったり、運命に反逆し新しい法則を作り出す存在になりたがる。誰しも考える物語もそうかもしれない。だからこの文章もありがちなものになり得る。それはしかし考え始めるとまた大変なので置いておく。
まず、基本となる法則を追い求める。例えばスターウォーズでいう「フォース」であったり、よくある「運命」だったりする。「強大な支配者」だったりもする。そしてその基本となるものに、自分は「狂人」となり法則に準じて動いていく。妄想の世界でこの法則は絶対で揺らぐものではない。妄想の世界ではぼくは絶対に間違えない。法則を間違えない。
これこそがぼくの今の状態を作り出すのである。平凡の狂気の同居を求めるということ。つまりそれは究極的には平凡を求めているのかもしれない。絶対正しいとされることを妄信的に突き進めばぼくは幸せになれる、自己実現ができるという、ある意味思考停止を求めた状態なのかもしれない。価値観の氾濫するこの時代である。よく大昔の評論でいう「大きな物語」の終わった時代。それが昔。らしい。ぼくの生まれる五年ほど前にそれは終わり、今は価値観の氾濫する時代になっている。だからこそ強い価値観が生まれてカウンタ―も強い。2011以後、それを強く感じている。もはや学べば学ぶほど何が正しいかわからなくなり、そして終着点が分からなくなる。よくフィクションで言われる「それは己が決める」そうしたい。そうしたいし、それが正解だと思う。しかし自分が間違える存在で、正しいところに合わせなければならず、もし自分がそれを踏み外せばそれすらしばしぼくの責任ではなく(大きく元を辿れば自分の責任なのだが)、自捨を求められる「大きな物語」の中にいたぼくが、この物語の氾濫するなかでそれを選択し生きていけるのだろうか。しばしぼくらは尊重される。マイノリティだとしても悪いことだとしても、その個人は尊重される。されるべきである。一方でぼくを取り巻く規範がぼくにどう作用するのか。二つの全く異なるコミュニティを行き来してきた僕に何がどう作用するのか。1984よろしく二重思考である「わかっちゃいるけどやめられない」「間違っちゃいるけど間違っていない」恐らくこの二重思考も誤りであるが。そしてぼくはどちらかを選択し逃避する。どちらも正しいと思うのに。どちらも正しいと思うから。これがまたややこしい問題を引き起こす。
本当のぼくはとても乱暴な狂信者である。属する二つのコミュニティの規範に対して。とても乱暴で妄信的な狂信者である。その折り合いは結局、この22年間でつけることは出来なかった。そしてもう23年目を迎える。自己実現や自己顕示などもう参照ファイルの一個としてもったいぶって時折閲覧する程度でいい時期である。それすらも間違っているのかもしれないが。ぼくのただの達観という自己満足と自己実現の1つの妄想の中の確信の1つなのかもしれないが。だがどうしようもない。この疑い逃れに堕ちぬよう絶対を見つけるまで日向ぼっこしかないんだ。何日も何十年も雲のように漂って。とっつきやすい欲望を転々として理由を探していたけど。ある日ある事あって。また嫌になったんだ。これまでの世界にもこの文章にすらシラケてしまった。ぼくは戻っていった。あきらめと忘却と千羽鶴のように歩む生活の往来に。さながら長澤知之である。回想を繰り替えし思考列車は回送を繰り返しながらぼくは今日もぐるぐると回り先人を参照して一時満足しまた離陸して宙に浮いて厨二に入ろうする。三十分が経った。整理できただろうか。ぼくはこうして前に進めない。前に進み規範に折り合いをつける技量もない。面白いことに一年前のぼくの就職診断で出た答えは「開祖」であった。宗教をひらけというのだ。つまりはもうぼくはそのようにして列車を止めることは出来ないから、早く駅を作りその駅に留まりまた路線を作り走り出せというのだ。それしかぼくのような人間は生きることが出来ない。社会でやっていくこともできない。
そしてぼくのようなものは、地球上にゴマンといる。恥ずかしいことにマジョリティなのである。なんとも哀れ。恥ずべきこと。マイノリティを求めること時代がマジョリティの発想なのである。この世に溢れるマジョリティを求めるマイノリティの物語などすべてその逆でしかない。この文章も自己陶酔の一役目しか果たしていない。道具に頼らないだけマシであるが。
夜が明けた。今日が始まる。あまり酔った文章を書きたくないのでどう締めたらよかろうか。この自分の状態も、外の状態も、宵が明ける。上手い。よしこれで終わりにしよう。
2018/2/27
今朝見たツイッターで一方的にフォローしている王国民のつぶやきによると誕生日だからという理由で平日にライブをやるのだという。そして俺は今日暇で、当日券も残ってて、ネット経由で予約ができるから無駄足になることもない。
俺の仕事は休日がランダムで、土日とか関係なくて、むしろ平日のほうが日数が多いぶん当たる可能性が高いくらいだ。事前に「この日は絶対休む」と決めて予定を立てることも出来なくはないがそのカードは今の趣味のために全部切っていて新規開拓に使う余裕がない。
もちろん「ファン」を名乗る存在にとってはいかなる事情も年に一度ペースのイベントを逃す理由にはならないし、現に俺だって休日を調整して当日と翌日休みを確保するくらいに好きなものはある。何だったら仕事の方蹴ってやるし。
でも逆に言うと俺は仕事を蹴れるくらいに熱くなっているイベント以外にはまず参加しないということでもある。
地方住まいだから「当日が休日になったら行く」も使いづらい。だってイベントの日って世間も休日だから車移動厳しいし電車移動は終電が早いから無理だし。そもそも行けるかわからないチケットの予約とかしないし。
そんな生活が続くとそもそも予定を検討することすらしなくなる。一番好きと二番目の好きくらいまでなら享受できるからなんとかそれで生きていくようになる。(それでも贅沢な話ですね)
ゆるい好き。極上生徒会とか好きだし最近になってラジオも聞くようになったけど「現地」だけは遠いところ。だったのが急に俺のゆるい熱量でも届く所まで接近してきた。
行けない理由が全部消えちゃったんだもんまあ行くわけですよ。18時開演だから行きには余裕があったもんね。別に早起きしてなくても行けばいい。(早い時間のイベントは前日に早寝して夜明け前に出発したりするんですよね。府中までは4時間くらいだから昼食べてからでも余裕。)
ここまで前々から興味があったようなこと言ってきたけど認識が甘かった。俺は王国をなんだと思っていたのか。自分が入れ込んでる領域でも自分のような者を見たことがある。アンテナは低いし必修科目を受講すらしていないのに公式やファンに対して上から目線。
新・天地無用で初めて声を聞いてからもう20年くらい「知ってる人」だと思い込んでいたんだが。
俺は田村ゆかりさんのことをアニメの声と新しいほうのラジオでしか知らず歴史や文脈に関してまったくの無教養だった。ラジオとか聞き流していたな。何が毎週欠かさず聞いていますだ。録音して一字一句を書き起こせよ。
雰囲気でペンライトを買ったが使い方がわからないじゃないか。ただ振るだけだと思ってたけ周囲りのオーディエンスは熟練度が違う。アリーナ席を見ろあいつら客じゃなくてそういうキャストじゃないのか。
歌もお前はアニメの主題歌とキャラソンくらいしか知らないな。でもラジオでよく聞くあの曲は全部セトリに入ってるぞ。新参に優しすぎるだろ天使かよ。
あそこは狂信者の集いなどではなく、極めて理知的に、合理的に魂を満たすために揃いの支度でライブに「参加」をしている。
コール。世界一かわいよー!とかゆかりーん!とか任意に叫んでいいことになっているようだがなるほど王国民の声は歌に被さっても違和感がまったくない。恋せよ女の子♪(ごーごー)の(ごーごー)くらいのもんだと思っていたがわけのわからないタイミングで巧みに叫ぶべき箇所を正確に射抜いている。本当に今までなんだと思っていたのか。
なんかステージのゆかりんより周囲の王国民を見てる時間のほうが長いくらいだったかもでした。
シャツも法被も鉢巻も会場を出ればすぐに見えなくできるもの。カメラで切り取られた異様な姿として流れてきた写真でしか知らなかったな。何リテラシーありますみたいな顔してんだそういうとこだぞ。
ここまで書いたが自分の認識に自信が持てない。本当にこんなもんなのか。行けばわかると思っていたけど何もわかっていなかったことしかわからなかった。
パペットはこの日使わなかったがここのコンサートなら全員で人形の口からトランプ出すくらいのことはやりかねない。底が知れない。
ゆかりんは確かにかわいかったし、スタッフは観客がゆかりんのかわいさを享受できるよう全力だったし、みんな満たされていて、自分が恥ずかしかった。
声優としての田村ゆかりさんの声はあんなに聞いたたのに。この場所との間にある壁はそんなに厚くないはずなのに。
次はちょっと無理してでも行こうと思う。
ウクライナ | ボフダン・フメリニツキー(1595-1657) | ウクライナ・コサックを率いてポーランド・リトアニア共和国に反乱を起こし、ウクライナの自治権を勝ち取った。その後、単独での防衛は難しかったことからロシアの保護下に入ったことで、後のロシアによる支配を招いたとも言われる。ユダヤ人の虐殺をしたこともあり、毀誉褒貶が激しい。 |
ベラルーシ | タデウシュ・コシチュシュコ(1746-1817) | 現在のベラルーシ、当時のリトアニア大公領に生まれ、アメリカ独立戦争に参加し、ポーランド独立のためにロシアと戦った英雄。なにがなんだか。一般には「ポーランド・リトアニアの英雄」とされるが、ベラルーシも「うちの出身やで」と主張している。ベラルーシ人は特に民族意識が希薄なため、他に民族的英雄があまりいないようだ。 |
モルドバ | シュテファン三世(1433-1504) | モルドバ公国の公。その統治はモルドバの歴史上で最も繁栄した時代だとされる。またフニャディ、スカンデルベグ、ヴラドらと並ぶ「反オスマン」の英雄であり、特に「ヴァスルイの戦い」での大勝が名高い。ヴラド・ツェペシュとは従兄弟同士で、親友だったとも言う。 |
ロシア | アレクサンドル・ネフスキー(1220-1263) | ウラジーミル大公国の大公。モンゴル帝国に臣従しつつ直接的な被害を免れ、むしろ敵対していたスウェーデンを「ネヴァ河畔の戦い」で、ドイツ騎士団を「氷上の戦い」で打ち破って勇名を轟かせた。スターリンが独ソ戦の際に「かつてドイツを打ち破った」アレクサンドルを英雄として持ち上げたために有名になったとも。 |
アルバニア | スカンデルベグ(1405-1468) | オスマン帝国の支配下にあったアルバニアの軍司令官だったが、フニャディ・ヤーノシュの反乱を鎮圧するために差し向けられると、逆にフニャディに同調して造反し、オスマン軍をアルバニアから追い払って独立を達成した。 |
ギリシャ | アレクサンドロス三世 | 言わずと知れたアレクサンダー大王。大王の出生地が現在のギリシャにあるなど、古代マケドニア王国の大半はギリシャ領に含まれており、ギリシャは「マケドニア共和国はマケドニアと名乗るべきではない」と主張している。しかし地域としての「マケドニア」にマケドニア共和国が含まれるのも事実である。 |
マケドニア | アレクサンドロス三世 | 言わずと知れたアレクサンダー大王。現在、マケドニア共和国に住んでいるのはスラブ民族であり、古代ギリシャ人との血統的繋がりは無いとされる。しかし古代マケドニア王国はギリシャ人の国家だったものの、都市国家を形成せず、政治体制も異なるなど、アテネやスパルタにとっては「辺境」「蛮族」の感が強かった。 |
クロアチア | ヨシップ・イェラチッチ(1801-1859) | オーストリア帝国の支配下にあったハンガリーの、さらに支配下にあったクロアチアにおいて、クロアチア人たちの総督として独立を志向し、オーストリア皇帝の命でハンガリーの独立運動を鎮圧するなどした結果、一定の自治権を獲得した。独立運動の先駆者と評価されている。 |
セルビア | ミロシュ・オビリッチ(?-1389) | セルビア王国の騎士。セルビアがオスマン帝国に惨敗したコソボの戦いの後、オビリッチは寝返ったふりをしてオスマン帝国の皇帝・ムラト一世に近づき、そして刺殺した。コソボの戦いで戦死した王や騎士たちは後世英雄とされ、多く叙事詩の題材となったが、オビリッチもまたさまざまな伝説の主人公となった。そらこんなんおったらオーストリアの皇太子も暗殺するわな。 |
ブルガリア | ワシル・レフスキ(1837-1873) | 革命家。オスマン帝国の統治下にあったブルガリアの独立を目指して、国内に革命組織のネットワークを作り、外国の武力によらない独立を構想したが、オスマン帝国によって拘束され、処刑された。 |
ボスニア・ヘルツェゴビナ | クリン(?-1204) | ボスニアの「バン(首長)」。もとは東ローマ帝国に属していたが、セルビアのステファン・ネマニャと共に離反し、ハンガリー王国の庇護を得つつ、実質的な独立を果たした。彼の統治のもと、ボスニアの文化・民族の土台が築かれ、いまなおボスニアの歴史上で最も平和で繁栄した時代と称される。 |
モンテネグロ | ペタル二世ペトロビッチ・ニェゴシュ(1813-1851) | モンテネグロの君主。国家の近代化に貢献し、オスマン帝国との軍事衝突を凌いだ。しかしそれよりも大きいのは詩人としての名声で、彼がものした叙事詩はモンテネグロの文学史上の傑作と目されている。いくつかは日本語訳もされているらしい。 |
ルーマニア | ミハイ勇敢公(1558-1601) | ワラキア公。オスマン帝国と敵対し、「カルガレニの戦い」でこれに大勝した。また、トランシルヴァニア、モルダヴィアを併合し、ルーマニアの統一を一時的にでも成し遂げたが、その翌年に暗殺されてしまった。 |
アルメニア | ヴァルダン・マミコニアン(387-451) | アルメニアの貴族。アルメニアを支配していたササン朝ペルシャによるゾロアスター教の強制改宗に反発し、寡兵ながらササン朝の大軍に立ち向かった。戦いには敗れ、ヴァルダンも戦死したものの、ササン朝は譲歩してアルメニアに宗教の自由を認めた。 |
アゼルバイジャン | イスマーイール一世(1487-1524) | サファヴィー朝の建国者。サファヴィーとは教団の名前で、その狂信者を兵士としたイスマーイールの神憑り的な軍事能力によって勢力を拡大したが、「チャルディラーンの戦い」でオスマン帝国に敗れ、意気消沈して晩年を過ごした。ちなみに当時のアゼルバイジャンと現在のアゼルバイジャン共和国の領土はけっこうズレているらしい。 |
ジョージア | タマル(1160-1213) | ジョージア王国の女王。セルジューク朝の影響を排除して、ジョージア王国の最大版図を築き、文化的にも黄金期を現出した。中世グルジア文学の最高傑作『豹皮の騎士』はタマル女王に捧げられた長編叙事詩である。 |