はてなキーワード: 差別者とは
いやほんと、ポリコレは何の努力もせずに「自分を他人より上の人間だと思い込むためのツール」になっちまったよな
「良いことをしてる」と思い込めるというか
その結果として、反ポリコレならどうしてもいいっていう悪の権化となってしまってる
そのわかりやすい表出がBLMな
だって、自分たちは差別とか偏見とかハラスメントとかそういうのから潔白でなきゃいけないんだから
でも、実際にはそんな解脱することはできない
本当は、ポリコレ側こそこういうのを排除しなくちゃいけないんだけど
自分たちの味方だし、敵をやっつけてくれるから、そうだそうだってなるやん
だから、殴り合いだよ
誰も、自分が殴るのをやめる「最後の聖人」になどなれないんだよ
争いは無くならない
まーたフェミが活気づくよってうんざりする。フェミが男性全体を攻撃するたびにアンチフェミどももペニスを立てて反撃するので、男女間の溝が深まるばかりで世の中がよくならない。
この件で直接関係ない俺も、差別者と同じ男性だから、差別を黙認することで差別者の味方になったから同罪だって巻き込まれるからしんどい。
女性差別なんかしなければこいつらファイターの出る幕がなくなるのに。
じゃあ逆に女性が男性差別をしたらアチャーってならないのか?ならない。これに怒る奴なんて社会で行き場のないような少数のゴミクズみたいな男だから問題にならない。だから世の中がよくなることにも悪くなることにも影響しない。放っておけばいい。
せやでわしもはてなーや
自分がいつもいる集団が普段差別者を私刑することが大好きだけど男性差別には無自覚なカスの割合めちゃくちゃ多いって認識はめっちゃあるぞ
それとも脊髄でなんか言ってみたい系?
整理したくなっただけなので、そんなこと皆わかっとるわいと思うかもだけど勘弁してね。
ある属性・集団の人間に対して、その属性であることを理由に不当な扱いをすれば差別である。
ある属性・集団の人間に対する偏見を語ることは、その偏見を持たない人からすると白い目で見られる。
例)男は××、老人は××、最近の若いのは××、関西の人は××、東京もんは××、金持ちのボンボンは××、貧乏人は××、高卒は××、院卒は××
偏見を語る対象の属性・集団が被差別を受けている実情・過去がある・被差別属性である
という社会的合意がある場合は社会的に糾弾される。差別的言動であり、差別意識が表出したと見られる。
例)女は××、○○人種は××、etc(あまり具体例だしすぎるのもよくないので)
上記において、その偏見を語る話者が制度を決定する、人を雇用する、採用するなどの権力者の位置に近い場合、
差別意識があるということはその意識が実際の人間・集団に対する意思決定に影響させたと見なされる場合がある。
・一切外部に表出しなくとも、差別意識を内心に持つ時点で差別者であると認識する人
・立場のある人間が差別意識を表出するのは具体的差別に限りなく近い、すなわち差別であると認識する人
・具体的・実際的な差別のみが差別であり、内心の偏見・差別意識の表出は差別そのものではないと認識する人
・その上で、だから表出して良いと認識する人と、表出すべきでないと認識する人
・差別と呼ばれるものは正当な評価であり、糾弾されるようなことではないと認識する人
ぐらいに分かれるのかな?当然グラデーションはあるとして。
菜食主義・ベジタリアン・ヴィーガンの議論(直近だと anond:20201226231316 に対するコメントとか)において、特に肉食側からの倫理的な議論が少ないように思えるので、簡単ではあるが、倫理的な観点からの肉食擁護を書いてみたい。
私はあくまで素人であり、以下の文章は個人の見解以外の何物でもないことは最初に断っておく。
肉食を倫理的観点から批判する際の最も大きな論点は「種差別」である。種差別とは、「単に種が違うからという理由だけで、ヒトとそれ以外の動物を差別すること」である。肉食が相手の"命"を奪う行為であることは万人が認めるだろう。また人間同士では相手の"命"を奪う行為に大きな制限をかけるべきであるということも大多数は認めるだろう。であれば、「"命"を奪うことについて、相手が人間以外の動物だからという理由で人間と同じだけの制限をかけないのは差別である」というのが種差別の考え方である。
この考え方は性差別や人種差別の形式と近い。例えば、男性の利益を"男性だから"という理由で優先して、女性には"女性だから"という理由で配慮しないことや、白人の利益を“白人だから”という理由で 優先して、黒人には“黒人だから”という理由で配慮しないことは現在では大多数の人が差別であることを受け入れている。同じ用に、人間の利益を"人間だから"という理由で優先して、人間以外の動物には"人間以外の動物だから"という理由で配慮しないことは差別であるというのが主張になる。
一方で、関係する全員に対して平等な考えに基づいた適切な理由によって、ある存在と別の存在の取り扱いを変えることは差別ではなく、倫理的に問題はない(※ここでいう差別とは”不公正な扱い”を意味しており”不平等な扱い”ではない)ことも重要である。「菜食主義者だって植物の"命"を奪っているじゃないか!」という批判はよくあるが、多くの菜食主義者は"苦痛を感じる能力(sentient)"の有無を理由にして動物と植物を区別しておりそこに倫理的な問題はないと考えている。(なお、植物本体を傷つけない果実のみを食べるフルータリアンはこの点で他の菜食主義者を批判する)
このように倫理的な観点から肉食を擁護するためには、人間が動物を食べることについて、すべての生命に対して平等な考えに基づいた適切な理由を検討して採用する必要がある。
すべての生命に対して平等な考えに基づいた適切な理由を検討といっても、何から手を付ければよいのかは難しい。考え方はいくつもあるが、ここでは、伊勢田の「動物からの倫理学入門(2008)」の議論を元に進めていく。余談だが、この本は倫理学の入門書としてはかなりオススメである。タイトルからは菜食主義の本のように思えるがそうではなく、各主張を紹介した上で応用の一つとしてそれを動物に当てはめるとどうなるかを検討している。また、伊勢田自身は菜食主義者ではないとのこと。
伊勢田はこの本で下記のように主張している。
④認知能力や契約能力等、動物と人間を区別する道徳的に重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する)
これらの組み合わせから容易に「動物にも「人権」があり、危害を加えてはならない」という結論が導ける
(p320 終-3 結局動物とどう接すればよいのか)
「①~⑤を認めると動物に危害を加えてはならない」ことが正しいとすると、肉食を擁護するためには少なくとも1つを削除する必要がある。それは①~⑤のどれにすべきだろうか?
普遍化可能とは、簡単に言えば"ある状況である倫理判断を善いとするなら、同じような他の状況でも同じ倫理判断を善いとしなければならない"ということである。例えば、私が借金を貸す側のときに「借金を返さないことは悪いことだ」と言うならば、借りる側のときも同様に「借金を返さないことは悪いことだ」と言わなければならない。
これを削除すると、多くの倫理判断や社会のルールが無効化されてしまう。例えば、貸し手のときは「借金を返さないとダメ」と言いながら、借り手のときは「返さなくても問題ない」と言えてしまう。こうなると強者が弱者を思い通りにできる(少なくとも倫理の観点から批判することは出来ない)社会になるが、それを良いとする人は少ないだろう。また「人間と動物はお互いを殺してよいし、両者ともそれに抵抗してもよい」という方向で普遍化することも可能だが、それでは「人間は人間を殺してもよい」を否定する理由が難しい。
(双子を除いて)完全に同じ遺伝子を持つ人間がいない以上、遺伝的差異を差別の理由とするのは難しい。例えば肌の色を黒くする遺伝子を持つから差別していいとは多くの人は賛成しないだろう。生物学的種を考えて、交配して子孫を残すことが可能かという観点で区別するという主張はあるかもしれない。だが種差別の議論を考えると、交配の可否を"なぜ"差別の理由としてよいかを説明することは非常に難しい。また、(進化論を認めれば)すべての生物は連続しているので、AとB、BとCは交配可能だがAとCは交配不可というA, B, Cが絶滅種も含めれば必ず存在する。Aの立場で考えて、Aと交配可能なBは差別してはいけないが、差別してはいけないBと交配可能なCは差別して良いとするのはルールとしての一貫性を欠くだろう。
確かに、例えば未来の概念や愛の概念の有無などによってその苦しみの程度は異なるだろうし、動物の権利を主張する人たちも犬と人間が溺れていた場合に、より苦しみが大きいであろう人間を優先して助けることを否定するわけではない。しかし、多くの動物が少なくとも痛みや苦しみを感じる(sentient)ことは事実であり否定はできない。
先にも書いたように、多くの菜食主義者はこの③について、「脳を持たない植物(主張によっては一部の貝なども含む)は人間を含む動物と同じようには苦しみを感じない」として植物と動物を区別し、植物を食べることに問題ないと考えている。「植物も実は苦痛を感じているかもしれないじゃないか」というのもよくある批判だが、これはあまり意味のある問いではない。確かに植物も苦痛を感じている"かもしれない"が、動物は"明らかに"苦痛を感じている。何かを判断するときに、よくわからないことが1%あるから残りの明らかな99%も無視して良いとはならない。また、将来もし植物が"苦痛"を感じることが明らかになった場合は、菜食主義者の多くはフルータリアンなどに態度を改めるだろう。
これも事実であり否定はできない。人間の知能を動物の知能と直接比較すること(牛は人間でいうと何歳程度の知能か?など)はほぼ不可能であるが、それでも例えば0歳児や重度痴呆症、ある種の知的障害者などの限界事例の人たちと比較して牛や豚や鳥のほうが"賢い"と考えることは大きく間違っているとは言えないだろう。
③に関係して、動物も人間と同じ用に苦しむのは事実だが、動物を苦しめずに殺すことは問題にならないと主張できるかもしれない。未来の概念がなければ生活計画を持たずにその時だけを生きているので、殺害して未来を奪うこと自体は倫理的に問題がなく、苦痛を与えることだけが問題であるという主張である。また、④に関係して、認知能力や契約能力などの"賢さ"によって人間と動物を区別でき、"賢くない"動物は殺しても良いと主張できるかもしれない。
しかし、これらの主張からは、未来の概念がない人間や"賢く"ない人間=限界事例の人たちを殺しても良いという主張が直接的に導かれてしまう。もし、限界事例の人たちを殺すのは良くないと考えるならば、その根拠は人権であろう。であればこれを否定することも難しい。そして限界事例の人たちに人権を認めるなら、動物たちに「人権」を認めないとするのは一貫性に欠ける。
以上のように①~⑤を検討してきたが、どれも削除するのはなかなか大変そうだ。「現代の代表的な倫理学者で動物の問題について発言している人はほぼ例外なく動物が直接の配慮の対象になるべきだという立場である(伊勢田, 2008)」というのもよく分かる。
しかし、倫理的な観点から肉食を擁護するためにはどれかを削除する必要がある。私は差別者であるという批判を受けることは承知の上で、⑤を削除することを提案したい。
たしかに
そういう人は存在するかもしれない。でも…
44歳男がひとりでサンリオピューロランドにいたら警戒するのは常識外れとは言えない
法律で禁止されていないからといって、道徳的に正しいとは言えない。
性別と年齢で危険分子とみなす… 差別するのは決して正しくなんかない。
44歳男性がサンリオピューロランドに通っていたら危険だ、とみなす合理的な理由はないからだ。
差別者の行いは差別者自身の責任なのだから、男性は気にする必要はありません。
開き直りなんかじゃなく、むしろ堂々と勇気を持って胸を張って通うことで、後進の、行きたくともいけない男性に道を拓く意義がある。
私は是非とも応援したい。
ターゲットにされてなくても威嚇されたら非常に怖い
貧困やら被差別やらの背景を背負ったヤンキーが多いのは頭では理解できるが、怖いものは怖いし避けたい
被害を甘受する覚悟を持って断固として差別に反対せよと言っていた増田がいたが正気とは思えない
なんか(都会の)公立中の話が「偽善リベラルの欺瞞を暴く」みたいな空中戦になってるけど意味不明すぎる。
そもそも公立中に対して批判的なこと言ってる人間=ポリコレ棒振り回すリベラル系人間って構図自体レッテル貼りも甚だしい。
なかにはその2つの属性が一致しているやつもいるかも知れないが、基本的にそれらは別々の人間の発言でありダブスタもクソもない。
あと、低学力・低学歴層に対する差別意識だとか、そういう類の話かこれ?
「公立中はクソ、動物園」って発言があったとして「クソ」な理由は、「勉強が出来ないやつが多いから」じゃないだろ。
ろくに法の及ばない学校のなかで酷い学級崩壊が起こったり、堂々と犯罪行為が行われているような状況の告発として、そういった表現が出ているわけだよね?
もっと言うならそれらの行為者である生徒に対する批判ですらなく、そういう状況を許している「場」「システム」を批判しているわけだ。
(あるいはその状況をコントロールできず放置や、ましてや隠蔽したりして、いっこうにシステムを改善しない教委や教師といった大人たちを批判しているわけ)
これのどこが学歴差別なのか理解に苦しむ。そもそも学歴とか全然関係ない。
やれ反差別の覚悟がない、だの、n=1だの、やれ「お前は差別者だ」だとか糾弾調でよく言えたもんだなと思う。
そもそも犯罪の告発であって、反差別とかリベラルとか1ミリも関係ないからね。叩き側が勝手に結びつけてるだけで。
「ムカつくポリコレリベラルの矛盾を叩いてスカッとしたろ」ポルノのネタとして消費してるだけ。
差別ってのはマジョリティや強者が、マイノリティや弱者に向けるものだと思うが、ここでいう弱者は一体誰なんでしょうかね…?