はてなキーワード: 何だかとは
文明社会においては、どうしても承認欲求が働いてしまう。貴族であれば文明社会において生まれながら階級というシステムにより、ある程度の承認欲求を満たしているが、ブルジョアやプロレタリアートでは社会システム上(階級上)、ピラミッドの中〜下層になるためコンプレックスとして承認欲求を持ってしまう。階級と言うのは、何だか無難な響きであるが、何の事はない、文明社会において、人間の質を決めている非常にえげつないものである。そしてこの階級という壁が想像以上に人間の心理に影響をおよぼし、隔てている。ニーチェやフロイトも所詮はブルジョア、プロレタリアートの憂鬱なのだ。対する貴族の憂鬱というのがゴータマシッタールダ、すなはち釈迦だ。釈迦の本来言わんとしていることが万人には理解しづらいのはそのせいだ。ちなみに釈迦は一般的に、ドロップアウトしたと思われているが、僧侶は階級的に貴族より上なので、それは大きな間違い。大変な反逆行為である。現代において、知的好奇心の大きさで、ブルジョアやプロレタリアートが貴族的思想、思考を理解するのは難しい事では無いだろう。しかし、生まれた時点、育った環境の癖というのは強力かつ、その個人をコントロールしてしまう。元増田の悲運は、貴族より下の階級に生まれながら、貴族の抱える憂鬱まで理解出来てしまった点にある。しかし、現代において、これはさほど珍しい事では無いだろう。シェイクスピアが今でも評価されるのは本質をついていて、未だにそれが変わってないからなのだと思う。さて、ここからやっと本題だが、いわゆる ”悟った人” はどうしたらいいか? である。 これが大問題なのだ。現代的な価値観ではとうてい憧れるロールモデルなど無いのである。一番最初に悟ったとしている釈迦においては、ず〜〜っと瞑想してただけと聞く。 極端に言えば、瞑想マスターになり、脳内麻薬出し続けのぶっ飛び状態になってたらしいのだ。多分コレが貴族より上の階級、僧侶の憂鬱を解決したということになるのだろう。。。ちなみに、知っての通り芸術家と言われる人達は、この階級ピラミッドから外れた人達であり、それ故、貴族より下の階級の人達が漠然と憧れるのであると言われている。で、元増田がどうすべきか? そんなことは百も承知だろうが、そんなものはない。元増田だろうが、誰だろうが、本来そんなものはない。逆にそれが救いとも言える。
以前はほぼ毎日のようにはてブや増田に出入りしていた者ですが、最近めっきりログインしておりませんでした。皆さまいかがお過ごしでしょうか。
きっかけは大したことではなく、ちょっと間が空いたら戻るのがひどく億劫になってしまったというか。
ゲームやTwitterなど、他の遊びに時間を取られているのも、原因の一つかもしれません。
しかし離れてみて、自分が割と本気ではてブに疲れていたことにも気付きました。
以前はそれが良いと思っていた様々な点が、嫌いになった訳ではないけれど、何だか重く感じてしまう。一度そう感じてしまうと、楽しくやっていた時の記録も見ると重い気持ちになってしまい、ここしばらくははてなのトップページを覗くことさえしていませんでした。
更新されるたびにブクマしていたサイトも、ぱったり見なくなってしまいました。
ですが、数日前にTwitterを辿っていたらたまたま好きだったサイトに行き当たり、そこのブコメで、お気に入りだった方が今も活発にコメントしているのを見て、久しぶりにマイページを覗く気になりました。
まだ覗いただけで以前のように活動する気力は湧かないのですが、とりあえず何か重大な事が起きた訳でも、特に嫌な人がいた訳でもありません、というのをお気に入りやお気に入られの皆さまにお伝えしたく。猫も元気になりました。
http://anond.hatelabo.jp/20131218192932
う~ん、具体的なイメージが思い浮かばないなぁ…なんというか、多分こちらが典型的な「~べき族」として今まで生きてきたからだと思うんだけどもね。
しかし、わかることもチラホラあったりするので個人的に思考をアウトプットしてみたり。
そして「やるべき」なんて考えるからますますマイナス部分にしか興味がなくなる。そのことに気付いても、「やらなきゃをやめなきゃ」とまたべき思考に陥る。
単純な話なんだけど注意点が1つある。「そうは言っても好きだけじゃ生きられない」。そういう型にはまった思考に陥るとすぐ振り出しに戻る。これには「好きなことに興味持たなきゃ」というべき思考ではなくて、次のような自己反論で対処しよう。
この"「やらなきゃをやめなきゃ」とまたべき思考に陥る""「好きなことに興味持たなきゃ」というべき思考"って部分は最近気づいたところ。結論から言うと"べき思考"では中々幸せになれない気がする。特にそれが「好きなことをやる"べき"」って思考になるとね。
これは実体験なんだけど、僕はネットでは賛否両論な人物茂木健一郎っていう脳科学者の言、「人間の脳は自分の興味あることをハードルを超えながらし続けることで快楽物質(ドーパミン)が生じ、更にそれをするようになる。だから好きなことをもっとして更に増やせば脳はどんどん活性化するしアウトプットのレベルが上がる。逆に、何かを強制されてやらされると脳は活性化しないしアウトプットもレベルが上がらない」っていうのを中学くらいで読んでずっと信仰してきたわけね。
好きなことをたくさんやる「べき」なんだと。勉強やスポーツを好きなことに含める「べき」なんだと。
しかし最近になって、「結局"~べき"思考になってるんだから強制されてるのと同じじゃないか」ということに気づいた。好きなことをするべきするべき…って呪文みたいに心のなかで8年くらいつぶやき続けて、たどり着いてしまった自己矛盾。この8年なんだったんや…という絶望感は半端無かったね。
もちろん、この8年脳がフル回転してドーパミンドパドパ出て充実したか、って言うと全くそんなことなく。むしろ「好きなこと」すらも積極的に取り組もうとしない自分に自己嫌悪しながら虚ろに過ごしてきたなぁ。
繰り返しになるけど、だから「好きなことをする"べき"」って思考は、昨今の「好きなことをして生きようよ、気楽に生きようよ」という風潮に沿っていこうとすると、結構陥りがちな幸せになりにくい系な考え方なきがする。
それに気づいた後、じゃあどうすりゃいいんだろッて思ってた所にこのダイアリーがきたので一つの参考になりそう。結局やるべきことを嫌々ながらもやらなきゃいけなくて、それが幸せへの遠回りに見える近道なのかな、って思ってたので。
3行でまとめると
人は無くて七癖何だからなんか好きなことはある
但し「好きを意識"すべき"」と思わないように注意
ってことなのかなぁと。
ずっと、早く死ねよと思っていた猫が、めでたく死んだ。およそ一月前の事になる。
一年ばかり吐いてばかりいた。書類、絨毯、洗濯物など何でも汚染されるため、当然そのような部屋には出入り禁止だ。
気がつけばガリガリに痩せていた。まぁ高齢猫が毎日ゲロってれば当然だろう・・・。
それなりに過ごしていたのが突如ヨロけ出した。トイレに行こうとして、トイレが見えらお漏らしするようになった。
水を飲んでは吐いて漏らす。何も食べない。それ以外はずっと寝ていて、時々鳴き声を上げた。
その都度「もういいだろう、早く死になさい。もう十分に生きただろう」と声をかけた。
ささっと死んで良かった。長く苦しんだところでお互い救われないだけなのだから。
猫の死体もまた寝ているだけに見えて、いつも通りだなと思った。
生まれてすぐ捨てられて死ぬ予定だったのだから、17年も余分に生きたことになる。
以上、とりとめもなく書いた。
せいぜい私の記憶にその姿が遺されただけで、猫の生死に意味などないだろう。
ただ、時折心が微かにさざ波だつだけである。
初めてちゃんと振られた二十代前半って陳腐だ。
喪失感について何か書こうかと思った。
痛みを知るということ、感情の激発と時間の経過が大事だということ、宗教というものの存在理由、それが年を取るということだってこと・・・
結局は冗長で陳腐な言葉しか浮かばず、まとめ切れなくて何も書かなかった。
それとともに
老いたペットとどう向き合うか
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131214/k10013833111000.html
のエントリだ。
認知症だと体は健康なので、問題は相当長続きするだろう。犬のように鳴き声が問題となる動物だと悲惨だ。
夜中に起こされたら、日中、運転手のような職種だと文字通り致命的な事も有り得るだろう。周囲の目もある。
それに比べたら、明らかな異常を来してわずか一週間で逝った猫を思うと、本当に静かで、平和に逝ったものだと思った。
この2つのエントリが合わさって、さざ波が立ち、これを書くに至った。
ここで吐き出して、見返しもせずに終わって良かったのだが、何だかんだで未練なのだろう。
このエントリへのブコメ等を見て、書きたいことが増えていくのだ。
それをもう少しだけ、書き増やしてみる。
ネズミが捨てられている、と思った。私の知っている猫ではなかったが、よく見るとどうやら猫らしかった。
暖かい季節とはいえ、このまま死ぬしかないだろう・・・私には飼えないことも、最後まで面倒を見きれないこともわきまえていた。
現在の法律はそれに呼応するかのように厳格化している(上記NHKニュース参照)。
そのブコメに書こうかとも思ったが、法律もまた、見殺しにするか保健所へ連絡して殺すのが正しい身の処し方だ、と言っているように思えた。
が、彼女はわきまえていなかった。私は彼女に対して、後先考えぬ思慮の浅さと、命を前に何も顧みない優しさを思った。
兄弟は里親に出し、一匹が私の手のひらの中で死に、残ったのが掲題の猫だ。
それから10年弱して彼女と結婚するのだが、家を探すのに猫は足枷だった。
同じ条件で、家賃が一万円違う。が、10年もいれば猫も家族の一員だ・・・已むを得ない。
ここまでがよくある猫のいる家の話である。
しかし、疎ましくなる。
猫に噛み癖があり、感染症の原因となる可能性もある。
当然、猫は敵のように看做された。寝室などは厳重に出入り禁止となった。
とはいえ、子どもに分別がついてくると落ち着き、この子が物心がつくまでこの猫は生きているかな、という話になっていった。
猫というのは元々よく吐く生き物なのだが、その頃には徐々に回数が増えてきていた。
平均寿命も過ぎ、運動量も明らかに減っていた。夏でも膝に乗るようになった。
吐くこと自体は慣れてしまっていたが、この一年ばかり吐いてばかりいて、その痩せ方にギクリとし、覚悟もした。
不幸にして死んだのではない。死ぬべくして死んだのだから。思えば偶然によって随分と生きた。
元々膝の上に乗っていても気づかない事があるほど気配のない生き物だから、何が変わったという気もしない。
ただ、探してもいないだけである。
何だか色々と幼稚な感じがするねー。
実際スクリプトどうこうは知らないけど、これ、100個も数量があって、2万ほどのものが1万4千とかだよね?
こんなん業者が居たとして、本気で取りに行くの?
この程度のものなら普通に手動でだいぶ遅れてからでも取れる気がするんだけど、違うの?
てか、多分、問題なのは通信時間じゃないの?単にクリックするだけ何だからその速度よりよっぽど次のページがロードされる時間の方が大きいと思うんだけど。
やっぱり、こういう凄い底辺バカが、こういった「らくした儲け話」をやろうとするんだね。
(多分バカだからこのスクリプト書くにも随分時間かけたでしょうに。その時間を費用に直したらいくらか?んで、このスクリプトは別に1万のスウィートルームには適用できないだろうに。。。)
去年の後半からほぼ毎週休日出勤している。理由は簡単で、忙しすぎるから。
土日ともに潰れる日がほとんどだったが、今年の後半になってやっと片方は休めるようになってきた。
そうしたら、休日をどうやって過ごしていたのか思い出せなくなった。
朝寝坊はしていただろう。ゲームをしていたような気がする。買い物に出かけていたような気もする。一人暮らしだからもちろん洗濯はしていただろう。
もっと色々していたような記憶があるのだが、思い出せない。わからない。
ああ、そういえば、自分はもう三十路も半ばなんだから、いつまでも二十代のような過ごし方しているというのもアレだろう。
だけれど一般的な三十路独身男というのは、どういう休日を過ごしているのだろうか。わからない。
そもそも安月給の自分に、一般的な三十路独身男が過ごすような休日なんて過ごせるんだろうか。わからない。
ワークライフバランスなんていう聞こえのいい話には興味はないけれど、仕事のこと以外となると頭から抜け落ちてしまうというのは…企業としてはありがたいのだろうけれど、人間としては「壊れている」ような気がする。
それとも、そうなることが本来社会人としてあるべき姿なんだろうか。わからない。
何だか、とても恐ろしいことを考えているような気がする。
じゃあさ、ふつーに結婚してる人は奥さん子供のために余計にいくら払ってると思ってるの?
家賃で数万、食費で数万、余暇で数万、子供の費用で何だかんだで数万。
これ考えりゃ、20年の期間限定で月5万なんて全然少ないんだけど。。。
お前結婚したらどんだけ奥さん子供にひもじい思いさせようと思ってんの?
さらには事業するだぁ?なんだそれ?
月5万でどうこう嘆いてる奴がなんでそんなこと考えられんだよ。
事業するに金はどこから降ってくるんだよ?
多分、あんたの会社、その99%はただExcelだのWordだの使えればいいんだよね?
あと、てきとうななんかの社内用のソフトとかか?
恐らく99%の人にはただの目の前の箱で作業するだけであって大したことしない、と。
したらばもう、WindowsPCのがコスト安いんじゃない?例えライセンス料含んでも。
もはや、OSのライセンス料ってPC本体に比べて大したこと無いものだし、
普通にDellとかでもWindowsプリインストール版のが安かったりするから
Linux用途に買うものでもWindows版買ってLinux入れてOSライセンス余る、なんて事がよくあるんだけど。。。
(10年前とかだと自作PCのが安い、とかあったけど、今やそんなこともないし)
最初はブルジョワなことするな、とか思ってたけど、実際確かにプリインストールのが安いし。
勿論、探せばOS無しのが安い、とかあるかもしれないけど、公的に買おうとすると限られるし、
Officeのライセンス料も何だかんだでハードのランニングコスト考えたら大したこと無いんじゃないのかな?
ってか、普通に他社とのやりとりの上で絶対必要だったりするよね。
その辺考えると、トレードオフ、って言うより、あり得ない、と言う感じなんだけど。
「1週間に1度なんて会えない。数か月に1度、こうやって抱き着いたり胸を揉ませてくれれば、それで良い」
「抱き着いたり胸を揉ませてくれれば」を「ヤらせてくれれば」に置き換えたらただのセフレ関係じゃん。
草食だか何だかしらんが、相手の好意を知ってながら家に上げ布団に誘い抱きついて胸を揉んでる癖に「付き合えない」とか。
あまつさえ(どういう流れであったとしても)やることはしっかりやった上で
「なにこの襲われた感…」
とかグダグダ言い訳して全て相手に責任転嫁しようとする奴なんだから、草食とかじゃなくてただあなたがセフレ(のような存在)としか見られてないんだろうね。
10年間ストーカーしちゃうほど好きな相手なんだったら、あばたもえくぼなんだろうけどね。あなたがそれでいいならいいんじゃないの。
学術的には大問題に決まってるよ。
実数に対してアーベル群の構造を入れて議論するのかそうでないのか、という話なので、それによって全く別物の構造になるよ。
もちろん現実(の物理)を良く説明するのはアーベル群の方だよ。
非可換が重要な意味を持つ物理というのもあって、一番有名なのは量子力学の交換関係[x,p]:=xp-px=ih_barというもので、これはリー代数と呼ばれる代数構造に対応しているよ。
つまり量子力学の世界では非可換なリー代数の構造が物理をよく説明するわけで、ここでは可換な代数構造は全然役に立たない。
可換な構造を利用するか、非可換な構造を利用するかは状況によって完全に決まるものであって、文科省だか何だかが自由に決めていいものではないよ。
おっさんの戯言だと思って、流しといて下さい。
初めてタンポンを使ったのは中2の時。林間学校に備えてだった。
生理になったら長時間変えられないし、漏れが怖いから、タンポンいいんじゃない?
と友人たちが言っていて、なるほど、と利用してみることにした。
当日の前に、練習することにした。
人に勧められて、アプリケーターなしの直接指で挿入するタイプ。
大きさは人差し指の第二関節くらいまでな感じかな。太さも含めて。
…って、己の人差し指、平均より小さめだった。
痛くて全然入らなかった。
でも林間学校のために頑張った。
結局、そんな大きさのモノが入ったのは、一時間格闘した末だった。
角度を変えまくってなんとか入った。
今思うと、処女穴本当にキツキツだったんだなあって。
そして、時は流れ……成人して(経験年齢遅めです)処女を失ったときのこと。
すぐ入ったわけじゃなかったけど、そんなに痛くなかった。
(後に知ることだけど、相手は平均より小さい方でした)
そして、血も出なかった。。
処女でも血がでない人は、4割くらいいるらしいけど、でも
今でもやっぱり、血が出なかったことが悔しいというかなんというか。
あと「痛ぁぁぁぁい!!!!」っていうのを経験してみたかったなあと。
折角女の身体に生まれたのに。寂しい。
そして、初めての人以降は、大きめで、徐々に慣らされていった感があります。
今じゃ…まあ、アレなんですけど。
こんな自分も最初はタンポンすら入らなかったんだなあ…と思ったのです。
思ったので、なんとなく膣トレ始めました。
まああと、おっさんの戯言ついでに、
いまらちお?全部口に入れるやつ、出来ないよ、みんなむせるくらい頑張ってるのかな?
と思って、エロ漫画みたいに頑張ってたんだけど、相手のが長いだけだった、ということに最近気付いた。
平均サイズをぐぐって判明したことでした。釈然とした。
しかし、実はそんなゴミ箱をひっくり返したようなデザインの方が合理的で実用性に優れている場合もある。
例えば、楽天は基本的に商品ページで目的の商品画像をスクロールせずに見ることが出来る範囲に置いていない。
ユーザーにページの下までスクロールさせて大量の商品広告を見てもらうことに徹している。
これはコンビニやスーパーで最も売れる商品を入口から最も遠い場所に置き、客に店内を歩かせて他の商品も見てもらう手法とよく似ている。
欲しい商品が既に決まっている場合は、広告は邪魔でスクロール移動は完全な無駄でしかない。
だから、能動的に商品を検索して比較検討することができるユーザーにとってはAmazonのようなデザインの方が便利。
しかし、目的の買いたい商品を探し比較検討することは何だか面倒くさい。
そもそもリテラシーの低い人にとっては商品を検索して比較すること自体がとてもハードルが高い。
多くの受動的なネットユーザーにとっては、ネットは紙(チラシ)のすごいバージョンでしかない。
だから楽天のように販売側が売りたい商品を広告で大量に提示してもらう方が親切だし、日本の文化に最適化された優れたデザインだといえる。
食事を変えた。
自分は炭水化物が好きで、例えば牛丼とかカレーとか、あとはおかずはちょっとでご飯を多く食べる感じだった。
でも最近、胃の調子があんまりよくないもんで、試しに炭水化物を減らしてみた。
つまりご飯をあまり食べずに、おかずを多めに食べるようにしたわけ。
今までとは逆。
でもそうしたら、えらい胃がラクになった。
今まではご飯をいっぱいかきこむと、胃が膨れて満腹になって動くのが億劫になった。
食後も眠くなったり。
つまり胃にすごい負担が掛かってるし、そもそも胃を動かすために体力を使ってるわけだから、
そりゃ疲れて体もダルくなるわけさ。
でも炭水化物を減らしておかずを多く食べるようになってからは、
胃が、というか体自体がすごいラクになった。
明らかに実感してる。
てか今まで炭水化物の消化がどれだけ胃に負担をかけていたことか。
そして消化のために体力を使っていたか。
よーくわかったわ。
体つきも変わってきた。
今まではメリハリのない、何というか緊張感のない体つきだったんだけど、
何だかゴツゴツした感じの男らしい体つきになってきた。
筋肉の形が浮き出るっていうか、凹凸のある体つきっていうか。
とにかく筋肉の隆起にメリハリがついてきた。
炭水化物とおかずの比率を変えるだけでこんなにも体つきが変わるのな。驚いたよ。
もっと早くにやってりゃよかった。
タイトルそのままなんだけど、ふと思い出した。
小学生の頃の友達がいきなり私の首を絞めたことがあって、今でもよく覚えている。
友達は何かに腹を立てたのか、鬼のような形相で私を追いかけた。
学校の廊下の端に私を追い詰め、友達は40秒くらい私の首を絞めた。
その時、私は何が何だかわからないまま、頭が真っ白になり一方的に首を絞めつけられて、苦しそうにしていた。
友達はすぐに飽きてしまったのか、手を離し、教室へ戻ったが、私は状況が理解できずに立ち尽くて、首が痛いなあとか考えていた。
後々知ったことなんだけど、その友達は親に首を絞められていたらしい。
その子は腕に傷をたくさんつけて、「これ、ストレスでひっかいてるの」と陰鬱そうな顔をして私によく見せびらかすような子で、
今考えると、あの子が少し変わっていた理由がわかるような気がする。
母親を嫌悪していたけれど、同じことを子供にもするんじゃないかなあ。100%じゃないだろうけど。
ああ、これって機能不全家族の典型じゃん。
そんなことをぼんやりと考えていました。
自分は持病がある。
100%の力を出して仕事を頑張ると、大抵翌日は使い物にならない。
以前に比べると体力も格段に落ちて、遊びに行く約束も反故にしてしまうことは多い。
それでも働きたいと思う。家の中で無為に時間を過ごすのではなく、外の世界での居場所がほしい。
けれど、結局は自分の勤務態度は良いと言えない。いや、評価するなら「悪い」だろう。
休みの連絡を入れると二つ返事でOKしてくれる。それがとても申し訳ない。
でも上司は優しすぎる位優しい。それがとても申し訳ない。)
先輩や同僚からも病気だか何だか知らないけど迷惑なんだよ、と思われているかもしれない。
頑張っている人からは不真面目の塊のように見えているかもしれない。
尊敬している人たちに嫌われるのは辛い。でも、しょうがない。でも、申し訳ない。
誰にでもできる、いくらでも代わりのいる仕事。
自分を頸にして、自分以外の健康な人を雇った方が会社の為になるのでは?と思ってしまう。
休んでしまった日は、とても落ち込む。そして出社するのがとても怖くなる。
出来ることなら毎日休まず元気に出社したい、そうすればこんな不安とはおさらばだ。
でもそれが出来ない自分の体が恨めしい。
家の中で出来る仕事があれば、まだましなのかもしれない。
ただ、実際家の中でたった一人でいると鬱は加速する。
何も成し遂げられない自分が情けなくて、「社会人失格」な自分が恥ずかしくて
わんわん泣いていたこともある。
家の外で誰かとコミュニケーション出来る嬉しさや何かを成し遂げる達成感は
自分の心をとても充実させてくれる。
その一方で、こうして誰かに迷惑を掛けてしまった時に自分に跳ね返ってくるダメージは大きい。
自分の心は外で働く場を求めて、自分の体はそれに耐えられるだけの体力がなくて。
どうすればいいのか、どうするべきなのかわからない。