はてなキーワード: 自然現象とは
1 女は男が「分かったよ」と言ったら約束してくれたと思います。分かったよ は本当にできると思った時だけ言いましょう
2 女は自分を優先してくれたと感じるとホッとして 嬉しくなります
3 女は期待はずれなことが起こったり嫌なことが繰り返されていくと勝手にネガティブな想像や妄想が暴走してしまうという特徴があります
4 女が過去のことをあれこれ思い出すのは自然現象なので男を責める気持ち も な い し さほど気にしなくても大丈男です
5 女の否定的な言い方や決めつけるような言い方は女性の言い方の特徴であって男を責めるつもりなどなく 話し合いだと思っています
6 女は男の気持ちを知りたいだけなので 男が本音を伝えると少しずつ 関係が良くなります
7 女はいつも男に協力しようとしているので男が優しく言えばちゃんと理解してくれています
8 女は男からの曖昧な返事や適当な返事であっても、守ってもらえなければ嘘つきと感じてしまう生き物です
9 女は男からこうするからと宣言されると約束事だと思って期待してしまうところがあります
10 女は 会話の最後になぜかとどめを刺しますが 男への期待 への現れなので できる男になれるチャンスだと思ってください
11 女がしつこくなってしまうのは男のことを心配しているからです 悪く思わないでください
13 女が 焦っていたり パニック状態になっている時は、3分間待ってから解決するとうまくいきます
15 女は「簡単」 という言葉に過剰反応してしまうため これを禁句とした方が良いでしょう
16 女は男に心配してもらえないと悲しくて怒ってしまう生き物です
17 女は自分が困っている時に男から詳しく聞いてもらえると男に惚れ直します
18 女は男が慰めてくれるとホッとして自分で問題解決をしていけます
19 女に正論や 一般論を言うとなぜか喧嘩になってしまうのでやめましょう
20 女は男から「君は」と聞き返してもらえると嬉しくなる生き物です
22 女は男が認めてくれたら安心して 家事 育児に専念できます
23 女は男を責めたり文句や愚痴を言っていると思っていません
24 女は男に指示をしたり コントロールをしようとしていません。反発しないようにしてください
25 女は忙しくて時間に追われていると 男や子供に優しくなれず怒りっぽくなってしまいます
26 女は男と何でも一緒にやりたいと思っているのです
27 女は勝ち負けがかかると 徹底的に戦いたくなってしまいます 戦いを避けましょう
28 女が不機嫌な顔をしていても男が思ってるより 実は怒っていません また 意外と男の顔色を気にしています
29 女は男が積極的に話しかけてくれると幸せな気持ちになります
30 女は 喧嘩 なんかしないで 男とずっと仲良くしたいと思っています
あのさあ・・・これ大部分は男もそうじゃね?
「女だから許してね」ってのが多すぎない?
つまりさ、偏差値70ぐらいの子じゃないとここにある能力は身に着けないままで高校を卒業して、そのまま大学生活はサークルや専門バカやって過ごして、結局身についてないまま社会に出るってことでしょ?
怖くない?
偏差値70未満の人≒日本人のほぼ全員がこれ身に付けないまま社会で暮らしてるらしいですよ。
怖いですねぇ……
引用開始
【国語】
【数学】
【理科】
【外国語】
1) 英語による受信力
2) 英語による発信力
引用終わり
引用元
蛇足:
たとえばですよ。
文系の多くの人が「自然現象の本質を見抜き、原理に基づいて論理的にかつ柔軟に思考する」ことが出来ないわけですよ。
なんか良く分からないけど学者先生が言ってるらしいからそうらしい……で理解を終えているってことでしょ?
逆に理系の人は「地歴公民についての総合的な知識、それらを関連付ける分析思考力、その結果を論理的に表現する能力」に欠けているってことでしょ?
まあ理系の人って「後半二つは出来ているもん!分析力が高くて論理的で表現力だもん!」って言いそうですけど、そもそもの総合的な知識がなかったらガベージインからのスタートで結果は推して知るべし。
いやいやそりゃ政治について頓珍漢なこと言う人があとを経たねえわけだよ……。
まあでも体感で言えば、文章を筋道立てて読み取る読解力の時点で既にダメそうな人も多いですからね。
いやー偏差値70の壁は高いなー。
より具体的に言うと、これぐらいのことは偏差値50かせめて55ぐらいの世の中になって欲しいけど、そこに行くまでに人類が乗り越えないといけない壁はまだまだ残りまクリスティー。
まあ俺も「じゃあ今すぐセンター試験で8割でいいから取れよ」って言われたら泣いちゃいますけど。
もう覚えてないからな―。
指導要領変わった部分とか初耳も多そうだしなー。
いやいや人の悪口言ってる場合じゃないだろって話じゃなくて―、アンキパンみたいな感じで全人類自動的にこのレベルに出来ないもんすかねーって話デスタムーア。
予測不能なカオスの中からこそ新しいものは産まれると思っているからだ。
あと、誰かの計画の一部に自分が組み込まれているのが許せない。
昨今、スクレイピングの是非が問われているが、それもやはり嫌だね。
なんなら、子供の誕生日に喜ぶやろうなあ、と思って買ったものが計算通り喜ばれるとものすごく不快。
俺が思いつきもしなかった遊び方で楽しんでいるならいい。
喜ぶ理由が予想外ても許す。
だが俺ごときに予想される行動を取るのなら内心見捨てる。
電車が時刻通り運行する行為も許せないし、医療や法律が規定通りに遂行されるのも不愉快だ。
そもそも完全に自由な独立した自我・自由意志があるとするなら、精神から派生して肉体が存在するとするしかないんで
物質から精神が派生しているのではなく精神から物質が派生している、だね
ここ(https://anond.hatelabo.jp/20240214233810#)でも書いたけど、
普通に生きてたら神はいるという感覚持つと思うね。ご先祖様たちが山を海を自然現象をご先祖を崇めたようにね
まぁ古典物理的な視点・唯物論的視点では~みたいな話を抜きにしたって、
年を重ねれば重ねるほど、『死んでも不思議じゃなかったのによく生きてたな』とか『自分はラッキーだったんだな』とか
生かされていると感じることが多くなった
人間も自然の一部であり、自分を取り巻く多くの人達のおかげ、天地自然のおかげ、この地球上に生きる他の多くの命のおかげってね
あと、たまたま生きていられるから漏れてしまった人の代わりに、他人に親切するとか、助けるとか、役に立つものを作るとか、身近な人を大事にするとか、
環境がどうたらというのにコミットした方がええんか・・・?とは割と思う。どれも出来ていないのでぼんやり罪悪感もある
というか、しんどすぎるので不幸には全力で目を背けたりしてるしな・・・
私が「理解のある彼くん」という立場に置かれていないにも関わらず、なぜ「理解のある彼くん」のように、他者との関係を自然現象のように認識しているのか、という疑問が湧いた。
彼くんがこのような思考に至ったのは、ひとえに彼女とのディスコミュニケーションの結果である。はじめこそ彼くんは彼女とコミュニケーションを取ろうとしただろうが、彼女自身が自らの意思を放棄しているのだから、そこでのコミュニケーションは当然成り立たない。彼くんは、彼女自身がそうしたように、いわゆる「人間」としての関係を諦め、自然現象を操縦する係に自らを安住させたわけだ。
ようは、「コミュニケーションの放棄」が人間をこのような思考に至らしめるのであろう。私は発達障害の診断を公的に受けたわけではないが、一般に ADHD/ASD的傾向と呼ばれるものを(それは健常者とされる人であってもある程度持っているのかもしれないが)恐らく持っている。子供のころから、私には自分の気持ちばかり考える癖があり、人の気持ちを察したりその場の雰囲気を感じ取ることが苦手なのである。こんな私が人とコミュニケーションを取らざるを得ない中で編み出した考え方が、やはり「医学化」である。私は遺伝的にこのような性格で、親にこういう教育をされて、それは改善しようもない宿命なのだ。私の脳内ではたらく物質たちが偶然そのような動きをしているがために、私はこのような考えをしてしまうのだ、というふうに結論付ける。さらに、私の「医学化」は他者にも及んだ。彼らがあのような思考をするのは、彼らがそういうふうな遺伝子を持ち、そのように脳がはたらいているからだ、と。
このように、私はすべてを自然現象として解釈することで、文化人たちが生み出した「意思と責任の社会」やその上で成り立つ「コミュニケーション」を完全に否定するような、「干渉不可能な自然の相互作用」という世界観を構築した。つまり、ゲームから完全に降りたということである。
どちらの世界観が正しいかというのはわからない。自由意志が本当に存在するのかは疑問だが、人類は私達のすべてを医学化出来るほど発展していない。しかし、健常者と言われる人たちが生きる自由意志の世界の他にも、自然現象ですべてを片付けてしまえる世界があってもいいのではないかと思う。
とはいえ、この時代の日本に生きている限り、「意思と責任の社会」から完全に逃れることは難しい。この中で生きるためには、やはり「いい塩梅」でゲームに乗っていかなければならない。だが、コミュニケーションに問題を抱える人にとって、「いい塩梅」でゲームから降りることは得てして難しいことだ。また、どの程度ゲームを降りてもコミュニケーションが成立するのかという尺度も、相手次第である。発達障害の有無に関わらず、この社会に生きづらさを感じる人や、コミュニケーションに苦手意識がある人などは、このようなゲームの構造や、今自分がどれほどゲームに乗っているのか、降りているのかを考えてみたりして、出来る範囲で調節してみるのもいいかもしれない。
発達障害で自由意志が薄弱で他責思考な私は、このように相手の自由意志を尊重して自由意志に対する要請をしてくる相手が非常に苦手で、こういう要請を正面から受け止めるととても生きていられないと思う。
けれども、それが社会のスタンダードである以上遭遇機会も多いので、「内的には自然現象であると割り切りつつ、外に対しては意志と責任の存在を装う」ことで一時しのぎ的に対応している。つまり物を失くしたら「ごめん」と謝るし形式的な対策はするけど、心の中では徹底的に自責を避けて、例えば薬が合ってないかもな、などと考える。人間がお互いを自然現象であると合意して回るような社会ならこんな心労は無いのにと思いつつも、実際そうでないのだから今ある社会に合わせるしかないというのには同意する。というより、現状の社会がこうであることも、他者に自由意志を要請する人間が居ることもまた、今のところの自然の流れなのだと思っている。
意思と責任の物語にうまく参加できないことを認めてもらい、部分的に社会から降りて心の平穏を得るというモデルは、(私の個人的な意見だけど)そんなに魅力的じゃない。
自然現象=宿命ではない。自分の意思も他者の意思も自然現象であり、自然現象だからこそ分析して利用/回避/あるいは克服できると認める。自由意志なんて尊い幻想は捨てて、使える道具を全部使って人間をハックする。全員が人間をやめて、平等な自然現象として相互作用する。そういう社会が良いなと思う。医学化ってその流れの一部なんじゃないかな?
1. 原作改変で揉める(よくあること)
2. 脚本がインスタで被害者ぶってアピール (滅多にないこと)
3. 炎上
4. 作家がTwitterとブログで経緯を説明(たまにあること)
5. バズる
6. 投稿削除、「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい」
7. 自殺
だよな。
炎上したりバズったりは大衆のすることだから制御不能な自然現象のようなもの。
じゃあ制御可能なのはどこかというと②の脚本家の陰湿ムーブなんだけど、たぶんこれがなくてもこれだけ自分の世界にこだわりのある作家なら④はやってた可能性は全然ある。
次に制御可能なのは⑦への飛躍で、作家のメンタルが脆弱じゃなければこうはならなかった。
ってことになるんだよ、反省って言い出すと。
元増田の書き方が過激すぎる部分があるので一部の発達障害者が怒り狂ってるが、診断名を明かすことなく誰にも配慮を求めてないならこの話の対象者じゃないだろうよ。
診断名を出して配慮を求めるということは、その求める配慮の内容によっては社会生活上の責任の範囲を減らしてもらうことに他ならない。
例えば聴覚過敏がある人がイヤマフを使ったり、板書写すの苦手な人がタブレットで写真を撮ることを許可してもらったり、そのような配慮についてはよく言われるように目が悪い人が眼鏡を使うのと変わらないが、他人に忍耐を強いるようなものについてはその行為の責任を問わないようにお願いしてるのと同じだ。
タチが悪いことに自分たちは無遠慮な言葉で突発的な行動で他人を傷つけることには鈍感なくせに、自分が傷くようなことには人一倍敏感で大声で被害者の位置におさまろうとする。
自分の行為は障害だからで許してもらおうとするのに、自分が傷つけられたら障害に無理解だと騒ぎ立てる。
もちろんそういう発達障害者ばかりじゃないのは知ってるが、かといって当事者同士でその行為を非難することもない。
しまいには定型発達は健常者を意味しない、定型発達に押し付けられた世界だとか言い出す。
今やそれが成り立つだけの人数はいるだろう?
何も世の中のルールに従って完璧に振る舞えと言ってるんじゃない。
特性で苦手でどうしたって出来ないことをやれと言ってるんじゃない。
少しは歩みよってくれということだ。
発達障害かどうかってのは多分関係ない。いわゆる健常者だってそういう言動をすることはよくある。自分の欠点を、自分の意志の欠如の結果ではなく、単なる現象として説明する言説を手に入れると、人はどうしてもそれを使ってしまう。なにせ責任を取る必要がないわけだから。
意志と責任はセットの概念で、自分の意志で行ったのだからこそその責任を取らなければならない、というのがこの社会のルールになっている。でもまあそんなのフィクションなわけだ。人間はただの物理現象で、原子分子がエネルギーポテンシャルの坂道を転がった結果でしかない。とはいえ、人間は意志というフィクションを共有することで互いに関係することができている、というのも事実である。もちろん、人間は皆ただの物理現象であって自由意志なんてない、ということを合意することで回る社会というのもありうると思うが、少なくとも現状そうなっていない。個人が意志を持って行動し、その結果を何らかの形で引き受ける、そういう形で人間社会は回っている。
しかし、能力不足だったり人格の形が社会の多数派からズレていることによって、相当頑張らないとそのフィクションに乗れない人、あるいはそもそも不可能な人、というのが一定数出てくる。つまり意志と責任の物語にうまく参加できない人だ。でそういう人に対する一つの救済の道が、宿命論、つまり君は仕方なくそうなったのであって君に責任はないとする言説である。一番よく行われるのが医学化で、要するに「それは病気だ」とすることだ。これによって「患者」とされた者は責任自由ゲームから少しだけ降りることができ、心の平穏を得ることができたり、そういう形で社会に受け入れられることによってうまく生きていけるようなったりするわけだ。
問題はこのゲームからどの程度降りるのかということだ。本来はちょうど良い塩梅に降りるべきである。例えば自分の不注意に関してはADHDのせいだとしてしょうがないものとする。その一方で、自分の能力の範囲内では、意志と責任を引き受けた方が良い。というのは、ゲームに真面目に参加している他の人間と齟齬が生まれるからだ。この増田が良い例である。増田の彼女はゲームを降りすぎており、その問題に気付いていない。彼女は自分のことを「単なる自然現象だと見てくれ」と言っているのだ。自然現象と人間はうまく関係できるわけがない。だからいまの増田は自然現象をうまく操縦する人という役割になってしまっている。これが「理解のある彼くん」の正体だ。様々な理由によって、相手をただの現象だと思い、何が起こっても「雨に降られたようなものだ、仕方がない」と考えてしまう人のことをそう呼ぶのである。
だからこれから増田がしなければならないことは、彼女を人間に戻すこと、つまり可能な範囲でゲームに参加させること、ということになる。私は自由な意志によってあなたと関係したいと思っている、だからあなたも意志によってそうしてほしいと理解してもらうことである。それができないうちに彼女と結婚したのだとすれば、増田は雨の降る部屋で孤独に人生を送ることになるだろう。
追伸(2024/02/09):ふと思い至って書いた文章が想像以上に反響を呼んでいてびっくりしました。勢いで書いてしまったので重要な論点が一つ抜け落ちていて、それが一部の人を怒らせてしまったようです。お詫びします。というのは、「増田が自然現象になる」という道ももちろんあるからです。2人とも雨になったっていい。虹だって作れるかもしれない。わたしは別に「人間」が偉いとは特に思っていません。お互いにゲームから降りることによって成立する関係も存在すると思います(それはそれで困難があるでしょうが)。しかしこれを書いていたときは、「彼女と互いに人間として恋愛したい増田」の視点に立っていたので、この観点を書きそびれてしまいました。
「地下のナマズが暴れると地震が起きる」説はいつごろ廃れたのか、について調べていた
おおよその流れは掴めてきたので一旦ここにまとめる
結論から言うと、明治元年(1868年)ごろから急速に地震鯰信仰は失われたと思われる
オランダの辞典をもとに、地震がなぜ起きるかを科学的に説明した内容を翻訳した
鯰絵が大流行した
しかし「鯰絵が流行した=民衆は地震の原因を鯰だと信じていた」と等号で結んでいいのか?という点はちょっと怪しいと思っているのだが……
というのも江戸時代末期の時点で、江戸の町民はお化けや妖怪の実在をどうやらあまり信じていなかったように資料を見ていると思えてくる
お化けや妖怪の実在を信じない人が地下の大鯰を信じるというのは不自然に思える……という感覚は21世紀に生きる人間の感覚だろうか
『泰西地震説』は学者が読むような専門書で、一般民衆にはあまり読まれなかったのだろうか?
江戸時代にもいくらかは民衆が読むような蘭学書が流通していたようなのだが、地震の原因を科学的に解説するようなものはなかったのだろうか?
当時は陰陽五行思想を信じる人が多かったはずなのだが、この思想では地震をどのように説明している?
鯰絵について語られた本でKindleで買えるものが無いため、追加調査は図書館か本屋で資料を入手してからになる
小幡篤次郎、後の慶應義塾長、『学問のすゝめ』を福澤諭吉と共著した人物
地震の原理について、『泰西地震説』で解説された内容とだいたい同じ説明がされている
こういう本をわざわざ出版する必要があったということは、これに書かれた知識は当時広く知られていなかった……とみることができるか
西欧に追いつこうという強い意欲が見える気がする
明治初期の就学率は今と比べると低くはあるが、この本によって一部の若者に対して啓蒙が行われた
これによって明治に生きた若者は地震鯰を迷信と見なすようになったのであろう
「私の父は地震鯰のような俗説を信じていてやれやれだ」みたいな記述がこの時代にもし存在すれば嬉しいのだが……
また、教科書ではなく大人が読むような啓蒙本はどのようなものがあったのだろうか?
民俗学方面からばかり攻めていたが、明治維新に関する読み物を探すのもありか?
M5.5程度で揺れはそこまで大きくなかったようだ
この地震を体験したジョン・ミルンというイギリス人が地震研究に関心を持ち日本地震学会を創設した
濃尾地震
科学者が地震調査のため派遣された、のような記事が新聞に載っている
ただ「鯰絵が描かれた=民衆が地震の原因を鯰だと信じていた」にはならないだろう
『江花叢書』第1巻
当時のエッセイ的な読み物
関東大震災に対する四方山話からの流れで「地震と大鯰」という題が名付けられた項がある
一部引用する
鯰説の根拠は物識りに聴かなければ確かとしたことは分らぬけれども、志那傅來であることだけは疑ひもない。大地の下には大鯰が生棲して、平生は辛抱強くじつとして動かぬけれども、どうかした拍子に其の尾鰭を動かすと大地が震動するのであると云ふので、我邦では正直に之れを信じ、
「正直に之れを信じ」という表現から、今は信じる人はいないというニュアンスを読み取る
「おじいちゃんが子どもの頃は地震の原因は鯰だと思っていてね」と語る人がいてもおかしくない年数だ
科学とか西欧合理主義が流行った結果、地震鯰信仰のような俗説が廃れたんだろうなあ
ひと段落したら明治大正を生き延びた俗説で何か面白いものがないか調べてみたい
先に読んだ方が民俗学的視点が備わって調査の全体の見通しがたつかもしれない
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明治時代より前の時期の日本において、「なぜ地震は起きるのか?」のような原理の解明を目指した学者がどうにも見つからない
あるいは調べ方が悪いのか……
幕末の日本人は地震ナマズを信じていなかった、ではいつ頃まで信じられていたのか?
もしそうだとすると「地震の原因がナマズというのは俗説だ。本当はこのようなメカニズムだ」という探求が行われていてもいいではないか
見つけることができない以上、ナマズ説を信じていたのかもしれないと消極的にだが認識せざるをえない
儒教においては「陰だか陽だかの気が地面から噴き出る時に地面が揺れる」のような説明がされているらしい
日本の儒学者はそれを信じていた?だとすると江戸の民衆のその説をどの程度認知していた?
あるいは「ナマズが原因ってことはないだろうけど、本当の原因が何かと聞かれると分からんなあ。詳しいことは学者先生に聞いてくれ」というスタンスが大多数か
日本人の宇宙観を調べた時にも思ったが、当時の天文方は観測と暦の作成にばかり注力していて「なぜ?」という問いを立てない
調べることだらけだ、学生の頃に日本史や世界史を選択しておけばよかった
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また、火山、雷雨、地震の3つセットを司る龍神がいるという信仰もある
ナマズが俗説ってそういうこと?
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しかし本来は本業に関する勉強をして給料を増やす努力をすべきなのだろうが、仕事と関係ない本ばかり買って読んでしまう
悲しいね
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トラバやブコメにあまり反応しないようにしているのだが(そこそこの確率で不毛なので)、今回は必要を感じた
鯰絵はアマビエブームと近いものを感じるという意見には強く同感
ただ、いろんな本や資料に「昔の日本人は本気で地下にいるナマズが地震の原因だと信じていました」と書かれているんだよな……
これに強い疑いを抱く
しかし、アマチュアの私が思いつくようなことをプロの研究家が思いついていないわけがない……
なにか根拠があるはずと信じる
清書の予定は……調査がひと段落したときにあるいはありえるかもしれない
追加調査は資料入手待ちとか頓挫とか色々な理由でできていないことが多い
追加調査の結果を追記しようとすると買った本の内容丸写しみたいになりかねず、倫理的にどうなの?という気分を拭えず自分の中だけで調べた結果を味わうこともそこそこある
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先行研究
神や仏に敬虔に祈りを捧げない一方で迷信深い、この点は現代日本と地続きに感じる
この庶民の信仰の深部に最も接近した欧米人は、明治に来日したアメリカの女性教育者、アリス・ベーコンであろう。彼女は「村を見おろしている岩の頂上は天狗が作った」。「天狗はもうこの森から去って今はいない」。さきほど「山の神様の使いである大きな黒蛇が、いましがた、ここを通った」と説明する陽気な老女に接し、「神秘で不可思議な事物に対する彼女のかたい信念は、かしこい人々はとっくに脱ぎすてているものだけれど」、「すべての自然が深遠な神秘に包まれている文化のありかたへの共感を私たちの心に湧きあがらせてくれた」と表した。
考えてみれば迷信深いお婆さんは昔は迷信深い若き女性だったかもしれないわけで、幕末だとその考えがスタンダードだった可能性があるわけだ
この引用箇所は別の文献からの孫引きになるのでこういうことするのは本当はよくないのだが……
該当箇所は『逝きし世の面影』という本からの引用……kindleあるじゃないか、買います
これを書いた渡辺京二という方の著作はすべて読んでもいいかもしれない
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現代を生きる信心深いキリスト教徒にとって「神は実在する」と「妖精/人魚/ドラゴンは実在しない」の考えは矛盾なく両立するのではないか
(「実在」という言葉の定義をしっかり言語化しないととまずい気配を感じる……)
同様に幕末の江戸町民にとっても「神/仏/龍神/大鯰は実在する」と「妖怪/お化けは実在しない」の考えは矛盾なく両立する可能性がある