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2024-01-11

「地下のナマズが暴れると地震が起きる」説はいつごろ廃れたのか、について調べていた

おおよその流れは掴めてきたので一旦ここにまとめる

結論から言うと、明治元年1868年)ごろから急速に地震信仰は失われたと思われる

天保元年ごろ(1830年ごろ)

高野長英蘭学者

『泰西地震説』を執筆

オランダ辞典をもとに、地震がなぜ起きるかを科学的に説明した内容を翻訳した

安政元年(1854年

安政の大地震

鯰絵が大流行した

しかし「鯰絵が流行した=民衆地震の原因を鯰だと信じていた」と等号で結んでいいのか?という点はちょっと怪しいと思っているのだが……

というのも江戸時代末期の時点で、江戸の町民はお化け妖怪実在をどうやらあまり信じていなかったように資料を見ていると思えてくる

お化け妖怪実在を信じない人が地下の大鯰を信じるというのは不自然に思える……という感覚21世紀に生きる人間感覚だろうか

『泰西地震説』が世に出ておおよそ20年後出来事

『泰西地震説』は学者が読むような専門書で、一般民衆にはあまりまれなかったのだろうか?

江戸時代にもいくらかは民衆が読むような蘭学書が流通していたようなのだが、地震の原因を科学的に解説するようなものはなかったのだろうか?

当時は陰陽五行思想を信じる人が多かったはずなのだが、この思想では地震をどのように説明している?

ここは特に追加調査必要

鯰絵について語られた本でKindleで買えるものが無いため、追加調査図書館本屋資料を入手してからになる

明治元年1868年

小幡篤次郎、後の慶應義塾長、『学問のすゝめ』を福澤諭吉と共著した人物

天変地異』を執筆

小学校教科書にもなった本

雷、地震彗星、虹といった自然現象に科学解説を行った本

地震原理について、『泰西地震説』で解説された内容とだいたい同じ説明がされている

こういう本をわざわざ出版する必要があったということは、これに書かれた知識は当時広く知られていなかった……とみることができるか

明治元年でいきなりこんな教科書を出すとは正直驚きを感じる

西欧に追いつこうという強い意欲が見える気がする

明治初期の就学率は今と比べると低くはあるが、この本によって一部の若者に対して啓蒙が行われた

これによって明治に生きた若者地震鯰を迷信と見なすようになったのであろう

明治に書かれたエッセイ新聞記事を探したい

「私の父は地震鯰のような俗説を信じていてやれやれだ」みたいな記述がこの時代にもし存在すれば嬉しいのだが……

また、教科書ではなく大人が読むような啓蒙本はどのようなものがあったのだろうか?

追加調査必要

民俗学方面からばかり攻めていたが、明治維新に関する読み物を探すのもありか?

明治13年(1880年

横浜地震

M5.5程度で揺れはそこまで大きくなかったようだ

この地震体験したジョン・ミルンというイギリス人地震研究に関心を持ち日本地震学会を創設した

明治24年(1891年

濃尾地震

安政の大地震以来の巨大地震という言及が当時の新聞にある

科学者が地震調査のため派遣された、のような記事新聞に載っている

大正12年1923年

関東大震災

このときいくらかは鯰絵が描かれたようだ

ただ「鯰絵が描かれた=民衆地震の原因を鯰だと信じていた」にはならないだろう

大正15年(1926年

井上江花、新聞記者

『江花叢書』第1巻

当時のエッセイ的な読み物

関東大震災に対する四方山話からの流れで「地震と大鯰」という題が名付けられた項がある

一部引用する

鯰説の根拠は物識りに聴かなければ確かとしたことは分らぬけれども、志那傅來であることだけは疑ひもない。大地の下には大鯰が生棲して、平生は辛抱強くじつとして動かぬけれども、どうかした拍子に其の尾鰭を動かすと大地が震動するのであると云ふので、我邦では正直に之れを信じ、

「正直に之れを信じ」という表現から、今は信じる人はいないというニュアンスを読み取る

1926年時点で安政の大地震はおおよそ70年前くらいか

「おじいちゃん子どもの頃は地震の原因は鯰だと思っていてね」と語る人がいてもおかしくない年数だ

科学とか西欧合理主義流行った結果、地震信仰のような俗説が廃れたんだろうなあ

ひと段落したら明治大正を生き延びた俗説で何か面白いものがないか調べてみたい

あと、柳田國男著作をまだどれも読んでいない

先に読んだ方が民俗学視点が備わって調査の全体の見通しがたつかもしれない

日記

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明治時代より前の時期の日本において、「なぜ地震は起きるのか?」のような原理の解明を目指した学者がどうにも見つからない

あるいは調べ方が悪いのか……

幕末日本人は地震ナマズを信じていなかった、ではいつ頃まで信じられていたのか?

あるいは最初からモノの喩えだと認識していたのか?

もしそうだとすると「地震の原因がナマズというのは俗説だ。本当はこのようなメカニズムだ」という探求が行われていてもいいではないか

そういった研究痕跡を見つけることができない

見つけることができない以上、ナマズ説を信じていたのかもしれないと消極的にだが認識せざるをえない

儒教においては「陰だか陽だかの気が地面から噴き出る時に地面が揺れる」のような説明がされているらしい

日本儒学者はそれを信じていた?だとすると江戸民衆のその説をどの程度認知していた?

あるいは「ナマズが原因ってことはないだろうけど、本当の原因が何かと聞かれると分からんなあ。詳しいことは学者先生に聞いてくれ」というスタンスが大多数か

日本人の宇宙観を調べた時にも思ったが、当時の天文方観測と暦の作成にばかり注力していて「なぜ?」という問いを立てない

調べることだらけだ、学生の頃に日本史や世界史選択しておけばよかった

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施政者が失政すると地震が起きる」みたいな思想もある

また、火山雷雨地震の3つセットを司る龍神がいるという信仰もある

ナマズじゃなくても結局別の信仰になってしま

ナマズが俗説ってそういうこと?

まり俗説でない主流の説は鹿島神だとか龍神に原因を求める?

この観点でも調査

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本屋に行ったが鯰絵関係の本が一冊もなく購入できなかった

しかし『陰陽五行日本民俗』という本を購入

陰陽五行について何も知らないに等しいので勉強しなければ

しか本来本業に関する勉強をして給料を増やす努力をすべきなのだろうが、仕事関係ない本ばかり買って読んでしま

悲しいね

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トラバブコメにあまり反応しないようにしているのだが(そこそこの確率不毛なので)、今回は必要を感じた

鯰絵はアマビエブームと近いものを感じるという意見には強く同感

ただ、いろんな本や資料に「昔の日本人は本気で地下にいるナマズ地震の原因だと信じていました」と書かれているんだよな……

これに強い疑いを抱く

しかし、アマチュアの私が思いつくようなことをプロ研究家が思いついていないわけがない……

なにか根拠があるはずと信じる

あと、この日記以外に書いている場所はない

清書の予定は……調査がひと段落したときにあるいはありえるかもしれない

追加調査資料入手待ちとか頓挫とか色々な理由でできていないことが多い

追加調査の結果を追記しようとすると買った本の内容丸写しみたいになりかねず、倫理的にどうなの?という気分を拭えず自分の中だけで調べた結果を味わうこともそこそこある

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先行研究

記録表現にみる中世日本の地震認識

ナマズ地震が紐づけられる以前の地震認識

断層沿いに立地する神社とその周辺環境に関する研究

近世地震認識記述がある!これをベースに調べるのが最善か

江戸時代の宗教観と芸能の盛行

幕末明治海外の人から見た日本人の宗教観記載がある

神や仏に敬虔祈りを捧げない一方で迷信深い、この点は現代日本と地続きに感じる

この庶民信仰の深部に最も接近した欧米人は、明治来日したアメリカ女性教育者アリスベーコンであろう。彼女は「村を見おろしている岩の頂上は天狗が作った」。「天狗はもうこの森から去って今はいない」。さきほど「山の神様の使いである大きな黒蛇が、いましがた、ここを通った」と説明する陽気な老女に接し、「神秘不可思議事物に対する彼女のかたい信念は、かしこい人々はとっくに脱ぎすてているものだけれど」、「すべての自然が深遠な神秘に包まれている文化のありかたへの共感私たちの心に湧きあがらせてくれた」と表した。

考えてみれば迷信深いお婆さんは昔は迷信深い若き女性だったかもしれないわけで、幕末だとその考えがスタンダードだった可能性があるわけだ

この引用箇所は別の文献から孫引きになるのでこういうことするのは本当はよくないのだが……

該当箇所は『逝きし世の面影』という本から引用……kindleあるじゃないか、買います

これを書いた渡辺京二という方の著作はすべて読んでもいいかもしれない

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現代を生きる信心深いキリスト教徒にとって「神は実在する」と「妖精/人魚/ドラゴン実在しない」の考えは矛盾なく両立するのではないか

(「実在」という言葉定義をしっかり言語化しないととまずい気配を感じる……)

同様に幕末江戸町民にとっても「神/仏/龍神/大鯰は実在する」と「妖怪/お化け実在しない」の考えは矛盾なく両立する可能性がある

ここらへんは本当に現代日本パラダイムに考えが支配された人間にとって想像しにくい領域

2023-04-18

TruthGPT、黒船ペリーを弁護

日本人1860年代まで蝋燭を持っていなかったそうですが信じられます

日本鎖国をしていて新技術は輸入されませんでしたからそうでしょう(等々

日本に入れる国が1つだけありましたが、知っています

→それは米国です。1854年外交関係を構築し、1856年にポータン号が初めて入港しました

・? その前の1718世紀はどうでしたか

オランダ東インドです。1639年に出島に商館を立てて1953年まで営業していました

オランダ東インドの船は商船ポータン号は軍艦ですね

→そうです。ポータン号は軍艦日本との外交関係を築くために1956年米国から派遣されました。オランダ東インドのは商船で入港は許可されていました

ポータン号は、大砲を使わずに入港できたと思います

→それは無さそうなことですね。入港を許可できるよう、軍艦で来て欲しいと日本政府から予め要請されていた可能性があります

  

その視点はなかった…w

オランダ米国人フルベッキもいたし否定できない

微妙発言を変えてるのと渡来年が違うけど)

2022-05-30

anond:20220529183516

セレンディピティ」っつーヤツや

以下wikipwdiaから転載

酒井邦嘉[はペニシリン発見田中耕一の例をあげ、フランスルイ・パスツール言葉1854年リール大学学長就任演説より)を紹介して、「構えのある心」(the prepared mind) がセレンディピティポイントだという。

「観察の領域において、偶然は構えのある心にしかまれない」

2020-10-26

『翼ある人びと』整理

『BADDAY』『星逢一夜』『金色砂漠』と進んできたけどなんかしっくりこなかった因数分解したい。

金色砂漠』は最初花乃さんが明日海さんに(もうそれぞれの役名忘れた)死罪を言い渡すのがしっくりきてなくて、友人に話すうちにしっくり答えが見つかって、ああやっぱすごいなあと思ったから。

それから、『fff』に向けてという意味もある。上田久美子氏のクラシック音楽に材をとったものは、もしかして自分受け付けないんじゃないか、いやいやいや、せっかくだから受け付けるようにしておきたい、みたいな?

ああ、本来は『サパ』ブルーレイ購入検討のためであった。

前段:上田久美子氏

金色砂漠』を見たあとに、改めて上田久美子氏についてグーグル先生に尋ねたところ、宝塚への見方昭和なことしててすごい、この文化は途絶えさせてはいけない)、東京労働への考え(東京砂漠という表現と稼いで使ってという燃費の悪さ)が自分と同じで驚いた。そして単純計算して、自分の1つ年下か、ということも弾き出した。出身大学もまあ、親戚みたいなもんだ(言い過ぎか)。

前段:ブラームス

ブラームスイメージは、昔友人が言っていた「俺らの大学気質に合ってるんだよ、クララにひそかに恋しちゃったりしてじとじとしてるところが。あと真面目。交響曲こだわりすぎて4曲しか作れなかった。」「交響曲第4番ほんともうスコアの見た目からして美しい(確か。ベートーヴェンの5番と共にこの2曲を挙げてた)」。

それからビジュアルイメージも完全に髭面のそれだった。若いときのやつあんまり記憶になかった。

自分携帯に入ってる唯一の交響曲が、ヴァントのブラームス交響曲3番だった(あ、最近幻想交響曲入れたんだった)(ヴァントにこだわりがあるわけではない。Kugouの中で選んだ)。交響曲1番、4番はメジャーすぎ(というか主張が強いのかな、メロディラインというか)、2番は自分にとって手垢が付きすぎているため。

あ、あと、暗くてじとじと、とはいえ交響曲1番1楽章とか激しい。

まあとにかく、やっぱ気質なのか、あとはミュールフェルトのおかげか、自分にとっては1馬身出てる作曲家

前段:シューマン

シューマンは、交響曲4番(のVnソロ笑)。あと『子供の情景』の<知らない国々>だ。自分体験としては夢々しい、というイメージ。だけど、これも別の友人が言っていた、シューマンを聞きだしたら、闇落ちしていることに気がつく、と。

あと名高い『音楽音楽家』が3ページぐらいで止まって積読

から

ヨハネス・ブラームスクララシューマンロベルト・シューマン、ヨーゼフ・ヨアヒム

知ってる人らだからと油断していたら名前からなくなった罠。ヨハネス、クララロベルト、ヨーゼフ。

ヨーゼフは、フランツ・ヨーゼフ1世と混ざる…。

フランツ・リストフランツ・ヨーゼフ・ハイドン

史実らしいこと整理

【】翼ある人びと

1838年:『子供の情景 Op.15』『クライスレリアーナ Op.16』

1841年シューマン交響曲第1番 Op.38』。シューマン交響曲第4番初演するもイマイチメンデルスゾーン体調不良によりフェルティナンド・ダーヴィトが指揮)、出版されず。

1845年:三女ユーリ誕生【長女、遥羽らら】

1846年長男エミール誕生【秋音光】。シューマン交響曲第2番 Op.61』

1847年長男エミール死没

1848年フランツ・ヨーゼフ1世即位

1850年シューマン交響曲第3番 Op.97』

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1853年ブラームス20歳クララ34歳、シューマン45歳、ヨアヒム22歳、リスト42歳、ワーグナー40歳フランツ・ヨーゼフ1世23歳)

8月18日バート・イシュルの夏は暑い、今年は特別

9月30日シューマン邸『ピアノソナタ第1番』を弾く

10月:いっぱい滞在。初旬にシューマンが『ヴァイオリン協奏曲 d』を作曲するもヨアヒムが封印21世紀に入り、ワーグナーを先取りしたような斬新な和声使用などの先見性が評価されるようになった)。

秋頃(それ以前という説もあり):『ヴァイオリンソナタシューマン出版提案するもブラームス判断で破棄

11月シューマンのもとに『ピアノソナタ3番 Op.5』の譜面が送られている

12月17日:『ピアノソナタ第1番 Op.1』初演@ライプツィヒヴァンハウスシューマンの紹介でブライトコプフから出版、ヨーゼフ・ヨアヒムへ献呈。シューマンは当初別の作品作品1として出版することを提案していた。

12月30日シューマン交響曲第4番(改訂版Op.120』初演(現在一般的演奏されるのはこれ。翌年出版はするがあまりハネなかった模様)

1854年

1月:『ピアノトリオ第1番 Op.8』@ハノーバー

2月27日シューマン投身エンデニヒの精神病院へ。ブラームスデュッセルドルフへ駆けつけ、シューマン家を助ける。クララとの距離近づく。

春?:『ハンガリー民謡主題による14の変奏曲 Op.21-2』

6月:四男(末子)フェリックス誕生次男、花菱りず】。ブラームス名付け親ブラームスの子供説あり。ロベルトによく似ていてクララもとても可愛がる。

8月:『シューマン主題による変奏曲 Op.9』完成

夏:『4つのバラード Op.10』この曲集の作曲とほぼ同時期にクララへの生涯にわたる愛が始まっている。

1855年クララ手紙の中で「君」と表現。『2つのガヴォット』『2つのジーグ』『2つのサラバンド』『ベートーヴェンピアコン4番のカデンツァ』『格言(この欺瞞世界で)』。交響曲第1番着想(シューマンの『マンレッド序曲』を聞いて)。

1856年フーガ』『前奏曲フーガ a』『モーツァルトピアコン20番のカデンツァ』『キリエ』『ミサ・カノニカ』

4月05日:『惜しみなく与えよ Op.30』

7月29日シューマン

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1857年:『前奏曲フーガ g』『子供のための14の民謡』『モーツァルトピアコン17番のカデンツァ(着手)』

1858年:25歳の時、友人の家で知り合ったアガーテ・フォン・ジーボルト婚約。『セレナード第1番 Op.11

1859年結婚生活音楽活動の制約となることを恐れて婚約破棄

1861年:『シューマン主題による変奏曲 Op.23ユーリエへ献呈。

1863年エリザベート・フォン・シュトックハウゼンブラームス弟子として受け入れるも、ユリウス・エプシュタインに送り返している(彼女まれにみる美貌と才能のため必要以上に惹かれてしまうことを恐れてか、エプシュタインへの配慮か)。

1867年オーストリア=ハンガリー二重帝国誕生戴冠式マーチャーシュ協会ミサ曲はリスト作曲

1869年:36歳の時、ユーリエに心を寄せるも内気ゆえいつもの癖で気持ちを打ち明けられずにいるうちにクラライタリアのラディカーディ・ディ・マルモリートからユーリエへの求婚を容れて婚約させてしまい、ブラームスは怒りをもって『アルト・ラプソディ(ゲーテの「冬のハルツの旅」から断章Op.53』を作曲(別のサイト表現では、プロポーズを承諾したときにわかに不機嫌に。『アルト・ラプソディ』はユーリエへの嘆きの歌)。

1874年フェリックスの詩に付曲(Op.63-5~6)

1876年:『交響曲第1番 Op.68』21年の歳月をかけ完成。

1876or7年 *43歳:「結婚すればよかったと思うこともある。……しかし適齢期のころには地位はなく、いまでは遅すぎる」と友人に語った

1879年フェリックス病没。悲しみにくれるクララを慰めるため、ブラームスは『ヴァイオリンソナタ第1番<雨の歌>Op.78』を作曲クララ「この曲を天国に持って帰りたい」。また同時期にフェリックスの詩に付曲(Op.86-5)。

1883or4年 *50歳:コントラアルト歌手ヘルミーネ・シュピース23歳年下)に出会い歌唱力の素晴らしさと女性としての魅力に惹かれるが結婚にまでは踏み切れず。

1889年フランツ・ヨーゼフ1世から芸術科学のための金の大勲章」を授かる。暮れに謁見。シューマン交響曲第4番初稿版を再演(クララ改訂版派だった)

1890or1年 *57歳:コントラアルト歌手バルビと出会って音楽家としての魅力に惹かれる。

1891年:『クラリネットクインテット Op.115』@バート・イシュル夏。シューマン交響曲第4番ブラームスヴェルナ校訂版出版、世に知られるようになる。

1893年:『シューマン全集刊行ブラームスクララ編纂

1896年

3月26日クララ脳出血で倒れる

5月07日:『4つの厳粛な歌 Op.121』完成。辞世作品とみなされている。

5月20日:クララ没(76歳)。埋葬式のあと体が衰弱し、肝臓癌であることがわかる。

6月:『11コラー前奏曲 Op.122』@イシュル。第11曲「おお、この世よ、われ去らねばならず」。作品を書き終えたブラームス健康は日に日に衰えていく。医者治療を受けても病状は一向によくならず。

1897年 4月3日:没(63歳)

1898年エリザベート暗殺

1937年シューマンの『ヴァイオリン協奏曲 d』がヨアヒムの蔵書から発見される


※出典:ウィキペディアとか奇特な方のブログとかブラームスインスティテュートとか、、余力があれば追記…。

あと書籍類もぼちぼち読んでいきたい

あと映画

2015-05-22

詐欺捏造・偽作

台湾誌(1704年

ジョルジュ・サルマナザールはフランスまれ白人だったが、ウィリアムイネスという牧師の協力を得て「キリスト教改宗した台湾人」になりすました。「台湾人の先祖日本人である」「香草をまぶした生肉を食べている」などデタラメ風習を広め、独自の「台湾語」まで作りだした。当時のヨーロッパでは台湾ことなど全く知られていなかったので、サルマナザールは25年ものあい台湾専門家と見なされ、彼が執筆した『台湾誌』は知識人からも信頼されていた。しかし、ハレー彗星で知られるエドモンド・ハレーが、『台湾誌』に掲載された星図などから矛盾を見つけ出して突きつけたため、彼はついに自らの虚偽を告白した。

ベリンガー事件(1726年)

数学教授デリック図書館司書エックハルトは、横柄な態度のヨハン・ベリンガーに腹を立て、悪質ないたずらを仕掛けることにした。二人は石灰岩に細工をして、カエルミミズ化石彗星太陽の形をした化石、「ヤハウェ」という文字が刻まれ化石などを作り出し、ベリンガー化石採集していた山に埋めておいた。当時は化石が生まれる原因が分かっておらず、神秘的な力によって形成されると考えられていたので、いま見ると明らかにおかし化石でも、ベリンガーは本物だと信じこみ、図版を収録した書籍まで出版してしまった。話が大きくなって慌てた犯人の二人は偽造であることを明かしたが、ベリンガーはそれを中傷だと考えてまったく取り合わなかったという。

コック・レーンの幽霊(1762年)

コック・レーンにあるリチャード・パーソンズの家に、ウィリアムケントとファニーという夫妻が下宿していた。しばらくしてファニーは天然痘で亡くなったが、それ以来、パーソンズの家では何かを叩くような音や引っかくような音がたびたび聞こえるようになり、パーソンズは「ファニーの幽霊に取り憑かれた」と主張した。ファニーの幽霊は、自分ケントに毒殺されたことを訴えているのだとされた。幽霊のことはロンドン中の話題になり、見物客が連日のように集まってコック・レーンを歩けないほどだった。しか調査の結果、パーソンズ自分の娘を使って、木の板を叩いたり引っかいたりさせていたのだということが分かり、彼は有罪となった。

トルコ人(1770年

ヴォルフガング・フォン・ケンペレンは「トルコ人」という名の人形を完成させた。それは完全な機械仕掛けチェスを指し、しかほとんどの人間より強いというものだった。「トルコ人」はヨーロッパ中を旅してチェスを指し、その中にはベンジャミン・フランクリンナポレオン・ボナパルトなどの名だたる人物がいた。多くの人間がその秘密を暴こうとしたが果たせなかった。ケンペレンの死後、「トルコ人」はヨハン・メルツェルのもとに渡り、ふたたびアメリカなどで大金を稼いだが、1854年火事によって焼失した。その後、最後の持ち主の息子が明らかにしたところでは、やはりチェス盤のあるキャビネットの中に人が入っていたのであった。

首飾り事件(1785年

宝石商シャルル・ベーマーは、自身が持つ高額な首飾りを王妃マリー・アントワネットに売りたいと思い、王妃の友人だと吹聴していたラ・モット伯爵夫人仲介を依頼した。伯爵夫人は、ルイ・ド・ロアン枢機卿を巧みに騙して首飾りの代理購入をさせ、王妃に渡すと言って受け取った首飾りをばらばらにして売りさばいてしまった。その後、事件が発覚して伯爵夫人逮捕された。かの有名なカリオストロ伯爵も巻き添えで逮捕され、のちに無罪となっている。また「王妃はラ・モット伯爵夫人同性愛関係にあった」「この事件王妃陰謀だった」といった事実無根の噂が流れ、マリー・アントワネットの評判は貶められた。

ヴォーティガンとロウィーナ(1796年

19歳のウィリアムヘンリー・アイアランドは、父親を喜ばせるためにシェイクスピア手紙文書を偽造するようになった。多くの専門家がそれを本物だと鑑定し、ジェイムズ・ボズウェルなどは「我らが詩人聖遺物を生きて見られたことに感謝する」と祝杯を上げたほどだった。ついにウィリアム戯曲の偽作まで行うようになったが、その戯曲「ヴォーティガンとロウィーナ」はあまりにも悲惨出来栄えだった。また、その頃にはエドモンド・マローンによる批判も広まっていた。ウィリアムは罪を自白したが、世間はそれをウィリアム父親が息子に言わせているものだと受け取った。当の父親も、無能な息子がそんなものを書けるわけがないと、死ぬまで贋作であることを信じなかった。

プリンセス・カラブー(1817年)

イギリスで異国の言葉を話す身元不明女性保護された。ある船乗りが「言葉が分かる」というので通訳となった。船乗りによれば、彼女インド洋島国王女ラブーであり、海賊に囚われていたが逃げ出してきたのだということだった。彼女地元の有力者たちのあいだで人気となり、またその肖像画新聞掲載されて広まった。しかし、その新聞を見た人から通報があり、彼女メアリー・ベイカーという家政婦で、架空言語を作り出して、カラブー王女のふりをしていただけだということが判明した。

ポヤイス国(1822年)

イギリス軍人グレガー・マクレガーは、中南米で実際に功績を上げたのち、イギリスに戻って「ポヤイス国」への移住者募集した。ポヤイス国は南米の美しい楽園で、土地は肥沃であり、砂金が採れると喧伝された。ポヤイス国の土地役職通貨などが高額で売りに出された。それを購入した二百七十人の移住者グループが船で現地へ向かったが、そこにポヤイス国など存在しなかった。荒れ地に放り出された移住者たちは次々に死んでいった。マクレガーフランス高飛びし、そこで同じ詐欺を働こうとして失敗した。さらベネズエラへと逃げて、そこで英雄的な軍人として死んだ。

ピトケアン島の独裁者1831年

アメリカ冒険家だったジョシュアヒルは、ハワイ移住しようとして失敗した後、タヒチ島からピトケアン島へと渡った。ピトケアン島は、イギリスからタヒチまで航海したのちに水兵たちが反乱を起こしたという「バウンティ号」の生き残りと、その子孫たちが暮らす絶海の孤島だった。ヒルは、自分イギリス政府から派遣された要人だと嘘をつき、独裁者として君臨した。逆らう者には容赦なく鞭を振るい、恐怖で島を支配した。それから6年後、通りすがりイギリス海軍の船に島民たちが助けを求めたことで、ついにヒルは島から追放された。

ティッチボーン事件1865年

イギリスの名門ティッチボーン家の長男ロジャーは、1854年南アメリカ沖で海難事故に遭って亡くなっていたが、その10年後にオーストラリア肉屋を営む男が「自分ロジャーである」と名乗り出た。翌年、ロジャーの母である未亡人と「ロジャー」はパリで面会した。華奢だったロジャーとは違い、「ロジャー」は体重100kgを超える粗野な男だったが、未亡人は彼こそがロジャーだと認めた。貴族を名乗りつつも労働者であった彼は、イギリス庶民からも大いに人気を集めた。しか未亡人が亡くなった後、裁判において彼は偽者であるとの裁決が下され、14年の懲役刑を課されることになった。

カーディフ巨人1869年

ジョージハル進化論を支持する無神論者だったが、聖書に登場する巨人実在について口論となり、それがきっかけで巨人化石捏造することを思いついた。石膏を巧みに加工し、毛穴まで彫り込んで、いかにも偶然発見たかのように装って大々的に発表した。専門家たちはすぐに偽物であることを見抜いたが、キリスト教原理主義者の一部は進化論への反証としてこれを支持し、また全米から多くの見物客がやってきた。フィニアス・テイラーバーナムが同様に巨人化石見世物にしはじめたことで、ハルバーナムを訴えるが、その裁判取材していた新聞記者がハルの雇った石工を突き止めて自白させたため、ハル観念して偽造を認めてしまった。

ケーペニックの大尉1906年

ドイツの靴職人ヴィルヘルム・フォークトは、古着屋で軍服軍刀などを購入し、「プロイセン陸軍大尉」に変装した。彼は大通りで立哨勤務をしていた近衛兵に声をかけ、十数名の兵士を集めさせると、ケーペニック市庁舎に踏み込んだ。フォークトは、市長秘書らを逮捕し、また市の予算から4000マルクほどを押収すると、兵士たちにこのまま市庁舎占拠するよう言いつけ、自分は悠々と駅に向かい新聞記者から取材に応じた後、列車に乗り込んで姿を消した。彼はすぐに逮捕されたが、ドイツ全土で人気者となり、時の皇帝によって特赦を受けた。

ピルトダウン人(1909年

イギリスピルトダウンでチャールズドーソンによって発見された化石は、脳は現代人のように大きいが、下顎は類人猿に似ている頭蓋骨だった。ドーソンはこれをアーサー・スミス・ウッドワードと共同で研究し、人類の最古の祖先として「ピルトダウン人」と名付けて発表した。当時は大英帝国繁栄期であり、人類発祥の地がイギリスであるという説は強く関心を持たれた。しか1949年フッ素年代測定により、ピルトダウン人の化石捏造されたものだと断定された。捏造犯人は未だに分かっておらず、『シャーロック・ホームズ』の作者であるアーサー・コナン・ドイル真犯人だという説まである

エチオピア皇帝事件1910年

後に作家となるヴァージニア・ウルフを含む6人の大学生たちは、外務次官の名義でイギリス艦隊司令長官に「エチオピア皇帝艦隊見学するので国賓として応対せよ」と電報を打ってから変装をして戦艦ドレッドノートが停泊するウェイマス港に向かった。ぞんざい変装だったにもかかわらず正体がバレることはなく、イギリス海軍から歓待を受けた。彼らはラテン語ギリシア語を交えたでたらめな言葉を話し、適当ものを指して「ブンガ!ブンガ!」と叫んだりした。ロンドンに帰った彼らは新聞社に手紙を送って種明かしをし、イギリス海軍の面目は丸潰れとなった。

アルバニア王オットー1世1913年

ドイツ曲芸オットー・ヴィッテは、アルバニア公国独立の際に「スルタンの甥」のふりをしてアルバニアへ赴き、嘘がバレるまでの五日間だけ国王として即位した、と吹聴した。そのような記録はアルバニアにもなく、当時からオットー証言は疑わしいものとされていたが、オットードイツ国内でよく知られ、新聞などで人気を博していた。オットーが亡くなったとき、その訃報には「元アルバニア王オットー1世」と書かれた。

コティングリー妖精事件1916年

コティングリー村に住む少女フランシスグリフィスとエルシー・ライトは、日頃から「森で妖精たちと遊んでいる」と話していた。ある日、二人が撮影してきた写真に小さな妖精が写っていたことに驚いた父親は、作家アーサー・コナン・ドイルに鑑定を依頼した。そしてドイルが「本物の妖精」とのお墨付きを与えて雑誌に発表したため、大騒動となった。50年後、老婆となったエルシーは、絵本から切り抜いた妖精を草むらにピンで止めて撮影したと告白した。しかし、フランシスもエルシーも「写真は偽物だが妖精を見たのは本当だ」と最後まで主張していた。

アーン・マレー(1943年

オーストラリア現代詩誌『アングリーペンギンズ』に、25歳で亡くなったという青年アーン・マレーの詩が、彼の姉であるセルから送られてきた。『アングリーペンギンズ』誌はこれを大きく取り上げて天才と称賛した。しかし、これは保守派詩人であるジェームズマコリーハロルドスチュワートが、現代詩を貶めるためにつくったデタラメものだった。この事件によりオーストラリア現代詩壇は大きな損害を蒙ったが、1970年代に入るとアーン・マレーの作品シュルレアリスム詩として称賛されるようになり、以降の芸術家に大きな影響を与えるようになった。

タサダイ族(1971年

フィリピンミンダナオ島で、文明から孤立したまま原始的暮らしを続けてきたという「タサダイ族」が発見された。彼らの言語には「武器」「戦争」「敵」といった言葉がなかったため「愛の部族」として世界的な話題になった。彼らを保護するため、世界から多額の寄付が集まり居住区への立ち入りは禁止された。しかし15年後、保護地区に潜入したジャーナリストは、タサダイ族が家に住み、タバコを吸い、オートバイに乗っているのを目撃した。全ては当時のフィリピン環境大臣マヌエル・エリザルデJr.による募金目当てのでっちあげだったとされた。

ソーカル事件1994年

評論雑誌ソーシャルテキスト』は、「サイエンス・ウォーズ」と題したポストモダニズム批判への反論特集に、アランソーカルから寄せられた『境界侵犯すること 量子重力の変換解釈学に向けて』という論文掲載した。しかしそれは、ソーカルがのちに明かしたとおり、きちんと読めば明らかにおかしいと分かるような意味不明の疑似論文であり、ソーカルはそうしたでたらめをきちんと見抜けるかを試したのだった。それはポストモダン哲学者たちが科学用語濫用かつ誤用している状況に対する痛烈な批判だった。

 
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