はてなキーワード: 家族観とは
結構、重大な局面だと思うのだよ、これ。むしろ「勝った勝った」とはしゃいでる左翼的な陣営こそ、次にちゃんとした手を打たないと取り返しのつかないことになる可能性がある。
橋下の引退により、おそらく「維新の党」は求心力を失う。解党するかどうかはわからないが、もともと個人商店であった以上、以前のような影響力は持ち得ない。やはり去年に解党した「みんなの党」も、もはや跡地すら残ってない惨状。こちらも個人商店だったし。
で、重大なのは、どちらも一定の支持層を持っていたこと。たぶん都市部のホワイトカラー層が中心。20代〜40代が多いはず。
この層の受け皿が完全に崩壊した。
この志向性を持った層が支持する先が安部自民一党になることの危険性。
民主党はデフレ推進してきた反省が見られないし、共産党は「大企業=悪」なテーゼが根強い。
公明党は「安定は希望」というキャッチフレーズである時点で論外。
リバタリアニズム的な志向性を持った層が支持する先がなくなってしまった。
つまり「経済成長歓迎・インフレターゲット支持」と「歴史修正主義・ナショナリズム」
のパッケージか
のパッケージか
個人的にはレイシズムも歴史修正主義もうんざりなのに、それに対抗する軸がまともな経済政策を打ち出さずにげんなり、というのがここ最近の印象。
ピケティがブームになったときも「成長か、再配分か」みたいな二者択一にしたがる人たちが多くて本当に辟易した。
再配分を重視することと経済成長は両立する、というかむしろ両輪として機能するはずなのにね。
というわけで。
・LGBTなどマイノリティー人権擁護(「伝統的な家族観」とか言わない)
・「歴史戦」とか言わない
少なくとも、従来の「左翼」とか「リベラル」とか言ってる人たちは「勝った勝った」じゃなくて
ちゃんとビジョンを示してくれよ、と思う。
・
主人公は、歴史上の有名人の妻にしよう。幕末もので血気盛んな若者がたくさん出てくる群像劇だから
こないだ紀伊國屋の男モテ文庫フェアに噛みついてた人や同意されていた皆様は、こういう、「いかにも(脳みそペラペラなオンナコドモ向け)」な大河ドラマとか、
外国人妻にジャパニーズ・スタイル内助の功をこれ見よがしにさせてる朝ドラには、違和感感じないんかしら。
国営放送よ?男モテ文庫フェアよりも、よほど気持ち悪い現象だと思うんだけど
この現象は、TV番組作ってる人が「今まともにTV見てる人は頭の固いお年寄り」だと考えているからで
「今どきの若い女なんて本読まない馬鹿が多数、だから馬鹿を釣るためのしかけが必要」という紀伊國屋も、
「年齢別視聴率見りゃ、まともにTV見てるのは爺婆ばっかりだから、旧来的な家族観を補強するような番組作ろう」というNHKや日本マンセー番組作ってる民放各局も、
メディアがマーケットの奴隷になっちゃってるという方がよほど恐ろしいことなんだと思うんだけどな。
ヘイト本を陳列するしないでわーわーしてた時にも、本屋がマーケットの奴隷になって何が悪いんだ、という意見は一部あって、そういう意見にも噛みついてる人もたくさんいたけど。
先日、うっかり結婚した。
いつかは結婚したいと思っていたし、彼氏(今の夫)もはっきりと「君と結婚したいと思っている」などと言ってくれていた。
親からのプレッシャーもあった。「適齢期」「出産年齢」も気にしていた。同僚や友人の結婚や出産が続いたから。
毎週末にFacebookにポストされる、頑固親父として有名だった友人父が孫を抱いている写真。えびす顔、というのだろうか。友人として素直に嬉しい気持ちと、どこか遠い外国の出来事のような感覚を覚えながら見ていた。
…早い話、キッカケがなかったのである。タイミングも手続きもわからなかった。
結婚式そのもの、ましてやドレスなどにも憧れがなかった。「彼氏をウェディングフェアに引っ張って行きその勢いでプロポーズさせた」という友人のエピソードは、女子会特有の雰囲気に合わせたネタと思っていた。
ちょうど仕事が面白くなってきているというのもあった。管理職になり、海外出張が増え、動けば必ず成果を出せるようになり、まさに旬がめぐってきたのだとさえ思った。
仮に出産するとなると、ここまで築きあげてきたキャリアをすべて失うのではないかと恐怖した。怖いので、あまり考えないようにした。
私生活の課題にだけ積極的に改善を試みないのは、とても悪い癖だと自己批判しながら。
あるとき彼と、たぶん焼肉屋か鮨屋だったかと思うけれど、結婚する時期について話した。
「明日でもいい」と彼は答え、こう続けた。
「仕事は辞めなくていいし、減らさなくていい。子どもは産んでほしいけれど、君が欲しいと思ったときでいい。もちろん遅くならないうちにね。
そもそも僕が好きなのは君で、そう努力している君なんだよ。今の君はかっこいいし、誰にも渡したくないんだよ。
だから家庭的な、僕の奥さんや子どもの良い母親になってほしいとか、そういうことは言ってないんだよ。
今は仕事という形でアウトプットしているけれど、同じように、自分たちが正しいと思うことを、なんとなく、相談しながら、やっていけば、いいんじゃない?」
そして、型破りな自分の性分をいま一つ受け入れられていなかったことに気付いた。
実家は圧倒的な家父長制が強く敷かれている。地方公務員の両親、先祖は地主だ。
大学進学と同時に離れ、できるかぎり疎遠にしていたにも関わらず、旧い結婚観・家族観は私の血肉に染み込んでいたのである。
決別するために、そして当の本人である私よりも私を受け入れてくれる彼への真心として、本当に1週間後に入籍を果たした。
こういう考え方を彼に叩き込んだのは彼の母であり、彼の祖母は戦前から婦人運動家として活動したグループの方だと知るのは、結婚してから1か月ほど経ってからのこと。
この記事を読みました。
http://bokurasha.hatenablog.com/entry/2014/04/01/115953
「当然男子の方が自己肯定感が高かった」という部分に衝撃を受けました。
なぜなら生活満足度も幸福度も、男性より女性のほうが高いのです。
男性のほうが生きやすいというデータもあるので、大学生に限っては女性のほうが男性より自己肯定感が高いのかもしれません。
そうした現代女性の悩みの多くが対人関係であるのも、そのとおりなのでしょう。
しかし、自己肯定感が低いことは日本人全体の問題であって、女性特有の悩みではありません。
ぼくら社Blogさんは人材業界にいらっしゃるということですが、女性の割合が多い業界です。
もしかして女性労働者を監督する立場から、意識の高い考え方に縛られてはいないでしょうか。
「自己肯定感が低い」のは同調圧力が強くて生きづらいこと、また建前と本音が矛盾していることが原因です。
「先進国の女性らしく働きたい、けれど専業主婦にもなりたい。」
「男性に大切にされたいが、結婚前のパートナーとは気軽にお付き合いしたい。」
高度成長時代を経て女性の権利は法整備されましたが、男性同様に働きたいという人がいる一方で、女性らしく生きたいという人も多く、女性の意見がまとまらない現状があります。
ぼくら社Blogさんの考え方には、女性の教育に対する不公平感、それが良いことでも悪いことでもあるのに、女性だけが不利な立場にあるという思い込みがあるようです。
女の子、女らしく、良き妻、といった固定観念は、そのまま男性にも、男の子、男らしく、立派な夫、というように対称的に存在します。
「お母さんの愛情を過多に受け、お母さん大好きなマザコン男性がはびこる日本」というのは、不幸な男性もいることについては想像できなかったのでしょうか?
高度成長時代の母親が教育に迷っていたというのは、家族観の変化が激しい時代だったのでそのとおりです。
日本の教育が迷走しているのは「母親」に限ったことでも、被害者は「女性」に限定されたものでもありません。
娘や息子が未婚のままで、母親が人生を嘆くというのも、ごく自然な光景でもあります。
と嘆いているのは、娘の母親だけではありません。
男子は「勉強」か「スポーツ」どちらか頑張っていれば、競争社会に適応できると判断され、良しとされてきた、と書かれていますが、その反面、男性のほうが競争が激しい面もあるのです。
引きこもりやニートに男性が多いのは、そうした背景があるからです。
男性のほうが成功体験、安心体験に繋がり、「自己肯定感」という分野においては、傷を受けづらかったというのは読み間違えているのではないでしょうか。
母親が「男の子だからしょうがないわ。」とスルーできた場面があれば、「女の子だからしょうがないわ。」とスルーしていた場面もあったのです。
「母親から愛されていると感じたことが無い。」という女性が多いというのは同意しかねますが、上から目線で「それでも私たちはそろそろ、母親を許しませんか?」という提案で本当に幸せになれるのでしょうか?
家族というものは許す許さないに関係なく、続いていくものです。
母親の教育が間違っていたのだと被害を主張するのではなく、もっと身近な幸せにつながることを模索したほうが現実的だと思います。
「容姿に恵まれとても魅力的だったりする人」であろうと、そうでない人であろうと、男であろうと女であろうと最低限の幸せが得られる社会が望ましいはずです。
高齢者の資産運用で、単身高齢者とファミリー高齢者で運用先に有意な差違があった、と興味深い記事があった。
なんでも、単身高齢者は株式への運用比率が高いのに対し、家族持ち高齢者は預貯金比率が高いらしい
★また意識調査しても、単身高齢者は「収益性重視」なのに対して、
シニアが持つ1400兆円金融資産を使って経済活性化させたい政府や証券会社にとっては、極めて好ましくない調査結果
★本来、金融資産がそんなに多くない単身高齢者がリスク志向で、
多少リスクを取る余裕がある家族持ち高齢者がリスクを取りに行かずに安全志向、という結果。投資教育の教科書とは真逆の投資行動
★しかし、数ヶ月前の自分のツイートと重ねれば、自然と解釈できる。
以前自分は「発達障害者の方が、リスク不感な為に株式投資パフォーマンスがいい。
健常者は「リスクを避けようとする人間的心理」が仇となって、株式投資パフォーマンスは悪い」とツイート
★単身高齢者って、家族持ち高齢者と比較して、発達障害スペクトルに位置する人、
発達障害と健常者のボーダーライン上の人の比率が、家族持ち高齢者よりも多いのでは?
★或いは、家族持ち、つまり結婚しようとする人は、家族概念が(単身者より)保守的。だから投資行動も保守的なのかもしれない
★いずれにせよ、「貯蓄から投資へ」という大目標を達成するためには、「家族持ちを減らして、単身者を増やす」のが近道だったりして。
家族観念の保守化を抑制したら、投資行動の保守化を抑制できる。
その分、少子化対策は諦めましょう
おお、そういう返しをされるとは思っていなかった。面白いね。確かに性愛観が変わると、家族観も連動して変化するかもしれないね。
家父長的体系と、母子関係に基づく家族体系に二分されるよりも、
核家族化する人々と、シングルファザー・シングルマザーが一般的な人々に分かれるかもな、とは思った。
あと、処女性主義者たちと、自由性主義者たちが、どういった社会的クラスターと結びつくか、によってその後の展開にかなりさまざまな展開がありえそう。
・社会階層と結びついた場合 → 階層をめぐる不平等と、家族・性愛観がバンドルされた社会的分裂
・地域と結びついた場合 → 自由性主義者の多い沖縄独立! みたいな独立闘争の加速へ
・世代と結びついた場合 → 「最近の若いものは…」 ※まあ、これは確実に起こるというか、現状でも起こってるわな。
社会階層で分裂しちゃった場合、民放改正とか言っても、議論がおさまりつかなさそうだけれども、
地域差で分裂して、条例とかで家族観を変えるような制度が施行された場合、
その家族制度が、その後の地域の経済競争力とかにも結びついていきそうなので、
結果としてどちらの家族制度が経済的に生き残るかみたいなことで、
性愛観の淘汰圧みたいのが働きそう。
(そして、その過程で、「どっちの性愛観が偉いか論争」みたいのが無限に行われそう)
私もフェミニストのつもりだが、日本のフェミニストの女性の間での婚外子万歳の風潮がよく分からない。
結婚せずに子供を持つってそんなに進歩的で素晴らしい事なのか(その逆で結婚しても子供を持たない夫婦ならまだ分かるが)?
別に私は伝統的な家族観にこだわってるんじゃなくて、子供を産み育てる事をやたらと持ち上げる古い価値観を嫌悪してる。
子供なんて持たなくても生きていくのに困らない。寧ろ人口爆発して大変なんだから子供の数は減らした方がいい。
婚外子だろうが何だろうが女は子供を産んで当然って意識に囚われてるなら全然自由じゃないと思う。
そうやって「国の望むもの」と「俺の望むもの」をごっちゃにしたまま古い制度設計にあぐらをかいてるから少子化が進んでいるのでは?
古典的家族観のまま核家族化を進めてしまった結果、統計的に「跡取り」問題で結婚できないカップルが増えていると考えるのが自然。
そういったカップルも含め、事実婚カップルを法律婚の枠に組み入れて、安心して子供を産み育ててほしいとは思わないのだろうか。その「国家」とやらは。
まぁ、もうほとんど手遅れだけどね。封建的価値観と経済の変化との間に押し潰された「女」の唯一にして最大の反撃手段は「産まないこと」。
女を虐げた国家は滅びるのが定め。君もそれを望んでるんでしょう?
家族間仲が悪い・批判ばかり言う・家族観がおかしいと増田は言うけど、家族らしい家族だなあと思う。
甘えてるからこそ、いやらしい批判が出来る。
他人にゃできないでしょ。同じ調子でそんな批判をずばずばと。絶対嫌われるもんね。
だから甘えなのよ。
(だからって受け入れる事もないけどさ。)
そして、あなたが泣きながら言い返すのも甘え。
他人の前でみっともなく泣きながら反論する事ってある?ないでしょ。
そういう甘えは家族特有のもの。
見栄がない付き合い。
だから家族っぽいなと。
顔を合わせないとだんだんどうでもよくなってくるというか。
そのうち他人のように、やりとりに見栄を入れられるようになってくる。
そしたらもう他人だ。家族じゃない。
家族間仲が悪いってだけで、かなり精神構造上ディスアビリティだと思う。
心が通わない。 辛い。
お互いがお互いにとってマイナス。
穿った判断しかされてないように感じるし、
とにかく批判ばかりされる。
昔からそうだ。
私もおかしい。
固執しないと言う選択肢しかないのだけど、
心のよりどころがないから悲しくなる。
100%冷え切ってるわけでもないから、
絶縁とかしてるわけでもないけど
(敢えてする必要もないから、しないけど)、
ときどき話せば、思いもよらぬ方向に話しが進み、
いい歳して泣くくらい言いあいになったりして、
家族に対して、どうしてこうもマイナスな感情しか生まれないのかと情けなる。
誰が誰とも心が通わない。
無理だと思ってる、もう。
中間走者として自分がいる。
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秋葉原での無差別殺傷事件で逮捕された青年の両親が自宅前で報道陣に取り囲まれ、会見をした。父親が「謝っても償いきれない」などと謝罪の言葉を述べている途中、母親は急にひざから崩れ落ち、頭をうなだれ、土下座するような形でそのまま動けなくなった。
両親に法的な責任はないが、こういう子どもを育てた道義的責任はある、というのが、日本人の常識的な感覚であろう。
かつて神戸で中学生が小学生を殺し、その首を校門の前に晒す、という異常な事件が起きた。これに関して、儒教研究家の加地伸行・大阪大学名誉教授は、こう書いている。
・・・もし私が加害者の中学生の父であったならば、自裁(自殺)をする可能性がある。私は日本人であるから、親は親、子は子、別の独立した人格であるというような、欧米人流の個人主義的行動をとることはとてもできない。それに、自裁する前に、罪を犯した子を自らの手で処置する可能性さえある。[1,p6]
殺人を犯した我が子を手にかけた後で自殺する親がいても、日本人の感覚からは、同情こそすれ、「狂気の沙汰」とは見なさない。
加地氏は、これを「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」と呼び、「欧米流個人主義の立場からは絶対に生まれない感覚や意識」だとする。
こんな所からも、日本人の家族観が現代においても欧米とはまったく異なるという事が窺われるのである。
日本と欧米との家族観の違いは、我々の日常生活でも随所に姿を現す。
たとえば、最近では日本でもキリスト教式の結婚式が広まってきているが、神の前で互いに相手を伴侶とする宣誓をするのは良いとしても、さらに契約書にサインまでするというのは、どうにも違和感がある。日本人の普通の感覚では、「契約」とは他人行儀のビジネス行為であって、それが家族の中で行われるというのは、どうしてもなじめない。
欧米のキリスト教的な家族観では、家族とは男女の個人間の契約を基盤としている。そして神の前での契約こそが、神聖なものなのだ。
また欧米の家庭では、子どもが生まれて大学生にでもなれば、もう親とは別の独立した「個人」となる。ある小説で親が成人した子どもに「これからは友人としてつきあっていこう」などと語るシーンが出てきて、こういうセリフは日本人では思いつかないな、と感じたことがある。
当然、子どもの方にも、年老いた親の面倒を見なければならない、などという義務感は薄い。子や孫との家族的関係を持ち得ないアメリカの老人たちはいかにも淋しげである。
実はヨーロッパにおいても、ギリシア時代やローマ時代など、キリスト教が栄える前は、人々は家毎に祖先の神霊を祀り、それが家族の基盤をなしていたのである。それは古代の日本も同じであり、現代日本人の家族観はその伝統を色濃く受け継いだものである。
古代の多くの民族は、亡くなった祖先の霊は、子孫が祭祀してくれれば、いつでもこの世に戻って来られるものと信じた。日本語で言えば、「草葉の陰」で子孫を見守ってくれるのである。
「死んだらどうなるのか」というのは、常に人間を不安にする疑問であるが、死んでも自分の魂は存在を続け、子孫とともにある、というのは、生死の安心を与えてくれる信仰であった。
また残された子孫にとっても、自分を愛し、育ててくれた祖父母や両親が、死後も見守ってくれる、というのは、その死の悲しみを和らげてくれる物語であった。
先祖祭祀というのは、先祖をキリスト教的な唯一絶対神として祀る、ということではなく、先祖の霊とともに生きている、という生活感覚なのである。それがわが国においては古神道となり、中国においては儒教に発展した。
キリスト教では、死者の魂は最後の審判を受けて、魂は天国か地獄に行く。仏教では、魂は輪廻転生を続け、解脱をしない限り、次は蛇や虫として生まれ変わる恐れがある。
よくキリスト教や仏教を「高等宗教」とし、先祖祭祀などは未開の宗教であるかのように言うが、死後の魂がどうなるか、ということについては、それぞれが違う「物語」を持つ、というだけのことであって、どちらが高等かなどと比較できるものではない。
魂が輪廻転生を続け、解脱をすれば浄土に行ってしまう、とする古代インド仏教が、先祖祭祀を信ずる中国や日本に入ってきた時、その死生観の違いが文化的衝突を引き起こした。
インド人にとって見れば、魂は他の人間か動物に生まれ変わるか、浄土に行ってしまうので、肉体はその乗り物に過ぎない。だから焼いて、その灰はインダス河にでも流してしまう。これが本当の火葬である。
日本で火葬というのは、遺体を焼却した後に骨を拾い、墓に収める。これは本来の意味の火葬ではなく、土葬の変形なのである。古代中国では、人間の精神を支配するものを「魂」と呼び、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼んだ。人間が死ねば、「魂」は天に上るが、「魄」は地下に行く。「魄」を地下で大切に守るのがお墓である。
これと同様の感覚を日本人も持っており、遺骨には死者の「魄」を感じる。戦後、アジアや太平洋の島々にまで戦死者の遺骨収集に行くのも、骨を故郷の地に埋めなければ、死者の魄を供養できないと考えるからだ。
これについて興味深い話がある。昭和45(1970)年日航機よど号をハイジャックして北朝鮮に逃亡したグループのリーダー田宮高麿が平成7(1995)年に亡くなり、「祖国の地に骨を埋めたい」という気持ちから、田宮の遺骨は北朝鮮にいる妻子と日本の家族とに分けられ、新潟県内の家族の墓に埋葬されることになったという。
共産主義者は無神論者のはずだが、異国で死期が近づくと「祖国の地に骨を埋めたい」と願うのは、心の底には日本人の死生観が根づいている証左である。
輪廻転生を信ずるインド仏教が中国に入ってきた時、遺体は焼いて川に流してしまう、という生死観は、先祖祭祀を信ずる中国人にはとうてい受け入れられるものではなかった。
そこで中国における仏教は、魄を納める墓や、先祖の魂を呼び戻して依り憑かせるための位牌を取り入れた。
わが国に中国から仏教が入ってきた時には、このように先祖祭祀を取り入れて換骨奪胎したものになっていたので、比較的抵抗は少なかった。
それでも日本にも仏教の輪廻転生をそのまま信ずる人はいた。鎌倉時代初期の親鸞である。親鸞は阿弥陀仏の衆生を救おうという本願にすがって、浄土に行けば輪廻転生の苦しみから脱却できると説いた。となれば葬儀も墓も先祖供養も不要になる。
しかし、親鸞の弟子たちはその教えに背いて、葬儀・墓・先祖供養を続けた。その後裔たる現代の浄土真宗本願寺派も、墓を作り、葬儀や先祖供養を行っている。
今日の日本では、大方の人々が仏教に求めているのは、墓・葬儀、先祖供養である。そもそもの輪廻転生からの解脱を仏教に求める人々は例外的であろう。これほどに先祖祭祀は日本人の心の奥底に根付いているのである。
仏壇も、墓や葬儀と同様、仏教本来のものではない。中国においては、一族の長の家に宗廟(そうびょう)という別の建物を建て、そこで先祖祭祀を行った。これが後に、祀堂(しどう)や祀壇(しだん)となり、それを仏教が取り入れた。
日本では、これが部屋になって「仏間」となり、さらにはそこに置かれた仏壇が、一般の部屋に置かれるようになった。各家に仏壇を置くという習慣は、中国や朝鮮にもない、日本独特のものであるそうだ。[1,p191]
仏壇には、灯明と線香と位牌がおいてある。灯明は先祖の霊が降りてくる場所を間違えないよう、明るくするためのものである。線香に火をつけると、その香煙に乗って、霊が降りてきて、位牌に依りつく。
そこで子孫たる我々は、降りてきてくださった祖霊に対して「ご先祖さま。おはようございます。今日も一日よろしくお願い申し上げます」などと挨拶をするのである。
今日、自分たち家族が生きていられるのも、亡くなったご先祖様のお陰であり、そのご先祖様の恩に応えて、自分も家族のため、子孫のために今日も頑張ろうと、心を新たにする。これが先祖祭祀に基づく生き方だろう。
核家族化が進んで、仏壇のない家も少なくない。しかし、仏壇のある祖父母の家に里帰りした時などは、幼い子どもとともに、仏壇に線香を上げると良い。幼い子どもは遊びのように喜んで仏壇に向かう。自分がここにあるのも、ご先祖様のお陰だということを教える何よりの機会である。
もう一つ、インド仏教が中国や日本の先祖祭祀と衝突した点は、出家を説いた点である。「出家」とは文字通り、家を出て、財産への執着や家族への愛着を振り切って、個人の解脱を求めることである。
しかし息子に出家されたら、その家は断絶し、先祖の霊を祀る子孫がいなくなってしまう。個人的な解脱のために、先祖の霊をさまよわせ、子孫の未来を奪うのは、先祖祭祀の立場からは、とんでもない「不孝」と考えられたのである。
そこで中国や日本においては、「在家」すなわち家族の実生活の中で仏教を奉ずることが理想とされた。聖徳太子は在家の長者・維摩が教えを説いた「維摩経」、および、同じく在家の女性信者である勝鬘(しょうまん)夫人が仏道を説いた説いた「勝鬘経」をとりあげて注釈書を書かれた。
前述の親鸞は、聖徳太子を「和国の教主」と仰いでおり、その在家主義を受け継いで、結婚し、子をもうけている。今日でも日本の多くの仏教僧は、結婚し、家庭生活を営んでいる。
オウム真理教はインド仏教を受け継いで、出家して修行を積めば、輪廻の苦しみを脱して解脱できると説いた。それを信じて家族を捨てて教団に入った子どもたちを、親が返せと叫ぶ。これも「出家」と「在家」の衝突の一例である。
「在家」とは、家族の一員として生きていくことであるから、まことに不自由なものである。「出家」のように好きな所に行って、好きなだけ座禅を組む、などという気ままは許されない。
しかし、その不自由な家族の中で、我々は生まれ、育てられて、大人としての生活を送る能力を身につけていく。まず家族の中に生まれて、育てて貰わなければ、大人として自由な生活を送る事も、そもそも不可能なのである。
さらに成長の過程で自分を育ててくれた親への感謝や、その恩返しとして今度は自分の子どもを立派な人間に育てる義務を学ぶ。このような事が人格の基盤を構成するわけで、感謝や義務の心のない人間は、自由を与えられても、自分の利益しか考えない利己主義者になってしまう。
西欧に発展した近代個人主義においては、ひたすらに個人の自由と権利の拡大を図ってきた。しかし、キリスト教社会においては、神に対する畏れがあり、それが野放図な利己主義に転化する抑止力となってきた。
わが国においても西洋的な自由と権利の主張を鵜呑みにして、家族制度を「個人の自由を抑圧する封建的制度」などと罪悪視する思潮がある。
しかし、わが国においては家族制度が、利己主義への抑止力となってきたのであり、それを破壊することは、利己心の抑制を持たない人間に野放図の自由を与えることになる。都会の雑踏で無差別殺人を行う青年とは、その極端な姿ではないのか。
こうした事件を防ぐべく、子どもたちに単に「生命を大切にしよう」とだけ教えるのでは、「なぜか」が伝わらない。
それがわが国の家族観に従えば、「生命を大切にしよう。生命とは何代ものご先祖様から君たちに伝えられ、そして君たちから何代もの子孫に受け継いでいくべきものなのだから」と教えることができるのである。
先祖供養とか仏壇、お墓参りなどは、すでに形骸化した「葬式仏教」の遺産であると考えがちであるが、それらは我が先人たちが産み出してきた工夫なのである。そこには先祖から子孫へと連綿とした生命のリレーの中で人間を捉える伝統的な家族観が生きている。
その家族観の深い思想を知らずに、単に古くさいの一言で片付けながら、新しい家族観を産み出すこともできずに、社会的混乱を招いているのが、現代の日本人ではないだろうか。
これではご先祖様も草場の陰で嘆いていよう。
(文責:伊勢雅臣)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569603084/japanontheg01-22%22
おれ:入社時点で初期パラメーターは男女同じだろ。なぜなら、会社には入社試験があるから。
増田:そんなわけないだろ。入社試験通ってれば能力は同じとか、おめでたすぎる。男女雇用機会均等法とかそんなんのせいで、男性ばっかりとってると怒られるんだよ。社会的にも現状ではイメージ悪くなっちゃうわけ。だから女性も取らざるを得ないから、女性枠で取ってるだけ。同じ成績とは限らない。中小は知らんけど。
増田の会社が世間一般の会社を代表するかのように語るなよ。増田の会社は男女雇用機会均等法に則らず未だに「女性枠」なんてものを設けてるのかもしれないけど、それ世間一般の会社じゃなくて、法令遵守してない男女差別主義のブラック企業ですから。男女雇用機会均等法に則るなら、職務に必要な能力を男女ともに同じ試験・同じ基準で測り、出て来た結果の上から順に人を採っていく形式を取ることになる。そうすれば入社試験を通過した人の能力というのは男女で変わらないだろ。ちなみに↓
男女雇用機会均等法は「男性のみ、女性のみの募集」、「男性と女性とで異なった選考方法をとること」、「男女問わず、性別を表す職種で募集すること」、「男女別の採用枠、定年年齢などの設定を異ならせること」などを禁じています。
おれ:あと、企業の目的は顧客満足・従業員の雇用創出・株主への利益還元などであって、利益の追求はその手段だよ。
増田:ばかか。「顧客満足・従業員の雇用創出・株主への利益還元」こんなのは社会が企業に果たして欲しい役割だろ。それらは社会貢献として企業が詠うことはあっても目的ではない。建前を鵜呑みにするとか、どこの学生だよ・・・。
社会が企業に果たしてほしい役割を果たせない企業なんて社会の中に長くは存在していられないんだよ。一瞬なら社会を騙すことで存在できるけどな。まず、顧客のニーズに応えられない企業は利益が出せない。利益が出せない企業はやがて従業員の給料を削減するから優秀な社員から順に流出し、ますますジリ貧になる。会社の株価も下がり、銀行も財務諸表等で危険を察知するから、企業は事業に必要な資金を株式でも債務でも調達しづらくなる。そうした流れが続けば企業は必ず倒産する。つまりは、社会に貢献することでしか企業は存在し続けられないの。増田さんは経営の基本的な仕組みを理解できてないとしか言いようが無い。
おれ:そうそう、適材適所で働くために男女雇用機会均等法があるんだよ。雇用機会均等ってそういう意味だ。言葉を知らんのは増田のほうだ。能力が同じなのに男女の別という意味のない差別意識によって、個人の適材適所な労働が妨げられないようにこの法律がある。
増田:ほんとばかか。こういうばかが多いから間違った方向に社会通念が進むんだろうな。能力が同じじゃないから男女雇用機会均等法を廃止しろと言ってる人間に対して、能力が同じなので男女雇用機会均等法があるんだよと言っても意味ないだろ。根拠を示せ。あと、深夜就業以外については男女雇用機会均等法について何も知らないだろ?
おれは能力が同じ2人の個人が、男女という違いによって雇用差別を受けるのは問題だと書いたつもりだがうまく伝わらなかったか。もう少し噛み砕いて話すよ。すごく簡単な話、職務能力を100%測れる試験方法があったとしてさ、その試験で100点満点をとった男と女に職務能力の違いがあると思う?あるいは80点を取った男女に職務能力の違いがあると思う??
おれ:結局増田はこれが言いたいだけ。田舎のオヤジのような日本の古い家族観に凝り固まった結論が先にありきで、なんら論理的な思考など出来ていないのさ。
結論に至る経緯をおれは無視していないよ。増田の結論を支えてる根拠1つずつを取り上げて検討してるじゃない。で、ほとんどの根拠が可笑しいので、これは増田が根拠から結論を導き出したのではなくて、自分の信じたい結論を支えるためにむりやり根拠を作ろうとしてるなと思ったから、論理的な思考が出来ていないと言ったまで。(あ、あと、書き終わって気づいたけど、増田は「ありき」と「ありきたり」を読み違えているよ。)
そんなわけないだろ。入社試験通ってれば能力は同じとか、おめでたすぎる。男女雇用機会均等法とかそんなんのせいで、男性ばっかりとってると怒られるんだよ。社会的にも現状ではイメージ悪くなっちゃうわけ。だから女性も取らざるを得ないから、女性枠で取ってるだけ。同じ成績とは限らない。中小は知らんけど。
女性も深夜就業できるよ。
そうだったのか・・・。それは知らなかった。ありがとう。
ばかか。「顧客満足・従業員の雇用創出・株主への利益還元」こんなのは社会が企業に果たして欲しい役割だろ。それらは社会貢献として企業が詠うことはあっても目的ではない。建前を鵜呑みにするとか、どこの学生だよ・・・。
そうそう、適材適所で働くために男女雇用機会均等法があるんだよ。雇用機会均等ってそういう意味だ。言葉を知らんのは増田のほうだ。能力が同じなのに男女の別という意味のない差別意識によって、個人の適材適所な労働が妨げられないようにこの法律がある。
ほんとばかか。こういうばかが多いから間違った方向に社会通念が進むんだろうな。能力が同じじゃないから男女雇用機会均等法を廃止しろと言ってる人間に対して、能力が同じなので男女雇用機会均等法があるんだよと言っても意味ないだろ。根拠を示せ。あと、深夜就業以外については男女雇用機会均等法について何も知らないだろ?
結局増田はこれが言いたいだけ。田舎のオヤジのような日本の古い家族観に凝り固まった結論が先にありきで、なんら論理的な思考など出来ていないのさ。
結論がありきたりだからと言ってそれに至る経緯が無視するのは論理的な思考なわけ?
男は働けばいいし、女は子育てすればいい。
それが王道だ。
結局増田はこれが言いたいだけ。田舎のオヤジのような日本の古い家族観に凝り固まった結論が先にありきで、なんら論理的な思考など出来ていないのさ。
その実まったく敬意を払っていない件について。
30年くらい時代錯誤してるな…
経営者側に立って考えれば、初期パラメータも低く、育ててもすぐに辞めてしまうような者を平等に雇用しなければならないなんて理不尽すぎる。
現状では女性は育てても結婚・妊娠で辞める確率が男より高いのは同意だが、入社時点で初期パラメーターは男女同じだろ。なぜなら、会社には入社試験があるから。
女性も深夜就業できるよ。http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa400608.html
たいがいの先進諸国の企業と、日本企業の全ては男女雇用機会均等法のもとで操業するのだから、他者と比べて自社が不利な条件で戦うことにはならないよ。あと、企業の目的は顧客満足・従業員の雇用創出・株主への利益還元などであって、利益の追求はその手段だよ。
そもそも男性と女性では基本的な能力が違うのだから、同じことをする必要性がまったくない。
それぞれが得意なことをすればよろしい。適材適所という言葉を知らんのか。
そうそう、適材適所で働くために男女雇用機会均等法があるんだよ。雇用機会均等ってそういう意味だ。言葉を知らんのは増田のほうだ。能力が同じなのに男女の別という意味のない差別意識によって、個人の適材適所な労働が妨げられないようにこの法律がある。
男は働けばいいし、女は子育てすればいい。
それが王道だ。
結局増田はこれが言いたいだけ。田舎のオヤジのような日本の古い家族観に凝り固まった結論が先にありきで、なんら論理的な思考など出来ていないのさ。
なんとなく小町のこの話を思い出した。
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2008/0602/186871.htm
付き合っている彼がそのことに理解がなく困っています。
例えば、書店で歴史小説を購入するだけで「年寄りじゃあるまいし」とグチグチ…。部屋に飾っているお城の写真や、旗指物(タペストリー)も気に入らないようで、「友達の彼女の部屋はもっとぬいぐるみや観葉植物があってかわいらしいんだって」などとイヤミのようなことを言ってきます。挙句の果てには別件で喧嘩している最中に「俺より○○(戦国大名)のほうがいいんだろ!?」と言ってくる始末。仕事の都合でデートを断れば「○○の方が俺より大事だからだ!」などと意味不明な嫉妬までしてきます。
『趣味にかまけて彼をおろそかにしてたんじゃないの?』と言われそうですが、そんな心当たりは今のところ思い当たりません。むしろ趣味は自分の家のなかだけに留めて、彼の前で自分から話題にすることなども避けています。
もちろん、戦国大名のほうが彼より大事だなんてことは思っていませんが、この趣味は私の生きがいでもあり、「やめろ」と言われてはいそうですかとはいきません。
私が戦国趣味に目覚めたのはここ数年で、それまではまったく興味がなく、知っている武将は「織田信長と徳川家康」ぐらいのものでした。はまったきっかけはむしろ彼のほうが歴史小説やドラマが好きだったためで(今の私ほどのはまりようではありませんでしたが)、彼の借りてきた大河ドラマのDVDや戦国ゲームを一緒に楽しんでいるうちにライフワークになってきたんです。彼も最初はいっしょに楽しんでいて、「いつか○○城や○○合戦の跡地に行きたいね??」なんてよく話していました。
それがここ1年ほどで急に、戦国趣味にけちを付け始めたので戸惑っているんです。
男性がご覧になっていたらお聞きしたいのですが、彼のこの心理の変化の原因になにか心あたりってありますか? 歴史好きな女は気持ち悪いと突然思い始めたのでしょうか?理由がわかれば彼の気持ちも汲み取って対処していきたいんですが…。
ちなみに私の部屋には確かに戦国グッズが飾ってありますが、年に2回ほどしか部屋に彼は来ません。なので「部屋がオタクぽくて居心地が悪いから」というのは違うかな?と思っています。タペストリーなどもコピー用紙ぐらいの小さいものですし、あまり目立つものは置いていません。
また、過去わたしから戦国話を彼に振ったことは一度もありません。やはり当初は彼のほうがずっと詳しかったので、素人が知ったかぶりで話をしてはいけないと思ったからです。彼の知識においつおうと勉強していたくらいです。彼が戦国趣味を嫌がりだしてからも、もちろん自分から話題にはしていません。普段は家族や友達やドラマのことなどごくふつうの会話をしています。
彼の人となりは、私の戦国趣味を異常に嫌い始めた(というか武将に嫉妬しはじめた?)以外はとてもまともな人で、価値観や家族観もぴったりのベストパートナーです。彼は今でもそう言ってくれますし、私自身に嫌気しているというわけではなさそうです。
最近では「○○(武将)なんて400年前に死んでるだろ!」なんて言って来ます。400年前に死んでる男に嫉妬する彼氏の気持ちがよく分かりません…。
君主に最期まで忠義を尽くしただけでも「すごい!」なんですが、何より関ヶ原で齢六十にして奮戦して死後後々まで恐れられたなんてエピソードを聞くとメロメロになってしまいます。往年の銀幕俳優のようなお顔立ちを想像しつつ小説を読むと、とっても幸せな気分になれるんです。
かっこいいですよね島左近。史実の左近ももちろん素敵なんですが、某ゲームのナイスミドルな左近を見ると、今すぐ三成になって一緒に壮大な夢をいっしょに語り合いたくなってしまいます。
彼氏は狭量だよなあ。