はてなキーワード: ノーベル文学賞とは
「いや、ノーベル文学賞かい?それはまた別の話だな」と僕は言った。窓の外には静かな夜が広がっていた。月の光が街を照らし、星々が天空に輝いている。しかし、僕の書斎の中には静寂が広がっていた。
「僕の作品は言葉と物語が交錯する場所、それが僕の世界だ。ノーベル賞は素晴らしい栄誉だが、それに固執することはない。文学は魂と魅力の交流だ。それだけで十分だ」と僕は続けた。
そして、本の山に囲まれた書斎で、僕は新たな物語を紡ぐことに集中した。ノーベル賞は夢ではあるが、夢に振り回されることなく、筆を進めるのだ。それが僕の道だ。
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俺はブルアカが好きだ。
ホシノとヒフミが好きだ。
だがその大部分は性欲由来の愛情であり、このゲームに対して感じる面白さも多くが性欲から生まれている。
もしも俺が女で、美少女に性欲を感じなかったら、こんなゲームは一週間も持たずにアンインストールしていただろう。
嫌悪感を催すというわけではない。
イケメン要素やBLに頼り切った作品からは面白さを感じることが全然ないというだけだ。
たとえば『絶対BLになる世界 VS 絶対BLになりたくない男』という作品があるが、これはBLを扱ってはいるけどBLを楽しめなくても笑えるので面白く味わえた。
俺は美少女に性欲を刺激され、そこから派生して興味を持ち、それによって美少女作品を楽しむことが出来る。
だがイケメンコンテンツではそれが起きず、作品が本来持つ面白さそのもので勝負してもらうしかないが、多くのイケメンコンテンツは性欲刺激に頼り切っているので全然刺さらずに終わる。
ダイナミックコードのようなイケメン以外の要素で圧倒的に面白い作品は楽しめるし、五条悟のバトルは顔の良さについてなんの感情も抱かなくても能力者バトルとして単純に格好いいので大好きだ。
次に来るマンガ大賞2023の結果が出た。
コミックス1位の「生徒会にも穴はある!(以下:生穴る)」は明らかに性欲由来の面白さによって成り立つ作品だ。
男の娘が乳首券をハックしているネタを見せられても性欲に全く刺さらなかったら何も面白くないだろう。
WEBマンガ6位の『拷問バイトくんの日常』はイケメン系の性欲由来作品だ。
表紙を飾るイケメンの姿が「この作品はイケメンに性欲由来の面白さを感じられる人だけに向けて作られています」と語っている。
実際読んでみると全く面白くないのだが、もしも生穴ると全部のキャラが入れ替わっていたら俺はこれを楽しめていた気がする。
実際そうなれば、こまろが毎週拷問にあってくれるわけだし最高の漫画が誕生しちまってノーベル文学賞だと俺の頭の中でチェ◯ソー◯ンがブンブン叫んでいるぐらいだ。
別に俺は「性欲由来の面白さは絶対悪であり、コンテンツ業界を腐らせるアヘンだ」と主張する気はない。
性欲由来の面白さだろうと面白さにはかわりはないわけだし、別にそれで楽しめる人がいるなら何も文句はない。
だが、それに頼った作品はそれに頼っているという自覚を持つべきだし、受け手もその認識を共有すべきだ。
「次に来るマンガ大賞の1位なんだから女であっても生穴るの良さを分かるべきだ」と考えるような奴が時々出てくる。
まあ流石に生穴るは行く所まで行ってるので割りと大丈夫なんだが、もうちょっと成分が弱くなってくるとそういった考えの持ち主が出てくるわけだ。
実際「ブルアカは性欲由来の面白さ?そんなことはまったくないと思うぞ?」みたいに思う人間もいるんじゃないのか?
ゲームシステムも悪いってほどじゃないし、ストーリーも王道と邪道をちゃんと使い分けていてソシャゲにしては頑張ってる。
でも、ブルアカを続けている人間の9割以上が多かれ少なかれ性欲由来の面白さを見出していると思うんだが、自分の感じる面白さの性欲由来度を正確に知るのは難しいんだ。
俺も時折「もしかして性欲抜きにしてもブルアカは超面白いのでは?」と勘違いしそうになる。
だが生穴るの1位受賞を見て目が覚めた。
目が覚めているうちに思いついた範囲で考えをまとめたかったのでこれを書いている。
いまいち深く掘りきれない感じがあるのだが、掘り終えるのを待っている間に再洗脳されてしまうと意味がないのでとりあえず書きなぐった。
この度、岩波文庫からアリエル・ドルフマン(昔は、英語風にドーフマン表記だった)の戯曲作品『死と乙女』が刊行された。90年代に一度、英語版から日本語に翻訳されたものが劇書房から刊行されたが、その後は長く絶版品切状態だった作品である。
「過去に読んだが岩波文庫から復刊したことは知らなかった」という人は、書店に急いで欲しい。
読んだことの無い人も、やはり書店に急いで欲しい。
もしかしたら、作品を読んだことは無くても、朴璐美や真木よう子などが主演した舞台を、日本国内で観たという人もいるかも知れない。または、ポランスキーによる映画作品を観た人もいるかもしれない。
ちなみに、これを書いている増田は、ど田舎生活の低所得者なので、演劇文化とは縁が無いことから、舞台を観たことはない。
今回の岩波文庫版は、著者の母語であるスペイン語で書かれたバージョンからの翻訳となる。翻訳者による詳細な解説があるので、作品執筆の背景となった70〜90年代のチリ内外の政治事情を知ることも出来ることから、一読者として有り難い。
これを目にしている貴方が、書店に赴いて『死と乙女』を入手して読んでくれるならば、もう以下の駄文を読む必要は無い。
この増田が読むことを勧めている『死と乙女』とは、どのような作品なのか、読んだことは無いが少しだけ興味が有るという人に向けて、以下を記す。
ただし『死と乙女』の結末に触れる部分があるので、未読で結末は自分で知りたいという人は、ここで一旦、この駄文を読むのをストップしてもらいたい。
また、直接的ではないものの、性暴力に言及する箇所もあるので、精神的な苦痛を喚び起こされる虞がある人は、ここで読むことを止めてもらいたい。
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1970年、南米チリで、サルバドール・アジェンデを大統領とする政権が誕生した。俗に、史上初の民主主義選挙により誕生した社会主義政権とされる。
しかし、アジェンデ政権を皮切りに中南米地域で社会主義国がドミノ倒し的に増加することを怖れた米国ニクソン政権は、チリへの介入を決定する。かくして、米国の後ろ楯を得たピノチェトが起こした軍事クーデターによって、チリは独裁国家となる。
この独裁政権時代のチリでは、多くのチリ国民が政治犯として弾圧され、不当な身柄拘束、拷問、虐殺の対象となっている。
チリ国外に亡命した人間もいる(亡命はしたもののチリ国外で暗殺されたという人間もいる)。映画『イル・ポスティーノ』の主人公の詩人も、そのような逃亡者であったことを、記憶している人もいるかもしれない。或いはまた、ヨーロッパに亡命していたチリの映画監督ミゲル・リティンが、ピノチェト支配下のチリへ潜入して取材する姿を、コロンビア出身ノーベル文学賞受賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスがルポルタージュ『戒厳令下チリ潜入記』(邦訳は岩波新書)として著したので、それを読んだ人もいるかもしれない。
本作『死と乙女』の著者アリエル・ドルフマンも、チリ国外に亡命した人間の一人である。
そして『死と乙女』の主人公パウリナ・サラスもまた、ピノチェト政権下で筆舌に尽くし難い苦痛を味わい、生還したチリ国民の一人である。
パウリナの夫ヘラルド・エスコバルは、ピノチェト政権下で、弾圧されている人々をチリ国外に亡命させる手助けをしていた。そのためにヘラルドは、ピノチェト政権当局から弾圧の対象とされた。
しかし、ヘラルドが当局の手を脱して逃亡したので、彼の居場所を吐かせるために秘密警察は、彼の妻であるパウリナの身柄を拘束し、彼女を拷問した。その時、拷問者は、目隠しされたパウリナをレイプしながら、シューベルト作品『死と乙女』をBGMに流したのである。
時が流れて90年代に入ると、チリは民主主義国家へと移行する。ヘラルドが逃亡する必要も、パウリナが夫の隠れ場所を吐かずに耐える必要も無くなり、二人は夫婦として、堂々と暮らせるようになった。しかし、パウリナの心には、拷問による拭いきれない大きな傷が残り、それが二人の暮らしに暗い影を落とし続けていた。
民主主義政権となったチリ政府は、ピノチェト独裁時代に行われた弾圧について、調査究明を行なうと国民に約束し、そのための調査委員会を任命する。今やパウリナの夫ヘラルドは、その調査委員会のメンバーの一人である。これが、物語の開始の時点で、主人公の置かれた状況である。
物語の冒頭、或る晩、ヘラルドは、パウリナの待つ自宅へと自動車で帰る途中、タイヤのパンクにより立往生していたところを、通りがかった医師ロベルト・ミランダに助けられる。ロベルト・ミランダの車で自宅に送り届けられたヘラルドは、夜も遅いし助けてくれたお礼にと言って、ロベルトに自宅へ泊まっていくことを勧める。
結局ロベルト・ミランダはヘラルドの申し出に甘えることにし、ヘラルドが寝室に居るパウリナに声を掛けて、彼女にも客人を泊まらせることを了承させる。
翌朝。
ロベルト・ミランダは、椅子に縛られている。パウリナが、彼にリボルバー拳銃を突き付けている。
それを見て驚く夫ヘラルドと、狼狽する医師ロベルト・ミランダに対して、主人公パウリナは告げる。
「昨夜、この男の声を聴いて気づいた。この男、ロベルト・ミランダこそが『死と乙女』をBGMとして流しながら、あたしを拷問し、レイプした人間だ」と。
ロベルト・ミランダに拳銃を突き付けて「洗い浚い罪を吐かせる」と主張する主人公パウリナに対して、夫ヘラルドは思い止まるように説得する。
チリがピノチェト独裁体制を脱して民主主義国家となったとはいえ、いまだピノチェトを支持するチリ国民も決して少ないとは言えない(現実世界の2023年現在でも、ピノチェト支持者が残っているのだから、民主政権に移行したばかりの90年代前半を時代設定としている物語の中では、尚更である)。独裁政権時代の弾圧活動に関与した人間たちの全てを、罪に問うて処罰しようとしたならば、親ピノチェト派の有権者からの反発を招き、まだ体制も盤石とは言い難い民主主義政権が倒れることになりかねない。最悪の場合、内戦が勃発して、更に血で血を洗う国民同士の殺し合いともなりかねない。
そのため、現実世界のチリで行われた調査も、調査対象事件を「被害者が殺害されたという重大なケース」に限定し、尚且つ、真実を綿密に明らかにした調査報告書を作成する代わりに、弾圧関与者の氏名公表や厳しい処罰を免除するという、謂わば折衷案の形をとらざるを得なかった。
処罰を免除するという条件を餌にした、一種の司法取引によって、ピノチェト独裁政権時代の弾圧に関与した人間に、己の罪を自発的に告白するように促したとも言える。
しかし、もしも調査委員の一人であるヘラルドの妻パウリナが、ロベルト・ミランダを殺害してしまったとしたら、いや、殺害せずとも、拳銃を突き付けてロベルト・ミランダに自白を強要したことが世間に知られたならば。
民主化した政権も、真相究明も、全てが水泡に帰すことになりかねない。
パウリナは、ロベルト・ミランダの命までは取らないことを条件にして、今ここにいるパウリナ、ヘラルド、ロベルト・ミランダの三人で"裁判"を行なうことを強引に承諾させる。かくして、現実のチリで行われた真相究明の動きを追体験するような、緊迫の一夜が、舞台上で演じられることとなる。
以下では、物語の結末に触れているので、未読の人は一旦ここで増田の駄文を読むのを切り上げて、まず『死と乙女』を読んでもらいたい。
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ロベルト・ミランダに罪を告白させること(供述をテープレコーダーに録音した上で、ロベルト自身の手で文字起こしの原稿を書かせ、さらに「自発的に真実を語った」と宣誓する署名までさせること)が出来たミランダは、ロベルトを監禁する前に家から離れた場所へ移動させておいた彼の車を、返すために取りに行くようにと夫ヘラルドに頼む。
そして夫ヘラルドが家を出て二人きりになると、パウリナはロベルト・ミランダに銃口を向け直す。
「真実を告白すれば命を助けると言ったのに、約束が違う!」と抗議するロベルト・ミランダに、銃口を向けるパウリナ。
パウリナは、ロベルト・ミランダの語りを聞いて、心の底からの反省や悔悛が彼には見られないと判断したのだ。
ここで演出として、舞台には幕が降り始め、パウリナとロベルト・ミランダの姿を隠すとともに、その幕は鏡となっており、演劇『死と乙女』を観ている観客たち自身を映し出す手筈になっている。
再び幕が上がると、物語のラスト場面であり、パウリナとヘラルドは、二人で連れ立って、音楽演奏会に出掛けている。演奏の休憩時間では、他の観客と、調査委員会による調査の成果について、夫ヘラルドは語り合っている。
休憩が終わり、演奏が再開される。
すると、その演奏会の会場にロベルト・ミランダが入って来て、主人公夫婦から離れた、ずっと後方の客席に彼は座る。
夫ヘラルドは気づいていないが、パウリナはロベルト・ミランダの存在に気づいて、しばし後ろを振り返り、ロベルト・ミランダを見る。ロベルト・ミランダは、何も言葉を発すること無く、ただ、主人公パウリナに視線を向け続ける。やがてパウリナも、ロベルト・ミランダからは視線を外し、前方(演奏会の舞台があると設定されている方向)を向いて、物語は終わる。
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この増田は、殺したと考えている。(続く)
ノーベル賞って受賞者は発表されるけどノミネートされていたかどうかは50年後まで発表されない。
つまり毎年毎年村上春樹が今年は獲るか獲るかと言われてるけど、
そもそも村上春樹がノミネートされているのかどうかすらわからない状態で騒いでいる。
なので実際村上春樹どうだったんだよ、というのを見届けたい。
ただ1968年に川端康成がノーベル文学賞を受賞したんだけど、
公開された資料では1961年から8年連続ノミネートからの受賞だった。
ちなみに西脇順三郎は1958年に初登場して1960年から9年連続ノミネートするも受賞せず。
三島由紀夫はノミネート5回、谷崎潤一郎はノミネート7回するも受賞はなかった。
なかなかの激戦である。
増田は老いていた。小さなスマホではてな匿名ダイアリーにアクセスし、独りで日記を書いていた。
1ブクマも付かない日が、既に八四日も続いていた。最初の四〇日は少年と一緒に日記を書いていた。しかし、ブクマの無いままに四〇日が過ぎると、少年に両親が告げた。あの老人はもう完全に「弱者男性」なんだよ、と。弱者男性とは、すっかり世間に見放されたということだ。
少年は両親の言いつけ通りに自分のアカウントでログインし、一週間で三回もホッテントリ入りした。増田が毎日ブクマ0で帰ってくるのを見るたびに、少年の心は痛んだ。彼はいつも増田を迎えに行って、増田の日記をトラバしたり、ブクマしたり、はてなスターをつけたり、Twitterで拡散するのだった。増田がはてな記法で書いたつもりの日記は、記号が文字化けしていて、永遠の敗北を示す旗印のように見えた。
増田は細くやつれ、首筋には深い皺が刻まれていた。増田に関しては何もかもが古かった。ただ、その両眼を除いては。彼の眼は、パープルスターと同じ色に輝き、喜びと不屈の光をたたえていた。
「増田じいさん」少年は増田に呼びかけた。「また一緒のアカウントで日記を書きたいな。はてなスターも多少貯まったし」
増田は少年に匿名日記の書き方を教えてきた。少年は彼を慕っていた。
「だめだ」増田は言った。「お前のアカウントは運がついてる。アカウントを変えないほうがいい」
「でも僕らは前に、八七日もブクマ0だった後で、三週間毎日ホッテントリ入りしたことがあったじゃないか」
「あったな」増田は言った。「分かってるさ。お前が自分のアカウントに変えたのは、俺の腕を疑ったからじゃない」
「親父だよ、アカウントを変えさせたのは。僕は子供だから、従うしかないんだ」
「分かってる」増田は言った。「当然のことだ」
「親父には、信じるってことができないんだよ」
「そうだな」増田は言った。「でも俺たちにはできる。そうだろ?」
「うん」少年は言った。「はてなブックマークで話題の少年ジャンププラス掲載『ハイパーインフレーション』を一緒に読もう。日記はその後で書こう」
「いいとも」老人は応じた。「はてな仲間として、一緒に読もう」
二人ははてなブックマークで腰をおろした。多くのブクマカが増田をからかったが、彼は怒らなかった。年配のブクマカたちの中には、彼を見て悲しむ者もいた。しかし彼らはそれを表には出さず、自民党はダメだとか、フェミとか、表現の自由戦士とか、おっぱいが揺れたかどうかとか、そういうことを穏やかに話すのだった。
(その後の話)
その後増田は誠心誠意を込めて日記を書き、バズりまくって2000ブクマまで行った。だが、過激な内容だったため垢BANされてしまい、日記も消えてしまった。うなだれて帰ってきたところを少年が励ます。「これからは二人一緒で日記を書こうね。ぼく、いろんなもの教わりたいんだもの。」そう、老人はアカウントを失ったが、素晴らしい友人を得たのである。そして3ヶ月後、この経験を描いた日記「老人増田と海」がノーベル文学賞、いや増田文学に選ばれた。増田と少年は手を取り合って大いに喜んだとさ。
有力候補予想ってのはブックメーカー社が賭けを開催するために勝手に出してるだけのものだよ
ノーベル賞のスウェーデンアカデミーはノミネート人物を公表してない。
で、なんで村上春樹が受賞するかもって言うと、2006年に「海辺のカフカ」でカフカ賞を受賞したかららしい
というのも、カフカ賞の受賞者が2004、05年にノーベル賞も受賞したんだと
年によって有力候補扱いされたりされなかったりするのは、他にもっと受賞しそうな作家が現れるかどうかの問題。
で、村上春樹は実際世界中で大人気なんだけど、ノーベル文学賞は人気投票じゃないから果たして選考基準に合致するかどうかは何とも言えない。
ノーベル賞の理念上、社会的な意義がある程度重視されてて、村上春樹も社会派作品書いてるけど評価されてるポイントはそこじゃない気がするし。
たしか、三年ほど前に最有力候補といわれながら受賞せずにここまできている。
それまでにも度々、受賞するのでは?と予想されて
英国のブックメーカーなんかでオッズが一番低かったりしてたと思う。
それはまあいいんだけど、
どうしてある年には有力候補になって、
ある年には対象外でしょ、
って雰囲気になるんだろ?
まあいずれは受賞することになるのだとは思う。
いや、サラッと読んだでしょ?
日本でいちばん有名な文学者であると日本人に認知されているにも関わらず、
このことはわりと重要。
さらにネット民に至っては課長島耕作と同じジャンルに位置する小説だとか本気で思われてたりして、
そこはとても愉快で面白いんだけどね。
子供を持ってしまったらキャリアが台無しになると言う作家にときどき出会いますが、それはとんでもない間違いだと思います。ただ座って一定の量の文章を生み出すことだけが、作家としてのキャリアだと考えているなら別ですけど。
こういうのもよくある言い方だけど、完全に生存バイアスだと思うんだよなあ。子供とキャリアの天秤で悩む人は「子供を持ってしまったら作家の仕事を続けられるだけの最低限の結果を出せなくなる」というところで悩むわけじゃん。「作家としてのよりよいキャリア」とかいうレイヤーで悩んでるわけじゃないじゃん。
それをこのノーベル文学賞取るような超エリートが、子供を持とうと持つまいと作家の仕事自体を続けられなくなるなんていうことは絶対に有り得ない盤石のポジションから何か寝言言ってるわけじゃん。「パンが無ければお菓子をお食べ」でしかないと思うんだよな。