はてなキーワード: 焼け太りとは
あの頃、私は大阪の大学の研究室で、毎日ひぃひぃ言いながら研究に明け暮れる日々だった……とか書くと、何自慢してるんだ、とか言われそうなのだけど、なかなか良い結果が出ずにひぃひぃ言っていただけの話で、色々辛い思い出ばかりの時期だったのだ。
そんなときに来たのがあの地震だった。私は深夜に戻って寝ていた下宿であの地震に遭遇したのだが、幸いそこは大した被害はなかった(室内はぐちゃぐちゃになったけれど)。しかし大学は、あちこちで建物の窓が割れていたり、ある建物の最上階ではボヤになったり、実験に使っていた装置のアラインメントが狂っていたり……と、色々と問題が出て、その後も何か月もの間尾を引いた。友達の一人は、家の壁が抜けてしまい半壊認定、そして転居することになったのだが、もともとが貧乏人(馬鹿にしているのではなく、私も同様の貧乏人だった)だったので、見舞金で一種の焼け太りとでもいうような状態だった……いや、でもあの忙しい時期に引っ越すのはそれはそれで大変だったと思うけど。後輩のひとりは家が全壊し、しばらく研究室に住み着いていた。よく研究室のシンクで、湯沸器で行水していたっけ(後で考えるに、体育館にでも行けばシャワー位ありそうなものなのだが)。
そして……ここからがこの文章の本題である。あの日から一週間程過ぎた頃、隣の学科の教授が亡くなったという話が聞こえてきたのだ。その教授はある分野ではかなりのビッグネームで、私も概論のような授業でその教授の授業を受けたことがあったのだが、私の専門分野とは微妙にずれたものだったので、それ以上の関係というのはなかった。ただ、そのときの状況は、そんな位置にある私から見ても何やら奇妙なものであった。普通、教授が亡くなったら、それはそれなりに騒ぎになる。病気療養中のところ、とかいうならまだ準備ができているかもしれないが、聞いてみると、やはりあの震災で亡くなられたのだというのだ。だったら尚更、騒ぎになってもよさそうなものではないか。しかも一週間過ぎてから……どういうことなのだろうか。
友達に一人だけ、その学科の学生がいたので、学内で見かけたときに思い切って聞いてみたのだ。彼は言葉少なく、
「ちょっとな……」
「ちょっと、って、何よ」
「色々あるんや。言われへんこともあるんや」
言われへんこと……そのときは、ちょっと想像がつかなかった。まあ、周囲の目もある学内だから、話そうにも話せないことでもあるかもしれないんだが……でも、殺されたとかいうならまた別だけど、そういうわけでもなさそうだ。一体、何が問題なのだろうか。
共通の知人の家で遊ぶことがあったので、思い切ってもう一度聞いてみると、ようやく彼は事の経緯を教えてくれたのだった。
その教授は、最初行方不明という話になったのだった。確かに震災があったわけだが、その教授の家があったのは大阪である。大阪も、場所によっては確かに酷いことになっていたのだけど、その教授の家はそういうこともなかったらしい。しかし、教授と連絡が取れない。そうなって三日が過ぎたとき、思いもよらぬ報せがきた。神戸市内のある倒壊家屋で、その教授の遺体が発見されたというのである。
「……何故そんなことに」
「で?」
教授の遺体と共に、一人の女性の遺体も発見された。そして判明したのだが、この女性は教授の愛人だったのだ。つまり、この教授は神戸市内に妾宅があり、そこに滞在していたときにあの地震に遭遇、倒壊した家屋の中で亡くなったということらしい。
「……そんなことって」
「あるのか、って思うやろ? 俺もそう思ったけど、事実そういうことらしい」
恋人でなく愛人と書いたことからもお分かりかと思うが、教授には家庭があり、夫人がおられた。その夫人が、教授の遺体の引き取りを拒絶し、その後の説得に対してもなかなか翻意しなかったのだという。まあ、この夫人の心中を思えば、むべなるかなとも思うわけだ。三日間、消息を心配していたその矢先に、思いもかけぬ場所で思いもかけぬ経緯で命を失い、しかもそれが自分への裏切りとセットになって報されたというのだから。
こういう学界のビッグネームが亡くなったときには、その弟子や同じ分野の研究者達が「追悼論文集」をまとめ、出版するのが通例である。一年近くの後、この教授の追悼論文集が出版され、私の研究室にも回ってきた。教授をしのぶコメントに目を通してみたけれど、「不幸な事故に遭われ……」としか書かれていない。私もいくつかこの手の論文集を目にしたことがあるけれど、何々という病気で闘病され、とか、これこれの事故に遭われ、とか、少々リアルな話が書かれていることが多いものである。しかし、そりゃあ弟子も業界関係者も、今回ばかりは書きようがない。論文集を読むだけでは、何かその教授がすっと消えうせたかのようにしか思われない。そんな印象が今も強く残っている。
私はこのことから何を学んだか。いかに天災であったとしても、この教授は、自分が死んでしまえば後のことは知らない……などとはとても言えない程に、残された人を深く、多く傷付けることになってしまったわけだ。家族だけでなく、自分の育てた弟子と言ってよい研究者達も、師匠を突然失った喪失感を抱えつつ、その師匠のこんなことをどう扱ったらいいものか、と困惑し、悩みながら後始末をするはめになったわけだ。どれ程高潔に、後々の準備をして死んでいく人であったとしても、そういうものを完全に残さずに逝くことはできないだろうけど、やはりあれはまずかった。自分がある日この世から消えて、その後に残される近しい人達のためにも、誠実に生きていかなければならない。いや、それ以前に、自分がそういうことに対して誠実になりたいと思えるような、そんな生き方をしなければならないんじゃないか。そう思ったのである。
10月15日放送の「おはよう日本」で"誤解を招く表現"があったからか、26日の「おはよう日本」で1分ほど長い尺で同じニュースを扱っていた。
僧侶パワーすごい。
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京都の西本願寺の僧侶らが、檀家が減少する中で新たな収入源を得ようと、中国地方で電力の小売り事業に参入することになりました。
参入するのは教徒の西本願寺の僧侶らが新たに作った会社、TERAEnergyで中国地方の5つの県で、来年4月から家庭向けに電気を販売する計画です。
中国地方には全国的にも多い3000余りの西本願寺派の寺があり、この会社では、競合する中国電力よりも料金を2%程度安くしたうえで、檀家のネットワークを活用しながら、まずは4000戸の契約を目標にします。
販売する電気は、太陽光やバイオマスなどの発電事業を手がける福岡県みやま市の会社から供給を受けますが、僧侶らは、事業が軌道に乗れば、みずから発電事業に参入することも検討するということです。
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7:29 - 7:31ごろ
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寺の僧侶たちが会社を作り、寺のネットワークを使って、太陽光などで発電された電力を販売していくことになりました。
ねらいは地球温暖化の防止と、過疎化などで厳しさが増す寺の運営の支援だとしています。
この会社は、京都市下京区に本社があるテラ・エナジーで、竹本了悟さんら有志の僧侶らが設立しました。
会社では、太陽光などで発電された電力を調達し、来年4月から中国地方と四国地方で、主に家庭向けに電力の小売り事業を始めるとしています。
初年度は、寺のネットワークを使って、およそ5000戸の顧客の獲得を目指していて、収益の一部は手数料として、協力してくれた寺に還元し、建物の維持費や地域貢献の活動費用などに充ててもらう計画です。
社長の竹本さんは、僧侶として、自殺防止の活動などに取り組んできましたが、今回、新たに電力の小売りに乗り出すのは、地球温暖化防止を目指すとともに、過疎化などで厳しさが増す寺の運営を支援するねらいがあるとしています。
このニュースを今月15日にお伝えした際、西本願寺が電力の販売に乗り出すような誤解を招く表現がありました。正確には、今お伝えしたとおり、僧侶たち有志が新たに設立した会社の事業であり、西本願寺は事業には関わっていません。失礼しました。
あ? 私小説? どうせ、実生活で体験の幅が狭い作家が、どうでもいい身辺雑記を延々と書いた文学のことだろ? くっだらねぇ。
というふうに自分は思っていた。
で、私小説をいくつか読んでみた。
食わず嫌いの先入見は、まちがいだった。
なにが面白いか。
私小説は、主人公が馬鹿で、下衆で、これでもか、これでもかというほどに生活がどんどん下降していくさまが、ある種爽快なほど露悪的に書いてあること、
そしてこれが事実であるかもしれないという期待を読者に抱かせながら、虚実入り混ぜて物語が展開されること、
ではないかと思う。
主人公が失業して貧困に陥ったり、男女関係で泥沼にはまったり、酔っ払って人に迷惑をかけ、誰からも相手にされなくなっていくごとに、読んでいる側としては、変なカタルシスを感じてしまうというか。
で、ネット上で有名になって、お金も欲しいという人は、もっと私小説的な文章を発表してけばいいと思う。
ネット上で炎上してきた(している)話題は、当事者を主人公にして、私小説仕立てにしてみると、もっと面白くなりそうなものばかりだ。
ネット上の有名人が、ネット以外でブレイクすることを妨げているのは、彼ら(彼女ら)が、小賢しいことだ。
小賢しいとは、自分の失敗や品性の低さを指摘されると、取り繕ったり、反論したりして、自分を分相応以上に賢く見せようとするということだ。
こうすることにより、彼ら(彼女ら)は、いっそう小者に見えてしまう。
コンテンツとして自分の価値を最大化したければ、大正、昭和の私小説作家のように、あるいは現代の西村賢太のように、卑小さを卑小さのままに、破綻を破綻のままに描き出し、そのことから生じる業を生きるほうが、じつは戦略としては賢いかもしれないのだ。
サッパリ自著は売れないながらも、昨年の彼の税務署への申告額は、小説関連の収入と、作家の肩書あっての各種アルバイトで、それでもx千x百万円になっていた。汚ねえ身なりをしているからと云って、そう容易く浮浪者を見る目で眺めて欲しくはないのである
これをフィクションと受け取るかどうかは、読者次第だろう。
炎上芸人は炎上芸人のままで終わる必要はない。もっとコンテンツとしてのポテンシャルがある。金銭的に報われる可能性がある。自分の人生をコンテンツとし続けることの業を生き続けるだけの覚悟があれば。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000984/card3212.html
「近所の借金がうるさくて仕様が無いので、どこかに行つて書いて来るつもりだ。……大洗の方へでも行かうと思ふ」と言い残して主人公は東京を出て茨城に行き、知人のつてを頼って旅館に逗留するが、そもそも宿代を持ってきていない。知人が何とか融通してくれるだろうと最初から当て込みながら、居座る。
知人は当然のことながら激昂し、旅館からは宿代をつけにしたまま追い出される。
有り金がないまま次々と宿を変えながら茨城をさまよう話なのだが、最初はちゃんとした旅館だったのに、しだいに宿のグレードが下がっていって、最後はドヤ街の宿のような木賃宿で弟の送金を待ちながら、身につけたものをどんどん質に入れて裸になっていくところが笑える。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000249/card49655.html
馬鹿で不細工で貧乏であることに強い劣等感を持っている主人公の中学時代を描いた作品。恥ずかしい過去を思い出して悶絶するときのシーンはとくに秀逸。
「あツ、あツ」と、私は奇妙な叫び声を発して下腹を抑へた。両手の十本の指を宙に拡げて机の前で暴れ騒いだ。
「何を気狂ひの真似をなさるんです。えイ、そんな気狂ひの真似する人わたし大嫌ひ」
私淑していた葛西善藏の気狂いっぷりを書いた『足相撲』もあわせて読みたい。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000249/card1337.html
ミハイル・バフチンがカーニバル文学と読んだドストエフスキーの作品のように、これ以上ないほど気まずく不謹慎な破綻の場面を職人的な巧みさで書ききるようになった著者の近年の作品はすべて必読。
女の腐ったようなフェミニストを見た。
http://www.huffingtonpost.jp/soraya-chemaly/notthenanny_b_15401556.html?utm_hp_ref=japan
事の始まりは件のBBCに自宅から生出演した朝鮮専門家の背後に子供たちが紛れ込み、これを回収すべく専門家の女房(韓国人であるという)が映り込んだハプニングである。
この映像を見て、このフェミニスト様は、まず“確率的に正しいから”人の女房を捕まえて『ベビーシッターのイエロー』(悪意のある大意。以下この記号はそれを指す)呼ばわりだ。おまけに姑息にも「私も最初は、この女性は奥さんかもと思った」「奥さんだったと確認したことをシェアした」。それで口をぬぐうつもりか。手前らが認定したサベツシュギシャがそれをやったら、いかなる非難を浴びせてきたのか。
次に延々と『あたしも同じ目にあったのよエーンエーン!』。だから「女性の尊厳、人間性、個々の感情や生活を無視」されているとお怒りで、途中で共和党をdisった挙句、「男であるという理由でメディアはこの父親を素晴らしいと取り上げているのはなぜなのか、時間をかけてよく考えて欲しい」「この偏見の問題が取り上げられ、頻繁に掘り下げて広く議論されていることを本当に嬉しく思う」だと。
「ぼくらはみんな生きている」という大前提が頭からすっぽ抜けてる人が多い。
弱者の権利を主張するノイジーマイノリティはひどいことをした。
マジョリティもマイノリティも生きているのだけど「マジョリティが生きている」ことへの配慮・譲歩がなさすぎた。あるいは事を急ぎすぎた。急にわけわからんことを言われてもわからない。
例えば、いままで分類を2しか持たなかった「性別」という事柄について、「じつは50以上あるんで25倍にしてください」とか、急に仕様変更を強要されても難しい。その結果がいまなわけ。けっきょく誰も幸せにしていない。マジョリティもマイノリティも不幸にしてしまった。
誰も得をしなかった。
ノイジーマイノリティによる権利の要求が目に余り、耐え切れずにサイレントマジョリティがキレたのがトランプ当選という結果を招き、対立と分断を生んだという側面で見るなら、ノイジーマイノリティとは違って、マジョリティとの共存を図ろうと今までやってきた、いわば「サイレントマイノリティ」にとっては、これは大迷惑な話。ノイジーマイノリティという存在は、サイレントマジョリティにとってもサイレントマイノリティにとっても、迷惑な存在なのか。例えば「小人プロレス」の問題からも、それが伺えるし、裏付けと言える。もちろん、ノイジーマイノリティがサイレントマイノリティに恩恵をもたらしている側面もゼロではないとは思うが、合計したらどうか。マイナスなのではないだろうか。答え合わせにはまだ早いだろうか。
賢明かつ冷静なマジョリティ諸兄らは、どうか、ノイジーマイノリティと、サイレントマイノリティを同一視しないでほしい。区別して頂けると幸いである。マジョリティは「気持ちはわかるがお前の態度が気に食わない」という感じなのではないだろうか。「人権屋」などと揶揄されるメンタリティから推測するに。
「ぼくらはみんな生きている」を歌えない人は、政治に口を出してはいけないのではないだろうか?
さもなくば、また同じ事を繰り返す。
ノイジーマイノリティは、性懲りもなく未だオレオレ大合唱している。
マジョリティ側の人間にだって、本当は俺だって弱かったり辛いのをのガマンしてる、救われて然るべきなのに救われない、社会福祉の手が差し伸べられるかどうかギリギリのラインで除外された人間がたくさんいて、辛い思いをしている。「障害者なんて焼け太りだろ?」と思われても仕方がない。そういったギリギリアウトの人も、なんらかの形で救われて然るべきだろう。
立場を問わず、死んでいった人たちを無駄にしないためにどうしたらいいのだろうか。
なるべく死なないように、みんなそれなりに満足に生きていくには。
最大公約数はどこにあるのだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20160626213749
規制推進派がするべき事は、架空の規制反対ロリコンおじさんを仕立て上げて叩く事じゃなく
「児童の人権は擁護しなければいけないけど今回の規制には反対」な規制反対穏健派と話し合って
落とし所を見つけていく事なんじゃないのか?
推進派がそういう人達ばかりなら苦労はしない。
特にエロ漫画やアニメ規制に燃えてる連中は、それらと犯罪の相関関係を示す必要など一切無いと本気で思ってるし、ロリコン野郎を社会から駆除するためなら冤罪で無実の人間がちょっとくらい刑務所にぶち込まれたり、それが警察機構の利権と焼け太りに繋がったりしても仕方が無いと考えてたりするし。
共和党の躍進であり、下院は事前の予想通り多数をとった。上院で過半数を取るのは難しいとされていて、これも、予想通り、過半数に届かなかった。
上院と下院で多数派が違う、いわゆる捻れ国会であるが、アメリカの場合、党議拘束が基本的に無いので、案件ごとの切り崩しが効く。切り崩しの為に、法案に付帯法案をくっつけるという事が行われ、本来数ページの法案が、議会を通過させたら法案とは無関係な付帯法案が数十ページくっついてきたという事態が発生する。
大統領発案の法案だと、基本的に大統領のサインは既に終わっていることから、ここぞとばかりに付帯法案をくっつけることになる。本来の法案を通したければ、付帯法案にもサインをしろと迫るわけである。
中間選挙で負けたのは、国民の理解を得るための説明が不十分だったからという敗戦の弁がでているが、詳しく説明すると不都合があるという勢力のロビイングに、振り回されたという事であろう。
上下両院とも民主党が多数派を占めている時には、対立政党の議員の切り崩しは必要無いが、味方の筈の自党の議員の造反を押さえ込む為に、付帯法案を飲まなければならなくなる。敵対政党から票を一本釣りをする為に飲み込む付帯法案は、ささやかなモノになるし、場合によっては提案者の名前がそのまま法案名になったりするので、あまり酷い法案は出てこない。しかし、身内から出てくる付帯法案は、恥知らずな法案が多くなるのである。
国民に向けて説明する事を望まない法案ばかりとなれば、説明不足のまま強行採決を繰り返せという話になっていく。
オバマの国民皆保険制度のような、民間保険会社を存続させて、その損失補填を税金でやるという骨抜きの上に大穴の開いた制度にするには、国民に詳しく説明されては困るのである。改革に乗じて焼け太りをするには、知らしむべからず依らしむべしで話を進め、詳しい事は法案が成立してから明らかにし手遅れにするというのが伝統的な手法である。
理念は立派であっても、それを実現する過程で、その理念を利用されてしまうのは、改革に付き物のリスクであり、上からの改革がうまくいかない主たる原因でもある。変化を起こしたければ、実業の世界で起こし、既存の制度やルールを時代遅れにすることで実現するのが、遠回りなように見えるが、実は、一番早くて確実な手法なのである。
細かい法や規制や規則でがんじがらめにしてそれでうまくいくのはその瞬間だけである。
時間が経って環境が変われば、法や規則や規制は邪魔にしかならないし、それらを改廃するにもそれらの制度にしがみついている人々を切り捨てる部分でマスコミと結託し大騒ぎするので身動きが取れなくなる。
法や規則や規制は、時代や環境の変化に対して中立な事だけに限らなければ、煮魚をつつきまわした挙句煮崩れさせてしまい全部を無駄にしてしまうような愚行になってしまうのである。
麻生政権が打ち出した過去最大規模の景気対策に対し、民間エコノミストがその効果を小さく見ているとして、政府内には不満の声がある。皮肉なこと に、海外からそれへの答えが 提示された。まず、日本の15兆円余りの財政負担を盛り込んだ景気対策に対して、米国経済紙は「自殺行為」と評した。IMFも、次のよ うなシニカルな見方をしている。
まず、政府債務の大きな国、例えばGDP比で60%にも達する欧州では、財政からの景気対策に、期待を寄せてはいけない。将来の負担を考えれば、消費者が支出を抑えるから、という。その論でいけば、政府債務がGDPの160%を超える日本では、更に財政効果を期待してはいけないことにな る。実際、TVで給付金の使 い道を問われた主婦は「どうせ消費税引き上げとセットなら、それに備えてためておく」と答えていた。
さらに、経済危機時に支出した財政コストに対して、スウェーデンはその後5年で9割を回収したが、日本では1割も回収できなかったという。経済状況が異なったにしても、国 民に借金した後、5年でほぼ 返済できたスウェーデンに対し、借りっぱなしで返済できない日本を揶揄(やゆ)している。
財政資金といっても、首相のポケットマネーではなく、結局国民の税金を借金の形で使っている。その意識が無いまま借金を重ねてゆく日本は、いわば「禁治産国」だ。内外の投資家から信頼を失うと、日本の国債に買い手がいなくなり、長期金 利が上昇。景気浮揚どころか 資産価格の下落、生活水準の低下を招く。赤字企業であれば当然のリストラもせず、逆に危機に乗じて焼け太りする政府には、厳しい チェックが必要だ。(千)
http://www.asahi.com/business/topics/column/TKY200905120416.html
公共事業の受注を希望する企業に、議員事務所側から出された金額を記入した政治献金の請求書が証拠として押さえられているという事で、その請求書を出したとされる公設秘書が逮捕されている。議員自身を逮捕した方が早かったのだが、議員には、議会の開催中は不逮捕特権があり、現行犯以外では逮捕ができない為に、秘書の身柄を押さえたのであろう。
日本の民主党は野党であり、いかに党首といえども、公共事業に対して影響力は無いという説明は、表向きの説明である。公共事業といっても、国家事業として行われる物は高速道路や新幹線といった、複数の地域が絡む建設物だけであり、それ以外の、地域だけで完結する事業は、すべて、実務は地方自治体が行っている。
この地方自治体の首長や議会が、事実上、公共事業をどの企業に発注するかを握っている。
衆議院の選挙も、首長や地方議会の選挙も、名目は違うが、同じ有権者を相手にして選挙が行われる。そして、選挙期間は、基本的に違う時期に行われる。つまり、衆議院の選挙の時には、首長や地方議会の議員が"自発的に"衆議院議員の票固めの為に動き、首長や地方議会の議員の選挙の時には、衆議院議員の事務所が"自発的に"票固めに動くのである。
選挙期間中の候補者や事務所には、選挙違反を内偵する捜査官が張り付いているが、選挙とは関係の無い議員の事務所や電話回線は、内偵されていないから、現金のばら撒きや恫喝、公共事業のばら撒きの約束など、やり放題なのである。
国会議員は、与野党どちらに居ても、地盤の首長や議会さえ押さえ込んでいれば、公共事業を請け負いたい土建屋から、賄賂を取り放題である。与党に居れば大臣になれるという余禄があるし、やり方によっては首相にすらなれる。しかし、それもこれも、地盤が磐石、すなわち、首長も議会も自分の息のかかった者で埋めつくしてあってこそである。
衆議院議員において、一年生議員にとって一番重要なことは二年生議員になる事だと言われているが、これは、一年生議員の間に来る地方選挙で、地盤の首長や地方議会に自分の息のかかった者を大量に送り込んで地盤を固めろという事であり、これができない人は、二年生議員になっても、三年生議員になっても、選挙が不安定という事で、公職につけないのである。
地方の財政が赤字なのに、地方議会や首長や各種委員等のポストや報酬が削られないのは、それらの人員は、すべて、衆議院選挙の時に選挙違反にならずに動かせる私兵だからである。そして、衆議院議員のポケットにたっぷりと流れ込んだお金は、地方議会や首長の選挙の時に、有権者にばら撒かれる実弾であり、各種委員等のポストは、票が足りなくて落選してしまった候補者や、汚職の情報を知り尽くした秘書や票のとりまとめをしている人の口を噤ませる為に必要なのである。各種委員等のポストを勤め上げた人に勲章を出すというところまで、システムが出来上がっている。
この構造は日本の宿痾である。公共事業のばら撒きに依存した地方の経済が改まらない理由の一つともなっている。GDP比で2%のばら撒きをやるとか言っている者がいるようだが、どこに財源があるというのであろうか。財政赤字に対する危機感が無いのでは、財政を司る者としていかがなものか。
多選規制の導入は、この問題の解決方法の一つであるし、地方選と衆議院選とを同時に行うようにするというのも、解決方法の一つとなりえる。プライマリーバランスの実現のような財政政策によって公共事業予算を大幅に削減するのは、この問題に揺さぶりを入れる方法の一つである。
個人献金を10万円まで税額控除にしようという話を出している者がいるようであるが、企業献金が従業員の献金に代わるだけで、上限規制のせいで分散して納付した下請け企業のリストが、従業員のリストに代わるだけでしかない。しかも、税額控除方式だと、税収として国庫に入る筈のお金が直接政治献金になるわけで、典型的な焼け太り狙いである。税収よりも自分のポケットに入るお金の方が大切というのは、国政に関わる者としていかがなものだろうか。