はてなキーワード: 筋道とは
ものごころついて83歳超え。
なにをされたのか(近所の人が殺されたとか敗戦宣言がもっと早ければとか)悲惨さの体感できてる人で90歳くらい。
でそもそもスマホやコンピューターに意見いわないし首相なんてみんな年下の赤ちゃんだよ。
そりゃG7どうでもいい、原爆のほうが自分たちの世代のリアタイなんだと主張していかなきゃと思うだろうな
そういうマイナー勢からもちゃんとインタビューをとるのが報道なわけよ
いちいちリベラルが~とかじゃなくてもっと中立な目で社会を見られれば増田ももうちょっと賢くなれるんじゃないの
こいつ当時赤ちゃんでバブーだけいってた老人でもリベラル扱いしようとしてるんだろ
○ご飯
朝:なし。昼:ナポリタン。夜:ネギと人参と玉ねぎとカニカマと餅の鍋焼きうどん。梅干し。
○調子
○ 一緒に行きましょう逝きましょう生きましょう
ウォーターフェニックス開発で販売はケムコからになる、短編ノベルゲーム。
プレイ時間的には2〜3時間程度と短いが壮大なストーリーが楽しめる面白い作品だった。
目覚めると何故か身体感覚が一才無くなってしまい食事をせずとも生き続けているが身動き一つとれない主人公と、突然死んでは生き返り死んでは生き返りを延々と繰り返す少女との出会い、交流が描かれる。
人類が行った愚かな行為によって地球は荒れ果て、生き残りは彼ら二名だけで、もうすでに文明と呼べるものは何一つない世界になっている。
少女が死を繰り返している理由は、なんと人間の愚かな行いによる哺乳類の死を再体験することでその罪を神に許して貰うためという設定が冒頭から開示される。
以降も神から与えられた贖罪の使命をこなす少女と、それをただ眺めて会話することしかできない主人公との価値観のすれ違いが物語を動かしていく。
この時点でかなりスケールの大きい話になるが、何分メイン登場人物の二人ともが死なない身体を持つため時間という意味でのスケールも壮大になっていく。
全ての哺乳類の死を体験するという膨大な使命を少しづつこなしていく内に、何故全ての生命が死に絶えたはずの世界に神と関係ない主人公がいるのか、本当に人間は誰一人いないのか、少女の使命はどんな結末を迎えるのかと、気になる要素の設定開示がハイテンポに行われていき、短いプレイ時間の中で大河的な壮大な価値観にふれることができる。
人の身では想像するのも難しいようで、ある意味では人の身だからこそ考えなければいけない、生きるということの根源的な意味、神との向き合い方、絶対に死が訪れるのにどうして生きるのかなどの問題に、死が訪れない二人故の答えが例え話でなく、こねくり回した表現でもなく、良い意味で伝わりやすいシンプルなものなのも印象深く面白かった。
そして、タイトルの「一緒に行きましょう逝きましょう生きましょう」が万感の思いが込められたいろいろな感情が詰まったもので、所謂タイトル回収シーンは深く染み入る良きものだった。
そんな価値観を問う壮大なストーリーに魅力的な補助線を引いてくれるのがヒロインの少女の可愛さ。
こんな過酷な状況ながら無垢で愛らしいシーンが多く、彼女が少しずつ知識を身につけていき、感情に名前を付けていく。
この無知な少女が人間らしさを身に付けていくという筋道があり、このヒロインが可愛いからこそ、軸がブレずかつ娯楽作品としての楽しさも担保していた。
何も知らないただ神に命じられるままに使命をこなしていた彼女が自身の意思を少しずつ作っていくからこそ、神との対峙が魅力的になっていく。
ようやくジャニーズの性加害問題をnews zeroが取り上げたが、その場面ではジャニタレの櫻井翔が外されノーコメントだったことに賛否の声がある。
[B! 芸能] 櫻井翔、ジャニーズ性加害問題にノーコメント 『news zero』番組側の判断 | RBB TODAY
被害者保護の観点から「彼は被害者かもしれないから無理にコメントさせなくていい」と擁護する声が多いのだが大事な視点が欠けている。
ジャニー喜多川による性加害は現時点でわかっている限りでもとても個人で勝手にやっていたものではない、長年続いた組織ぐるみと言える性犯罪だ。
そしてジャニー喜多川を慕っていたジャニタレのひとりでもある。
どう贔屓目に見てもまず“加害者側の関係者”と考えるべきなのだ。
いつまでも守られるべき「櫻井くん」という先入観で見てしまうのは、ジャニー喜多川が作ったジャニーズビジネスの術中にハマっている。
加害者側の関係者がやるニュース番組に公正な報道なんて期待できるだろうか?
仮に本人が一切注文をつけなかったとしても、周囲の人間が意識的あるいは無意識に忖度して報道は骨抜きにされてしまう。
問題の追求など望めるはずがない。
例えばキャスターが自民党員のニュース番組だったら政府批判などできないとわかるはずだ。
この異常さに気がついてほしい。
「櫻井翔は被害者かもしれないからコメントしなくていい」ではない。
「櫻井翔は加害者側の関係者だから報道に関わらせてはいけない」のだ。
私はジャニーズ潰れろ勢ではないしジャニタレの永久追放を望んでいるわけでもない。
この件の全容が解明され謝罪・補償・対策などの筋道が立てば復帰すればいい。
(もちろん本人の関与度合いによる。現時点では何も明らかになってない)
中学の頃。「総合」の時間でクラスのお調子者というか半分問題児な男子がどういうわけかクラス委員選挙に立候補した。手作りの選挙ボックスにみんながワイワイと票を入れて、真面目な女子と一騎打ちになり、お調子者が勝利した。
担任の教師は突如真剣な顔をして、「それが本当にあなた達の取りたい選択なのか考えて」と説教し、なぜかその選挙をやり直させた。
(普通なら今度は女子が勝つんだろうけど)二度目も僅差でお調子者が勝利。担任マジギレ。でもお調子者も黙ってなくて、「なんで俺じゃダメなんですか。これ選挙になってない」と聞くが、担任は訳の分からない事を言って答えず。
三度目、なんか給食費泥棒の犯人探しみたいな、「机に伏せて挙手」形式にさせられて女子が勝利。
公立の高校時代。生徒会長選挙があり、体育館で演説会をやる。生徒は全員強制召集(全校集会)。
生徒会長候補が演説中、こんなことをやった。「みなさん、後ろを向いて下さい。……前を向いて下さい。……私には人を動かす力があります」
まあくだらない冗談だけど、生徒達は微妙にウケる。そして後日投票が行われた(候補は一人しかいないので実質無投票)・・・はずなのだが、なぜか立候補していないはずの別の男子が候補になっていて生徒会長になっていた。そして誰もそれを指摘しない。
あの最初に演説していた候補は「くだらない演説をした」とか凄い説教されたあと立候補を取り下げさせられたらしい。いや、でも、候補のすり替えって……。
もちろん、公立学校でそもそも政治参加というか民主主義教育なんてやりようがないってのは分かってる。一つのクラスや学校の中の出来事が全てではないのも分ってる。こいつらがたぶん不真面目だったのも分ってる。
だが、当時の大人・教師たちの対応にすごい不信感を覚えさせられた。選べと言いながら選ばせず、考え方から誘導しようとするあの姿に。
そして今。
泡沫政党を指して「オウムを面白がってたら大変なことになった!」「NHK党や参政党を面白がってはいけない!」みたいなことをいう連中がとても多い。
筋道を立てた「なぜこの党のこの政策がダメなのか」といった批判ではなく、「ダメなものはダメ!」「選挙は神聖!」みたいなお題目しか唱えられない、たぶんリベラルな人々。
「オウム真理教・アーレフの人は、供託金を十倍にします」「『常軌を逸した』候補は立候補を禁止します」みたいなことをやりたいの?
安倍が射殺された後、「この選挙を弔い合戦にしてはいけない」「票は香典ではない」という人たちもいたね。
私は自民に入れなかったが、でも仮に「安倍が撃たれた?可哀想、弔い合戦だ」といって自民に票を入れる人がいても、それはその人の選択じゃん。
面白がって入れていい。単純な感情で入れていい。とにかく入れたい人に入れていい。
立候補してる以上「あの候補は泡沫です、ふざけてます」「この候補は頭がおかしいです」みたいな人格や出自に関わる情報や誘導は関係ない。
文字での会話(チャット)は自分の言いたいことすぐ言えるし、複雑だったり長くなるような話もある程度は筋道を立てて話せる。
例:この前こういうテーマの番組を見た→構成としてはAとBという内容の2本立て→Aはこういう結末でBはこういう結末だった→このことを受けてこのテーマに関しての感想は~ みたいな。
実際ここまでガチガチじゃないけど、こういう枠組みみたいなのをベースに
ビジネスだったらかしこまり友人同士なら砕けて話し口調で文章を組み立てられる。
これが対面や電話だと全くできない。
どうなってんだ???頭でまず文章組み立てるのはチャットでも声出すのでも同じプロセスのはずだと思うんだけど。
対面・電話だと何か複雑で長い話をしようとすると筋道が変になる。話があっちこっちへいく。
話しながら「あーだめだこりゃ」と思ってるんだけど、軌道修正できない。
例:この前番組を見た→Aはこういう結末だった→あっAっていうのはそもそも2本立ての構成なので、Bもある→Bはこういう結末だった→この番組はこういうテーマを扱っていた→で、鑑賞してみての感想は~ みたいな。
なんか…変なんだよな。
思えば「声での会話」になると相手の話も理解するのに3呼吸くらい必要な時があるな。
これどうやったら改善できるんだろう。
ただ単純にコミュ障なのかな。
ChatGPTがあまりにも便利なので昼夜を分かたず対話をしている。とてもいい相談相手だ。
ChatGPTは自然言語解釈に特化したAIだから、多少雑に質問したところで驚くべき洞察力でこちらの意図を見抜いてくるんだが、それでも習い性というか何というか、つい筋道を立てて丁寧に質問してしまう。「機械に質問するならこういう風に聞いてやらなきゃいけないんだろう」みたいな先入観、あるでしょう。
前提から説明して、解決したい課題、制約条件など、機械が答えやすかろう材料を整えて質問をする。
そういった、質問の「下ごしらえ」を丁寧にやればやるほど、あのAI野郎は正鵠を射る答えをすぐさま出してくれるんだよね。
この習慣が、対人コミュニケーションにもとても役に立っているようだ。
もちろんChatGPT以前も質問される側・答える側の立場に立って質問のしかたを配慮することはしていたが、それがグレードアップした感じだ。
人間相手だとついつい言葉足らずになってしまうこともあった。前提条件を共有できているものと思い込んだり、範囲をあいまいにしたままだったりね。
説明に手を抜くと言い換えてもいい。
しかしChatGPTとのやりとりの中で「言葉を尽くせば尽くすほど望ましい出力が返却される」という体験を積み重ねたおかげで、同じことを誰に対しても無意識にできるようになっていった。
質問相手からの質問返しや、ボタンを掛け違えたまま無意味な会話が続くようなことが劇的に減った。
むかし誰かが「神は細部に宿る」と言ったそうだが、コミュニケーションにおいても同じだね。
「毒親」という言葉は前から認知していたし、何度も調べては確かに母には当てはまる箇所があることがわかっていた。しかし、そんなに簡単に流行りの言葉に、そういった枠組みの中にひとを入れてしまってよいものかと長いこと悩み、考え抜いてきた。
別に劇的な出来事があった訳ではないが、時々しているノートに思考やら落書きやらちょっとしたメモやらをかく作業?趣味?こういうのをなんて呼ぶんだかわからないのだが、とにかくノートに思考を書き殴っていたら段々母への暗いわだかまりの方向へエスカレートしていき、彼女の嫌なところを考えたくもないのに考えていたところ、元々あった知識とあいまったところもあるだろうが、彼女への嫌悪感の実態が、「一方的に要求を押しつけてそれに応えない場合被害者ぶって罪悪感を植え付けてくること」だと確信し、確信した途端その性質は正に完全に毒親のそれではないかと笑ってしまった。
ずっと知識として知っていて、確かにそれに当てはまっているとわかっていたのに、何故なのだろうか、自分で思考の筋道を立てることでようやく、認めざるを得なくなった。
私は5年前から実家から離れて一人暮らしをしており、年一回ほどしか実家には行かず、向こうから度々ラインで連絡を催促されるがほとんど無視している状態なのだが、母との関係についてこのまま逃げ続けてはいけないのではないか、はっきりと三行半をつきつけるか、あるいは決して彼女と仲良くやっていきたいとは思わないが何か関係を断つ以外の道があるのではないかと思って悩んできた。
別に関係を断つ決心がついたわけでもそれ以外の何かが思いついた訳でもないが、彼女を毒親だと認めることでようやく一区切りがついた感じがしたのでうれしかった。
うわーん。きついきついよ。
彼は議論を深めることが大好きらしい。なので、私が挙げた意見の逆張りを常にしてくる。常にだ。
そこにはなぜなぜn回的な議論を深めるための彼なりのメソッドがあるらしいけれど、踏み台にされるこっちの身にもなってほしい。
意見を一旦否定して誤りがないのか確認することでより理性的な筋道の通った結論を出せるってつまりそれ常に相手の論破を一旦試みるってことやんけ。
そんで論破すること自体に快感を覚えてるんでしょって聞くと、議論を深めることが目的なのにそんなこと言われるのは心外だって言うしさあ。
私は私の信念に従って、ある程度自分のバイアスがかかった意見を言うから、それに逆張りしてたら論破できたとして逆方向のバイアスがかかった結論にしかならんのやぞ。
こっちは自分の感情込みの信条をかけた意見を言ってるのに、それに対して機械的な逆張りを繰り返されるのマジ腹立つわ。
人間自意識から逃れられないから私から出る意見は常にバイアスに塗れたものになるよと断ると、バイアスから解放された理性的な真実を求められない古い地球人よ……みたいな雰囲気出すしさー。
ほんと私今日は買ったばっかのゲームしたかったんだって。ローリングJKがポリコレ棒でバチボコにされてる話は今日は要らなかった。しかも途中でネタバレの情報もボロボロ言いおって。
つか旧来の価値観・LGBT側の価値観のどっちに肩入れしても逆張りしてくんな。矛盾してんだろ。あとポリコレ棒振るいたいからって私を旧来の価値観の方に寄せようとしてくんな。
これらのことを意識せずにやってて、それを指摘しても納得せず自分がただただ理性と知性と検証に裏付けられた頭いい側、私を知性の足りない野蛮側に置こうとするのがマジむかつくー!キエー!
地裁判決かなと思ったら、高裁判決なのか。地裁高裁揃っての棄却はかなり強めの判断なので、単純に被害者側が訴訟提起した筋道が完全に違っていた(被告の犯罪を証明する証拠がなかった)って事なんだろうな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4729804784263365572/comment/tikuwa_ore
「地裁判決かなと思ったら、高裁判決なのか」→ここで「オレちょっと知ってますよ感」を出したい
功利主義の「最大多数の最大幸福」のメンバーにヒト以外の動物も含めた幸福を考えましょうね、という考え方
「なぜヒト以外の動物を含めるのか?」と聞いたら「性差別、人種差別と同じように種差別もよくないことだ」という回答が返ってくる
「いや、人間と動物は違うでしょ」と返すと「それって人間中心主義じゃない?それこそ差別だよ」と返される
「動物は嫌だとか言わないでしょ」と聞くと「その理屈だと赤ちゃんは何も言わないけど何してもいいってこと?」と返ってくる
「赤ちゃんは言葉には出来ないけど嫌と思ってるよ」と聞いたら「動物だって言葉に出来ないけど嫌と思ってるよ、赤ちゃんと動物とでどうして区別するの?」と返される
「赤ちゃんは成長すれば嫌と言える大人になるけど動物はその可能性がゼロだよ」と聞けば「それなら将来喋る可能性がゼロの寝たきりのヒトは最大多数の最大幸福の対象外ってことにならない?」と返される
「この正しさを採用するのなら、あちらの正しさも採用しないとダブルスタンダードになる」といった連鎖がずっと続く
なぜバグるかっていうと倫理ってのは「共感感情」が基盤になっている
「自分がされて嬉しいことを他人にもしましょう」「自分がされて嫌なことは他人にしないようにしましょう」
「自分がされて嬉しい/悲しいから、これをされたら他人もきっと嬉しい/悲しいはずだ」という共感能力が倫理を作っている
この共感感情ってのがまた厄介で、「西洋のキリスト教的人間中心主義のカウンターで動物の権利が取沙汰されるようになったわけじゃん?」と言っても「いや、倫理を形作る共感感情はキリスト教に限らず人類共通のはずだよ」と返されてしまう原因になっている
ヒトはヒト以外の動物に対しても共感するかぎり種差別は論理的には正しい
だが正しいからといって人々は正しき行いをしなければいけないわけではない
信号無視をしたからと言って、信号無視は善き行いだと思っているわけではない
信号無視をしたことがあるヒトであろうとも、きっと子どもには「信号無視をしてはいけません」と教育するだろう
だから肉を食べるし革靴を履くけどね、悪いなあと思いながら
日本がずっと後回しにされ続けて3年目に入ろうかとしている。
2023年には、たった半年とはいえ独占となるFF16も含めていろいろ出てくる年になるので
本体が日本向けにある程度の数を回してもらえるのならビッグイヤーになるだろう。
ユーザーがPCに逃げたとかホザくアホもいまだに根強くいるが、6万円のハードが買えないから
グラボだけで5万以上するようなPCにユーザーが移るなんて本気で考えてるんだろうか?
そんな下らない寝言はさておき、根本的な問題はPlayStationが本店跡地である日本をどれだけ尊重するか、という点だ。
現状、世界的な売り上げが絶好調とはいえ、全世界規模で生産数は需要を大きく下回っている。
全世界的に数が足らない状況がずっと続いている。
生産も、世界の工場中国が混乱していて2023年も引き続き困難な状況が続くだろう。
そんな状況で、人口減少による市場規模縮小が確定している本店跡地に、現本店がどれほど数を回すつもりなのか。
全世界的な普及に一定の筋道は立ったし、日本向けに1割未満しか回してもらえない現状から大きく増やして
FF16の独占期間中ぐらいは2~3割ぐらい回す覚悟が現本店にあれば、2023年は日本のPlayStation市場にとって飛躍の年になるだろう。
ただ、全世界的に供給が需要を上回っていればそれが簡単に実現できただろうけど、現実はそうじゃない。
依然として需要が供給を上回っている。そうなると、どれだけ注力したところでソフト市場の縮小が確定している日本に
他の成長市場を差し置いて本体回すのかというと、無理じゃないかな、というのが個人的な予想。
ビッグタイトル発売週前後で突発的に出荷数倍増、ぐらいが関の山じゃないかと。
どうなるんだろうね。
デビッド・ライス氏と白饅頭氏が互いを批判する文章をブログ,SNS上に投稿している。しかし,以前からこの両者の発信する文章を読んできた私としては,両者の主張は根本的なところで対立はしておらずむしろ同じ方向を見据えて書かれているように見えた。
ではなぜ,ライス氏と白饅氏は対立するに至ったのだろうか。結論から書けば,両者は主張の内容は近しいものだが,その主張をどのようにして一般に発信するべきかという点において大きな価値観の相違があった。その相違にばかりに注目し批判を繰り返した結果,現在の不必要な対立を生じさせたと私は考える。
両者は互にレッテルを張り合い,主張をよく確かめずに感情的な言葉を投げ合っているように見える。しかし,ライス氏と白饅頭氏は現代の言論界において重要な役割を担っており,こんなところで格を落とし合っている場合ではない。
実際に両者がブログ,SNSに投稿した文章から,なぜ不毛な対立が生じたのかを見ていこう。
ライス氏は2022年11月2日,自身のブログ「道徳的動物日記」に,『「女性差別的な文化を脱するために」オープンレターについての雑感』というタイトルの記事を投稿した。その中で,氏は白饅頭氏の言説について
“弱者男性論者たちはアカデミシャンではなく、コンプレックスや差別を煽ったうえでnoteやYouTubeで言動を売って稼ぐ「商人」だ」”
と批判した。
弱者男性論者である白饅頭氏がアカデミシャンではないというのは事実だ。彼は学部卒で,大学等には属さず個人で発信を行っている。「商人」というのもやや悪意のある表現ではあるが,noteや書籍を販売しているとい点では間違った表現ではない。
だが,アカデミシャンでないことも「商人」であることも,白饅頭氏の論を誤りだとする根拠にはならないはずだ。ここでライス氏が批判しているのは言説ではなく,白饅頭氏の立場と手法だ。氏の言説が誤りだと主張するならば,具体的に彼の文章を引用するなりして,どこがどう誤りなのかを論理的に説明するべきだろう。
また,ライス氏は2021年4月3日に現代ビジネスに『「フェミニズム叩き」「女性叩き」で溜飲を下げても、決して「幸せにはなれない」理由』という記事を寄稿した。その中で,
“弱者男性論でおこなわれているのは、「女性」(または「フェミニスト」「リベラル」)という属性を仮想敵にして、自分たちのつらさの原因はすべて彼女たちに責任があると主張することで、弱者男性である読者たちの溜飲を下げさせるための議論だ”
と書いた。ここで批判されているのは“溜飲を下げさせるための議論だ”とあるように,弱者男性論の主張する内容ではなくその目的だ。もちろん,その弱者男性論によって留飲を下げている男性も少なからずいるだろう。
しかし,それが決定的に弱者男性論を否定する根拠になるだろうか。卑小な目的で立てられた論であろうと,それが誤りだと証明するには論を構成する根拠や理論についての誤りを指摘するべきだ。
上記のように,ライス氏は弱者男性論を批判しながらも,その批判内容は専ら論者や読者の問題を指摘することに終始し,弱者男性論を構成する根拠や理屈についての矛盾を殆ど指摘していない。
ライス氏は上記の記事の中で,弱者男性論がある程度は妥当であることを認めてすらいる。しかし彼はその妥当性を認めながら,それが社会に与える悪影響のみを強調し,弱者男性論をこき下ろしている。これはややバランス感覚に欠けた主張だと言える。
なぜ彼はこのような一方的な主張をしたのか。それは,彼がネット論客と呼ぶ者たちによる弱者男性論が盛り上がりを見せていたからだ。ライス氏は先ほど引用したように,ネット上で学位を持たない者が政治的な主張をし注目を集めることに対し強い拒否感を持っている。彼からすれば,学位を持たず大学にも属さない者の発信する政治的主張はSNS上でフォロワーに対してアピールするだけのものにすぎず,学術的な裏付けのない稚拙な主張に過ぎないようだ。
たしかに,ネット上で政治的発言をするアカウントの発信する内容は仲間内に向けてのアピールに終始しがちな傾向があることは否めない。
しかし,白饅頭氏の発言のほとんどは客観的な妥当性を意識しているものだ。彼のどの主張にしても,必ず明確な根拠を示しながら筋道を立てた発言を行っている。弱者男性論にしてもそうだ。
SNS上には白饅頭氏と同様にアンチリベラル的な主張をするアカウントが数多く存在し,数万のフォロワーを獲得しているものもいるが,彼ほどの存在感と影響力を有している者は他にいない。それは,白饅頭氏の発言する内容がアンチリベラル層だけでなく,中立・一般層にたいしても説得力を持っていることの証左と言えなくもない。
ライス氏は白饅頭氏のTwitterやnote上での発言を批判している。ライス氏によっては,SNSのような誰でも発言が可能な空間では論理的に正しい意見よりも大衆の感情を煽る意見の方が支持を得やすい。だから白饅頭の主張は誤りであるにも関わらず支持されるのだという。
しかし,白饅頭氏が発言を行っているのはTwitterやnoteのような誰もが発言できるメディアに留まっていない。現代ビジネス,プレジデントオンライン,BLOGOSといった,中立性を保ったある程度格式のあるWEBメディアにおいてもその主張が掲載されている。これは,彼が一般メディアからもある程度の評価を獲得している根拠であり,仲間内に向けて偏った発信ばかりをしているというライス氏の主張を否定するものになる。ちなみに,現代ビジネスにはライス氏も寄稿している。
ライス氏は学術的な背景のある言説を至上のものとし,ネット上での言説を程度の低い物と見なす価値観を持っているようだが,これは偏った価値観だろう。
ネット上では素人の発言が可能だが,それに対して専門家が批判を加えることも可能なのだ。生半可な言説では,素人がネット上で自らの論が正しいと広く認めさせることは,実際のところかなり困難だ。ネット上で政治的主張をするアカウントのほとんどは仲間内で価値観を確認し合うことしかできないのが現実だ。
そんな中で,広い層からの支持を集め,書籍を出版するまでに至った白饅頭氏の言説は,一考に値するものであると判断されるべきだろう。たとえ学位がなくとも。
それに,学術分野での肩書を持つ者の発言が必ずしも正しいとは言い難くなってきているのはライス氏も理解しているはずだ。実際に,彼のブログでは大学に属する研究者の著書や発言の誤りを指摘する記事が多く書かれている。
ライス氏は,ネット論客の主張は仲間内へのアピールばかりで発展性も新規性もないと言うが,学術の世界ではそうでなはいと言えるだろうか。学術界でも,特定のコードに反する内容の主張が正当な理由なしに発表を拒否されるという事例が少なからずあったはずだ。
ライス氏は学術的であることを重要視しているが,それだけを至上のものとし,そうでないものを見下すような態度はそれこそ閉鎖的で彼の指摘するネット論客の悪い特徴と同じだ。
2022年12月20日,白饅頭氏はライス氏のツイートを引用リツイートしこのように書いた。
“社会正義の総本山アカデミ屋を称揚する奴がいうのマッチポンプ感があって草”
たしかに,社会正義を定義しがちなアカデミア出身のライス氏が,社会正義に疑問を呈する内容の本を紹介するというのはやや疑問を生じさせるものかもしれない。
しかしながら,ライス氏は普段からアカデミアの主張する社会正義について無批判だったわけではない。彼のブログを読めばわかることだが,学術的な地位のある人物の著書についても内容に疑問を感じる点があればしっかりと指摘をしている。
ライス氏はアカデミアを重要視こそしているが,かといって盲目的に信奉しているわけでも無い。
“いやだから、君のような人文アカデミア礼賛ネット論客が「露悪的なおもしろさ」とか語るのダブスタもいいとこでしょ。”
白饅頭氏はライス氏を“人文アカデミア礼賛ネット論客”と呼んで揶揄している。これは,ライス氏が人文アカデミアについて批判的な視点を持ち合わせていることを無視した発言だ。
“インテリの本って普通に読みにくくて面白くないという根本的問題があるんだよな。
おもんなくてわかりにくい文章を書いているだけの分際で「高尚なことをやっている」とのぼせ上がっている奴らの商売が破綻するなんて当たり前でしょ。
「本当に頭のいい人は一般の人でもわかりやすく説明する」みたいな論調には与しないまでも、かといって「複雑なものを複雑なまま理解するのが知性だ」みたいなのも、インテリの自惚れが含まれていないわけではないだろう。“
これは名指しこそしていないが,ライス氏の著書に絡めた発言ととることができる。たしかに,ライス氏の著書は硬い文体でやや学術寄りの内容でもあるため,読むために労力を要する。
だが,ライス氏の著書はより厳密な内容で社会について論じたものであるという点から,白饅頭氏の著作よりも優れていると言える。本自体の売り上げで言えば白饅頭氏のほうが圧倒的ではあるが,それは彼の知名度と,内容の易しさによるところが大きいだろう。ライス氏の著書は本人の知名度も低く,厳密で硬い内容であるために気軽に手に取れる本ではないものの,より厳しい視点を持つ読者にとってはライス氏の方が優れたものとなるはずだ。
白饅頭氏は難解な内容について“インテリの自惚れ”と言っているが,これはただの暴言だ。ライス氏の著書が難しい内容となっているのは,学術的な視点からより厳密に理論を展開しようとしているからであり,アカデミア出身としての自負心と責任感によるものだろう。アカデミアを腐したいあまり,不適切な言動をしてしまっている。
“ 世間知らずのインテリくずれがパソコンカタカタで俺に勝つなんて甘い。フォークリフト乗ってから出直せ。”
“世間知らずのインテリくずれ”とは,おそらくライス氏のことだろう。しかし,ライス氏は大学院を卒業した後企業勤めやフリーターをしながらブログを執筆していたため,白饅頭氏の言う世間知らずは根拠のないレッテル張りだ。インテリという言葉には明確な定義がないためはっきりとしたことは言えないが,少なくともライス氏は修士課程を卒業しているという点で学部卒の白饅頭氏よりも学術的な視点でのアドバンテージがあることは確かだろう。インテリくずれという揶揄も,適切な発言とは言い難い。
白饅頭氏はライス氏を頭でっかちで世間知らずな,大衆の苦労など知らない嫌味なインテリなのだと思い込んでいる節があるように見える。
しかし,ライス氏のブログを読めばわかることだが,彼は社会に出て様々な苦労や葛藤に出会い,しっかりと現実を見据えたうえでその経験を活かしながら発言をしている。決して白饅頭氏が言うような,苦労知らずや頭でっかちではない。
白饅頭氏はライス氏のブログや著書に関して,“つまらない”や“わかりづらい”,“売れない”と評している。たしかに,ライス氏の硬い文体は読む人によってはつまらないと感じるかもしれない。だが,社会について論じる以上は厳密かつ真剣な文のほうが望ましいというのも,一般的な考え方ではある。ライス氏の文章はライトな読者層にとってはつまらなく感じるかもしれないが,言説に対してより高い基準を求める読者にとっては大いに満足のいくものであるはずだ。
白饅頭氏はより広く読まれることを目的としだ文章を書くため,その内容を可能な限り平易なものにしている。彼からすれば,ライス氏の文章はわかりづらく自己満足的なものに見えるのかもしれないが,分かり易さを求めることで論理的な強度が低くなることも事実だ。ライス氏の文章は批判的な視点を持った読者に対しても説得力を持つように書かれているため,どうしても文章が複雑化することは避けられないだろう。それをわかりづらいの一言で済ませるのは不当な評価だと言わざるを得ない。
白饅頭氏の著書がライス氏の著書よりも売れているのは確かだが,市場での評価が必ずしも言説の正しさを格付けするものではないはずだ。先程も書いたように,白饅頭氏の本が売れているのは知名度と平易さによるものが大きく,世間で売れる本の殆どがそうだ。
白饅頭氏は読みやすさを重視するあまり,学術的な厳密性を軽視しすぎている。たしかに厳密性を求めた文章は難解で読みにくくなるが,一定レベル以上の読者はそう言って文章を求めるようになるにも確かだ。白饅頭氏の文章は新規の読者を獲得すことには適しているが,高い基準を求める読者からは不満を覚えられる内容だろう。
また,白饅頭氏はアカデミアに対して偏見を抱いているようにも見える。彼の発言を見ると,アカデミアとその出身者はアカデミア内でのコンセンサスに沿った発言しかできないと思っているようだ。
しかし実際には,アカデミアとその出身者には多様な背景と思想をもった人々がおり,時には学会での権威に背くような意見発表されているということは彼が知るべき事実だ。
これまで書いてきたことからわかるように,ライス氏が重視しているのは学術的な姿勢と厳密性だ。一方で白饅頭氏が重視しているのが人気と分かり易さだ。両者が重視しているものは両立が困難であり,それゆえに互いが敵対的な姿勢を取るようになってしまったのだろう。
くだけた表現をするなら,ライス氏は「ガチ」であり白饅頭氏は「エンタメ」だ。どんなコンテンツであっても,ガチとエンタメは対立しがちであると同時に両方が必要とされるものだ。
ここで,格闘技の興行を想像してみよう。コアな格闘技ファンを満足させるためには,当然実力のある選手同士の対戦を見せなければならない。しかし,実力があっても知名度は低いという選手が多い。知名度の低い選手では,新規のファンやライトなファンを呼び込むことができない。そこで,実力はともかく知名度のある選手の試合も組まなければならない。
実力のあるガチの選手と知名度のあるエンタメの選手,共に興行を成り立たせるために必要な存在だ。白饅頭が朝倉未来なら,デビッド・ライスはヴガール・ケラモフだ。
ライス氏のような,学術的な背景から厳密な文章を書ける作家も,白饅頭のような分かり易くて売れる文章を書ける作家も,言論の世界を成り立たせるために必要な存在のはずだ。
両者は現在のリベラルやネット世論に対して同様の疑問を呈することもあり,思想的な共通点もあるように見える。冷静な対話を重ねれば,互いの考えについて理解を示し合うことも可能なはずだ。
ライス氏と白饅頭氏はこれから日本の言論界をリードする存在になり得る作家であり,こんなところで小競り合いをして格を落とし合って欲しくない。
本日は太平洋の日、日本では税関記念日、いいニーハイの日ですね。
あとなんたらのなんたら記念日みたいなのもありましたけど、破門されただけの話ですね。
世の中やりすぎたりすることって割とございますのでどこかで引き際みたいなものを見極めなきゃいけなかったりします。
それで仲違いして反省できるならまだマシなのですが、それを契機に逆に奮起しちゃってよくわかんない方向に突っ走っちゃうなんてのも実は割とあります。
まぁ本人が問題から目を逸らしたいだけかもしれないですけどね。
とはいえ目を逸らしても諦めずに生き汚いと言われても生きていけるのが現代日本です。
要は未来が来た時に「これホントなんだったの?」って聞かれた時にちゃんとした返答さえ持ってたら未来の人も鼻で笑いながら納得してくれる気がします。
筋道のことですね、私はこういう筋道で真っ直ぐやってたって言わないと「ガタ付いてたなら最初から言えや」って怒られることになりますから。
まぁその筋が脳の皺の分あったりするからややこしいんですけどね。
ということで本日は【緩衝する部分の確認よいか】でいきたいと思います。